2011年12月19日月曜日

シンポジウムとラジオと俳句フェア


猿丸です。

いろいろ告知3本です。


週刊俳句編の俳句アンソロジー『俳コレ』出版を記念したシンポジウムにパネリストとして参加します。


1223日(金・祝日)午後1時開場・130分開演

週刊俳句編『俳コレ』(邑書林)の出版記念シンポジウム&パーティー

「俳コレ竟宴」


【竟宴シンポジウム】(1,000円)

第一部 詠む と 読む のあいだで(1:352:35

スペシャル対談 神野紗希 vs 佐藤文香

第二部 撰ぶこと 撰ばれること(2:454:45

コーディネイト・進行……上田信治

撰んだ人……筑紫磐井、櫂未知子、榮猿丸、村上鞆彦

撰ばれた人……依光陽子、松本てふこ、矢口晃、福田若之


【竟宴パーティー】 (9,000円)

【竟宴二次会】 (3,500円)


俳コレHP http://www.haikore.jp/

竟宴申込フォームはコチラ→ http://form1.fc2.com/form/?id=709740


★★

NHKラジオ第1「元日の夜はぷちぷちケータイ俳句」に選者として出演します。

1月1日(日・祝)19:20〜21:30の生放送です。


「元日の夜は、気鋭の俳人のみなさんが集合します。

新春のあなたの気分を俳句にして教えてください。

また、放送では当日のお題も発表し生投稿を受け付けます。

さらに、特選句の人気投票も実施!

選者のみなさんによる吟行句バトルもお聞きのがしなく!」


選者 神野紗希、外山一機、矢野玲奈、榮猿丸

ゲスト だいたひかる


事前の投句も募集中です。

お題は「マフラー」もしくは「デート」

HPから投稿できますのでよろしくお願いします!

http://www.nhk.or.jp/radiosp/k-haiku/


★★★

紀伊國屋書店新宿本店5階で「俳句フェア」実施中!

「アナザー文学の現在ーー俳句を読まなきゃ文学は語れない」

こちらは週刊俳句に詳しく載っております。


haiku&me関係では

青山茂根の第一句集『BABYLON

中村安伸の100句が入集した『新撰21

榮猿丸の100句入集『超新撰21

も置かれています。


このフェアのすごいところは、俳句本だけじゃないところ。

ボルヘス、バルト、ヴァレリー、ポー、ナボコフ、多和田葉子、倉橋由美子をはじめ、

落語、美術関係の本などがずらっと並んでいます。

アナザー文学としての俳句、その魅力に迫る画期的なフェアです。

新宿にお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。


2011年11月17日木曜日

― 木の根へ帰る ―

「シノワ?」「チーノ?」と旅先で聞かれると、速攻で否定するくせに(そういうときだけ「no!」ってはっきり言えるのは何故)、現地料理に疲れた胃を抱えて、チャイニーズレストランの看板を見かけると吸い寄せられるように店へ入ってしまう。自分もそんな失敬な一人である。他にアジア料理の選択肢がある場合には、「中華よりはタイだな。」とか「ここはベトナム料理だろう。」などと自分内ランクを動かしまくる、失礼千万な態度。そのくせ、まだ一度もその国には足を踏み入れたことがない、各国の都市にある中華街へはついつい迷いこんでしまうのだが。だって面白いのだ、様々な現地様式に迎合しない、その暮らしぶりが。世界中どこにでも中国人は暮らしている、とは誰が言ったか、本当に南米をバスで旅していても、意外なところで遭遇するらしい。残念ながら南米大陸へも未だ、旅したことがない。

 『風の唐橋』伊藤径氏の第二句集より(角川書店 H18)

  冬ふかし人に木の根の匂ひして   伊藤径

  漢方の根のもの匂ふ雪の果      

  食卓にじやらりと鎖鳥雲に

  老鶯や扇にのこる木の匂ひ

  琵琶売と風の唐橋渡りけり

  七夕や母船へ帰る手漕ぎ舟

  謝謝と身をよぢりたる良夜かな

 木の、根の匂い。日本に暮らす私たちにはあまり日常的に感じられることはないが、あとがきにはこのように書かれている。

 仕事の関係で一年の半分を中国で過ごす日々が続き、生活者として中国の風土と文化に直に接することが出来た。(中略)日本を詠んでもいつ知らず中国が溶け込んでいる句もある。それらは特に区別しない。
                  (『風の唐橋』 著者あとがきより)

 そういえば、自分の家の近所に漢方の専門店らしきものがある。所謂薬局やドラッグストアにありがちな看板やノボリ、広告ポスターといったものが一切ないのではっきりとは言えないのだが、ガラス張りの店の正面の棚には、根っこや何か干からびた物体が入った大きなガラス瓶がいくつも並べられていて、その店が視野に入るか入らないかのうちにあの、独特の煎じる匂いが鼻を捕らえる。どこの国の中華街を訪れても、真っ先に目に付くのはものを温める湯気、そして匂いだ。そこに暮らしてみると、生活に根ざした漢方の、より強い木の根の匂い、を最も強く感じるのだろう。

 「食卓に」の句のように、脚韻が印象に残る句も。その舌に残る音、にぶい響きや言いよどむような趣きは、異文化の中に暮らす人々が持つ些細な違和感や、日常に伝えきれない言葉たちの、澱のようにも感じられる。

 柿本人麻呂の月の舟の歌を想起させる「七夕や」の句には、異国へ向かった移民たちの姿も投影されているようで、その港での様子や、黄河の大きさをも天に映し出しているかと。

  仄かにも栗鼠の尾渡る若井かな

  なまはげのやうな声してお晩です

  雪しろに荼毘の薪舟着きにけり

  ものがたり忘れてさくら咲きにけり

  ちちいろの雲のひろがるかたつむり
 
  靴擦れを草に冷せる日傘かな

  福耳に風ふいてゐる心太

  水鳥の飛び立つ硯洗ひけり

  屋上にドリブルをして月の人

  みんな手をつないで秋のゆふぐれは

  炬燵寝の人はいたこで在らせられ

 中国文化にも文学にも疎い自分には、様々に見え隠れするその風土を読み取りきれず、こうして紹介させていただくのも申し訳ない気がして。しかし、上に挙げたような、日本で詠まれたらしき句にも、異国に暮らしてきたものの眼がどこかに感じられるのだ。他の風土に身をおいてみて初めて、見えてくる差異。新たな目で見る故国。口語的な語り口の句のユーモアと伸びやかな明るさ。「秋のゆふぐれ」の句は、大陸の風景のようで、皆が胸の中に持っている懐かしい日本のようで。伸びてゆく影とともに地球は回る。日は西へ。大陸へ。

  

  

2011年10月21日金曜日

  ― 南と北、西と東 ―

 



  プロペラを磨き続けし夜業かな      青山茂根

  道つけてゆく月光の凪のなか

  台風が魔物のひとつだとしても 

  銀漢のごとくに壁のありしこと

  空に浮標地に秋草の生ふ穴よ


2011年10月14日金曜日

 ― 『壜』の明滅 ―

 

 高木佳子氏の個人歌誌『壜』第三号から。


  南へ向かふ列車を想つてほしい、青い列車は叫びごゑで満員だ   高木佳子


  ぢやあこれで決めやうといひボケットゆ取り出さるる一つの銀貨


  逃げないんですかどうして?下唇を噛む(ふりをする)世界中が炎昼


  やはらかく熟れてゆきたる鳳梨<あななす>よ汚れてゐるのはにんげんなのだ


 「kyrie eleison」と題された高木佳子氏の14首。その次に置かれた論考「震災と表現」を読み、また14首の歌へ戻ると、現実の生活からの言葉のなかに、(Jヴィレッジ)(『フラガール』)など、作者の居住するいわき市のモチーフの断片が埋め込まれ、31文字の中で明滅する光を放っているのがわかる。(一つの銀貨)はサッカーの試合前の儀式であり、今は、もうその地では見られない光景。(鳳梨)は、『フラガール』の舞台、いわき湯本温泉郷を想起させ、そこが現在は、通常と異なった盛況を見せていることを。一連の歌のなかで、非常ボタンの赤いランプの点滅のように。


 …もちろん、テロと今回の震災とは異なるが、十年経っても良識や善意が表現を抑制するような図式は何も変わってはいないのだと思う。(中略)
 題材に真向かって歌を詠おうとすることは、言い換えればそれは鏡のなかの自分を見つめる行為でもあり、そのときの一瞬における裸の自分なのだ。更に言えば、詠うことは思想・信条や善悪を取り去った部分の、人間の本性をあからさまに暴くことなのだと思う。
   (論考 「震災と表現」 高木佳子 『壜』第三号 2011、10)

