2009年11月10日火曜日

haiku&me 9月の俳句鑑賞(2)

パリ・モスクワ   山口珠央


はじめまして。山口珠央と申します。
haiku&me 竣工おめでとうございました。
そして、お招きありがとうございます。
9月分の各氏作品鑑賞のご依頼を頂きましたが、なにはともあれ me とゆうからには「なんぞツッコメ」との無言のプレッシャーを感じております。

普通は haiku&I のところ、あえて目的格を配置なさった各氏に敬意を表するため、辛口ヴァージョンで努めさせて頂きました。たしかにツッコミどころ満載の俳句作品、血祭りです。BGMはブラーの TO THE END でお送りしております。


青山茂根

誰が袖にあらずや菊枕咬めど

「誰」とぼかさずに「汝」であれば、男色エロ俳句として成り立ったかもしれない。
「菊枕」を季語においた発想は斬新だが、謡曲にある「菊慈童」の世界そのまま、という印象が拭いきれない。「菊枕」の一物俳句を試みてほしい。そしてできるなら、咬まないでほしい。思い切って陶酔してもらいたい。

飛行機を降りて夜食の民の中

旅詠であろう。飛行機のなかで食事は出そうなものであるが、それすらないような航空会社の夜間飛行。「夜食の民」で作者がその中の数少ない異国人であることが示される。好きな一句。

少しだけあらがふやうに砧かな

隣家では砧を打っているというのに、またひとりで(ふたりで)なんかやってるらしい。近所迷惑俳句と命名したい。どうあらがっているのか、景が見えないが具体的な描写があれば面白い作品になりそう。ただ、かな句ではないのではないか。


中村安伸

緞帳の河緞帳の月映る

あまり意味のない「緞帳」俳句。意味のなさに嫌々ながら目が留まった。「緞帳」はなんとなく「絨毯」に似ているような気もするので、これが季語か。「月」という重い季語を踏みにじった蛮勇は評すべきであろう。

引く波の渦を残せり秋彼岸

「残せり」ではなく「残すや」と切るべきであろう。鑑賞ではなく、添削です。
添削してもつまらない俳句であることに変わりはないので、中村俳句の汚点として末永くたいせつにしてもらいたい。あるいは容赦なく棄ててもらいたい。


榮 猿丸

怪談の擬音が怖し夜の秋   

良い句だと思う。ただ、怪談で怖いのは擬音だけではないので、一般性はないし軽い。軽さが同氏の作品の持ち味だとは、鑑賞者は考えていません。意外と深い作者。

恋文を燃やす灰皿秋暑し

作句に困ったので「恋の句」に逃げてみました、というところか。恋文は洗面所で燃やすべきであろう。「燃やす」と「暑し」がどうか。きっと内容も鬱陶しい恋文だったのだろう。燃やして正解だった。

蜜厚く大学芋や胡麻うごく

今会作品の白眉。写生に徹したところが好ましい。でもちょっと細かすぎるか。


上野葉月

肖像の首長くあり桐一葉 

モジリアーニの肖像画を思う。「長くあり」と五文字も費やしてしまったところが勿体ないようでいて、「長い首」のある意味における無駄さ加減を視覚的に再現した佳句。季語が効いている。しかし、類想句がゾロゾロありそうなので、その程度。  

朝顔の薄い薄いと呟けり

文語なのか口語なのか、どちらかに統一してもらいたかった。この句のリフレインは前掲句とは違って、単なる無駄。繰り返すが、単なる無駄である。

鍵盤を滑る指先秋桜

「鍵盤」と「秋桜」がうまく響き合ってあると思う。ただ、鍵盤は叩くもの。ときに愛撫するように、ときに突き砕くように。滑るだけでは「子犬のワルツ」も無理。

10 件のコメント:

  1. 山口珠央さま

    ご寄稿ありがとうございます。
    菊方面には詳しくないですが、スプラッタ系鑑賞は
    むしろ喜びでした。
    今後ともよろしくお願いします。

    ちなみに、葉月さんの「流星」の句については、
    「バカ」の語の前に「ん、もう」という言葉が
    十七音ゆえ省略されているものと推測されます。
    ぜひそこを含めての実践をお願いいたします。

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  2. 拙文のご掲載ありがとうございました。
    コメントも、ありがとうございます。
    「コメントが来ない(私は誰にも愛されないんだ)」と書かざるを得なくなるところでした。…冗談です。

