錆の文字、水のからだ 中村安伸
ひるがほや錆の文字浮く錆の中 榮 猿丸
「ひるがほ」というと「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる 加藤郁乎」がまず脳裏に浮かぶ。
「ひるがほに電流かよひゐはせぬか 三橋鷹女」も好きな句ではあるが、今の気分からはすこし離れる。
かわいらしいと言えば言える花だが、どことなく怠惰な、堕落したような気分を感じとってしまうのは、郁乎の句のせいだろうか。
私はむしろ「昼顔」という名にその理由を求めたい気がする。
光によってなにもかもが漂白され、感覚が麻痺させられてゆく、昼という奇妙な時間。
そんなとき、ふと出会ってしまった、もうひとつの自分の顔のように、なにげなく揺れている花。
上五に点された昼顔の花の気怠い光を受けて、浮かび上がってくるのは錆付いた文字である。
もちろん文字ばかりではなく、その周囲の鉄板も錆にまみれている。
「浮く」という語に水、海といったイメージが引き寄せられてくる。
昼顔が海辺に咲く花であるということも関連しているかどうか。
「夏の河赤き鉄鎖のはし浸(ひた)る 山口誓子」に描かれているように、水は鉄を侵食して錆に変えてゆく。
それはやがて風化し、自然へと戻る過程でもある。
ところで「錆の文字」という書き方は、すこしばかり曖昧だ。
そこで、斜めからの読みとして「錆」という文字が記されているという解釈も可能だろう。
「錆」という文字が書かれた板とはなんだろう、しかもその板は錆びた鉄で出来ているという。
酸化鉄の標本?
それ以前に、鉄板に「錆」という文字を彫るとはなんという皮肉か。
若者の額に「老」とか「死」とかいうタトゥーを彫るようなものだろうか。
水に棲むやうに遠雷を聞きぬ 青山茂根
「遠雷を聞く」という一刹那のうちに起きた事件の比喩として「水に棲む」という永続的な行為を配する。
それはなかなかに面白く、実はなかなかに複雑な構造でもある。
この句の「やうに」は形として直喩であるが「遠雷を聞く」ことを契機として、自らの肉体感覚のなかから「水に棲む」を導き出したという句に思える。
鋭い雷鳴も厚い空気の層を切り裂いてくる間に、くぐもった鈍い響きと変わる。
そのことを水中で聞く音の曇りとむすびつけた、という解釈が一般的よいえるだろうか。
しかし、それだけならば「水中のやうに」といった言い方ですむだろう。
人は地上、すなわち空気中において浮くことはできないが、水の中でなら浮くことができる。
水に浮くとき、身体を自由に操ることができたかのように感じるが、逆に水によって操られているのだとも言える。
そのようにして水中にもぐったり泳いだりすることは、どこかエロティックな行為という感じがする。
そして「棲む」という、まるで魚類や爬虫類にでもなったような言い方から感じるのは、水中にいるのことの不自由と快楽を、運命であるかのように受け入れるという姿勢である。
この、心地よく湿った、たゆたうようなリズムを持った一句には、肉体に対する直感が刻み込まれている。
そのことが、この句の濃密かつ清潔な、言外のエロチシズムの裏づけとなっているのだろう。
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