 前北かおる氏の句集『ラフマニノフ』は、作者の身近な人々の序文、挿絵が収められ、あとがきも作者の個人的な身辺の報告から始まる。句の初読のさいに、作者の個人情報が与えられるべきかどうか、疑問といえば疑問だが、そもそも前書きが全ての句につけられているのだから、これはそうした作りとして読むべきなのだろう。最も、前書きがすべてフィクションとして挿入される場合もあるのだが、この句集の場合はそうではないようだ。シンプルながら、作者の趣味性を前面に出した装丁は、好ましく映った。

  蚊柱も昔のままの母校かな     前北かおる

  子供等の吉野ことばのあたたかく

  かはるがはるキッチンに立ち長き夜を

  フェレットが腕よりこぼれたんぽぽ黄

  菜の花の雪のさ中の黄なりけり
      (『ラフマニノフ』 前北かおる ふらんす堂 2011)

 日常の喜びと幸福感に占められた、これらの句に触れながら(しかしこの時代は大体の人々にとって人生の一番幸福な時期でもあるのだろう)、そのはるか向こうにいる、たくさんの人々を思っていた。地震や津波や、その後の事故によって、家族や周囲の人々を、家を職を失い、故郷を追われるかに離れ、窮屈ななかに暮らす沢山の人々。その何万人もの人々が持っていた、この句集に描かれているような幸福な日々の数々を。

 

 

2011年9月23日金曜日

 ― 句集『背番号』 むずむずを追いかけて ―

 



 興梠隆氏の句集『背番号』(角川書店 平成23年)より。

   土壁の中に竹ある朧かな               <「Ⅰ 側転」より>

  食卓は椅子に囲まれ鳥の恋

  春めくやペンギン並ぶ洋書の背

  花種の袋の裏の五ヶ国語

  飛魚や積荷は煙草販売機              <「Ⅱ 梅雨(TO YOU)」というタイトル面白い>

  海軍(ネイビー)の基地の中なる夏野かな

  磨り硝子の向かうにプール洗ふ人          <「Ⅲ ガガーリン」

  岐阜提灯売り場はギター売り場の奥

  駅伝を終へがじゆまるの根元まで           <「Ⅳ雲の斑」>

 誰も描写していなかったものを、見つけ出す才能。どれも形式としてはみ出すことはなく書かれているが、どの景も確かに現代の一齣である。とにかく面白い句はこのあとに挙げることにして、まず、正確な技巧と写生ながら新しい視点にあるものを並べてみた。景でありながらそこにかかわる人々の暮らしが見え隠れする、どこかに作者の師系である加藤楸邨翁の句を思わせる温かさが。

 …何か自分の中にむずむずしているものがあるんです。普段はよくわからないが、心動かされるものに触れたりすると、思いもかけないときにそれが動き出してくれるんです。その動き出したものを自分でもつかみ取りたいものだから、追いかけていくんです。
      (『加藤楸邨 俳句文庫』 春陽堂書店 平成四年 より「対談 わが俳句を語る」 加藤楸邨の発言)
 
  引き抜けばティッシュ突立つ雲雀かな          <「Ⅰ 側転」

  梅雨(TO YOU)といふ異国極東支配人        <「Ⅱ 梅雨」>

  ハンモックの前にスーツで来てしまふ      

  乾電池のやうな柄なり秋袷                 <「Ⅲ ガガーリン」

  ドーナツ齧れば穴なくなりぬ秋の風
   
  花の都は花柄の掛布団                  <「Ⅳ 雲の斑」>

 「乾電池」のような柄という比喩は初めて見たようで、きつねにつままれたような、不思議な面持ちで納得してしまう。「秋の風」を、このようにあっけらかんとしたさびしさに表現した句もないだろう。しかし、どこかで芭蕉の<枯枝に烏のとまりたるや秋の暮>に通じる俳味がある。「花の掛布団」は昭和という時代を描き出し、懐かしみつつこのとぼけたおかしみ重たくれたところのない面白い句ばかりで、もっと取り上げたい句がたくさんあるが、なるべく他の方がブログなどの句集紹介で挙げていない句を引いてみた。

  白南風や地図の四隅に四人の手            <「Ⅱ 梅雨(TO YOU)>  

  琉金のしだり尾の夜のカモミール

  透きとほる翅の集まる夜店かな             <「Ⅲ ガガーリン」>

  雨の日の晴れの夜のねこじやらしかな
 
  冬眠居と号し鉛筆遺しけり                 <「Ⅳ 雲の斑」>

 そんな中に、こうした詩的昇華ともいえる句が見つけられるのだ。透明な、静かに澄んだ詩精神が根底にあり、作者の幅、詠む領域の広さ深さを感じさせられる句集だった。

 最後に先ほどの『加藤楸邨 俳句文庫』の年表に、ふと手を止める記述があったことを。今は静まり返ったその駅の名に。

 大正四年(一九一五)    (加藤楸邨)十歳  
   (父の)福島県原ノ町の駅長への転任に従い、原ノ町小学校へ転校。


                            

      

2011年8月30日火曜日

 『BABYLON』

  


 お知らせさせていただきます。青山茂根の

第一句集『BABYLON』が出来ました。



皆様にお手にとっていただければ幸いです。


ふらんす堂さんのサイトで購入できます。


地震の前から動いていたのですが、震災のあと、

出すべきなのかどうか少し迷いが生じ、

紙不足など考えて、少なめに刷ることにしました。


様々な日常から解き放たれて、遥かに心遊ぶひとときも、

詩歌の可能性のひとつであれ、と願います。


機会があれば、また感想や評などお寄せいただければと思います。


どうぞよろしくお願いいたします。     青山茂根












2011年8月26日金曜日

 ― それ以後の雲のしたで ―

 

 街は何も変わらないように見える。3.11の前と後と。今や以前と変わらず店舗の棚には山積みになって商品があふれているし、蛇口を開けば水も出る。トイレも使えなくなることはなかった。東京より西に住んでいる方には、あまり実感が湧かないのかもしれない。

 まわりの人々の口に地震の話題が上ることも少なくなった。が、忘れられないこともあって、ふとした拍子に脳裏によみがえる。今も被災地や過酷な環境の中に居住する方たちがいるのに、この程度のことで申し訳ない、と胸の中でつぶやきながら。
 
 なんとなくどこかへ、と急に思い立って、3月の終わりに木曾の奈良井宿を訪ねたのは、昨秋に出かけた桐生の、古いものを今に生かした町並みが忘れがたく印象に残ったのと、その古い建物のいくつかは被災して現在使用できない、と耳にしたからでもあった。今、出かけて見ておかなくては、とあせるように電車に乗った。石田波郷や加藤楸邨が乗車したその路線も、三陸の鉄道のように地震がきたら状況は違えども被災してしまうかもしれない、と。子規が歩いた道はアスファルト舗装になっているけれど、道幅も周囲の家並みも少しの変化にとどまっているかに人々は暮らしていた。泉鏡花が『眉かくしの霊』を書いたという宿屋は内部を改装中とのことで、ガラス戸から覗くことしかできなかったが、土間や建物の外観はほぼ当時のままに残されているようだ。何より、その数軒手前に宿をとった、江戸時代のままの建築は、あの、鏡花が描写してみせた宿屋と同じように、土間があって、鯉を放した池のある中庭へ抜けて、離れへと繋がっていた。その翌日に訪ねた隣町旧楢川宿の漆器店も、店の奥に池のある中庭が広がり、離れの土蔵が漆の工房となっている細長い作りで、宿場町の家々の間口に幕府が税金を課したため、京の鰻の寝床のように、皆間口を狭く、奥がずっと1本向こうの通りまで抜けるような構造になっていた。屋根こそ耐久性の高いものに替えているが、今も全体の構造はそのまま、水周りや電化した箇所を加えるのみで皆暮らしているのだ。

 特に鉄道マニアというわけでもなく、日本中の全ての路線を把握していることもないのだが、小さい頃車の運転をしない母に連れられて紀州の海沿いを走る鉄道や、いくつかの寝台特急などで旅した記憶がときどき蘇る。木製にタールを塗った床の匂い、山沿いを走る列車から見える海辺の風景、A寝台とB寝台の違い、寝台車の車掌さんの制服が立派に見えたこと、など。東京でも、この10年ほどで、以前は木床の古い車両を使っていた世田谷線も最新型に変わってしまった。震災のあとで、いままでのぼんやりとした危機感がはっきりと形を持って胸に迫ってきた、今、各地の鉄道に乗らなくてはと。

