2009年9月11日金曜日

 ― 眼鏡 ―

   どれほどの船を見て来し小鳥かな      青山茂根


 道草といえば、引越しの済んだ空家や、解体を待つ古い家屋に潜り込んで、何か拾ったり基地ごっこをして遊んでくるのが常だった。しんと静まった、古びた建物の周りで、散らばったビーズや風呂場のタイルの欠片を見つけては集めていた。打ち捨てられた物から、そこに住んでいた、見知らぬ人々の暮らしを、いろいろに想像して世界を作り上げるのが好きだったのかもしれない。最近は犯罪などの現場になることを恐れてか、厳重に囲われているので中をうかがうことも難しいが、私の幼い頃はわりとその辺りがおおらかで、子供が多少遊んでいても行きかう大人は皆大目に見てくれていたようだ。慌てて引越しの荷物からこぼれてしまったガラクタに、そこに住んでいたであろう子供の年恰好を思い、勾玉のような形をした水色や白や泡に似た模様のついたタイルの一片は、空想の海底世界を作り上げる宝物になった。実際、あの頃のような、平面が美しく揃ったタイル張りの浴室の壁は、もう残っている家が少ないだろう。誰も住まなくなった家の、そこはかとない寂しさ、残された記憶の欠片に、言いようのないノスタルジーを感じていたのかもしれない。

 今でも、解体中の家の前などを通るとき、胸が痛む思いがする。全く見知らぬ、誰かが住んでいた家なのに、建物とともにそこに人々が過ごした時間まで壊されていく気がして、つい足を速めてしまう。待って、と手を伸ばしたくなるのを、胸の奥に押しとどめて、立ち去る。すでに室内のものはあらかた運び去られた後だろうに、まだ何か潰してはいけないものがそこにある気がするのだ。

 『地球家族』という写真集は、確か最初は洋書で『Material World: A Global Family Portrait 』で出ていたはずだ。世界中の様々な国で、一軒の家と、そこに住む人々、そして家の中にあるもの全てを家の外に出して一枚の写真に収めてある。最初に出版されてもうだいぶ経つので、日本人の暮らしぶりは今とは違うところもあるが、なんといっても、小さな家の中によくもこれだけ!と感嘆するほどこまごまと物が詰まっているのは日本の家がダントツなのだ。近頃は老夫婦亡き後の家財の処分が、遺族には大変な作業になるというので、そういった専門の業者も増えているようだ。何の随筆だったか、幸田文は「身じんまいをしっかり」と書いていたが、年老いてきたら身辺の整理をしておくという慣習は、薄れつつあるのだろう。身辺を見回しても、両親や叔父叔母の家も物で溢れている。いや、自分だって、こんなにも必要のない物に囲まれて暮らしていることに気づく。

 

 名も知らぬ誰かの古い写真の数々、目で追っていると懐かしさが溢れるのは何故だろう。ちょっと重信に似てる、と感じるのはその時代の眼鏡のフレームの形がそうだったからか。そういえば、父のうんと若い頃のアルペンスキーを履いた写真もこんな眼鏡だったような。ごく普通の、市井に生きた人々の、誠実な暮らしが画像の中からこぼれ出てくるようで、プロではないカメラの撮り方が、むしろ魅力的にうつる。大森で、「山王書房」という小さな古本屋をされていた方のごくプライベートな写真を使用しているそうだ(随筆集『昔日の客』と『銀杏子句集』の著作のある故・関口良雄氏だという)。そして、ほとんどをその妻が撮影し、ところどころに写っている息子が大事に保管していた写真たちであることに、何か、古きよき時代の夫婦の、家族のあり方が見えるようで、今の我々には寂しいばかりだ。


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