2009年11月30日月曜日

時間のかかる友達

予約しておいたジョン・カサヴェテスのDVDボックスが届いたものの、なかなか観る時間がない。しかし、ブックレットやパッケージを眺めるだけでも、愉しい。むしろ観てしまったら消えてしまうだろう、そんなひそやかな愉しみだ。

中原昌也や加瀬亮ら、数人のコメントが帯に載っているのだけど、なかでも映画監督の安藤尋のものがいい。「カサヴェテスの映画は、涙ではなく“泣く”ことを、狂気ではなく“狂う”ことを、怒りではなく“殴る”ことを、そして、愛ではなく“愛する”ことを映し出す」。つまり名詞ではなく述語なんだな。いいコピーだと思う。

吊されたマイクが堂々と画面に映っていても、そこにいる俳優たちがよければNGにせず採用する。隙のないフレームから生み出されるリアリティよりも、現実を生きるアクチュアリティを捉えようとしている。マイクは、ただそこにあるから映っている。映画というものは、ある意味記号であふれていて、われわれもそれを前提として観ているが、そうした見方はカサヴェテスの映画では許されない。その直接性にやられてしまうのだ。
観るのは年末になりそうだなあ。

 洗濯挟みに留めて値札や革ブーツ   榮 猿丸

2009年11月27日金曜日

― ラム肉  ―



   煖炉より遠く道化として眠る       青山茂根



 もとより、煖炉のあるような家の生まれではない。知人の別荘に呼ばれたときに、夏といえど雨の夜は肌寒く、煖炉を焚いてもらったとか、その程度である。それも、ときどき焚いておかないと、スズメバチが煙突に巣を作って困るから、というのだった。

 郊外では、一軒家を建てると薪ストーブを置くのが流行っていて、以前住んでいた横浜の外れ辺りでは、取り付けている家がときどきあった。散歩していると、煙突のある家が結構あるのだ。子供の通っていた園にも、大きな薪ストーブがあり、その薪拾いのために秋から冬はたびたび近くの森へ遠足に出ていた。頼りがいのある暖かさは魅力だったが、あまり掃除好きではない私には、厄介な代物だろうな、と思えた。

 子供の頃は、焚き火も好きだった。いろいろなものをくべて、その反応を楽しむこともあるが、火を見ていると、不思議と気持ちが落ち着くからだろうか。風向きを見て、風上に通風孔を取り、小枝を組む。燃えにくいものは焔の天辺の一番温度が高いところにあてるように、風を送るときは焔の下を狙って火の粉を撒き散らさないように、と、自然に覚えた。
 
 煖炉にまつわる最初の記憶は、古い農家の建物を改装して住んでいたムッシュ・サイトウの家に招かれた幼い日のことだ。既に日本国籍を捨ててかの地に帰化していて、もうおじいさんだったが、生粋の現地人である奥さんと暮らしていた。といってもやはり夫君と同じくらいの年齢らしく、あえて田舎風に装ったファッションは、昔話にでてくるおばあさんにそっくりで、子供心には近寄るのがためらわれた。かたつむりの形のチョコレートをもらったときだけ、その手に触れたように覚えている。夕暮れを帰ってくる羊のための裏木戸がついた、その納屋風の家の食堂には、煉瓦作りの大きな煖炉があった。まさに赤々と燃える薪の上には、子羊の丸焼きがかかっていて、何もかもが初めてという子供にとっても、香ばしい、食欲をそそる匂いをたてていた。あの遠い日の光景を、時折思い出して、オーブンでラム肉の切れ端を焼いてみたりするのだが、なかなかこれという味にならない。

2009年11月25日水曜日

十一月

ひさしぶりにベースの練習をしていたら、左手の指先に胼胝が復活してきた。
炬燵に入ったままでベースをかかえて適当にぐりぐりやっていると、昔はもっと楽器と自分が一体化していたような気がしてきた。
「週刊少年ジャンプ」に連載されている『NARUTO』を読んでいる人なら、「暁」の干柿鬼鮫が鮫肌という妖刀と一体化して半魚人みたいになったのを見たはずだ。そこまではいかないが、楽器を弾くことに集中すると、それ以外のことをしたくなくなる。仲間とともに演奏すると、その感覚がさらに延長される。聴衆が加わるとさらに増幅する。だからライブの聴衆は多ければ多いほど楽しい。

先週と今週のさるまるさんの記事を読んで、ベースを弾くことに熱中していた高校生の頃のことをひさしぶりに思い出したので、それについて書いてみようかと思う。

一年で一番好きな月は十一月だった。そのことはどこかで書いた覚えがある。
肌寒さと寂しさの具合がちょうどよく、甘美な感じがするということが理由だった。今では前倒しのクリスマスムードに侵食されてしまっているが。
そうした十一月に対する思い入れの原点ってなんだったっけと記憶を辿ってみると、高校の部活動を終えて暗くなった路を自転車に乗って帰宅するときの、顔にぶつかる風の冷たさや、寄り道してほおばった肉まんのあったかさなど、そんな実感にぶつかる。

その頃私は軽音楽部と茶道部に所属しており、週の半分くらいはそのどちらかの練習が入っていた。特に軽音楽部の練習がある日は、重いベースを背中に担いで自転車を漕いだが、慣れてしまえばさしたる苦行でもなかった。

当時のバンド仲間であり、小学校時代からの友人でもあるY氏とは家も近かったので、しょちゅう二人で自転車をならべ、さまざまな議論を交わしながら帰宅した。
将来のことをあれこれ夢想するのは、小学生のときからのお決まりの話題だったし、音楽のことはもちろん、冷戦時代のことゆえ政治のこと、男子校ならではの恋愛のこと、それにアイドルのことなどが当時二人の間でホットな話題であったと記憶している。

この季節ではなく、夏頃のことだったと思うが、いつもどおり法隆寺から西へ向かって伸びる道を二人で通っていると、新聞記者と名乗る人に話しかけられインタビューされたことがあった。いつも通っている道から見えていた田んぼの中のこんもりした土盛が、実は古墳であり、調査したところ見事な壁画のある石室が発見されたということを知らされ、感想を求められたのだ。それが「藤ノ木古墳」だった。翌日の新聞にY氏のコメントが掲載されていた。

Y氏はバンドの顔であり、大黒柱であり、中学時代から高校卒業まで、一貫してバンドに所属しつづけたのは彼と私の二人だけである。
彼はリードボーカルとギターを担当し、コピー曲の選定、オリジナル曲の作詞作曲などを一手に行うリーダーであり、バンド名には彼の名前が冠されていたが、誰ひとり異議を唱える者はいなかった。それでいて威圧的な印象を与えることは一切なく、わがままや不平を言うのはいつも私であった。彼はすべてのやるべきことを率先して引き受けていただけだった。