 北海道の廃止された美幸線を復活させた美深町の「トロッコ王国」(なんと自分で運転できる!普通免許要)や、旧紀州鉱山鉄道の線路やトンネルを再生している三重県熊野市のトロッコ電車(ほとんどが坑内軌道をつなぐトンネルで今なお暗い)など、行きたいところはたくさんあるのだが、そういえば、と先日、近くのカフェに置いてあったフリーペーパーを思い出した。『雲のうえ』という北九州市の観光情報を発信している雑誌、これがとても魅力的な作りなのだ。素朴さを残したイラスト、寄稿しているのもいわゆるよくあちこちの媒体でみかける著名人というわけではなく、私の頂いてきた14号の特集「電車に乗って。」の巻頭エッセイは、蒸気機関車への憧れから線路・信号機の製作所へ勤め、蒸気機関車が廃止された後はJRの食堂列車へ乗り込み、長く調理師として働かれた方が執筆している。現在は九州鉄道記念館の副館長をなさっているとのことだが、その、鉄道のうつりかわりをいとおしむ、といった語り口が素晴らしい。そのほかの記事も、各駅停車に乗りながら、町の、お小遣いで食べられるようなちょっとしたおいしいものを紹介していたりして、そこに暮らしているかのような町歩きの視点に、あ、行ってみたい、と引き込まれる。と、ここにもトロッコ列車が。かつての、<穀物やセメントなどを、門司港から積み出し港であった田野浦埠頭まで運んだ臨港(貨物)線を利用している>という「門司港レトロ観光列車・潮風号」。しかし、この地域情報誌『雲のうえ』は、かなり話題になっていて人気らしく、なんとフリーペーパーなのに有志による応援サイト『雲のうえのしたで』まである。ちょっとびっくり。というわけで、もう北九州にはいつか行かなくては、と日々楽しい空想に浸っている。ひとりでヒートアップしすぎて、俳句について書くことがどこかへいってしまったわけで。すみません。

2011年7月22日金曜日

 ― てのひら ―

 

  掌の釘の孔もてみづからをイエスは支ふ 風の雁来紅(かまつか)
    
塚本邦雄 『星餐図』


 『短歌』誌七月号<技術・方法論「限定・飛躍・異化」>特集の吉川宏志氏「言葉の枠組みを揺さぶる」の中に挙げられていた歌。この震災後に、塚本邦雄の<日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも>(『日本人霊歌』 四季書房 1958)の歌をやりきれない思いとともに脳裏に浮かべた人も多いだろう。ある面、戦後日本の敗戦国としての閉塞感をあらわした歌といわれるが、他にも何か現代への予兆めいた歌をいくつも塚本邦雄は残しているようで、読み返さねば、と思いながら、まだ心の落ち着きが取り戻せていないようでためらう。 

 …十字架の像を詠んでいるのだが、私たちは普通、イエスの受難の場面としかそれを見ることができない。ところが塚本は、逆にイエスが自分の身体を釘によって支えているのだと歌う。まるで体操の選手が吊り輪で自分の身体を支えているように。ここに塚本のキリスト教に対する痛烈な皮肉が込められているのだが、そこまで考えなくても十分におもしろい歌である。
       (『短歌』2011七月号 吉川宏志氏「言葉の枠組みを揺さぶる」より 角川学芸出版)

 自分の身体をこの世に吊り支える、というこの記述に、先日web上で見かけた報道記事が頭の中に蘇って愕然とした。現実は、創作を超える。それを見通すものが、詩歌にある座標軸のひとつだと。


 流された2階で水に漬かりながら壁づたいに外へ出た。つかまる場所を探して、屋根の方を見ると、くぎが1本、柱のようなところから出ている。右手で屋根を抱えるようにして、左の手のひらを押しつけるようにしてくぎに刺し、抜けないようにした。

「そのまま手を下に曲げてさ、手にくぎがひっかかるようによ。つかまるところがないのだもの。流されると思ったからねえ。(攻略)」
     (「産経新聞」 2011/5/20の記事より)











  

2011年7月8日金曜日

 ― らふ ―

 


          らふ               青山茂根


  夏館にも乱れたるひとところ

  逝く人へ水中花ありつたけ咲かせ

  闇知りてより泉への道さがす

  水の皺あり夏の灯を哀しめり

  裸族増えゆくらふそくを揺らしつつ





  





  

2011年6月21日火曜日

6thコードの響き

最初にお知らせ。
ぼくが所属する俳誌「澤」の同人でもある詩人の村嶋正浩さんの第7詩集『晴れたらいいね』の栞文を書かせていただきました。版元のふらんす堂の山岡さんが詩集についてブログでくわしく紹介されていますので、ぜひご覧ください。

「澤」7月号で行う予定だった永田耕衣特集、諸般の事情で8月号に延期になりました。お忙しいなか執筆いただいた方々には大変申し訳ありません。妥協許さずということで必ずや充実した内容になりますので、ご容赦ください。

*

「レコード・コレクターズ」7月号、キャンディーズ特集というので買う。久々に手にした音楽誌、隅から隅まで一気読みしてしまった。その中に、作曲家の宇野誠一郎さんの訃報記事があった。享年84歳。

宇野誠一郎は、ぼくが日本人で一番好きな作曲家である。「ひょっこりひょうたん島」「ムーミン」「ふしぎなメルモ」「アンデルセン物語」「山ねずみロッキーチャック」「一休さん」など、子ども向けのテレビ番組やアニメの音楽を多数手掛けた人である。

いまのアニメの主題歌(にかぎらないが)はタイアップばかりだけど、昔はそのアニメのために作られたものだった。エンディングテーマが、主人公のダークサイドや哀愁を歌っていたりして、なかには、これ子どもに聴かせていいのか、というものも多かった。そういう時代のアニメ/テレビドラマ音楽家である。宇野誠一郎と渡辺岳夫が両横綱で、それぞれ作品集もCDで出ている。

渡辺岳夫は、「巨人の星」「天才バカボン」「キャンディ・キャンディ」「キューティー・ハニー」「魔女っ子メグちゃん」「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」「機動戦士ガンダム」等々、これまた挙げていったらきりがない(渡辺岳夫は1989年に56歳の若さで亡くなっている)。

もちろん、子どもの頃から大好きで聴き馴染んだ楽曲群であるが、その凄さをはっきりと理解したのは、高校のときである。友達が「アニソン全集」といった趣きの、メロディー譜にコードが付いている楽譜集を数冊持っていた。それを借りてギターで弾いてみたら、そのメロディーとコード進行の美しさに衝撃を受けたのだ。基本的に子ども向けの歌なので難しいコードや複雑なコード進行を使わない曲も多いのだけど、そういうときは6thコードを多様したりする。もちろん、簡単なコードで豊かなメロディーを紡ぎ出すというのは、類い希なる才能と技術がないとできることではないのは言うまでもない。でも、「ふしぎなメルモ」なんて、子どもが歌っているのに、あんな複雑なコード進行でいいのか。「山ねずみロッキーチャック」の主題歌「緑の陽だまり」と言い、宇野誠一郎は日本のバカラックであると僕は思っている。

曲だけではなくて、アレンジも素晴らしい。たとえば渡辺岳夫の「ハイジ」の主題歌「おしえて」は、ヨーデルを取り入れた牧歌風な曲だが、ベースラインは16ビートでめちゃめちゃファンキーだったりする(エンディングの「まっててごらん」もまた素晴らしい)。しかもヨーデルやホルンはスイスまで行って録音している。制作費が出なくてスタッフは自腹で行ったらしい。そこまでこだわっている。とにかくグレードが高い。

僕が宇野誠一郎の曲で一番好きなのが、「アンデルセン物語」のエンディングテーマ「キャンティのうた」である。「ムーミン」をはじめとする、井上ひさしと組んだ曲のなかでも、もっとも美しくて、かなしい曲だ。この曲も6thコードを多用している。

宇野誠一郎の曲をギターで弾いてみる前は、6thコードと言えば、ビートルズであった。「シー・ラヴズ・ユー」とか「ヘルプ」の、あのエンディングのコードである。ギターで弾きながら、なんか古くさい響きだなと思っていた。しかし、宇野誠一郎と出会って、6thコードの持つ、あかるくて、せつない響きを知った。こういう音楽を聴いて育ったことは、とても幸せであると思う。御冥福をお祈りします。