    今後ともよろしくお願い申し上げます。
    実戦についても励ませて頂きます。こうゆう「バカ」は言いたいですね。

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  3. 山口珠央さま

    ご寄稿いただきありがとうございます。

    「嫌々ながら」「汚点」などと、とつぜん嫌悪の情を向けられたようで、たじろいでいます。

    さらに「鑑賞ではなく、添削です。」と。
    鑑賞に値しない作品なので、指導してやるということでしょうか。
    もちろん、そのような作品を掲載した私の責任ですから、不平を言うつもりはありません。ご意見いただきありがとうございます。
    ただ「添削」という言葉は受けいれることができません。ご意見を採るかどうかは作者である私の自由です。
    俳句では、添削という言葉にはそれだけの重みがあると思っています。

    反感を買うことを覚悟の上で、辛辣な評を書いてくださったことには感謝しております。

    ただ、鑑賞としては分析不足ではないでしょうか?
    なぜ「つまらない」のか、もう少し立ち止まって考えてみてはいただけませんか?
    自作を擁護したいわけではなく、山口さんに嫌悪の情を抱かせてしまった理由をもうすこし具体的に知りたいのです。
    もちろん、そのようなことをお願いできる義理はないわけで、気が向かないということでしたら、無視してくださってかまいません。

    ご無礼の段、平にご容赦願います。

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  4. 中村安伸さま

    あらためまして、はじめまして。
    コメント欄でのご意見ありがとうございました。私の不徳のいたすところいより、たじろがせてしまったことにつき、お詫び申し上げます。

    先だっては「鑑賞文」を掲載くだすってありがとうございました。私は、「鑑賞文」自体がすでにひとつの「作品」であると考えるところのものであります。ですから、そこでの用語には、なんら好悪の感情を含ませるつもりはございません。しかも、そのなかで取り上げる言語作品について「嫌悪の情」を表明する意図は皆無です。

    中村さんもご指摘のように、「反感を覚悟の上で」自らの顥名においてあらゆる文章を、もっと申しあげるなら一文字一文字を置かせて頂いております。「反感」だけではなく、すべて覚悟のうえです。それが顥名記事の意味だと思っています。その覚悟がなければ、顥名記事はお引き受けいたしません。

    ただ、そのために私の文章は、それが評論系統のものである場合、自らの「作品」としての平仄、あるいは完成度にこだわるあまり、そこで取り上げた他者の「作品」(モノであれオトであれコトバであれ)を尊重しない傾向があるようです。これは、昔から自覚していることですが、なかなか直りません。中学生の頃に、小林秀雄氏「モオツァルト」を読み、交響曲25番を「疾るような悲しみ」と書いちゃっていいんだ!と勘違いしてしまったのが最大の要因ではないかと自己分析しています。

    以上が、山口珠央が文章を書くうえでの前置でございました。次に、中村さんから御要望のございました鑑賞不足の点について。

    たしかに、その通りです。一句の読解に数時間を費やした、という事実は残念ながらございません。俳句の場合はむしろそのほうが良いのではないか、とすら思っています。理由は、俳句が世界最短の詩である以上、受け取る側にもある程度のスピードがあったほうが均衡がとれるような気がしているからです。もちろん、違うご意見もあろうかと存じますが、作句歴9年の現在の認識。

    …9年って、赤子も同然、というやつですね。中村さんのプロフィールを存じ上げていたらさすがに今回の「鑑賞文」は違う表現になっていたかもしれません。そこに置かれたコトバ、それが誰のものであるかは重要な場合と重要でない場合があります。例えば。ゲーテの最期の言葉「もっと光を」は遍く知られているところでありますが、そんなに遍かんでもええんちゃうか、という印象を受けます。しかも、その場に付き添っていた看護婦さん(いまなら看護士さん)による、暗いからカーテンを開けてくれと
    いう意味だった、という報告もあったり。真偽のほどについては、ゲーテ研究の専門家に質問したいところですが。

    話が逸れました。俳句については短い分、それがどんな「誰」の作品か、ということで鑑賞者は大きな影響を受けます。あの人の句だから凄いんちゃう? もしくはあの人が誉めたから凄いんちゃう? 等々。
    それをしたくないと思っています。というか、正確には俳句結社に入会してから、俳句に興味を持ち始めたので、俳句と初めて接するようになった2001年以後、そのように考えるようになりました。ために、「主宰」の存在する俳句結社に所属し、「句座」と呼ばれる生身のニンゲンが右往左往する句会に参加する。勿論、自分の考え方がおかしいのかどうかは、いまだ模索中の段階です。よろしければ、このHPにある私のプロフィールをご覧ください。受賞歴はまったくございません。間違っている可能性、かなり高いんじゃないの、と心中ひそかに思っております。