軽音楽部に所属するバンドの晴れ舞台はなんといっても文化祭である。一般に公開される日曜日、体育館のステージでライブが行われる。
このときのためだけに一年間、バスケ部やバレー部のみんなに忌み嫌われながら練習を続けてきたのだ。山の中腹にあるひっそりとした学び舎に、その日だけやって来る女の子たちにモテるため、というのがはじめの目的であったにせよ、もうすでに別の感覚がバンドを支えていた。

さて、文化祭といえば公開されない土曜日もまた、私にとって重要な舞台だった。この日の体育館では、中学高校の各学年(高校三年を除く)がそれぞれ演劇を上演するという催しが行われる。一学年あたりおよそ150人程度の生徒が、希望によって展示のグループと演劇のグループに分かれるのだが、私は中学二年以降ずっと演劇のグループに参加していた。ここで毎年自然と中心になったのがM氏であった。

彼は落語研究会のメンバーとしても活躍しており、Y氏とは対照的に厳格な、どちらかというと完全主義者タイプのリーダーだった。5人か6人のバンドと、数十人がさまざまな役割を担ってひとつの舞台を作り上げる演劇とでは、リーダーに求められる役割はまったく違う。彼の最初の仕事は役割ごとのグループ分けを行い、それぞれのリーダーを決めることである。それも年毎に顔ぶれが固定していった。M氏は全体のまとめ役として、各チームリーダーに対して厳しくアウトプットを要求するとともに、役者グループを直接指揮し、演技指導を含めた演出を自ら行った。私は毎回かならず役者として舞台に立ち、うち二回は光栄なことにっ主役をやらせてもらったのだが、主役に対するM氏の演技指導は特に苛烈で、本番直前の一月ほどは毎朝、体育館で彼と二人っきりで、台詞のこまかな抑揚まで、すべてを徹底的にたたきこまれたのである。

演劇において、ひとつの舞台を全員で成し遂げたという達成感は非常に大きいものだった。バンドでの演奏は、たとえ練習であってもそのたびごとに心地よい感覚があって、本番のライブにおける快感はその延長であり集大成という感じであるが、演劇は、たった一回の公演をやりとげた瞬間にすべての喜びが爆発的にやってくるように感じた。

いろんな思い出が芋づる式にあふれてきて書ききれないのだが、ともかくY氏とM氏という、タイプの異なる二人のリーダーのおかげで、私はこれ以上ないくらい充実した中学、高校時代を送ることが出来たのだと、今になって思うのだ。

M氏はアマチュア落語家として活動しており、奈良町で定期的に落語のイベントを開催している。そのイベントで近年実現したのが、M氏のボーカル、Y氏のギターによるユニットである。

M氏は軽音楽部には所属せず、われわれのバンドのメンバーではなかったが、中学のころから独自に作詞作曲を行っていた。
Y氏とのユニットが生まれたのは、われわれが大学生の頃、一度だけバンドを復活させ、大阪で会場を借りて行ったライブのときにさかのぼる。
M氏、Y氏それぞれの結婚式のときなど、断片的な演奏はあったが、一昨年のイベントでひさびさに復活ライブを行い、私も観客としてそれを見に行ったのだった。

そのユニットにY氏の大学時代の友人がギタリストで新しく加わり、今月末再びライブを行うことになった。そして、私も二曲のみだが演奏に参加することになったのである。冒頭で述べたベースの練習とは、このライブのためのものだ。
ここにひそかに告知させていただくので、ご都合の良い酔狂な方がいらっしゃったら覗きに来ていただければ幸いである。

日時:11月29日(日) 14時より
場所:奈良町落語館
http://www.rakugo-town.com/files/rakugokan.html

一筆に含まれてゐる冬の虹   中村安伸

2009年11月23日月曜日

セルロイド・ヒーローズ

前回のつづき。
大学を卒業したあとも友達とバンドもどきをやっていたのだけど、あるとき、その友達から電話があった。かなり暗い声だが、いやに興奮している。

そいつの後輩のバンドが、デビューしたことは聞いていた。その後輩から送られてきたCDを聴いたら、「フリッパーズ・ギターもどき」でたいしたことないということだった。

で、そのバンドの二枚目のアルバムが届いたという。前作とまったく違うらしい。とりあえず聴いてくれというので、電話口から聴かせてもらった(当時は、電話口で聴かせあうというのは、ぼくの周囲ではよくやっていた)。

すばらしかった。そして友達が落ち込んでいるのもよくわかった。ぼくらがやろうとしていたような音楽だったからだ。といっても、あたりまえだが、ぼくらとは比べようもない。まったくもってぜんぜんかなわない。けっきょく、二人でため息をつきながら全曲聴いてしまった。

それが、サニーデイ・サービスの「若者たち」であった。それ以来、自発的なバンド活動はやめてしまった。つまり、自主制作でもいいからCDの一枚も出したいと思っていたのだけど、あきらめたのだ。

夢をあきらめるな、とはよく言われる言葉である。ただそれは、夢を叶えた人が言うことが多い。つまり、あくまで「結果」なのである。
いや、その「過程」こそが本当は大事なのだ、と言う人もいる。さらには「夢」を持つことが大事だ、という人もいる。
才能がなければ、早々にやめたほうがいい。別の夢に向かえばいい。夢がなければ、好きなことをやればいい。ああ、キンクスの「セルロイド・ヒーローズ」が聴きたくなった。

マイケル・ジャクソンのライブのリハーサルを撮影した「THIS IS IT」を観て、自分がもし同業者だったら、落ち込むなと思った。こんなもの見せられたら、やめてしまうんじゃないかと思った。
北杜夫が自身の読書遍歴についてのエッセイで、ドストエフスキーの作品を、いま読めと言われても読めない、というようなことを書いていたのを覚えている。落ち込んで、作家を辞めたくなってしまうかもしれないから、ということだったと思う。これと同じである。

まあとにかく、観ていないひとは早く観ろ、ってことです。
ジャンルに関係なく、「本物」は見られるときに見ておいたほうがいいです。わたしは一曲目から卒倒しました。マイケルに憧れ、同じステージに立つという夢が叶ったバック・ダンサーたちのコメントに泣きました。とくに最後に登場するダンサーの発言がすばらしい。マイケル・ジャクソンという存在がわれわれにとってどういうものであったかということを端的に語っていると思った。

  斜交ひに置きある葱やシンクの縁   榮 猿丸



2009年11月20日金曜日

 ― オールドローズ? ―

 ブログで少々にしろ触れるのだから、一応見とかなくちゃ、ということで、急に思い立って上野の冷泉家展へ行ってきた。先週の木曜のことだ。母に言えば、招待券か友の会割引かなんか或る筈、と思いつつ、この十数年来何か頼むと必ず、「そんなことより、俳句なんてくだらないものさっさと止めなさい!」というお小言とセットになって返ってくるのは避けられないので、ま、いいかとあきらめて出かけた。

