2012年9月22日土曜日

 ― 心中って? 現代俳句あんそろじい ―      青山茂根

 変わらないって何だろう?俳句も文楽も、その発祥は江戸時代の町人文化から。しかし、文楽の近松作品など、世話物の心中話について、現代ではあまりにもボロボロに言われている気がする。そういえば、最近の心中は、親子や家族であることのほうが、実際の事件として多いのだろうか。「感情移入できない」、「主人公は三阿呆の一人」などと言われる『冥途の飛脚』、こんな風にも。

 恋の虜となった青年が、思慮の浅さから短絡的な行為を引き起こし、それが周囲の人々を、一気に悲劇に引きずりこむ。すべて忠兵衛に発し、彼は誰をも幸福にできません。愚かさゆえに理不尽な人生を展開させる結末から、人間のある本質を捉えることもできそうです。
       (『文楽にアクセス』 松平盟子著 淡交社 h15)

 お金もなくて、意気地もなくて、ついついいらない見栄を張り、愛する彼女と理不尽に死んでいく、そんな情けない男が主人公で、・・・。
      (『文楽に連れてって!』 田中マリコ著 青弓社 2001)

 梅川と忠兵衛が死への旅路を急ぐ様をみても(冥途の飛脚)、心のどこかに冷静な自分がいて「なにも死ななくても、ほかに道はあったろうに・・・」と思ってしまう。
      (『熱烈文楽』 中本千晶著 三一書房 2008)

 で、先日劇場にて。物語が進行し、たしかに道行になるまでは、心の中で「あ、そこでそれやっちゃまずいでしょ」「わかってるなら、なぜそれを」などと突っ込みつつ自分も見ていた。しかし、道行になると、一転して「あ、仕方ないかもしれない」と思わされてしまう、不思議に。それは、太夫と三味線が道行から増えることによる、音響的な効果によるのかもしれない。この道行を美しくするために、前半までの情けないお話がある、という構造でもあるんだろう。そして、道行を見ることによって、それまでの物語が生き生きと現実味のあるものとして蘇ってくる。とにかく、「出会ってしまった」二人、なのだ。「絶対この人でなくては駄目」「誰にも渡したくない」という唯一無二の心情が、耳から入ってくる語りの情報と、太棹の音色と、眼前に進行する人形たちの姿によって、見ている自分の中で像をむすぶ。忘れていた何かを思い出したように。

 というわけで、心中物から現代に通じる精神を探る、現代の俳句シリーズ。

  ゆめにみる女はひとり星祭       石川桂郎

  恋びとは土竜のやうにぬれてゐる  富澤赤黄男 

  恋ともちがふ紅葉の岸をともにして   飯島晴子

  くじらじやくなま温かき愛の際     攝津幸彦

  黒髪の簪ふかし愛されて       長岡裕一郎

  きみ帰すゆうべうすらに星組まれ  長岡裕一郎

  後朝や掃きて空蝉崩れざり       小林貴子

  手袋も靴下も相手をさがす       小林貴子
 
  ひらがなのやうに男がやってくる    大西泰世

  娘あらば遊び女にせむ梨の花     高山れおな

  お湯入れて5分の麿と死なないか?   高山れおな

  接吻のまま導かれ蝌蚪の国       田島健一

  愛かなしつめたき目玉舐めたれば    榮猿丸

  ストローを愛したように私を愛す     小野裕三

  常闇やまづもつれあふ髪と髪      山田耕司

  ダブルベッドてふアメリカや昭和の日  柴田千晶

  秋風や汝の臍に何植ゑん        藤田哲史

  濃姫の脚のあいだの春の川       中村安伸

  



 

 

 

2012年9月15日土曜日

番外編― 文楽に出てくるオノマトペ集 ―  青山茂根



 

  月光ほろほろ風鈴に戯れ      荻原井泉水
  
  どつぷりぞうと浪あがる島の路かな    〃
  
  わつさり竹動く一つの着想          〃               

 
 井泉水のオノマトペは風変わりなものがある。
 15年ぶりに、文楽を再び見てみると、また新たな魅力に気づく。先日ツイッターにあげたものながら、まとめて再掲。

 俳句に使われる、よくあるオノマトペって物足りなく感じませんか?人と同じ表現をしてもつまらないのでは?それが思いがけず、文楽の中に出てくる江戸時代の町人言葉は、面白いオノマトペの宝庫であることに気づいた。そういえば、俳句の姉弟子の方は江戸悪所文学専攻であったし、いつも指導してもらっている連句のお捌きの方は西鶴の研究者だったりするので、ここに私があげたようなことは自明のことかもしれない。しかしそのあたり不案内な私には耳で受け止めて非常に新鮮だった。誰かが共感してくれるかも、と書き出してみる。今月の文楽東京公演第一部にて、浄瑠璃節から聞き取ったものを、あとからプログラムについていた床本で確認した。(後日、第二部をまた観にいくので、続きがあるかもしれない。)