    ようやく本題に入ります。
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    ただ「添削」という言葉は受けいれることができません。ご意見を採るかどうかは作者である私の自由です。
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    この点につきましては、まったくの同意見です。しかしながら、この自由をご存知でいらっしゃるのであれば、なぜ「添削」という用語にこだわる必要がありましょうか。それこそ、無視してくだすって結構なのです。ご自分で、その意見に耳を傾ける価値があると判断なさった相手の評言をたいせつになされば、それで充分ではないでしょうか。

    しかしながら、中村さんは私が「つまらない」と思った理由を問いただしてくださいました。秋彼岸の句でした。理由は、接続詞「り」が状態あるいは継続の印象を与えるために、一句のなかで唯一の動詞を伴って主格にあたる「潮」が「渦」と打ち消し合うことと、季語「秋彼岸」が写生の内容と近すぎるのではないかと感じたからです。これを「指導」とお受けとめになるのであれば、そうなのかもしれません。若輩の身でたいへん失礼な物言いをいたしました。重ねてお詫び申し上げます。

    山口も、伝統芸能一般を好みます。能楽では、大学時代より観世流シテ方
    関根祥六先生に師事してまいりました。中村さんのいずれの流派をお好みになられますか。「嫌々ながら」も相当失礼でした。すみません。どこも隠れるところのない能舞台のほうをより好みますため、緞帳に偏見があるのかもしれません。国立能楽堂の橋懸かりの角度がおかしい、というのは個人的見解ではなく、構造上の事実です。あと、本郷は東京大学の安田講堂の講義段が前沈みに設計されていて、演能の際に舞台全体に被せものをしなければならなかったのも、構造上の事実です。

    これから、構造建築家に提出するための地質調査の視察に参ります。本日2時より中目黒4丁目、「目黒大使公邸」(ってのが本当にあるんです)のすぐ近くです。地質調査見物が初体験なので、俳句に詠めればいいな、と思いますがどうでしょう。私の所属する結社では「工事俳句」はよほどの作でないかぎり、「出句禁止」ということになっています。って、自分だと良いのか悪いのか分からないから句会があるのだと思いますけどね。

    以上、長くなりましたが何卒ご理解、ご容赦のほどを祈っております。

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  5. 女性に「キモーい」って言われたところで
    「○○さんに嫌悪の情を抱かせてしまった理由をもうすこし具体的に知りたいのです」なんて返しちゃダメでしょう。芸がなさすぐる。粘着すぐる。昔を思い出せば気持ちは分かるけどね。

    緞帳の句はおもしろいんじゃないかな(繰り返しが手法として手垢が付きすぎているきらいはあるものの)。「映る」っていうのも見方としては入口だけど、この句の場合は作者が「そう見た」のではなくて「そう作られているものを見た」んだよね。その微妙なずれがいいのではないか。

    秋彼岸は、どうなんだろ。「残すや」だと強すぎるかも。
    引く波の渦を残せり秋彼岸
    引く波の渦を残すや秋彼岸
    うーん。
    私のお勧めはこれ↓
    引く波の渦を残しぬ秋彼岸
    理由:なんとなく一番格調高い気がするから。

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  6. 中村安伸さま

    二点、訂正です。「り」を接続詞って書いてしまいました。「波」を「潮」って書いてしまいました。失礼いたしました。

    CopperBird さま

    男性に「コワーい」と言われたところで弁明に努めている最中です。

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  7. Copperbirdさま

    どなたか存じませんが、コメントありがとうございます。
    確かに、冷静になって読み返せば粘着質で芸のない書き方でした。恥ずかしいです。とは言え、取り消すわけにもいかないので、そのままにしておきますが。


    山口珠央さま

    真摯にご対応いただき、感謝いたします。

    評論も作品であり、作品である以上は完成度、あるいは整合性を高めることを目指すのは当然のことです。また、対象となる作品の作者に向けて書かれるべきものではないので、そこに遠慮があってはならないと思います。