 急いで行ってみたくなったのは、web上で冷泉家展を検索していたら、どこかのアート系フリーライターらしき人のブログで、「最後の方にある薔薇の模様の表装がゴージャス」と書かれていたのに、ん?となったためでもある(内覧会で許可を得て撮った写真もアップされていた)。その時代に、すでにゴージャス系の薔薇が渡来していたのか、だとしたら新事実かも、と、ほんの少し、趣味で薔薇の栽培に手を出していたこともある私は興味津々になったのだ。全く本筋と関係ないところで、冷泉家には申し訳ないくらいだが。鰹節柄の千両箱を見に行くようなものか。

 その軸の前に立ってみると、確かに濃い赤に白い縁取りの花弁の花が描かれていて、かなり豪華。1826年に賜った宸翰を、1829年に表装したとある。天皇家から下賜されたお召し物などを表装に使ったとしても、この時代に、これほどの薔薇が着物の柄になるほどだったのか。『俳句の花図鑑』の薔薇の項には、「広く花木として栽培されるようになったのは、江戸時代からであり、江戸時代末期には西洋産のバラも盛んに栽培された。」とある。一概に西洋産といっても、チャイナローズの類かもしれないし、オールドローズでもギリシア・ローマ人が栽培していたガリカ系や十字軍により中東からもたらされたダマスク系もあるので、どの種類がいつごろ渡来したのかは詳しくわからない。

 表装の生地の花は、古来から日本にある原種系のノイバラやハマナスのような小さな或いは一重の花径でなく、早くから日本に入っていたコウシンバラやモッコウバラなどの色とも違うし、葉とのバランスを考えると径10センチ以上のかなり大輪の種類らしい。モダンローズと呼ばれる現在の主流の薔薇であるハイブリッドティー系が最初に作出されたのが1867年だから、それ以前で大輪のオールドローズというと、ハイブリッドパーペチュアル系のフィッシャー・フォルムズ/Fisher Holmesは1865年作出だし、他のクリムゾン系の大輪の薔薇も1860年以降に改良されて出来たものが多い。1800年代に日本から持ち出され、現在日本では存在が特定されていないターナーズ・クリムゾン・ランブラー/Turner's Crimson Ramblerは小・中輪系のはずだし、いったいこれはなんというオールドローズだろう、ロゼッタ咲きではないし、と一人で内心かなり盛り上がる。会場広しといえども、こんなことで大興奮しているのは私くらいのものだったろう。年月を経た書物の補修の展示やまっすぐに書くための枠(なるほど、やっぱりこういうのがないとみんな曲がるのだ)の実物を素早く見て、早く帰ってなんという薔薇か調べなくちゃ、とあせりつつ会場を出る。

 会場の出口にはお約束の土産物が販売されていて、急いでいながらも、素通りできずにささっとチェックしていると、展覧会の図録をめくる手がぴたりと止まる。あれ、この葉っぱもしかして、と先ほどの宸翰の軸のページだ。今降りてきた階段を駆け上がり、急いで会場内へ戻って(本当はいけないのかも)、その軸の前にもう一度立つと、やっぱり、この葉は、と合点がいった。あのですね、これ、「牡丹」。そういやこの花びらの形と花芯が露になる咲きぶり、オールドローズにも開ききるとその形状になるものがあるが、でもこの葉の形と花の大きさのバランスはどうみても牡丹だった。実物を目の前にする以前に、「ゴージャスな薔薇」との情報が入っていたので、全く疑わなかったのだ。この大きさの、牡丹のように開く薔薇は、1961年以降の交雑により生み出されたイングリッシュローズにしかないはずである(例えば、1991年作出のザ・ダークレディー/The Dark Ladyなどかなり牡丹に近い深紅の花)。頓珍漢なことで大興奮していた一日だった。傍から見れば何やってんだろこの人、という感じだったろう。それならば何という種類の牡丹か調べればいいのだが、残念ながら牡丹にはあまり興味が湧かない。

  冬薔薇のちぎり取られし名を拾ふ     青山茂根

2009年11月16日月曜日

バンドやろうぜ

ロックバンドが好きである。あの、一人じゃなにもできない感じとか、モラトリアムな感じがたまらない。ああ、バンドやりたい。

中学の頃から、断続的にバンドもどきをやっていたが、ステージに立ったことは、数えるほどしかない。

大学のとき、卒業記念ということで、クラスの音楽好きと即席でバンドを組んで、学園祭で演奏したことがある。

みんな、趣味がばらばらなので、演奏したい曲を持ち寄り、その中から選んで演奏した。
覚えているのは、RCサクセションの「ドカドカうるさいR&Rバンド」とか、ピンク・クラウドとか。ぼくが選んだ曲は、フーの「マイ・ジェネレイション」と、バッド・フィンガーの「ウィズアウト・ユー」で、両方とも演奏した。なぜこの2曲を選んだかというと、「マイ・ジェネレイション」は、もうとにかく気持ちいいから。そして、ベース・ソロがある。なぜベース・ソロかと言うと、ぼくはこのとき、ベースを担当したのだ。やっぱり目立ちたいじゃん(ピンク・クラウドの曲も、ベース・ソロがあって、うれしかった)。「ウィズアウト・ユー」は、ボーカルの奴がヘビメタ・ハードロック系の高音を得意としていたから。サビがめちゃめちゃ高いんだ。

なにしろ即席だから、スタジオで皆揃って練習したのは1回だけだった。しかし、このときの演奏がすばらしかった。バンドやったことある人はわかると思うが、あの、一体感、皆の息が揃う感じ、つまりグルーヴが生まれた。素人バンドでは、めったにないことである。

俺たちすげえな、なんて言って、いざ本番に挑んだら、ドラムとタイミング合わない、ベース・ソロめちゃめちゃ、コード忘れて練習と違うことしようとして失敗する、ってなもんである。

ステージ降りて、ちょっとみんな元気なかったけど、「いい思い出になったね!」なんて紅一点の女子が励ましてくれたりして、写真撮って、青春の1ページっぽくて恥ずかしいなんて言いながら、簡単単純な男子はみな元気に飲みにいったのだった。