 煙草吸ふたび途切るる鼻歌月涼し
  榮 猿丸


2011年6月17日金曜日

 ― 難破した猫も ―

 海綿状の生物にでもなってしまったような日々が続いて、被災したわけでもないのに、沸き起こった無力感と罪悪感にぼーっとしていた。どこかから喝が飛んできそうだが、きっと、そんな人が多かったのだと思う。ふと、手にした古い一冊の写真集は、モノクロの写真と、その場所についての文章が交互に綴られていて、海綿を満たす水のように、様々な報道で疲れた脳裏にじわじわと浸み込んでいくものがあった。

 そのときに思い出したのは、窪田空穂先生がかつて大和に旅してここに立ち寄られ、立派な歌を残しておられたことである。(中略)

 浄見原宮の帝の勅もちて立てし御堂の三つ立てる見つ

 これを表装して床の間にかけ、前に座って眺めていると、私の頭の中には明らかに当麻寺の景がうかび出て来る。
                 (『日本の寺』 「当麻寺の記憶」水原秋桜子 より)

 隆起なくして庭すれすれの石はまだ他にもある。七、五、三の七の5の両側の2である。これも石の数に入れないとすれば、竜安寺の石は3:2:3:2:2となる。目を移して石組にリズムの感ぜられるのはこの数の関係から来るのであろう。

 それに、私は携えて行った縮図に物指をあてがって見た。五つの石群は二つの不等辺三角形をなしているが、五つの石群の距離を左からa・b・c・dとしてあらわすと、a/b=d/cという等値式がなり立つ。石組の配置の美しさはこの数の関係から来るのであろう。
                 (同上 「西芳寺 竜安寺」 山口誓子)

 『日本の寺』撮影・土門拳・藤本四八・入江泰吉・渡辺義雄・佐藤辰三:二川幸夫 美術出版社 昭和44年。目次から<法隆寺・薬師寺・東大寺・唐招提寺・当麻寺・室生寺・平等院・中尊寺・浄瑠璃時・神護寺 高山寺・建長寺 円覚寺・西芳寺 竜安寺・金閣寺 銀閣寺・大徳寺>の写真に、それぞれ先に揚げた水原秋桜子・山口誓子や、井上靖、野間宏、吉井勇、中野重治、佐多稲子などの文章が添えられている。カラーの写真も各寺に一枚ずつ添えられているのだが、なんといってもモノクロの物言わぬ力に圧倒されてしまう。日本人というか、日本に居住している人なら、8割方の寺に一度は、恋人との旅や修学旅行のほんの30分であろうとも、足を運んでいるレベルの有名な寺ばかり。だが、その写し撮られた風景は、ああ、ここ知ってる、という訳知り顔を次のページではっとさせるような、様々なある細部の切り取りが並ぶ。90%シルエットとして捕らえられた法隆寺五重塔の相輪、東大寺大仏殿前の銅灯籠に火の入った夕景、高山寺文覚墓跡の礎盤の溝が切り込まれた石のアップ、大徳寺孤蓬庵門前の石橋を股座から見上げたようなショットなど。カラーの美しさに打たれたのは参道の苔(西芳寺)という、その塀の白さと樹木の陰のコントラストの一枚だった。仏像と寺など建造物の写真は、思いもかけずこういうときの癒しになるのだと改めて感じ入る。自分でその地へ足を運ぶのがベストだが、現代ならそのまわりの無秩序さや猥雑さが目に入らない行程はありえない。過敏になっている神経に、旅先でのちょっとした不都合や人との関わりがいつもより痛手となって響くこともあって。ずしりとした、大きな版型の本だが、紙媒体で残す、ということを考えさせられた一冊だった。なんだかぼんやりしていて、という方にお勧め。最後に、猫好きなら見逃せない一文を。

 あらしのあとの由比ガ浜の砂の中から、そのころのシナから船が運んで来た宋の青磁の破片が今でもおびただしく輝き出ることや、横浜の金沢区に三艘(サンゾウ)と言う名の唐船が三艘来た場所の地名が残り、昔、宋の船が来たころに、渡って来た猫が「かねざわ猫」と名付けられて、現代のシャム猫のように珍重された話など、六世紀も七世紀も昔の古いことだから面白いのである。 
                  (同上 「山内雑感」 大佛次郎)




  まなうらの都市蟻塚は流されず      青山茂根



2011年6月3日金曜日

 ― はさみ ―



 白い衣装をまとっているこの女神たちは、クロノスのむすめでも、妖精でもなく、夜から生まれてきた姉妹だった。ときどき、彼女たちはやせた手をのばし、とがった指先で前にあるふしぎな道具をなでた。それはつむぎ車と、ものさし、そしてはさみだった。
      (『ギリシア神話物語』 リアン・ガーフィールド&エドワード・ブリッシェン 小野章訳 講談社 1975)

 ギリシャ神話に登場する、運命をつかさどる三人の女神。盲目で、やせぎすな、無表情のまま人々の命の糸を操る女神たち。そのうちのひとり、アトロポスは、運命の糸を断つ。そのはさみは、ずっと和鋏、握り鋏の形をしていると思っていた。一枚の鋼鉄をU字型に曲げて、両端についた刃を合わせて使う、あの鋏である。切るときに一度指を開くというアクションのいらない、冷酷無比に人間の運命を断ち切ることの出来る女神のはさみ。古代の鋏は、そもそも握り鋏の形であったそうで、今日常に用いられている洋鋏のほうが後に出来たということだから、ギリシャ神話の時代設定には、握り鋏の形が正しいのかもしれない。幼い頃、母が多少の縫い物をするときの、小さなフェルトや糸を切るときの握り鋏のあの歯切れのいい音、それが何か運命の糸を断ち切る音のように思えたのか。大きな布を裁つときに使うのは、ラシャ鋏と呼ばれていた洋鋏で、子供にはよく切れて危ないのと布以外のものを切ると切れ味が鈍るからと触らせてもらえなかったが、時折母の目を盗んで工作をきれいに仕上げたいときなどにこっそり使っていた。(今さらながらごめんなさい、である。)
  
 その母の針箱の中に、といっても木製の大きな裁縫箱はほとんどいつも押し入れに仕舞われたままで、普段手元で何やかや繕ったりに使われていたのは、小さな籠や、お菓子の空き缶などだったが、そんなクッキーやゴーフルの缶の模様や籠の手触りを今もよく覚えている。その中に、ごく小さな、市松人形の手には少しあまる位のサイズの和鋏、つまり握り鋏があった。他にも、全長10センチや15センチくらいの、黒イブシやみがきの和鋏もあったのだが、最も小さい、全長6センチにも満たないほどのその和鋏が私は好きで、よくいじらせてもらっていた。母が何かしているそばで、ちょっと糸を切らせてもらったりするくらいだが。子供の小さい手によくなじみ、また、極端に小さいものは何か収集癖を刺激するせいか。割と大きな、母の手には使いづらかったのか、あるときねだったらすんなりそれを私の針箱に移してくれた。以来ずっと、糸切りにはその鋏でないと何か落ち着かなくて、実際、片手に糸を通したままの針を持ちながらもう一方の手でさっと取り上げて糸を切るには、この和鋏、握り鋏の形状のほうが指を通して持ち上げるという手間がなくてスムーズなのだ。その、極小の、握り鋏があまりに使いやすいので、なくしたときのためにもうひとつ、と思って店などをのぞいたときに探してみるのだが、全長6センチ以下、刃の部分が2センチというものはなかなか見つからない。思い立って、その黒イブシの小さな鋏に刻印してある店の名、木屋へも出かけて聞いたことはあるのだが、今はもうその大きさは作っていないそうだ。その少し上の、全長7.5センチというものが現在は最小らしい。手になじんだ道具は、ほんの1センチの違いが随分使い勝手に影響するのだが。ふと、自分が今これを無くしたら、ずっとずっと探し回るのだろう、という気がした。



  ゆくへ、ゆくへ、ゆくへ、六月、雨、ゆくて     青山茂根



2011年5月27日金曜日

 ― 檜物町 ―



  袋掛済みたる木々へ泣きにゆく       青山茂根



 小村雪岱の随筆、『日本橋檜物町』のこれは初版だろうか、元は和綴じだったものを洋綴じに仕立て直した、原稿用紙様の縦罫に印刷された一面をそのまま折にして綴じてある、いわゆる袋綴じを切らない体裁のものを図書館で見つけた。頁をめくると、和綴じの丁寧な目打ちの跡がそのまま、奥付には、「昭和十七年十一月二十日發行」とあり、定価は三円八十銭。発行所は東京市本郷区切通坂町十二の、「髙見澤木版社」とある。

