2009年8月25日火曜日

自民党の印象

  パプリカのサラダさらさら夜の秋  上野葉月

政治や政党に詳しくないから今度の選挙が終わったら一生自民党のことなんか書く気になりそうもないので、この機会に思いつくままに書いてみたい。

選挙やる前から政権交代が確実視されているのもニョンタカだし、仮に政権交代しても二年もしないうちに自民党が政権に返り咲くような気もするのだが、まあこの選挙をきっかけに自民党が消滅してしまうなんてこともあるかもしれない。さすがに愛と勇気だけがともだち葉月と云えども未来のことまではわかりません。

歴代の幹事長どころか総裁の名前も全部思い出せそうもない政党音痴の私だからなのか、いまだに自民党というと岸信介の名前を思い出す。手短に表現してしまうと岸の死後の自民党は私の想像する自民党とはだいぶ違う。うーん結論急ぎすぎ。
子供時代すでに岸信介が安保の騒ぎで辞職してから長い月日が経っていて、実際に政治の表舞台に立っていた姿を知らないのだが、私が成人して以降も岸信介は常に日本の政治に圧倒的な影響力を行使していた。おそらく80年代後半までその状態は基本的に変わっていなかったのだと思う。私の知っている自民党というのは総理総裁が変わっても根本的な政策にブレのない、そういう政党だった。
私は高度成長期の子供で人生の当初に経験した社会は、世界史上でもまれに見る時代だった。経済成長率は二桁が当たり前、要するに七年間で経済の規模は倍になってしまう訳だがそんな状態が15年も続いた。しかも高度成長期後期には貧富の差は縮小する。まさに世界が賞賛した日本の奇跡である。
今日、二桁成長を続ける国はあるが、どこも貧富の差は増大するばかりだ。それが普通、いわば自然な成り行き。

思うに私が子供時代に経験した経済社会は資本主義なんてものではなかった。あれは企業社会主義である(この言葉は私が思いついたものなのだけど、もし誰か先に言った人があったらごめんなさい、この場を借りてお詫びします)。今より窮屈で情報統制も強力だったが極端に安定した平和な社会だった。
この企業社会主義という言葉を考え付いたせいで岸信介を思い出したとも言える。
岸信介は昭和十年代入閣し戦時統制下の生産活動を指導する立場に立つ前は、商工省から満州国に引き抜かれ当地で重工業の発展を指導した、辣腕家の優秀な官僚だった。理論も現場もよく知っている二十世紀前半の統制経済のエキスパートとしてはおそらく世界でも五本の指に入ろうかという人だ。
大戦中の東條内閣の商工相だったとき、サイパン陥落によって制空権を握られたのち戦争継続に関して首相と意見が対立し辞職しているが、敗戦前の日本政界で無視できるほどの小物であったわけでもなく、A級戦犯として巣鴨に留置されている。三年の留置の末、結局不起訴処分でハンギングを免れたわけだが。このときGHQと岸の間でなんらかの裏取引があったはずだという説はよく見聞きするが結局結論は出ないだろう。私の見るところ、一種のラッキーで命拾いしたように見える。ドイツや日本の降伏以前のヤルタ会談から、すでに戦後処理とその結果招来されるであろう冷戦の萌芽は見え隠れしているので、日本の降伏前からアメリカには日本を反共の防波堤にする意図は十分にあったはずだ。そういう点で米国は日本の指導者の中でも優秀な人間は何人か残したかったはずで、岸もそうしたひとりだったのだと思う。

子供時代、日本の中核にあった大正生まれの男達は「優秀な奴はみんな戦争で死んでしまった」とよく嘆いていて実際私も直にこの耳で聞いたこともあるのだが、今思うとあの頃の日本人はそんなに無能な印象はない(ちなみに岸は明治生まれ)。むしろ現在の日本の中核を背負うべき私たちの方がよっぽど劣化(流行り言葉で申し訳ない)しているように見える。
敗戦は日本人を鍛えたような印象がある(たとえば『七人の侍』があれほど上出来なのはスタッフキャスト全員が負けいくさの経験者だったのも一因だ)。一世代前も現在も日本は歴然と米国の属国であるのだけど、高度経済成長期前後の日本は名を捨て実を取るという点では非常に優秀な敗戦国だった。今日ではほとんど不可能な曲芸のような政策で国内産業を狡猾に保護していたし。物質的な豊かさの追求という点では無駄な動きをする歯車がほとんどないような鉄壁のシステムだった。驚くべき成功の果て1980年代中盤以降、日本には世界中のお金の約半分が集まるような事態すら招来された。
この成功に関して色々な原因を推測することは可能だが、まっさきに思い出してしまうのは岸信介のような満州国と大日本帝国の消滅を目の当たりにした数人の現場指導者たちだ。人間は失敗からしか学ばない。大雑把に言ってしまえば満州国と大日本帝国の消滅が敗戦後日本の企業社会主義国家の直接の要因である。

長年働いていると自分自身の無能さにもすっかり倦いてしまうものだけど、同時にどんなところに行っても優秀な人間というのは少ないものだと自分のことを棚に上げて考えるようになる。特に私の場合、転職の回数が半端じゃないので余計そうなのかもしれない。
どんな組織でも、それが君主国でも共和国でも議会主導でも官僚主導でも、ほんの数名優秀なスタッフがいれば回るものだ。組織の成員の多くが優秀である必要はないし、それが組織である由縁だとも言える。

今日の日本は私が子供の頃知っていた名を捨て実を取る優秀な敗戦国ではなく、すっかり外資の食い物になっているなんだかよくわからないもので国家の体裁すら保っていないのかもしれない。自民党も私の知っている岸信介が生きていた頃の自民党とはまったく別物のような気がする。

現状の日本の国家としての機能不全は、日本ローカルの局地的な出来事なのか、あるいはマルクスの予言したような国家の消滅と何かかかわりのある現象なのかというと、それはさっぱりわからない。

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