  水洟を拭かれこどもや話止めず   榮 猿丸

2009年11月15日日曜日

記事一覧


 ― コドモの嗜好(2) ―
漂流の小さき机をフレームに   青山茂根   09/11/13

 サハリン島へ
さみだれをしのぐに高し関門橋   興梠 隆   09/11/12

 haiku&me 9月の俳句鑑賞(2)
パリ・モスクワ   山口珠央   09/11/10

 I don't want to be alone tonight
文化祭即席バンド音符にルビ   榮 猿丸   09/11/09

 ― コドモの嗜好(1) ―
落花生干して聖書の上の手よ   青山茂根   09/11/06

 ブナの山々
かなかなに遠き祖先やこの山毛欅にも   広渡敬雄   09/11/05

 Fのトランク
相部屋の隅のトランク櫨紅葉   榮 猿丸   09/11/02

 ― 季感と手触り ―
くづほれるとき赤い羽根あたりより   青山茂根   09/10/30

 俳句日和
ブラックコーヒーといふ喪装や秋晴れに   中村安伸   09/10/28

 『俳句』11月号を自分のことを棚に上げて読む
新米に埋もれ計量カップなる   榮 猿丸   09/10/26

 ― 蹴球 ―
夜業着を背負ひて長き橋渡る   青山茂根   09/10/23

 こっそり出かけて ―「陶猫展」回想―
踊り場の壁のかたさや星月夜   浜いぶき   09/10/22

 続・ロシア大使館
きちかうに神経に火をつけむとす   中村安伸   09/10/21

 haiku&me 9月の俳句鑑賞(1)
「「あ」とか言いながら」   上田信治   09/10/20

 ザ・厄年
ブルドーザーの椅子尻の形【なり】鰯雲   榮 猿丸   09/10/19

 ― ミューズ ―
航海を終へたる銀杏黄葉かな   青山茂根   09/10/16

 ロシア大使館
十月の森に囲まれ大使館   中村安伸   09/10/14

 ― ピース ―
名月の中にも骨を拾ひをり   青山茂根   09/10/09

 メールが来ない(私は誰にも愛されないんだ)
流星やバカと囁かれてみたい   上野葉月   09/10/08

 名月
月姫のつめたき肌を病みにけり   中村安伸   09/10/07

 ― バックパッカー ―
滑走路途切れて虫の闇はじまる   青山茂根   09/10/02

 中央分水嶺
雲生まる雪渓よりもまだ淡く   広渡敬雄   09/10/01

 波は、渦に
引く波の渦を残せり秋彼岸   中村安伸   09/09/30

 haiku&me 8月の俳句鑑賞(4)
「錆の文字、水のからだ」   中村安伸   09/09/29

 俳句総合誌LOVE
胡麻振るやハンバーガーのパンの上   榮 猿丸   09/09/28

 Yoko Yoko Road
少しだけあらがふやうに砧かな   青山茂根   09/09/25

 haiku&me 8月の俳句鑑賞(3)
「猿丸俳句のリズム感」   神野紗希   09/09/24

 ついったー小説
こほろぎを聴く図書館の設計図   中村安伸   09/09/23

 haiku&me 8月の俳句鑑賞(2)
「ノスタルジア、ケータイ・カメラ、フィクション」   湊 圭史   09/09/22

 かえってきたムーンライダーズ『Tokyo7』
蜜厚く大学芋や胡麻うごく   榮 猿丸   09/09/21

 ― R-18 ―
飛行機を降りて夜食の民の中   青山茂根   09/09/18

 haiku&me 8月の俳句鑑賞
「エクリの筋肉」   櫻本 拓   09/09/17

 歌舞伎座のおもいで
緞帳の河緞帳の月映る   中村安伸   09/09/16

 『東のエデン』
鍵盤を滑る指先秋桜   上野葉月   09/09/15

 どぶ板のヘイ・ジュード
恋文を燃やす灰皿秋暑し   榮 猿丸   09/09/14

 ― 眼鏡 ―
どれほどの船を見て来し小鳥かな   青山茂根   09/09/11

 タイ人の血液型
果てることなき休暇とも纏足とも   中村安伸   09/09/09

 読めるけど書けない
朝顔の薄い薄いと呟けり   上野葉月   09/09/08

 元祖擬音師匠
怪談の擬音が怖し夜の秋   榮 猿丸   09/09/07

 ― 青いパパイヤ ―
誰が袖にあらずや菊枕咬めど   青山茂根   09/09/04

 時々気になるのだが
肖像の首長くあり桐一葉   上野葉月   09/09/03

 虚子と碧梧桐
水の秋余白を毀す碧梧桐   中村安伸   09/09/02

 リズム
穴開きしれんげや冷し担々麺   榮 猿丸   09/08/31

 ― 足元には歌 ―
鈴虫を連れ隊商(キャラバン)の最後の一人   青山茂根   09/08/28

 ロードムービー
助手席の少女越しなる花野かな   浜いぶき   09/08/27

 転害門海龍王寺太極殿
秋空の一点に吊る転害門   中村安伸   09/08/26

 自民党の印象
パプリカのサラダさらさら夜の秋   上野葉月   09/08/25

 捏造
襟首に汚れ二すぢ百日紅   榮 猿丸   09/08/24

 ― Candela ― Buena Vista Social Club
カンテッラとはかげろふの歓びに   青山茂根   09/08/21

 
秋の蚊やジグソーパズルとなる笑顔   中村安伸   09/08/19

 じゃんけんに負けたぐらいじゃ愛媛に生まれないのか
零戦に尾鰭背鰭のありにけり   上野葉月   09/08/18

 Full of Loneliness
すいかバー西瓜無果汁種はチョコ   榮 猿丸   09/08/17

 ― グランギニョル ―
八月十五日の紙飛行機を追へば   青山茂根   09/08/14

 観劇録(2) 国立文楽劇場『天変斯止嵐后晴』
液晶に秋の天気図指紋捺す   中村安伸   09/08/12

 マユゲンヌ!!!  やだ素敵!!
梨硬しメール取り出す塾帰り   上野葉月   09/08/11

 ワールドハピネス
ロックフェスティバル先づ麦酒のむ草に坐し   榮 猿丸   09/08/10

 ― 成就のカタチ ―
墓石の雲居のしみを洗ひけり   青山茂根   09/08/07

 観劇録(1) 国立文楽劇場 『化競丑満鐘』
赤姫に臓腑の無くて日傘かな   中村安伸   09/08/05

 ― ホースラディッシュ ―
空耳やキャンプファイアーの闇に   青山茂根   09/08/04

 
ひるがほや錆の文字浮く錆の中   榮 猿丸   09/08/03

 ― ダブリン ―
水に棲むやうに遠雷を聞きぬ   青山茂根   09/07/31

2009年11月13日金曜日

― コドモの嗜好(2) ―

 

 漂流の小さき机をフレームに       青山茂根

 子供が一人でベッドに入り、親が部屋の電気を消しておやすみなさいと言うシーン、アメリカの映画などでよく見かけるものだが、現実はなかなかそうはいかない。友達の、ご主人がアメリカ人の家も、最初はあちら式に「子供は一人で寝る習慣をつけなくては」と言って、1歳くらいから一人部屋で寝かせようとしていたが、結局寝付いてくれず、母親が添い寝やらなんやらしていた。小学生になった今でも、背中をとんとんするなど傍で就眠儀式をしないと寝ないとか。いったいどうやったら、勝手に一人で寝てくれるんだろう。「須可捨焉乎」のしづの女じゃないが、眠くなる風邪薬でも飲ませるかと時々思う。

 幼い頃、家にあったLadybird社の簡単な英語の本にも、七時半を示す時計の絵のページには、親がおやすみなさいを言いに子供部屋のドアを開けると、ベッドに仁王立ちになった姉弟が枕投げの真っ最中という絵が描かれていた。枕投げは万国共通らしい。