 扉の次には、多色刷り木版の女の絵が一枚。これだけの年月を経ていても、みずみずしく引き込まれる美しさで。随筆も、東京の、ところどころの、古い町並みや人々や風俗の描写が鮮やかで、しばしその時代の水の匂いにタイムスリップしてしまう。その中の『春の女』という一文、初出の掲載は、「東京日々新聞 昭和九年四月」ながら、ふと、現代にも変わらぬ情が描かれていてはっとする。

 ・・・御堂の縁に若い女が寝てゐるのです。こちらへ背を向けて襟足を長く出して前屈みに倒れた様に。薄色の着物に白地の帯が眼につきました。病気か、泣いてゐるのか、前へ廻つてそれとなく見ますと頬を縁へつける様にして指の先で縁板へ何か書いて居る様子でありましたが私を見ると顔はそのまゝにして眉を顰めて眼だけ笑ひました。
 逃げる様にしてまた本堂の方へ廻る、年は二十か一位、非常に色の白い切れの長い大きな眼に締つた小さな唇が眞紅に見えた。咄嗟に埃及古畫の女の顔に似てゐると思ひました。(中略)・・・何時帰つたか姿はありません。気は咎めましたが何が書いてあるか見度くなりましたので縁へ近寄ると古びた板に錯落たる爪の跡が見えます。文字の様でありますから更に近く寄つてよくよく見れば
   靑天白日覓亡子
   白日靑天覓亡子
   靑天白日覓亡子
        (『日本橋檜物町』 小村雪岱 髙見澤木版社 昭和17年)一部旧字体が出なかった部分あり。

   
  

2011年4月29日金曜日

 ― vol.2 ―

 風化しなくて残れば詩だと思いますけどね。例えば、HIP・HOPで言うと、POPに寄り添って沢山売れた人をセルアウトといって批判する傾向があります。それは僻み根性と見られがちなのですが、違うと思います。すごく売れてても叩かれない人もいるからです。
   (「佐藤雄一 ロングインタビュー6000字 あなたを詩人に」 から 詩人佐藤雄一氏の発言)

 『傘(karakasa)』vol.2は「特集 ライト・ヴァース」。なんといっても、この佐藤雄一氏のインタビューに啓発されるものが大きかった。詩(の必然性)を、思い出させてくれたものとして。<自分の言葉が不確定性にさらされつつも、あなたの記憶に残る手ごたえがえられたときは、それは、自分が消えた世界でも残るかもしれない物質性なのかもしれないですね。> 先人たちの積み上げてきた言葉、俳句たちが無数にフラッシュバックする。中表紙の白い壁の背景に抜ける青空のように。

 中山奈々氏のエッセイ「傷談義」も、いい位置に挿入されて効果的。はるか彼方から近づいてきた何かが、見事な着地を見せる文になっている。こうしたやわらかな把握から真実に近づく俳句の周辺も、楽しい。

 越智友亮氏の総論「俳句におけるライト・ヴァース」はなかなかの力作だが、私も上田信治氏の投げかけ<俳句から、季語のコノテーションと文語的言い回しを切り離して、浮力を得るつもりらしい「傘」の中の人に、感想を聞いてみたい。>に大きく頷いてしまう。俳句におけるライト・ヴァースの定義付けには、もう少し口語俳句を歴史的に広範囲にさかのぼった裏づけも必要かもしれない。<季語を言葉として捉えなおす(中略)それが現在のライト・ヴァース>、と述べられているが、むしろ言葉の不連続性、言葉が歴史的に背負ってきた記憶を一度消し去って現代に構築しなおす試みがライト・ヴァースなのでは、と私はおぼろげながら思う。俳句甲子園以後の俳句の様相にライト・ヴァースを見るというよりは、それを語る越智氏自身の句がもっともライト・ヴァース的光彩を放っている、とも。<ひまわりや腕にギブスがあって邪魔><挙手つまり猫背ではない秋の空><新緑のホースの巻きかたに迷う>(『セレクション俳人 新撰21』 越智友亮「18歳」100句より 邑書林 2009)。 言葉に負荷をかけない、意味内容が軽いというよりは無重力性の俳句、それを牽引していく先陣に立つ一人は、恐らく越智氏だろうと。一方、藤田哲史氏の句はライト・ヴァース的でないところに惹かれるのだが。

 ただ、白泉の戦争俳句は文語でもつくられていたのであり、本来はむしろ文語・口語という振り幅のなかで形成されていった白泉の戦争俳句群に通低する精神をこそ見るべきであろう。さらにいえば、戦争を詠むときに文語と口語を使いこなしていたという白泉の柔軟な表現力を見るべきであろう。

 外山一機氏「白泉のライト・ヴァース」から。<文語・口語の領域を行き来することのできる白泉のライト・ヴァース>、ちょうど更新されていた『千堀の投句教室575・別館 飛び込め!かわずくん』 の文語・口語俳句の定義と脳内リンクして、俳人たちの習性に思わずにやりとしながら、共感するところが多かった。現在の、震災俳句と呼ばれるものとも、少し絡めあわせつつ。『傘(karakasa)』という俳句誌自体も非常にライト・ヴァースな立ち位置だなあ、などと羨ましく。

2011年4月8日金曜日

 ― うろくづと海 ―



 歌人である高木佳子氏の個人誌『壜 #02』から。


  すきとほるうつはにみづは充ちてゐて泡のひとつのひかりしろがね    高木佳子


  いちまいの花びら咬みて小鳥あそびそのはなびらのあまたなる傷


 「こゑ」9首から。シンプルながら瀟洒な作りの個人誌。なかなか俳句では見かけない気がするのは私が知らないだけだろうか。表記の美しさと、調べのなめらかさに和む。地震の前に発刊準備が進められていたという、次は「poule au pot 鶏のポトフ」10首。ポトフの作り方を歌の調べに載せつつ展開していく世界。


  鶏はおお、雌鶏だった、藁のうへたまごを想つてゐるはずだつた


  にんじんは芦毛の馬が駆けるときひづめの音を聴くはずだつた


 予定調和ではあり得ない世界の悲しみが浮かび上がり、静かな言葉の裏にほんの少し覗くシュールな現実。311、を過ぎた今読むと、様々な思いが「鶏」や、「たまご」や、「にんじん」、「馬」といった言葉に付随してしまう。意図せずにして詠まれた歌であるのに、ページをめくるとき読んでいる我々の周りには被災地の現実はないのに。得られた情報によって言葉も、いかに痛手を負っているか。ただ読み手の頭の中でのみ起きていることかもしれないけれど。


 実際にいわき市在住で、被災されライフライン復旧後も、日々屋内退避圏に近い地で事故の推移を見つめている著者の言葉が、別紙にて添えられている。その、「見よ」7首のうちから一首。


  うろくづはまなこ見開きいつの日かわれらが立ちて歩むまでを 見よ


 巻末の一首。共感と愛惜と。その海を臨む丘の景色。自分が幼い頃に見ていた海はいま。


  海を見にゆかないのですか ゆふぐれを搬び了へたる貨車がさういふ      


2011年3月25日金曜日

― 食べる ―

 

  語らないこともれくいえむのひとつ。

   

 さて、加藤静夫氏の句集『中肉中背』より。

  水飲むに起出す闇や桂郎忌        加藤静夫

  炬燵より出てねこは猫ひとは人

  歌舞伎座が目の前にある暑さかな

  めしちやんと食つてぽんぽんだりあかな

  日の丸の突き出してゐる道の秋

  怪獣の背中が割れて汗の人

  電球にかるくしびれて冬はじまる

  雛の家とは天井の低き家

  歴史には残らぬ仕事着ぶくれて

  世直しの如く撒水車が行くよ

  食つてから泣け八月のさるすべり

                    以上、「中肉」篇より)

  石鹸玉消えたる電波込み合へる

  持たされし汗の携帯電話かな

  質問がなければ飯や雲の峰

  ごきぶりの畳の上の死なりけり

  差込を抜いて聖樹を黙らせよ

  五十音順にプールへ放り込む

  乗り換へて乗り換へて太宰忌のふたり

  始祖鳥のこゑを思へばしぐれけり

  万歳を三唱したる暑さかな

  春もやうやう机と机くつつけて
                    (「中背」篇より)
         (『中肉中背』 加藤静夫 角川書店 平成二十年)

 ユーモアの中に、言いようのない悲しみが。どこかに、戦後の匂いがして。「水飲むに起出す闇」に何を見るか。「めしちやんと食つて」の句に、今現在起きていることに通じる何かが。「食つてから泣け」の世界も。八月のあの記憶を呼び覚ましつつ、レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』と同じ悲しみ。「万歳を三唱したる」は言うまでもなく。現実を見つめる冷めた視線と、流れ落ちる汗。刹那と、彼岸と此岸。

