Twitterは往来に似ている。どこで話がどう転ぶか予測がつかないし、誰に聞かれて(読まれて)いるのかもフォロー関係でなければわかりはしない。ひょんなところから、昔の知り合いにつながったり、新しい出会いから珍しいものを頂戴したりもする。そんなこんなで、自由律俳句(というより昨今は随句と呼ぶようだ)の同人誌を送っていただいた。山本健吉などがまとめているいくつかのアンソロジーなどで、過去の自由律の句には少し触れたことがあるが、こうして時間的に近い現在、作られた句を読むのは初めて。私などが選んでみても何もわかってはいないけれど、いくつか挙げさせていただく。
月刊 随句誌 『草原』平成23年12月号より。
秋雨が骨を打つ 春風亭 馬堤曲
明け方月が夜からはみ出てる
じゃがいも静かに芽をだしている 福 露
墓に参る背中に雨ふる 薄井 啓司
売家の値段下がって草丈 岩村 操子
降りればビニール傘又一本のキヨスク
繁忙期終わると冬が来ていた 矢野 風狂子
鍋をさらいぬるい酒飲む
墓石の上は青い空の遠い 岸田 渓子
紅葉の川底に影射す
ぐあい悪そうな色の半月 土方 瞭
カップ麺にお湯を入れて来客 馬場 古戸暢
蛇口に映る歪んだ世界だ
目が合わない横向きのまま 米田 明人
人思えば山河深い 藤津 滋人
街の空に座る富士山が黒い 秋山 白兎
胸の谷の上にケータイかざしている そねだ ゆ
食べられそうもない茸も秋
他に上位作品の自解や、通信句会の互選結果と選評、会員による随筆や評論が載っている。定型での句会との選評の違いなど興味深い。どちらかというと、内容や言葉の斡旋、句意について述べている評が多いようだ。定型の場合、意味はとれなくとも良いものは良いとか、内容よりも形に重点を置いて評されることがしばしばある。このあたりから、自由律の境涯性へ繋がっていくのかも。定型で書かれた句は、どこか幽体離脱した自分を半歩後ろから描いているような趣きがあるのだが、自由律の句はそうではないように思われる。また、一人の作者の並べられた句を読んでいくとき、「揺れ」のような感覚を覚える。前の句から次の句へ、揺れ幅を含みながら繋がっていくような。句の意味も、言葉のリズムも。この「揺れ」るような振れ幅が含まれるか否かが、自由律と、定型の中での破調の句との違いであるようにも感じた。
藤津滋人氏のエッセイ「キナバル山登山とボルネオの旅」は、熱帯での登山というあまり知られていない世界、そのロッジや食事など簡潔に記されていて、熱帯雨林独特のあのむせるような花を思い出す。そねだゆ氏の「山田句塔 戦争を詠んだ俳人」も、未知の作家、それも従軍中の句を残した俳人を紹介する試みで、これからの展開が期待される。矢野風狂子氏の文章には、何か大きな、底知れないものが見え隠れするようで、胸を打たれた。非常に重い話なのだが、力のある随筆だと思う。境涯というべきか、まさしく断崖にいるような。