 というわけで、寝付かせるのはなかなか至難の技である。一喝すると余計寝ないので、仕方なくでたらめな作り話を寝床で始めたら、それがないと寝なくなってしまった。良妻からも賢母からも程遠い私は、さっさと寝かして、自分の時間にしたくていらいらしているというのに。その場で思いつきのでっちあげ話に過ぎないのだが、架空のお城を舞台にし、子供たちを主人公にしたら大喜びで聞く。仮に「どんぐり城」としておくと、もうこっちはくたくたなのに、毎晩「ねえ、どんぐり城のお話は?」と言って目を輝かせてくる。寝付かせるためなのに、本末転倒だ、とがっかりしつつ、それでも話をひとつ「・・・それで二人は眠りました。」と終えると、「次の日、次の日。」とさらに続きをせがまれる。うーん、こんな筈では、と捨て鉢な気分で話を続けられるときはまだいい。大概は、話の途中でこっちが眠くなり、いつの間にか自分が寝てしまっている。「・・・砂浜について、・・・二人は郵便やさんでした。」とかめちゃくちゃな繋がりになり、「ちがう。」と子供に起される。それでも私が起きないのであきらめて子供は寝てしまい、夜中3時ごろ目を覚ました私は、ああ、今日も何にも出来なかったと、駄目駄目感でいっぱいになる。

 何の話をしたのか、私自身はすっかり忘れてしまっているのだが、子供は覚えているものらしい。「あのときの、あの話の続きして。」とせがまれるのだが、自分は全く覚えていないので、「・・・どういう話だったっけ。」と聞き出してやっと断片を思い出すくらいである。それでも、何か出来事が起きて、さあどうする?という展開に自然となっていって、それが一番子供受けするようだ。毎日二つも三つも話をでっちあげるのは面倒くさいので、適当に昔話なんかの内容を主人公と舞台設定だけ変えて話すと、「それはあそこにあった話でしょ。」とブーイングが来る。「月から兎の石が落ちてきて」とか、無茶苦茶な話ばかり、事件の勃発後の対処方法を考えるのが毎回しんどくなってきて、「・・・そこで二人は、どんぐり城図書館に行って、『どんぐり城の歴史』第一巻から十六巻を出してきて、最初から調べていきました。」とやってみたら大受けした。「・・・第五巻の中ほどに、ありました!月から石が落ちてきたときは、まず・・・」と、そこに対処方法が記述されている、という展開に大喜びするのである。唐突な思いつきで始めた方法ながら、何故受けるのか自分でも不思議だ。水戸黄門の印籠とか、終了10分前にヒーローが現れるお約束みたいなものだろうか。

 そのパターンが出来ると、自分も適当な話をつなげるのがちょっと楽になってきて、話の始めのほうからもう子供たちは、「ねえ、今日はどんぐり城図書館に行かないの?早く行ってよ。」とせっつく。そうなるとこちらも天邪鬼なので、「・・・と行ってみたら、今日はどんぐり城図書館は休館日でした」とか、「蔵書整理の真っ最中でした」と言って、『どんぐり城の歴史』第一巻から十六巻を調べないパターンに持っていこうとするのだが、「やだやだ、どんぐり城図書館で調べなきゃやだ」と始まるので、仕方なくそこから方向修正して、「・・・お城の人にカギを開けてもらって、図書館に入りました。」とか繋げる羽目になる。
 
 最近はさすがに、毎晩お話をしなくても寝付いてくれるようになってほっとしていた。そんな折に、ぱらぱらと、『芸術新潮』の今月号を斜め読みしていたら(学生時代から、これか『美術手帖』かどちらかをたまに買っている)、冷泉家のマニュアル本の話が出ていた。和歌の「冷泉家のひみつ」という特集なのだが、今をときめく歌人の方々のアンケートが、それぞれの作歌への思いなどとともに語られていて、俳句総合誌のそういったアンケートよりよほど面白い(10月26日付の荻原裕幸さんのブログにも出ている。http://ogihara.cocolog-nifty.com/)。俊成・定家の書の話も、そちら方面に疎い私は、先だって安伸さんがブログで書いていた俳人の書の話題など思い浮かべて読んだ。この特集で語られている定家の人物像からは、時折身悶えてるオタク系らしさが伺えなくもない(歌に黒髪へのフェティシズムが出てたりする)。究極のアウトドアイベント、熊野詣でに不平たらたらなのが記事になっていて可笑しい。実際、身悶えあたりから文学は立ち上がってくるものだろう。
 
 で、冷泉家のマニュアル本、『朝儀諸次第』は、朝廷での儀式の際の道具やら人の配置やら、イラストまで入っていてゲームに起してもなかなか楽しめそうな作り。といっても、子孫たちは官職のポジション争いに必死だったのだろうからそんな暢気なものでなかったことはわかるが、シュミレーション用の小さな紙の束帯人形まで付いている(特集最後の頁)。平面図(現在我々が無意識に描くものに大差ないことに驚く)に実際置いてみて、ここで拝礼とか何歩下がるとかやってみたのだろう。う、かわいい、これストラップになりそう、と思っていたら実際展覧会の会場でこのデザインの根付を売っていた。

 そんなこんなで、よし、また夜お話をするときに、「・・・『どんぐり城の歴史』第十六巻の裏表紙を見たら、小さな紙の人形がついていました。」と新たな展開が出来るぞ、と思いついた。


2009年11月12日木曜日

サハリン島へ        興梠 隆

 先月10月に4日間という短い日程ではあったが、サハリン島へ行ってきた。 そもそもは、6月1~4日の日程で行く予定だったのだが、ゴールデンウイーク前後の豚インフルエンザ騒ぎで勤め先が公私共に海外渡航の自粛を要請したため、見送りになってしまった。

 結局、その期間のスケジュールが空いてしまったので、当初は参加しない予定だった北九州でのイベントの手伝いに行くことになった。 

 イベント開催の前夜、20時20分羽田発の飛行機に搭乗。先週発売された村上春樹の『1Q84~BOOK1』を読み始める。真向かいの座席のキャビン・アテンダントさんに「もう手に入れたんですか、うらやましいです」と話しかけられる。当初の新潮社の告知では5月30日土曜日の発売となっていたのだが、実際には27日の水曜日頃には店頭に並んでおり、僕はその日に購入したが、週末には既に二巻本の上巻の方は売り切れ状態になっていた。

 22時過ぎ、北九州空港着。最終便だというのに空港内に結構な人の数。

 タクシーに乗り、宿泊先のホテルに向かう。この時間でも空港が賑やかですね、と運転手さんに聞いてみる。運転手さんの話では、今日の夕方くらいに山口県秋吉台のホテルで集団の一酸化炭素中毒事件が発生したらしい。夜の遅い時間帯に飛行機が着陸できる最寄りの空港は海上のここだけなので、報道関係者が集まってきているのではないか、ということだった。事件なのか事故なのか、ふと昔のサリン事件のことが頭をよぎる。 