 ・・・「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べてください。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、物を食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と彼は言った。
 (中略)彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。
     (『ささやかだけれど、役にたつこと』 レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳 中央公論社 1989)
  

    

  

2011年3月8日火曜日

モラトリアムにサザンを聴く

桑田佳祐復活を伝えるテレビのワイドショーや、ニューアルバム発売で各音楽誌が特集を組んでいるのを目にしたせいで、サザンを久しぶりに聴きたくなった。

しかし、レコードプレーヤーを持っていないので、アナログ盤が聴けない。サザンのCDは持っていない。しかたないのでユーチューブで聴く。

背筋に冷たいものが走る瞬間、というのがあるが、ぼくは一回だけ経験がある。はじめてテレビでサザンの「勝手にシンドバッド」を聴いたときだ。小学5年生のとき、番組は「3時のあなた」だった。曲を聴くそばから、自分の中で何かが変わっていくのがわかった。なんて言うと臭い表現だけど、本当だったのだから仕方ない。感動とか感激などではなくて、ひとつ上のステージに上がった感じ。「勝手にシンドバッド」前と後、ができた。こういう経験はこのときだけである。

ぼくが持っているサザンのアナログアルバムは、78年のデビュー・アルバム『熱い胸騒ぎ』から83年の『綺麗』までで、つまり、この『綺麗』を聴いて、ぼくはサザンから距離を置いてしまった。
『綺麗』は、じつは最初聴いたときは興奮した。それは、サックス奏者・矢口博康が参加していたからである。ちょうどそのあたりから、ぼくはムーンライダーズのファンになっていて、矢口はライダーズ・ファミリー(という呼び名が当時はあったのだ。ライダーズ人脈というくらいの意味)のひとりだったからだ。
ちなみに、彼はその後のサザンのアルバムにも呼ばれて、『KAMAKURA』では、共同アレンジャーにまでなった。しかも、彼のバンド「リアル・フィッシュ」もレコーディングに参加している。

『綺麗』から、ブリティッシュ・ロックやデジタルなサウンドや手法を取り入れていくようになった。当時の流行といえばそうなのだけど、やっぱり、しっくりこないのである。矢口博康のサックスはたしかにかっこいいのだけど、そのかっこよさが浮いて聞こえてしまう。流行の服を着てみたのだけど、着こなせていない、といった風なのである。無理しているように感じられてしまったのだ。

桑田は資質としてポール・マッカートニーに似ている。無理しなくていいのに、無理したがる。
その見方を決定づけたのが、映画「稲村ジェーン」を桑田が監督したことだった。本当にポールである、彼は。
しかし、その「無理」も、小林武史と出会うことで、ようやく落ち着く。有能なスタイリストを得たことで、桑田の作る歌も格段に洗練されていく。
ぼくは、ポップ・ミュージックのメロディというのは、洗練されればされるほど、鼻歌に近くなっていくと思っているのだけど、彼のバラードは、いや、ロックンロールも、鼻歌のように美しい。

それなのに、なぜ離れてしまったのかというと、それは詞である。『綺麗』から、詞が変わった。ストーリーがあったり、設定があったり、社会批判やメッセージ、ヒューマンが入っていたり。「作って」いるのである。それまでの、パーソナルでローカルな直接性が失われて、そのかわり、知的な媒介操作の跡が見えるようになった。それは、一般的にいえば、うまくなったということなのだろう。詩的表現ということでいえば、洗練されたといえるのだろう。じっさいそう思う。あたりまえだが、プロフェッショナルなのである。しかしぼくは、「おれの歌は大学生のマスターベーション」と言っていた頃の歌のほうが、ずっと信じることができた。「言葉じゃなくて」とか「言葉にできない」というフレーズがやたらに頻出するのも、いい。無理に「言葉」にしないのがいい。もどかしさがもどかしいままにのたうちまわっている。

CDがないので、ユーチューブで聴いていると、音源に付けてある映像がビキニのお姉さんやグラビア・アイドルのものがとても多い。まあそうだよな、と思いつつ眺めているうちに、ノーズ・アートを思い出した。
アメリカ空軍の戦闘機の機首に、ピンナップ・ガールが描かれているやつである。ぼくにとって、初期のサザンの曲は、このノーズ・アートのようなものなのかもしれないと、ふと思った。

ユーチューブで聴いた結果、ぼくのサザンベスト10を。
1 C調言葉に御用心
2 いとしのエリー
3 シャ・ラ・ラ
4 栞のテーマ
5 思い過ごしも恋のうち
6 勝手にシンドバッド
7 いなせなロコモーション
8 恋はお熱く
9 お願いDJ
10 真夏の果実 

ぼくのなかでは、サザンは、なんというか、3月の気分なのである。「いとしのエリー」が3月発売だったからだろうか。「別れ話は最後に」が大好きだったからだろうか。3月にはどこかモラトリアムな気分がある。映画「真夏の果実」は大波を待つ映画なのだけど、この、ぼーっと海を眺めながら「待つ」気分が、青春であり、モラトリアムであると、思う。そうか、モラトリアム気分が抜けていなかった頃のサザンが好きなのだな。「ふぞろいの林檎たち」でサザンを使ったのは、まったく正しい。で、ぼくはあいかわらずモラトリアムなのである。

 巣つくらず巣箱にあまた鳥来れど  榮 猿丸

2011年2月25日金曜日

 ― 鏡花の匂い ―

 

 
 『塵風』第3号より。

  柿むきし僧のその嘘子規向きか    井口吾郎      (回文俳句!)

  整然と脳より大き菊の花         井口 栞 

  修道院すんでのところまで十薬     笠井亞子

  石ころに小鳥の温みありにけり     小林苑を   

  厳冬の聖書獣のごと臭う         斉田 仁

  巨大なる国旗そのほか驟雨来る    長谷川裕


  寫樂づら下げて大川梅雨深し      閒村俊

  サルビアと国旗と暮れてゆく椅子と  村田 篠

  鯉のぼり厠の窓で目が合いし     桃 児  

 -カバット ・・・ドナルド・キーンがどこかで、泉鏡花の文章を分析していて、非常に難解な文章で、と説明したとき、ある人に、じゃあ、泉鏡花の文章がいやですか、と訊かれて、いや、嫌いじゃない、そのために日本語を勉強してきたんですよ、と答えたんです。だからといって、ドナルド・キーンが翻訳している泉鏡花の文章なんて、ひとつもない(爆笑)。

 「アダム・カバット インタビュー 日本語・英語・翻訳・文体―泉鏡花その魅力」の記事、アダム・カバット氏の発言より。俳句雑誌に突然の泉鏡花出現におおっ!となる。とにかく面白いインタビューだった。この「芸術新潮」小村雪岱特集号、図書館でチェックしたあと買おうと思って忘れてた、バックナンバーあるかなあ、などと多方面に。そういえば、以前泉鏡花にはまって多少読んでいた(全部ではない)。読んだ内容は大方忘却の彼方だが、蜂蜜漬けのまま数千年を経てきたエジプトの赤ん坊のミイラのように、ねっとりとその文体と言葉に浸るあの感覚。今までことあるごとになぜ自分が俳句やっているのか不思議だったのだが(だって詩も俳句もほとんど読んだ事なかった)、そうか、鏡花好きだったからか、とようやく合点がいった。アクロバティックな比喩や、マトリョーシカ状になった話の構造、結論が出たんだか出ないんだかはっきりしない終わり方など、確かにある種の俳句、的な要素が泉鏡花の小説にはある。自分が好きなタイプの俳句にもある同じ匂い。人が多く集まる席で、同じ匂いのする誰かをいつも探しているように。

 泉鏡花原作の映画といえば、なんと言っても(リンク先、ネタバレ注意『夜叉ヶ池』(監督 篠田正浩、1979年)を挙げたい。主演が坂東玉三郎、ちょうど男盛り(女形盛り?)の芸にも女形っぷりにも油ののっている時代に撮られた映画だ。原作を先に読んでしまうと、映画化された作品にはどうしてもけちをつけたくなってしまうが、この映画はまた少し違う。シーンによってはB級と言える場面もあるが、原作が突拍子もない部分なので仕方ないか。玉三郎の役も、歌舞伎の舞台と違ってやはりスクリーンだと完全な女とはいかないが、見終わっても映画の世界にがっつりと身も心も奪われていて、なかなか席を立てなかった覚えがある。もちろん、私がそのころ歌舞伎の玉さまに入れ込んでいたためもあるけれど。鷺娘の妖艶さともまた少し違う、むしろどこか中性的な雰囲気がかえって鏡花作品に合っている印象だった。訳あってDVD化が難しい作品になっているらしいので、名画座かフィルムセンターかどこかでかかっていれば。とか書いていたらまたむずむずと鏡花を読みたくてたまらなくなってきた。とろりとした、壷の中へ。