ぞんぶり擬音語。…「そのつめたさもいとはず向かふの岸へぞんぶり」「ぞんぶり」「ぞんぶり」「ぞんぶり」…(9月文楽東京公演第一部「粂仙人吉野花王(くめのせんにんよしのざくら)吉野山の段」床本より)

ぴんしやん擬態語。…「ぴんしやんしても大鳥が、摑んだからにはもう放さぬ。連れて往んで女房にする。」…(「夏祭浪花鑑 住吉鳥居前の段」)「口説仕掛けて拗ね合うて、ほむらの煙管打ち叩き、煙比べのぴんしやんは、火皿も湯になるばかりなり」…(「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)釣船三婦内の段」より)

古語辞典、広辞苑に記載あり。「ぴんしゃん…(副)「ひんしゃん」とも。きびきびした活発な言動をするさま。とりすましたり、つんつんするさま。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994)  「ツンデレ」?

きなきな擬態語。…「お案じなされますな。この九郎兵衛がをりますわいの。きなきな思はずと早うごんせ。」・・・(「夏祭浪花鑑 内本町道具屋の段」)

古語辞典、広辞苑に記載あり。「きなきな…(副)近世語。くよくよと思い悩むさま。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994)

ぼつとり擬態語。…「花を飾るはこの家の娘、嫁入り盛りのぼつとり者、名もお中(なか)とての新入りの、手代清七と深い仲」…(「夏祭浪花鑑 内本町道具屋の段」)

「ぼっとり者」で古語辞典、「ぼっとり」で広辞苑に記載あり。「ぼっとり者…(名)近世語。ふくよかで愛嬌のある女。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994) 「ぼっとり…女のふっくらとして愛敬のあるさま。また、ういういしく愛敬のあるさま。」(「広辞苑第三版」岩波s61)

のめのめ擬態語。…「私とても同じこと。金は騙られ、団七に預けられ、のめのめとしてゐられず、」・・・(「夏祭浪花鑑 内本町道具屋の段」)

古語辞典、広辞苑に記載あり。「のめのめ(と)…(副)それをするのにさからうこともなく。恥知らずに。平気で。おめおめ。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994)

どんぶり擬音語。…「昔に変はらぬ達者な和郎、八と権とを蓮池へなんの苦もなうどんぶり云はせ」…(「夏祭浪花鑑 釣船三婦内の段」)

わつぱさつぱ擬音語。…「なんのお礼に及ぶ事。今も今とていけずめがわつぱさつぱ、連れ合ひはその出入りに往かれました。」…(「夏祭浪花鑑 釣船三婦内の段」)

「わっぱ」で古語辞典、広辞苑とも記載あり。「わっぱ(と)…(副)大声でわめきたてるさま。わあわあ。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994)

そぶそぶ擬音語?…「さればいな。どうやらそぶそぶ云ふによつて、お辰さんに預け磯さんは備中へ遣る。」…(「夏祭浪花鑑 釣船三婦内の段」)

 声に出して読んでみると面白いのでぜひ。言葉の流れ、リズム感も味わってみて欲しい。




2012年9月14日金曜日

 ― 『乗船券』を手にして ―


 スイスの画家、エルンスト・クライドルフ(Ernst Kreidolf 1863年2月9日-1956年8月12日)の展覧会は、現在、以下のスケジュールで巡回中。

  郡山市立美術館(福島) 2012/8/4(土)-9/17(月)

  富山県立近代美術館(富山) 2012/11/10(土)-12/27(木)

  そごう美術館(横浜) 2013/1/30(水)-2/24(日)

 スイスでは国民的な画家で、教科書の挿絵も担当していたりするが、英語圏の国でそれほど知られているわけではないようだ。日本では、いくつか翻訳された美しい絵本が刊行されているので、メルヘンチックな画家として認識されているらしい。子ども向けのようで、実は精神の多面性をどこかに潜ませた緻密な描写による作品は、しばらく眺めているとふと笑顔が消えている自分に気づく。子どもによっては、静かに本を閉じて黙り込んでしまう。アルプスの花々や昆虫を妖精になぞらえて描いた絵には、その厳しい冬、変化しやすい山の天候に暮らすものの日常がどこかに含まれているからだろうか。


 金子敦氏の句集『乗船券』からは、クライドルフの絵にある繊細な筆致を思い起こす。読んでいると、すうっと、肩の力が抜けて、リラックスしてくる句群。美しさとないまぜの諧謔。これを、食べ物や菓子の句が多いことだけで評してしまうのは惜しいと思う。もちろん、音韻の効果的な<星涼しつるんと滑る餡子玉>、黄の断崖のクローズアップ<カステラの黄の弾力に春立ちぬ>、これらの句の完成度が高いことは言うまでもないのだが。以下、句集『乗船券』(ふらんす堂 2012)より。

  年賀客ともに渚へ走りけり     金子敦 

  高跳びのバーのかたんと鳥雲に   

  消えかけし虹へペンギン歩み寄る

  少しづつ粘土が象になる日永
 「少しづつ」の句、句跨りの効果。日永ののどけさと、粘土を伸ばしてひねっている雰囲気を表す技巧。しかし、何が生み出されるかわからないときの不穏さもどこかに孕んでいる。春の駘蕩たる雰囲気でありながら、ふと日陰に入ったときに立ちくらみを起こすような感覚。

