2009年11月25日水曜日

十一月

ひさしぶりにベースの練習をしていたら、左手の指先に胼胝が復活してきた。
炬燵に入ったままでベースをかかえて適当にぐりぐりやっていると、昔はもっと楽器と自分が一体化していたような気がしてきた。
「週刊少年ジャンプ」に連載されている『NARUTO』を読んでいる人なら、「暁」の干柿鬼鮫が鮫肌という妖刀と一体化して半魚人みたいになったのを見たはずだ。そこまではいかないが、楽器を弾くことに集中すると、それ以外のことをしたくなくなる。仲間とともに演奏すると、その感覚がさらに延長される。聴衆が加わるとさらに増幅する。だからライブの聴衆は多ければ多いほど楽しい。

先週と今週のさるまるさんの記事を読んで、ベースを弾くことに熱中していた高校生の頃のことをひさしぶりに思い出したので、それについて書いてみようかと思う。

一年で一番好きな月は十一月だった。そのことはどこかで書いた覚えがある。
肌寒さと寂しさの具合がちょうどよく、甘美な感じがするということが理由だった。今では前倒しのクリスマスムードに侵食されてしまっているが。
そうした十一月に対する思い入れの原点ってなんだったっけと記憶を辿ってみると、高校の部活動を終えて暗くなった路を自転車に乗って帰宅するときの、顔にぶつかる風の冷たさや、寄り道してほおばった肉まんのあったかさなど、そんな実感にぶつかる。

その頃私は軽音楽部と茶道部に所属しており、週の半分くらいはそのどちらかの練習が入っていた。特に軽音楽部の練習がある日は、重いベースを背中に担いで自転車を漕いだが、慣れてしまえばさしたる苦行でもなかった。

当時のバンド仲間であり、小学校時代からの友人でもあるY氏とは家も近かったので、しょちゅう二人で自転車をならべ、さまざまな議論を交わしながら帰宅した。
将来のことをあれこれ夢想するのは、小学生のときからのお決まりの話題だったし、音楽のことはもちろん、冷戦時代のことゆえ政治のこと、男子校ならではの恋愛のこと、それにアイドルのことなどが当時二人の間でホットな話題であったと記憶している。

この季節ではなく、夏頃のことだったと思うが、いつもどおり法隆寺から西へ向かって伸びる道を二人で通っていると、新聞記者と名乗る人に話しかけられインタビューされたことがあった。いつも通っている道から見えていた田んぼの中のこんもりした土盛が、実は古墳であり、調査したところ見事な壁画のある石室が発見されたということを知らされ、感想を求められたのだ。それが「藤ノ木古墳」だった。翌日の新聞にY氏のコメントが掲載されていた。

Y氏はバンドの顔であり、大黒柱であり、中学時代から高校卒業まで、一貫してバンドに所属しつづけたのは彼と私の二人だけである。
彼はリードボーカルとギターを担当し、コピー曲の選定、オリジナル曲の作詞作曲などを一手に行うリーダーであり、バンド名には彼の名前が冠されていたが、誰ひとり異議を唱える者はいなかった。それでいて威圧的な印象を与えることは一切なく、わがままや不平を言うのはいつも私であった。彼はすべてのやるべきことを率先して引き受けていただけだった。

軽音楽部に所属するバンドの晴れ舞台はなんといっても文化祭である。一般に公開される日曜日、体育館のステージでライブが行われる。
このときのためだけに一年間、バスケ部やバレー部のみんなに忌み嫌われながら練習を続けてきたのだ。山の中腹にあるひっそりとした学び舎に、その日だけやって来る女の子たちにモテるため、というのがはじめの目的であったにせよ、もうすでに別の感覚がバンドを支えていた。

さて、文化祭といえば公開されない土曜日もまた、私にとって重要な舞台だった。この日の体育館では、中学高校の各学年(高校三年を除く)がそれぞれ演劇を上演するという催しが行われる。一学年あたりおよそ150人程度の生徒が、希望によって展示のグループと演劇のグループに分かれるのだが、私は中学二年以降ずっと演劇のグループに参加していた。ここで毎年自然と中心になったのがM氏であった。

彼は落語研究会のメンバーとしても活躍しており、Y氏とは対照的に厳格な、どちらかというと完全主義者タイプのリーダーだった。5人か6人のバンドと、数十人がさまざまな役割を担ってひとつの舞台を作り上げる演劇とでは、リーダーに求められる役割はまったく違う。彼の最初の仕事は役割ごとのグループ分けを行い、それぞれのリーダーを決めることである。それも年毎に顔ぶれが固定していった。M氏は全体のまとめ役として、各チームリーダーに対して厳しくアウトプットを要求するとともに、役者グループを直接指揮し、演技指導を含めた演出を自ら行った。私は毎回かならず役者として舞台に立ち、うち二回は光栄なことにっ主役をやらせてもらったのだが、主役に対するM氏の演技指導は特に苛烈で、本番直前の一月ほどは毎朝、体育館で彼と二人っきりで、台詞のこまかな抑揚まで、すべてを徹底的にたたきこまれたのである。