   (参考までに『Yashagaike(Demon Pond)』で検索すると一部映像が探せます。)

2011年2月18日金曜日

 ― 『新撰21』と『超新撰21』から <1> ―

 スロウペースながら、これから時折、一昨年末刊行された『新撰21』と、昨年末世に出た『超新撰21』から、それぞれ一作家づつをピックアップして、読んでみたい。特に何か共通項を探すとか、比較対照するわけではなくて、ただそのときの気分で。その日見上げた雲の行方のように、どこへ向かうかわからないけれど、何かその句たちの持つ空間を、少しでも誰かに伝えられれば。

 今回は偶然、どちらも天為という結社に所属する方たち。このお二方とは本でお名前を拝見したのが初めてだが、まだ俳句を始めて数年といった頃に、結社を超えて人が集まっていた句会で、よく天為の若手の方々とご一緒させていただいた。様々な句柄の方たちが、活発な合評を繰り広げていて、その頃の自分にとって得るものの多い濃密なひとときだった。近所の、時々勉強を教えてくれたお兄さんお姉さんに対するような、懐かしい気持ちが今もどこかに。昨年末の超新撰21の集いで、偶然その頃の方に久しぶりにお会いできたのも、不思議な縁と思える。

  土色の足跡ありし四温かな       五十嵐義知

  流域に寺町のあり更衣

  木製のはね椅子たたむ秋の声

  鉄塔を残すばかりの刈田かな

  六つ目の大陸に着く絵双六

  野の音のことごとく雪解かしけり

  物干しにとりのこしある残暑かな

  秋涼し東へ続く廊下かな

    (『セレクション俳人 プラス 新撰21』 邑書林 2009)  

 『水の色』五十嵐義知氏の100句から。風土性、客観描写の確かさ。「流域に寺町のあり」の着眼のように、そこに綿々と続いてきた人々の営みを感じさせて。しかし、古びた印象を感じさせないのは何故か。
例えば、「刈田」を読むにしても、「鉄塔」のほうへわずかに比重が置かれているからだろう。
「土色の足跡」にも、そのころのぬるみ始めた道をさりげなく描き出して、ゆるぎない季節感がある。
「六つ目の大陸」の華やかな句にも惹かれる。もっとこの作者のこうした句を読んでみたい。言葉の的確な省略のセンス、大胆な把握の句をさらに見せて欲しいと思うのは読者のわがままだろうか。
そして、「野の音」が「雪解け」を呼び出すように、「残暑」がとりのこされているかのような名状しがたい空気感を描き出す資質に、より自覚的でもよいのでは、という気もする。端整な詠みぶりの一方で、そんな句もぜひ、とリクエストしたくなる作家なのだ。 未だ訪れたことのない地の雪を、川の蛇行を、我々の前に映し出して。


  遠ざかるものみな青く五月尽      久野雅樹          

  春一番ゴッホの杉の巻き始む

  ぼろ市を見終えてセブンイレブンへ

  冷すもの牛にはあらでコンピュータ

  天の岩戸開けば暑きこともあらむ

  めぐるものあり大試験見守れり

  ここにまた生老病死冷蔵庫

  バカボンもカツオも浴衣着て眠る
    (『セレクション俳人 プラス 超新撰21』 邑書林 2010)

 『バベルの塔』久野雅樹氏の100句から。知性に着グルミを被せたような、綿密に計算された言葉で構成されている。依光陽子氏の小論のタイトルにあるハジメちゃんとはまさしく、恐るべき知性を包む柔らかなユーモアを表して。
「ぼろ市」「冷すもの」の句は、その諧謔性に目がいってしまいがちだが、ぼろ市に実際でかけてもマニアックな古道具屋が店を連ねている、といった風情で、真空管のパーツとかその筋に興味のある人でなくては触手の動かないものばかりだ(理系の知人は、ぼろ市でエアコンの送風部分のパーツなどを見つけてきて、温度センサーを備えた天井のファン装置をこしらえていた。天井付近の温度が上がってくると自動的にファンが動き出し、室内の温度を一定に保つという。凄い。よくぞあのガラクタの中から)。市につきものの飲食物の屋台も意外に少ないわりに、やたらと延々古道具屋が続くのを、ついコンビニに立ち寄ってしまうおかしさ。
「冷すもの」の句は、絶滅危惧種の季語である「牛冷す」という言葉を解体しつつ、現代の都市に暮らす真夏の風景を描き出す。
「ここにまた生老病死」の、シッダールタ王子の出家の原因となった逸話を「冷蔵庫」に取り合わせる構成の力。たくさんの死が詰まった白い扉。日々その前に立ち、その門を覗き込みながら、こちら側の人間もいつか老い、その扉の前に死にゆく。現代社会の都会における孤独死の傍らに、物言わぬ冷蔵庫が。
「バカボンもカツオも」、巷には現在の総理の顔を知らなくても、このキャラクターたちは指で示せる、という人も多いだろう。ギャグ漫画の急速な普及は、その影に戦後の高度経済成長があり、一億総中流と言われた昭和を象徴するものだ。この句に描きだされた昭和は、浴衣というものを用意してくれる祖母や母の姿をも想起させ、現在の、核家族からさらに孤へ分散した人間関係をあぶり出す。


 如何に前のものを引き受けて、どう次へ変化をさせてきたか、これが伝統というものの内部の力だと思うんです。前から伝えられたものをそのまま受け継ぐのではない。 (後略)
  
(「円錐」第48号 <検証・昭和俳句史Ⅱ―昭和の俳人1三橋鷹女 上> 山田耕司氏の発言から 2011年1月)



 



  

2011年2月4日金曜日

 ― 伝書鳩のゆくえ ―

 夕方の空が、潤んだ明るさを含んだまま暮れてゆく日は、もう本当の春が近いように。暦の上で立春を迎えても、まだ雪や政治の闇に閉ざされているところも。そんな、遠い地に思いを馳せる、というより幽体離脱のように気持ちだけがあちこちへ飛ぶことの多い一週間が過ぎた。そんな人が、きっと多かったはず。

 衛星放送局Al Jazeeraがエジプト情勢を世界中へ配信したリアルタイムの映像、それを見た人々の反響を、Twitterで知る(そのときテレビは何をしていたか?何も映しちゃいない)。イタリアのチームへ電撃移籍を果たしたサッカー選手の速報(自分の好きなチームの選手だったのもある)、そしてその選手へ宛てたイタリアの一市民の手紙は、Facebookで話題になり、翻訳されたものが日を置かずTwitter経由で届けられた(翻訳した日本人の肉声で読み上げられたものだった)。JR北陸本線で、複数の特急列車が大雪で立ち往生し、多くの乗客が2日間を列車の中で過ごす、そこに閉じ込められて2日目の夜を迎えていた歌人の方がひとり。その書き込みを読んだ或る歌人の方の呼びかけで、Twitter上に励ましの歌が同じハッシュタグを使って寄せられる(これはすでにまとめられ、後からでも読めるようになっている)。全てがTwitter上を絵巻物のように展開し、リアルタイムに反応が起こり、様々な思いが駆け巡っていった。近くに行って何かをすることはできないけれど、綴られた言葉に現状を思い浮かべ、言葉に想いをのせて書き綴る、その力強さ。自分はただ無力に、PCの前に座っている一人ながら。

  この腕を離せば誰かを噛むゆゑに
       もがくひとりの自由を奪ふ  小早川忠義     

  見えぬ眼を見開く時に青年は
       伝へられざる怒りあらはす     

  歩めざる足もたくまし意に添はぬ
       靴を飛ばして弧を描かせつ     

  足元の鳩一斉に飛び立てば
       つひにつかめぬ こころと知れり   〃

    (『シンデレラボーイなんかじやない』 
            小早川忠義   邑書林 平成22年)


 頂いた歌集から。短歌のことをあまり知らなくて、ただ惹かれた歌を挙げさせて頂いた。この一連の歌が、どのような状況で詠まれたものかの説明はないのだが、なんとなく、そのとき詠み手の従事していた仕事場が思い浮かぶ。そこに暮らす人々の、声にならない訴えのような感情も、動作に籠められた思いも。これも言葉の力か。あとがきには、この歌集が、出版元の人間と、<「ツイッター」にて相互フォローの関係にならなければ実現しなかった>と書かれていて、うーん、現代に暮らす人々の交流ってつくづく不思議なものだ、と。現実に会ったことはなくても、ときに寄り添うような言葉を媒介にした繋がり。手元から飛び立つ鳩さながら。