    さて、私が「添削」という語にこだわってしまったことについてですが、山口さんと私の間で、俳句における「添削」という語の受け取り方にズレがあったかもしれません。どちらが正しく、どちらが間違いということではなく、ニュアンスの問題ですが。

    私は先だってのコメントで以下のように書きました。「ご意見を採るかどうかは作者である私の自由です。俳句では、添削という言葉にはそれだけの重みがあると思っています。」
    粘着ついでにこの点についてもう少し背景をご説明させていただきたいと思います。

    私は二人の選者から何度か添削を受けました。ひとりは、以前所属していた結社の主宰である金子兜太師に、もうひとりは「叙情文芸」という雑誌の俳句欄の選者をしておられた、故三橋敏雄師にです。誌面に掲載された作品が、私の投稿したものとは少しだけ異なるかたちになっていました。おことわりや説明はありませんし、もちろん事前の連絡などはありません。ただ「叙情文芸」のほうは選評に一言あったような気もします。最初はすこし驚いたものの「選を受ける」というのはこういうことなのだと最終的には納得しました。
    もちろん添削の内容そのものには一分の隙もありませんでした。

    選を仰ぐということは、作品の最終的な決定権を選者に委ねるということであり、添削とはそのような信頼を受けた選者のみが行使できる権利であり、それだけに重いものだということだと思っています。
    「澤」での選がどのようなものかは存じませんが、多くの結社で同様のことが行われているものと思っています。ちなみに現在、私は結社には属さず、誰の選も受けない立場をとっております。

    山口さんは「ご自分で、その意見に耳を傾ける価値があると判断なさった相手の評言をたいせつになされば、それで充分ではないでしょうか。」と返答してくださいました。これ以上こだわらず、そのようにしたいと思います。

    さて、添削、指導云々は抜きにして、秋彼岸の句についてのご意見はありがたく思っております。私も「嫌悪の情を抱かせてしまった理由をもうすこし具体的に知りたい」などという粘着質な言い方をせず、単にどこかつまらなかったのでしょうかと聞けばよかったのでした。ともかく、意図を汲み取っていただいたこと、感謝いたします。

    「状態あるいは継続の印象を与えるために、一句のなかで唯一の動詞を伴って主格にあたる「潮」が「渦」と打ち消し合う」というご指摘はごもっともで、非常に鋭い分析だと思いました。

    私自身、この句はあまり成功していないという意識がどこかにあって、それだけに痛いところを衝かれ、過剰反応してしまったのかもしれません。確かに「波」と「渦」が並列的で、散漫になっている嫌いがあります。山口さんの案ですと主格となる「波」の印象が強まるでしょう。
    今あらためて「渦」のほうをより印象付けたい気がしていますので、その方向で再考してみようと思います。また「秋彼岸」という季語が近いというのも確かにそうかもしれません。すべて「現象」ですからね。
    Copperbirdさんのご意見もありがたく、参考にさせていただきます。

    古典芸能の中でも、能楽は年に一、二度足を運ぶ程度で、あまり知識らしい知識も持ち合わせておりません。関根祥六師の演能は何度か拝見しているはずです。渋谷の観世能楽堂にも行きました。
    私は、どちらかというと人形浄瑠璃や歌舞伎などの猥雑さや、うしろ暗さを殊更に求めているところがあり、能楽の正々堂々としたところにはむしろ圧倒されてしまうのです。だからでしょうか、緞帳もそのひとつですが、歌舞伎で使われるさまざまな幕には心惹かれるものがあります。死んだ登場人物が、後見の支えるちいさな幕にかくれて去ってゆく様子など、とてもいじらしく、せつなく感じます。

    しかし、この緞帳の句も会心の作というわけではないのです。Copperbirdさんのおっしゃるとおり、リフレインの技法も安易でした。ただ、山口さんの鑑賞に「無意味」という言葉がありますが、この評言そのものは実はうれしく感じています。もちろん否定的な文脈で使っておられるのでしょうけれど。

    「俳句が世界最短の詩である以上、受け取る側にもある程度のスピードがあったほうが均衡がとれる」というご意見についてですが、たしかに句会という場においてはそのようにスピーディーな鑑賞を行わざるを得ません。俳句の読まれる場が句会に偏重しているという現状のもとでは、逆にじっくりと腰を据えた解釈や批評の重要性が増しているのではないかというのが私の意見です。

    「構造上の事実」というお言葉は、山口さんのプロフィール欄にある「野望は俳句作品の批評基準の定立。」というところにつながるのではないかと勝手に想像しています。それについても思うところ無きにしもあらずですが、稿をあらためることにします。