演劇において、ひとつの舞台を全員で成し遂げたという達成感は非常に大きいものだった。バンドでの演奏は、たとえ練習であってもそのたびごとに心地よい感覚があって、本番のライブにおける快感はその延長であり集大成という感じであるが、演劇は、たった一回の公演をやりとげた瞬間にすべての喜びが爆発的にやってくるように感じた。

いろんな思い出が芋づる式にあふれてきて書ききれないのだが、ともかくY氏とM氏という、タイプの異なる二人のリーダーのおかげで、私はこれ以上ないくらい充実した中学、高校時代を送ることが出来たのだと、今になって思うのだ。

M氏はアマチュア落語家として活動しており、奈良町で定期的に落語のイベントを開催している。そのイベントで近年実現したのが、M氏のボーカル、Y氏のギターによるユニットである。

M氏は軽音楽部には所属せず、われわれのバンドのメンバーではなかったが、中学のころから独自に作詞作曲を行っていた。
Y氏とのユニットが生まれたのは、われわれが大学生の頃、一度だけバンドを復活させ、大阪で会場を借りて行ったライブのときにさかのぼる。
M氏、Y氏それぞれの結婚式のときなど、断片的な演奏はあったが、一昨年のイベントでひさびさに復活ライブを行い、私も観客としてそれを見に行ったのだった。

そのユニットにY氏の大学時代の友人がギタリストで新しく加わり、今月末再びライブを行うことになった。そして、私も二曲のみだが演奏に参加することになったのである。冒頭で述べたベースの練習とは、このライブのためのものだ。
ここにひそかに告知させていただくので、ご都合の良い酔狂な方がいらっしゃったら覗きに来ていただければ幸いである。

日時:11月29日(日) 14時より
場所:奈良町落語館
http://www.rakugo-town.com/files/rakugokan.html

一筆に含まれてゐる冬の虹   中村安伸

4 件のコメント:

  1. 茶道部!男子校で茶道部って珍しいのでは。あ、でも、
    他校の茶道部女子と交流できますね。いいかも。茶道部のお話にも興味が。

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  2. 茂根さま
    コメントありがとうございます。慌てて書いたのであちこちに話題が散らばってしまいました。

    隣の老人ホームへお茶を立てに行ったことはありますが、女子校との交流はなかったですね。二つ下の弟が同校のやはり茶道部に入ったのですが、私の卒業後にどこかの女子校と交流ができて、一時的に部員が急増したと聞いた記憶があります。

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  3. こんばんは。
    ライヴはいかがでしたか。西進中ではあったのですが、29日はすでに帰京の途についておりまして伺えませんでした…。残念無念。
    中村さまはNARUTO読者でいらしゃいましたか!右に同じく。嬉しい。
    私は単行本派なのですが、BLEACHも好きです。鮫肌と斬魄刀には通じるものがあるような。たしかに、楽器もどこか似たところがあるかも。
    先週末、元プロ野球選手でオリックスのコーチ時代によくして頂いた根来広光さんが亡くなりました。闘病中ではいらっしゃいましたが、まだお若くて(対日本人男性平均比)と思うとショックから抜けられません。
    現役時代のお話をもっと聞いておけばよかった、と悔むこと頻りです。
    どんな分野でも、ひとつのことを続けるのはすごいことですよね…。
    「冬の虹」の御作、故人の神戸からの筆跡の記憶と相俟って、忘れがたい一句となりました。

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  4. 山口珠央さま

    ご来場いただけなかったのは残念ですが、関心を持っていただけただけでもうれしいです。
    詳しくはこれから書く記事にとりあげるつもりですが、まずまずうまくいったと思います。二曲の予定が四曲弾きました。

    毎号ジャンプを購入し、「NARUTO」は欠かさず読んでおります。「BLEACH」はたまに見ています。
    単行本派でいらっしゃるということですから、ネタバレにならないよう注意が必要ですね。
    「NARUTO」の干柿鬼鮫や桃地再不斬などが持つ大刀と、ギターやベースなどの楽器とでは、背中に担いだ姿が似ていると思っていました。

    さて、根来広光さんというと、プロ野球をあまり知らない私でもお名前は存じておりましたし、訃報も耳にしておりました。
    舌足らずな拙句が、はからずもなにかにシンクロしたとしたら興味深いことですね。

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