 22時40分、門司港のホテル入り。イベント開催地である小倉に泊まれば翌日の行動も楽なのだが、アルド・ロッシが設計した門司港ホテルが昔から好きで、スケジュールに無理がない限り北九州に来る機会には努めて門司港に泊まることにしている。

 翌朝6時起床。仕事の集合時間までは、時間の余裕があるので、しばらく散歩することにする。門司港周辺は、「門司港レトロ」と称してたくさんの洋館建築を観光の目玉にしているが、洋館の類は、横浜でも神戸でもどこでも港町に行けば大抵似たようなものである、さほど興味がない。ただ旧三井物産門司支店ビルだけは別。同型の窓が上下左右均等に並ぶとても単純なパターン構成を持つビルで、正面に立って見上げると、昔のDCコミックの登場人物になったような気がする。 

 ホテルのフロントに置いてあった観光マップを眺めると、地図の一番右上の隅に和布刈神社というのがあるのに気づく。確か歳時記に和布刈神事という項目があったのを思い出す。これでも俳人の端くれ、こういう場所は押さえるべしということで、行ってみることにした。 

 平日の早朝、曇り空。観光港のあたりを過ぎて関門海峡沿いの遊歩道なりに15分ほど歩く。すれ違う人はいない。このあたりは、関門海峡の中でももっとも狭く流れが速いところで早鞆の瀬戸(はやとものせと)というらしい。関門橋を越えたところに和布刈神社があった。 

 門構えは立派だが、社殿は思いの外小さい。社務所もまだ誰もいない。社殿の左側に関門海峡の海へ下る階段がある。大晦日の夜、三人の神官が松明、手桶、鎌を持って海に入り、海岸でワカメを刈り採って供えるのが「和布刈神事」云々との説明書きがある。

 海へ下りる階段の手前のところに虚子の小さな句碑を発見。

  夏潮の今退く平家亡ぶ時も      虚子

 1185年、壇ノ浦の合戦。潮の流れが急変したことで形勢が逆転し、平家一門は滅亡。虚子がこの場所を訪れたのは1941年6月。7世紀を経てもおそらく変わることのない夏潮を介して一句の中に詠み込まれた、いまという時間のこの場所と7世紀以上前の平家滅びの瞬間の同じ場所。いい句だと思う。 

 まだ門司港駅発電車まではしばらく間がある。時間つぶしに海岸沿いのベンチで『1Q84』の続きを読む。BOOK1の終わりまではあと少し。 

 2枚ほどページをめくると、突然登場人物の一人が『平家物語』の壇ノ浦の合戦、安徳天皇入水の部分を暗唱し始めた。「・・・浪の下にも都のさぶらふぞ・・・」舞台となった関門海峡がいま目の前にある。 さらにページをめくると、今度は主人公がチェーホフの『サハリン島』の一節を朗読し始めた。

 1984年の世界と1Q84年という別のもうひとつの世界。1Q84年の世界で語られる1185年の壇ノ浦と1890年のサハリン島の本当にあった話。インフルエンザが突然変異することもなく、もしパンデミックが起こらなければ、自分がいまいたであろうサハリン島と、1Q84年の物語を読んでいるいまのこの場所。 

 急に雨が降り始めた。本を閉じて関門橋の下に走り込む。雨宿りをするのに橋の長さと横幅は十分だと思った。が、その橋桁はあまりにも高すぎた。雨は避けられそうにもない。 

  さみだれをしのぐに高し関門橋      隆














2009年11月10日火曜日

haiku&me 9月の俳句鑑賞(2)

パリ・モスクワ   山口珠央


はじめまして。山口珠央と申します。
haiku&me 竣工おめでとうございました。
そして、お招きありがとうございます。
9月分の各氏作品鑑賞のご依頼を頂きましたが、なにはともあれ me とゆうからには「なんぞツッコメ」との無言のプレッシャーを感じております。

普通は haiku&I のところ、あえて目的格を配置なさった各氏に敬意を表するため、辛口ヴァージョンで努めさせて頂きました。たしかにツッコミどころ満載の俳句作品、血祭りです。BGMはブラーの TO THE END でお送りしております。


青山茂根

誰が袖にあらずや菊枕咬めど

「誰」とぼかさずに「汝」であれば、男色エロ俳句として成り立ったかもしれない。
「菊枕」を季語においた発想は斬新だが、謡曲にある「菊慈童」の世界そのまま、という印象が拭いきれない。「菊枕」の一物俳句を試みてほしい。そしてできるなら、咬まないでほしい。思い切って陶酔してもらいたい。

飛行機を降りて夜食の民の中

旅詠であろう。飛行機のなかで食事は出そうなものであるが、それすらないような航空会社の夜間飛行。「夜食の民」で作者がその中の数少ない異国人であることが示される。好きな一句。

少しだけあらがふやうに砧かな

隣家では砧を打っているというのに、またひとりで(ふたりで)なんかやってるらしい。近所迷惑俳句と命名したい。どうあらがっているのか、景が見えないが具体的な描写があれば面白い作品になりそう。ただ、かな句ではないのではないか。


中村安伸

緞帳の河緞帳の月映る

あまり意味のない「緞帳」俳句。意味のなさに嫌々ながら目が留まった。「緞帳」はなんとなく「絨毯」に似ているような気もするので、これが季語か。「月」という重い季語を踏みにじった蛮勇は評すべきであろう。

引く波の渦を残せり秋彼岸

「残せり」ではなく「残すや」と切るべきであろう。鑑賞ではなく、添削です。
添削してもつまらない俳句であることに変わりはないので、中村俳句の汚点として末永くたいせつにしてもらいたい。あるいは容赦なく棄ててもらいたい。


榮 猿丸

怪談の擬音が怖し夜の秋   

良い句だと思う。ただ、怪談で怖いのは擬音だけではないので、一般性はないし軽い。軽さが同氏の作品の持ち味だとは、鑑賞者は考えていません。意外と深い作者。

恋文を燃やす灰皿秋暑し

作句に困ったので「恋の句」に逃げてみました、というところか。恋文は洗面所で燃やすべきであろう。「燃やす」と「暑し」がどうか。きっと内容も鬱陶しい恋文だったのだろう。燃やして正解だった。

蜜厚く大学芋や胡麻うごく

今会作品の白眉。写生に徹したところが好ましい。でもちょっと細かすぎるか。


上野葉月

肖像の首長くあり桐一葉 

モジリアーニの肖像画を思う。「長くあり」と五文字も費やしてしまったところが勿体ないようでいて、「長い首」のある意味における無駄さ加減を視覚的に再現した佳句。季語が効いている。しかし、類想句がゾロゾロありそうなので、その程度。  