    なお、コメントの中で「プロフィールを存じ上げていたらさすがに今回の「鑑賞文」は違う表現になっていたかもしれません。」とありますが、句歴や年齢で先輩か後輩かということなどは、一切意識していないつもりでした。もし私の文からそのようなニュアンスが感じ取れる部分があったとしたら、それは意図せぬことです。
    私も個別の俳句作品の鑑賞においては、作者についての予断は入れないほうがいいと思います。連作や句集などの鑑賞はまた別ですが、その場合でもあくまでも補助線であるべきだと思っています。

    無理なお願いにもかかわらず、丁寧にご鑑賞いただきありがとうございました。

    最後に「自分だと良いのか悪いのか分からないから句会があるのだと思いますけどね。」と書いておられますが、同意見です。
    先日この「haiku&me」に書いた記事中で「作者というものは、自作をもっとも誤読しやすい存在」と書いたばかりでしたのに、今回のように自作への鑑賞に注文をつけるのは、矛盾した行いに見えるかもしれません。
    しかし、自作のことは自分ではわからないからこそ、鑑賞を求め、その気持ちの強さのあまり、先だってのコメントに至ってしまったのだと思います。実に恥ずかしいことです。
    また、善意で鑑賞を書いてくださった方に刃のようなコメントを向けるなどということは、道義上あってはならないこととだと思います。申し訳ありませんでした。
    ですが、結果として私が読み取ることのできなかった部分が明確になりましたので、コメントして良かったと思っています。書き方には大いに問題がありましたが。
    しかしながら、山口さんにはご心配、お手数をおかけしました。真摯にご対応いただいたことを重ねてお礼申し上げます。

    Copperbirdさんには頭を冷やしていただきありがとうございました。
    猿丸さん、茂根さんには大変ご心配をおかけしました。お詫び申し上げます。

    それから、私は山口さんの鑑賞を「コワーい」などとは思っていませんよ。今にして思えば私のコメントのほうがコワくてキモいと思います。

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  8. 山口珠央さま

    丁寧なご返答をお寄せくださいましたことに
    感謝いたします。
    中村さんからのコメントの後に失礼を致します。

    せっかくのご寄稿に、「返り血」を浴びせる形になってしまったようで、申し訳ないですが、
    山口さんが「血祭り」作品として鑑賞をお書きくださったので、まあこんなこともあるかとお許しください。

    コメントの中でお書きくださった、
    作句の年数は全く句の読みに関係ないと私は考えています。むしろ、こうしてお寄せくださったコメントや
    プロフィールから読み取ろうと私が思うのは、どのように続けてきた方なのか、ということです。
    それも、俳句作品や鑑賞を読んだ後に、興味が湧いて、
    ということです。決して、それらが先行するものではありません。
    伝統俳句系の結社でずっと学ばれてきた方と、
    現代俳句協会に属してきた方とでは、
    句の解釈にかなり相違がある場合が多いようです
    (もちろん、どこにも属さずという方も)。
    超結社の句会などに出て、座の方々の評を聞いていますと、読みの多様性ということを感じます。

    例えば、中村さんはおそらく伝統俳句系であったお祖父さまの影響で俳句を始められ、現在は現代俳句協会に近いところにいらっしゃいます。
    山口さんは御自分の所属している結社の句会に出て、
    師の選を仰ぐという形で実作を積んでいらしたのでは
    ないでしょうか(間違っていたらすみません)。
    伝統俳句系でも、自然詠が主なところと、
    人事句が多く詠まれる結社を経てきた方では、
    また読みが違います。

    句会という場では、簡潔に、自分の読みの主張を述べるという態度が限られた時間の中で重要とされますが、
    不特定多数の方の目に触れる、こういったweb上の鑑賞文においては、また異なる文章表現が必要とされるようです。自分はこう解釈したけれども、他の方の読みはまた
    違うかもしれない、ということが頭のどこかにあると、
    鑑賞文のニュアンスがまた変わってくるかもしれません。

    せっかく、真摯なコメントを頂いたあとで、
    老婆心ながら失礼いたしました。
    どちらかの句会で、ご一緒できます日が
    ありますように。(などと、「うちの秘蔵っ子を
    誘惑するな!」とそちらの結社の方から怒られそうですが。)

    haiku&meにお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

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  9. 中村安伸さま

    ご丁寧なご返信をいただきまして、ありがとうございます。
    コメント欄にて、長々と書かせていただけたお蔭で、自分自身のアタマの整理にもなりました。あらためて、感謝申しあげます。