2011年1月24日月曜日

俳句総合誌LOVE PART2

先週水曜は黒瀬珂瀾さんの壮行会@神楽坂へ。あたたかくて、たのしくて、素晴らしい会であった。彼の人徳をまのあたりにした気分(ヘンな日本語だ)。歌人に限らず、大勢の方々がいらっしゃっていたが、俳人はなぜか私だけだったような。平日だったからだろう。

そういえば、幹事のお一人、田中槐さんの第一歌集の帯文が、なんと柄谷行人氏と聞きおどろく。すごい。うらやましい。

柄谷行人と言えば、「ヒューモアとしての唯物論」という小論のなかで、子規の生み出した写生文、「客観的」描写の根底にある精神的態度にヒューモアを見出している。これは俳句の「写生」というものを考えるうえでとても重要だと思う。いま手元にない(どこかに埋もれている)のでこれ以上書けないのだけど。

金曜日は角川短歌・俳句新年会へ。角川俳句賞の受賞者が2人だったからか、例年より人が多かったように感じた。会場の東京會舘はロースト・ビーフが美味しいので、乾杯が終わったらすぐにサーブしてもらえるよう、ロースト・ビーフのコーナー近くに陣取る。乾杯が終わった瞬間、すぐに行列。ほぼ一番乗りでいただく。美味い。

会場で角谷昌子さんから『俳壇』2月号の月評で拙句をお取り上げいただいたと伺い、また、この号は俳壇賞の発表があったらしく、しなだしんさんが惜しくも受賞を逃されたとのことで(やけ酒?に付き合えずすみませんでした)、さっそく買おうと思ったものの、近所の、割と大きな本屋を何軒も廻ったのだけどどこにも置いていない。アマゾンも品切れ。都内でなんとか手に入れた。

俳壇賞、しなださん惜しかった。これは悔しい。予選通過者にも知っている名前がたくさんあり、これはうれしい。しかし、しかしだね、選考委員に富士真奈美って……。ここ、ツッコんでいいところですよね。いや、すごい俳人なのかな。「ぴったんこカンカン」のイメージしかないが。何年か後には、吉行和子も選考に加わるのだろうか。ああ、俳壇編集部の方にツッコミたい。俳壇編集部の方、こんど飲みましょう。

何度も言いますが、私、俳句総合誌ラブですから。「俳壇」の「青春の肖像」というグラビアコーナーもすごいぞ。これ、笑ってはいけないんだよね。そして俳句総合誌恒例、毎度おなじみ〈謎のカット絵〉だが、「俳壇」のは意外にかわいい。とくに42ページの雑な鳥、78ページの妙に太丸い鯰。44ページの河豚らしき魚、64ページの、片手にパラソルを持って、片足を尻より高く上げ躍動しているウサギなどは秀逸である。ただひとつ言いたいのは、70ページのカット絵は、鶏もも肉なのか、イチゴなのか。「俳壇」のカット絵、おすすめです。

角谷昌子さんに取り上げていただいた句。「俳句あるふぁ」12・1月号より

 身に冷ゆるものあり金属探知機鳴る  榮 猿丸

俳句総合誌LOVE パート1へ

2011年1月13日木曜日

 ― ハチャメチャの裏側 ―

 松の飾りも取れぬうちから、今年は久しぶりに歌舞伎を見に出かけた。国立劇場で上演中の「四天王御江戸鏑(してんのうおえどのかぶらや)」、初演以来200年ぶりの復活であるうえに、ぎりぎりまで台本や演出に菊五郎一座の手が加えられていたとかで、詳しい筋立ても評論家始め外部の人間には幕が開くまで知らされていなかったらしい。正月の興行は、華やかな仕立てで、時にその時代の流行ものや風物などを持ち込んだ演出がなされ、笑いを仕掛ける要素も多い。以前私が見たものでは、当時話題になっていた「エリマキトカゲ」のユーモラスな着ぐるみまで芝居に登場したことがあった。役者同士が、お互いの私生活の話などを台詞にアドリブで盛り込んで、事情を知っている客席の笑いを取ることもある。

 今回の芝居は、宙乗り(それも役者を違えて2回!)、せり上げ・下げ、すっぽん(花道の途中に開いた切穴)からの登場・退場、回り舞台、花道での立ち回り、大蜘蛛の仕掛け、切腹に濡れ場、大立ち回り、押し出し、正月恒例の手拭い撒きと、まさしく歌舞伎の要素てんこ盛り。外国人の客も多く(彼らは誰も居眠りしていなかった、そこが日本の慣れた客と違う)、海外からの旅行者などには見所の多い、めくるめく展開の芝居だったろう。さらに、今時の歌と踊りを梨園の御曹司である幼い役者たちが丈の短い今風の着物で披露し、バラエティ番組に良く出ている人物に扮した役者が舞台に闖入してはちゃめちゃに幕が引かれるという場面も。芝居の出来うんぬんを言う批評もあったようだが、これぞ初芝居、というものだった。少々大騒ぎのし過ぎ、ともいえる舞台の華やぎを眺めながら、正月興行というものは、年末年始の働きを終えて、ほっと一息ついた女たちが出かけるものでもあったのだろうとはっとする。日常を離れてつかの間、心ゆくまで笑いあう女たち、ここ数年、多少は正月の支度などをするようになった自分にとっても、それはしみじみと感じられるものだった。といっても、昔の女たちの台所その他の大変さにはとても及ばない、ひよっこのような支度しかしていないのだが。

  芝居見に妻出してやる女正月     志摩芳次郎  
         (『合本 俳句歳時記 新版』 昭和49年 角川書店)


  初夢のなかをどんなに走つたやら   飯島晴子
                   (『儚々』 平成8年)

 正月といえば、真っ先に思い出す句のひとつ。「初夢」の季語は、「雪女」や「狐火」などのように空想上あるいは現実にあるものでないため、どんな言葉をおいても割と収まってしまう。先に挙げた歳時記にも、<初夢にみしエジプトの涙壷  黒川路子>という句が載っているほど、大概のものは詠み尽されているようだ。飯島晴子の句のように、どこかに夢を見ている作者と現実世界との繋がりを感じさせるものに私は惹かれる。そこに現実生活で感じている息苦しさ、切なさが、痛いほどに胸にせまる。走り終えたあとの、滑稽なほど乱れた髪や荒い息遣いは、「おもしろうてやがて悲しき」という心に通じているように。正月の句はめでたさがどこかになくては、ともいわれるのだが、二日からの駅伝中継が正月の欠かせない風物であることも、この句には少し入っているのかもしれない。芥川龍之介の句、<元日や手を洗ひをる夕ごころ>に見られるめでたさの中のほんの僅かな空虚さ、日常のつましさ、そんな現代の心情を多少推し進めた句だろう。


  初夢の大道具類押し去り闇       中山 泡


 この正月の間に、Twitterで流れてきた句。NHKラジオ第一の俳句番組に投稿された句であったようだ(webサイトで確認すると表記が違う。印象に残った句だったので作者を探して確認したら、やはりtwitter上で見たとおりに本人から訂正依頼があった。ちなみに「中山泡」は、生駒大祐氏の投稿名)。句意をそのままに読めば、夢の中に出てきた場面転換の一シーンを詠んだものか。しかし、中七下五の句跨り、押し去るという動詞を流して、闇、と受けた名詞で言い切ることで、何か大きな物体の移動するさま、その力の働く方向を生き生きと描き出す。回り舞台が動き出し、その暗闇の中で力を込める裏方の人々。大道具、という言葉に、一抹の寂しさがあることも忘れてはならない。舞台上での眼に見えないヒエラルキー、それぞれがお互いの仕事に敬意を持ち、それぞれ誇りをもって舞台を勤めるのだが、スタッフ表の名前の記載などには厳然とある順列。仕事で撮影現場などを経験してきた私としては、江戸期なら当然過ぎて誰も感じなかったであろう空気感を思う。また、作者が意図したかどうかはわからないが、この句から私は、夢を見ている浅い眠りから深い眠りに移るときの、一瞬の脳裏、ふっと暗転する意識を連想する。一晩でひとつの夢だけを見ていることは少なく、人は大概浅い眠りと深い眠りを交互に繰り返していると云う、その浅い眠りのときに夢を見るのだと。見ていた夢を手放す瞬間、それを表現している句だとしたら、やはり現代でしか詠めない俳句というべきだろう。