  空深きよりぶらんこの戻りくる
 
  高く漕いだブランコが永遠に戻らないような、あの焦燥感。755のリズムもふっと息がとまる効果。

  かさぶたのきれいに剥がれ雲の峰

 かさぶたのあとのつるんとした肌は、終わり行く夏への暗示のようで。裸足や外遊びで傷を作りやすい夏の季感。

  鶏頭へ砥石の水の流れゆく

 柔らかな花の質感と石の硬質さを、水の流れがつなぐ。たゆたうような懐かしさ。しかし、「鶏頭」も「砥石」も、ひとつ踏み外せば怖ろしい奈落へ向かう危うさを含んだ語であることを。

  ハンプティダンプティめく毛糸玉
 
 弾んで転げ落ちて。定型でありつつ、心象を何も語らず、しかし表現の自由度。マザーグースの寓話は怖さを秘めたものが多いが、落ちて割れてしまうハンプティダンプティは、ここでは割れずに小さくなってどこまでも転がる。

  眼鏡置くごとくに山の眠りけり

 人が眠りに落ちる前の習慣化したしぐさを、擬人化を重ねつつも、それが山の形象の描写になっていることに驚く。双子の山なみ。

  梅林に金平糖が降つてゐる

  スポイトにしがみつきたる子猫かな

  ゆつくりとガーゼ剥がしぬ鳥雲に

  しやぼん玉弾けて僕がゐなくなる

 明るい真昼の、ふとした恐怖感。

  パレットに小さきみづうみ新樹光

  今ここに菓子あつた筈夏座敷

 この上五中七に、「夏休み」などとつけたらべた付けの、誰でも考えつく発想になる。季語の本意をつかんでいないと、「夏座敷」をつけられない。夏座敷とは、簾越しに縁側や整えられた庭が透かし見える、団扇や夏座布団など涼しげな装いに整えしつらえられた座敷のこと。来客に、とっておきの菓子が出されていた筈の。いいなあ、あのお菓子、と覗き見て、「子供は向こうへ行ってなさい!」と叱られたりして引っ込んで。で、お客さまが玄関に立たれ引き戸がしまる音したからそれっ、て座敷に飛び込んだときの落胆。ばたばたっという足音も聞こえてくる。ぷぷっとするおかしみと郷愁の句。

  約束のベンチに銀杏降るばかり

 ごく身の回りにある風物を描いても、ここではないどこかのように、日本的な情趣に収束されないのもこの作者の句の特徴。作家性を思う。







2012年9月7日金曜日

 ― おひるねと貨物船 ―




  『OLD STATION 15 余白句会100回記念特集号』を頂く(ありがとうございます)。現メンバーの代表句「余白の十七句」から。

  マラカスの父カスタネットの母朧    柴田千晶

  校庭を剥がせば朧なる地球       辻  憲

  夏座敷ちからある乳横座り       八木忠栄

 89年に始まった余白句会の、第4回から99回までの句会記録が掲載されている。すでに鬼籍に入られた方も多く、その残された句が今この時間に一読者をくすりと笑わせているなどとは思わなかっただろう。俳句を始めたばかりの頃に手に取った『おひるね歳時記』(筑摩書房 1993)の著者、多田道太郎の句(「袂より椿とりだす闇屋かな」)(「というわけでひとりしずかに風の吹く」)を見つけて、何かほのぼのとしたり。連句でご一緒させて頂いたことのある方の句も載っていた。中でも、辻征夫の句に、心ひかれるものがあった。詩性とか、自分語りの有無とか、よく言われるそういった評価にはまったく無頓着であるかのように、無心に身の回りを見わたした、といった句ながら、詩人ならではの視点と言葉の選択の確かさ。また、おそらく無意識であろうが、既存の俳句にほぼ類想句が見つからない独特の語り口。見えている世界への茫漠とした疑念を句にあらわして、巧拙を超えた魅力がある。亡くなられた後に、俳号をタイトルに『貨物船句集』(書肆山田 2001)が刊行されている。当日の兼題らしき同一の題の句が並ぶ中での比較も面白い、余白句会での句から引いてみる。

  つゆのひのえんぴつの芯やわらかき   辻征夫

  梅一輪妻の故郷の土砂崩れ

  姫胡桃義眼の母の浮浪癖

  咳こんで胸をたたけば冬の音

  物売りが水飲んでおる暑さかな

  冬の雨饅頭熱き離別かな

  吾が妻という橋渡る五月かな

  猫じゃらし化け猫も野を横切りし

  落葉降る天に木立はなけれども

  雛壇や他家の官女の美しき

  衣でて衣にはいるまるはだか

 現メンバーによるエッセイ<わたしの好物>では、今井聖氏の「カツ丼」が面白かった。誰かに話したくて、ここに記したくてうずうずする。そんな刺青もあるのか。ほとんど現代アートだ。