    つきましては、「渦」を焦点とした改作があるかもしれないとのこと、楽しみにしております。「渦」「うづ」は「宇宙」にも繋がりますよね。俳句で好きなのは、神は細部に宿る、的な面白さがあるところです。
    #################################
    「構造上の事実」というお言葉は、山口さんのプロフィール欄にある「野望は俳句作品の批評基準の定立。」というところにつながるのではないかと勝手に想像しています。
    #################################
    なるほど…。ご指摘されて気付きましたが、そうかもしれません。以前、句友が口にした「俳句は建築のようなもの」という内容の表現には考えさせられたことがございますので、意識下に潜んでいそうです。言いっ放しにならないよう励ませていただきます。

    ご意見のなかにあった「無意味」、「あまり意味のない」俳句というのは
    誉め言葉になってます。少なくとも、私のなかでは。それが成功した場合は、俳句として云々という枠を超えた「詩」になるのではないでしょうか。あまり考えたうえでの言葉ではないので、あくまで単なる感想としてお受け止めください。ちょっとズルいコメントですけれど。

    突然ですが、中村さんの「ブラックコーヒー」の句が好きです。9月分のなかでも、実はいくつか拙作と同じ単語を見付けたりして。二つだけ、紹介させてください。こんな感じです。

    夏木立君の余白を黒く塗る  珠央
    鳳仙花纏足の縛ほどきけり  同

    地質調査の視察には行ったものの、あまりの寒さに俳句はできませんでした。究極のインドア派のようです。たまに吟行など参加すると、句帳も持たずに呆然としているのでちょっと引かれます。実は、かなり緊張しいなので句会場に着くだけでもう、今日はオレようがんばった感が漂います。選句中はほとんど廃人? 終わるとちょっと元気になります。不思議。

    それを思い出しますと「逆にじっくりと腰を据えた解釈や批評の重要性が増しているのではないか」とのご意見、たいへん貴重なものでした。


    青山茂根さま

    あ、どんぐり城の人だ!
    ではなくて。
    いろいろとご迷惑をおかけしました。結社以外の方とのお付き合いがほとんどないので、今回は勉強させていただいてありがとうございます。コメント欄でのお言葉、しかと了解いたしました。そもそも、交流の機会がないんですよね…。どなたからも誘われないので。きっと、愛されてないのです。先日、猿丸さんはどうしてお友達が多いんですか、と訊ねたところなんとなく言葉を濁されましたが。

    と書いていて気付きましたが、もしかするともしかして「作句能力の差」が原因なのでは!? そうか、そうだったかあ。今頃気付いたよ…。


    そんなこんなですが、お礼の気持ちをこめてこのコメント欄で反応をくださった皆様に、一句献じさせてください。
    秋灯や汝が返り血の旨きこと 
    今日も寒いのでお風邪などお気を付けください。いつか、お目もじかなう機会もありますよう。お世話になりました。

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  10. 山口珠央さま

    うーん、そんなつもりでのコメントではないのです。
    誤解させてしまったようでごめんなさい。

    「作句能力の差」なんて考える必要ないですよ。
    目の前にある句をどう読むか、ということだけです。私だって俳壇的にはほとんどお付き合いをしていません。
    そういうの苦手なんです。

    鑑賞は人それぞれなので、公の場に出る文章において、
    あまりに断定した表現だと
    受け取る方によって感じるものが違うこともある、
    と伝えたかっただけです。私は、
    山口さんの鑑賞と、全く同じ意見ではありませんが、それが面白いと思って読ませていただきました。

    なぜこの3人でブログを始めたかというのも、
    お二人とも私の句に厳しい意見を下さる方だからです。
    それぞれの俳句観も選句も全く違います。
    句会などで、過去十年くらいにおいて安伸さんの選に入ることってほとんどなかったですし、
    猿丸さんには、青山茂根のいい子ぶった句が
    俺は嫌いだ、と面と向かって言われてますので。

    真摯に批評してくださる方は、私にはとても大切です。

    どんどん、いろいろな句会に参加されると
    いいと思います。山口さんなら大丈夫、
    誰かに連れてってもらってもよいかも。

    長々と引っ張ってしまってすみませんでした。

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