2012年4月27日金曜日

― 北の透明度 ―                青山茂根



 鈴木牛後氏の句集『根雪と記す』(有限会社マルコボ.コム 2012)より。(ありがとうございます。)

  歯車の濡れて動かぬ雪解かな 鈴木牛後 


  風鈴に隣る電撃殺虫器

  畜生と言はれて牛の眼の涼し

  みづうみに林檎の沈む透明度

  数へ日の束ねるものと解くもの

  長靴に雪の入りたる御慶かな

  猫の吐瀉物跨ぎストーブの点火

  鎖鳴る音ばかりなり深雪晴

 風土性を帯びながら、透明感のある句が並ぶ。なぜか土のにおいのしない、しかし生活の確かな手触りによる描写。
  「歯車」の句、雪深い地の長い冬のあと、雪解は即農作業の始まりを示す、その朝の動かない工機。「濡れて」の語は、春の日ざしの輝きをも映し出す。その喜びと、仕事に入れない焦り。
 「みづうみに」、静かな北の地のひっそりとした秋の景色が、どこにも描写されていないのに、鮮やかに目に浮かぶ。「林檎」という語の配置と、その透明度の高い湖に沈んでいくさまの色彩の対比、スロウモーション。硬質な言葉を使いつつ、詩的な表現として過不足がない。
 牛を飼う農場の生活が、「畜生と」の哀感に、「数へ日の」の年を越す準備の慌しさに、雪深い地の「御慶」に、「深雪晴」の朝に道をゆくもののない静けさゆえに自分の農場の鎖の音が響くさまに、ありありと現出する。語間というべきか、一句の言葉と言葉のつながりにより、その言葉の向こう側にある描かれていない景色を呼び出して、奥行きを感じさせる句が多い。

  制服はオイルの匂ひ薄暑光

  麦秋や臍のあたりに手の記憶

  抱くやうに廻すハンドル濃紫陽花

  梨剥きしナイフ梨より甘からむ


 「制服は」の句、単車などに関心を持ち出した頃の記憶。「オイルの匂ひ」で青春性を甘くならずに表現し、そのむせるような匂いからひたむきさ、純粋さが立ち上ってくる。
 「麦秋や」の句にほのかにしのばせた性の感触、「抱くやうに廻す」という、大型車や農機具を運転するときのハンドルの大きさ重さ、身体の動きを表しつつ、下五に「濃紫陽花」を置くことによって、異性の存在をも読み手に想起させる。
 「梨」の句にある、「ナイフ」と言いながらその剥いた手を見つめる視点。眼前にある物の、外側に広がる世界を描き出す力量を感じて。小さな句集ながら、どこまでも開いたページが広がっていくような、内包するものの大きさに驚く。
   

2012年4月13日金曜日

― 壁とバナナ ―                青山茂根

『震災鎮魂句集 釜石①』2012,3/8版を照井翠氏より、高木佳子氏の個人誌『壜 #04』2012,4 Spring を氏より頂く。ありがとうございます。


 その簡素なつくり。個人的事情の説明文は全くなく、ただ句を記すのみの照井氏の句集より。


  若布浸す桶に身体を沈めけり  照井翠


  春昼の冷蔵庫より黒き汁


  在るはずの町眼裏に雪が降る


  ありしことみな陽炎のうへのこと


  春は壁乗り越えなくていいですか


  迎火や潮の匂ひの新仏


  白鳥の祈りの胸をひらきけり


  三月や遺影は眼逸らさざる
            (『震災鎮魂句集 釜石①』 2012,3/8)



 高木氏の短歌誌『壜 #04』、<論考 「当事者」と「非当事者」のゆくえ 震災と表現について再び考える>には、谷村はるか氏の「ドームの骨の隙間の空に」という作品とその評があげられていて、興味深く読んだ。俳句における震災詠にもリンクする内容と思う。高木氏の<「被爆地」というステレオタイプな切り口に対する是非>、という言葉にもはっとする。部分的な肯定も否定も私には難しいとしか言えないのだが、印象に残った言葉のみここに。高木氏の意図とは違う取り上げ方になってしまうことをお詫びする。「非常にマスコミ的にもてはやされていること」。「マスとしての原爆詠はだめだ、力が全然無い」。「自身の目で見、自身の内部で様々に葛藤しているそれらの問題が、静かに並ぶ。」

 <短歌 このままでいい>から。


  何が高いのかと問へば内部のですよと答えぬ鱶のごとくに
                     高木佳子
  ないぶとは馴れし響きよすぎゆきにわれの内部のなどと詠ひき


  熱傷も瘢痕もなくまつしろな曝されがあり白蓼の垂る

  測らずとも分かつてゐたらう、雨降るごとくことばは傾ぐ


  排出にバナナのよきとて朝なさな黄の耀けるバナナ食うぶよ


  ママいいよぼくこのままでいいと吾子は言ふなり本当にいいか


  ゆるやかに汚れてをりしわが身体熱きシャワーを幾度浴びても
            (『壜 #04』 2012,4)