朝顔の薄い薄いと呟けり

文語なのか口語なのか、どちらかに統一してもらいたかった。この句のリフレインは前掲句とは違って、単なる無駄。繰り返すが、単なる無駄である。

鍵盤を滑る指先秋桜

「鍵盤」と「秋桜」がうまく響き合ってあると思う。ただ、鍵盤は叩くもの。ときに愛撫するように、ときに突き砕くように。滑るだけでは「子犬のワルツ」も無理。

2009年11月9日月曜日

I don't want to be alone tonight

僕の自発的な洋楽初体験はモンキーズであった。小学生の頃だ。
自発的、と書いたのは、母の影響ではなく、という意味である。

母は音楽が大好きで、台所のラジカセで、あるいは居間の小さなステレオで、つねに音楽をがんがん鳴らしていた。小学校から帰宅すると、マイルス・デイビスや、クインシー・ジョーンズや、ローリング・ストーンズや、ジャパンや、ポリスやら何やらかんやらがかかっていた。ただ、ジャズ以外の曲は、たいがいラジオから録音したものだったが。

そうしたときに、ガツンと衝撃を受けることも少なくなかった。なんだこの曲は。なんだこの感覚は。よくわからんがぞわぞわするぞ。

しかし、ストレートに「この曲いいね、なんていう曲?」などと聞けるわけがない。少年は恥ずかしいのである。内心ものすごくぞわぞわしているくせに、興味のないふりをするのである。

そこで、母がいなくなったすきに、レコードプレーヤーの上でくるくる廻るラベルを一生懸命読み取ろうとする。カセットテープのケースに入っている紙に殴り書きされた曲名を必死で覚える。
そして、母がいないとき、こっそり聞くのである。

中学のとき、先生と親の面談があった。ふつうは15分なのだが、1時間近く話してきたという。びっくりして、何を話したのか問いただしたら、僕の話は正味5分くらいで終わって、あとはずっと音楽の話をしていたという。それ以来、先生から「お母さんに」とカセットテープを渡されるようになった。ジャズが多かったが、たまに僕用に、ポール・マッカートニーの新譜なんかもくれた(ぼくは中学の頃はビートルズ・フリークだったのだ)。

もちろん、母に渡す前にこっそり聴いていた。そのなかで気に入ったのが、マイルス・デイビスのライブ盤「ウィ・ウォント・マイルス」とサリナ・ジョーンズの「マイ・ラヴ」である。
とくにサリナ・ジョーンズの「マイ・ラヴ」は、夜、寝るときに蒲団の中でヘッドフォンをして、毎晩のように聴いていた。

先月入院して、消灯時間が早くて眠れないとき、ひさしぶりに「マイ・ラヴ」を聴いた。蒲団の中でこのアルバムを聴くのは、中学のとき以来である。俺、これ好きだったなあと、冷静になってしまったのは、アナログでなくCDの、妙にクリアなシャキシャキした音だったからだろうか。それとも病院の無機質でかたいベッドが、追憶を許さなかったのだろうか。

ちなみに父はまったく聴かない。父が持っていたレコードは、五月みどりと海援隊であった。

  文化祭即席バンド音符にルビ   榮 猿丸


2009年11月6日金曜日

― コドモの嗜好(1) ―


  落花生干して聖書の上の手よ     青山茂根


 男の子はなぜカードが好きなのか、謎だ。自分は姉妹しかいなかったので、子供がハイハイのうちから(歩けもしないじゃん、と突っ込みたくなる)、車のおもちゃを手につかんでガーガーやってるのを面白く見ていたが、歩けるようになってからは、工事現場を見つけると一時間でも二時間でも眺めていて動かない。それも卒業すると、何やかやの蒐集が始まった。

 といっても、自分の小さい頃でも、お菓子に入ってたフラワーフェアリーズのカードを集めてたし、日曜学校でくれる聖句のカードもあった(友達の家が牧師館だった。あれを配るのも人間の収集癖に訴えるためか)。壜の王冠集め(ドラえもんにもその話あった)とか男の子はビックリマンチョコのおまけか、私の親世代は切手やコインやめんこだったんだろう。

 家の幼いものを見ていても、パスモやスイカが登場するちょっと前、電車の写真などがついたプリペイドカードの使用済みのを引き出しにためることから始まった。誰かと交換したりゲーム性のある所謂トレーディングカードは持ってないのだが(興味がないらしい)、それでも、今現在子供が持っているものだと、電車のカード(なんであるのか?)、野球の選手のカード(お菓子にもついているが、試合を見に行くともらえる)、サッカー選手のカード(同じく試合に行ってもらう、海外リーグものもあり)、世界のカブトムシのカード(本屋でセットになったのをねだられた)、世界のクワガタのカード(同じく)、他に闘いもののヒーローや怪獣のカードなど知らないうちに溜まっている。それらを、部屋の片隅で一人、ときどき広げて眺めるのが楽しいらしい(しかも数系列のカードを散らかしたまま片付けない。怒!)。ゲーム機も持ってないが、それよりカードそのものが優先であり、要は、集める・広げる・眺める、なんだろう。

 蒐集するという行為は、もしかしたら遺伝子の中に潜む狩猟本能と関係があるのかもしれない。嗜好に合致するものを見つけると、とにかくなんとしてでも手に入れるという行動形態は、視野に入った獲物を条件反射的に追う行為に似ている。例えば恋愛や、株の売り買いや、物品の買い付けなど、実業実生活に於いて狩りに近い行動パターンをしていない人のほうが、コレクター化する傾向があるようにも見える(もちろん、どっちもイケる、というパワフルな人もいるだろう)。実生活で発揮できない潜在的な狩猟本能を、物を蒐集することで解消しているのだろうか。
 
 雑誌「ブルータス」が、仏像特集を組んだときに、中ほどにミシン目で切り取れるようになった、主だった仏像のカードがついていた。子供のころから仏像好きだったという千宗屋氏の監修によるもので、カラー写真の裏にそれぞれの説明がある。書店で立ち読みしながら、うーむ、これ子供にあげたらどう反応するかな、とつい買ってしまった(うかうかとマガジンハウスにしてやられた感がしないでもない)。家に帰って、適当に切り離して渡したら、「かっこいい!」と喜んだが(つまりカードという形状ならなんでもいいのか)、私の切り取り方が雑だと文句を言っていた。切り取るのから自分でやりたかったらしい。どうもあの、ミシン目というやつに、いわく言い難い魅力があるのか。アバウトな私には向かない作業だが。

 そのブルータスの綴じ込み付録のカードには、超有名なのから、私も知らなかった象や鳥に乗った尊像まで、ジャンル様々に取り上げられていて、どうやら、そういうライドオン系とか、口からなんか出てるとか、手・顔がいっぱいある、いろんなお道具手に持ってる、後ろに炎しょってる、といったカタチの面白さに子供は惹かれるらしい。渡したときに、入れるケースが欲しい、というので、適当なプラスチックの箱を探してあげたはずだったのだが、今見たら、ウルトラマンの怪獣カードを買ったときについてた箱(つまり怪獣の絵が全体に描いてある)に入れてあった。そういう認識なんだろうか。

2009年11月5日木曜日

ブナの山々

  かなかなに遠き祖先やこの山毛欅にも   広渡敬雄

 仕事の関係で月に3回ほど、仙台に行っている。杜の都「仙台」は、けやき通りで有名。夏の真緑から徐々に色合いを萌黄、黄色と変えて来ている。11月中旬位が黄葉の見頃であろうか。欅は若葉、黄葉、そして寒空に枝を張り巡らせる裸木と魅力は尽きないが、どうしても街路樹、公園樹のイメージがある。
 やはり、山の黄葉の王者はブナ(橅、山毛欅)であろう。北海道南部から九州の山岳地帯まで広く繁茂し、豊かな保水力と熊を始め多くの動物の森を形成している。
 白神山地のブナが一時大量伐採で耳目を集め、反対運動で途中で中断、何とか全山の伐採を逃れたのは、救いだった。
 10月中旬に、秋田・岩手県境の和賀岳、山形県の葉山(村山葉山)に登った。
 知る人ぞ知るブナの巨木、大木の森がある山々である。
 既にブナ黄葉で全山が染まっている。日が差す時と、翳る時では、その色合いが全く違うし、驟雨のあと霧が過ぎる時の微妙な色合いも素晴らしい。
 ブナの実は熊や栗鼠の好物(勿論人間も食べられる)。朽ち果てた老木のそばに実生し、やがてその老木の根元を押しのけて成長する。その肌は清楚な艶のある白から、成長するにつれ灰色に、やがて苔が寄生するためか黒く変色する。
 変色した幹は人の腕一抱え以上の大木が多く、年輪を重ねた貫禄みたいなオーラを発散させている。
 生育している場所、注ぐ光線の具合で、その肌の白、灰色、黒が微妙に変化するのも見応えがある。ブナにも大木になるための好環境があるのだろうか。
 概して雪深い1200メートル級の東北地方の山に多い。
 際立った大杉が屋久島に生育する要因が、その温暖且つ、大量の雨と言われているのと同じことかも知れない。
 若木は雪の圧力で根元から谷筋に迫り出すように湾曲しており、痛々しく豪雪の物凄さを痛感するが、大木は殆ど直立している。
 不思議なことだが、大きくなるにつれ、自然に谷筋の曲りを自身で矯正するらしい。
 雪に埋もれたブナ林は4月頃が雪解け季節。必ず根元から融け始める。
 春になり地下の水を吸い上げるエネルギーによる熱なのだろうか?
 その根周り穴の幹の周辺には5ヶ月ぶりの地表が顔を覗かせる。
 根から幹を通じて枝々への樹液の流れを聴こうと幹に耳を密着させたことがあるが、聞こえなかった。聴診器だと聞こえると教えてくれた人がいた。

  雪解けの水吸ふ音か山毛欅稚し

 5月には一斉に芽吹いた若葉が新緑となり、雪解の沢の音を励ますかのように鮮やかな緑の森となる。ブナの森は、雨が降っても、直接に地面に雨脚が当ることはなく、一旦葉に降り注いだ雨は幹を伝わって根元に流れ、地中に吸収されるため、抜群の保水力を維持し、洪水等を防いでいる。今回も驟雨に遭ったが、葉に降り注ぐ雨音の大きさに反して、合羽も必要としなかったほどだ。
 ブナの大木が拡がる地帯は、概して傾斜は緩く、春から晩秋まで、その張り巡らされた枝々の葉が空を覆って、その下は太陽の恵みが少ないためか、殆ど草も繁茂しておらず広い空間となっている。春はかたくり等が群生するところだ。
 何百年いやそれ以上の年月のブナの落葉(当然土と化している)が地面を覆い、大木同士は適度に離れており、広々としてゆったりとした気持ちになれる。
 小春日のなか、その根元あたりに寝転んで、コーヒーを沸かし、うとうとしていると至福の境地となる。    悠然と根を張り、空に太幹を立ち上げ、思う存分に枝々を広げた王者達のオーラを浴び山の静けさが心地よい。
 和賀岳には、幹回り5.5メートルの日本有数のブナの巨木もあるらしいが、幹回り3メートル(人の腕二抱え相当)の大木は目白押しで、この一帯は1981年に、環境庁から「自然環境保全地域」に指定されたブナの絶品が見られる場所なのだ。
 葉山の西斜面一帯のブナの大木もこれに劣らず素晴らしかった。
 大木の幹には、マタギかどうかは定かではないが、地元の猟師が記した名や熊の爪あとが残っていたり、又熊の糞らしいものもよく見かける。
 ブナの実は年により豊作不作の波があり、不作の年は、冬眠の食い貯めのために熊が食料を求めて山里に下りてきて、農作物等を荒らすとも聞いている。
 ブナの黄葉に染まった山肌を見つつ、ブナ落葉が幾層にも重なった路をかさかさと踏みしめながら山を下った。きらきらとした沢の水は心なしかブナの香りがして旨かった。
 これらの山々はかなり深い。首都圏から登山なしで手軽に行けるブナ林がある。
 新潟県十日町市松之山の美人林。(関越自動車道塩沢石打下車1時間強、新幹線湯沢駅乗換ほくほく線まつだい駅下車タクシー)
 まだまだ生育期であるためその木肌はまばゆいばかりの艶のある白。
 この辺りは日本棚田100選にもなっており、共に必見もの。

参考文献:坪田和人「ブナの山旅」(山と渓谷社)
詳細:十日町市観光協会(025-757-3111)
   インターネット:美人林 http://bijinbayashi.daizinger.jp/

2009年11月2日月曜日

Fのトランク

土日は諏訪湖畔にて澤の秋季鍛錬会であった。110名の参加。退院してからの初句会。初吟行。二日目の句会で珍しく特選をいただく。じつは一日目の句会では季語を3つ入れた句をつくってしまい(夏と秋と冬!)、「〈榮さるもねら〉に改名したほうがいいんじゃないかと思ったが、改名せずに済んだね」とシュサイに言われる。よかったです。
万治の石仏や御柱、木落し坂などみて、帰京。新宿で席題句会して解散。縄文な二日間。

帰宅後、風呂に入り、youtubeでアース・ウィンド・アンド・ファイアの「レッツ・グルーヴ」「ブギー・ワンダーランド」「セプテンバー」のヴィデオクリップを観て、大爆笑、大盛り上がりして就寝。これは最近の日課。毎晩funkyの意味を確認して寝る。寝る前にテンションあげてどうする。

「レッツ・グルーヴ」でのモーリス・ホワイトの慈しみあふれる表情、「ブギー・ワンダーランド」での真似できそうで決して真似できないモーリスのしなやかな動き。この頃のモーリスは全身ファンキーの塊である。そしてフィリップ・ベイリーのハイテンションな裏声。観るもの誰もをメンバーに入りたいと思わせる桃源郷のようなステージ。「レッツ・グルーヴ」の2分21秒の映像を切り取ってプリントしたTシャツがほしい。

  相部屋の隅のトランク櫨紅葉   榮 猿丸