2015年4月4日土曜日

文学と音楽

※以下の記事は、足立区小台の珈琲店BRÜCKEにて配布されているフリーペーパー「小台マガジン」3月号に掲載したものを改稿し、俳句作品を追加したものです。


 3月14日にBRÜCKEで開催された「文学と音楽、言葉とメロディー、エレクトロニカ・グリッチノイズ」と題されたライブがとても面白かった。
 ゲストのスッパマイクロパンチョップ氏は、ここでの演奏は二度目で、前回はギターの弾き語りだったが、今回はシンセサイザーの演奏に歌というスタイルだった。これも弾き語りということになるのだろうか? ミシン台に載せたMC-505の各種コントローラーを、無駄のない動きでてきぱきと操作する姿は熟練した職人、とくに複数のプロセスをタイミングよく捌くという点では料理人を思わせた。そこに歌も入るのだから鬼神のような大活躍ぶりである。

 さて小野修氏によるパフォーマンス「文学と音楽」は、タイトルの語感から重く前衛的なものを想像していたが、意外なほどポップに感じられた。小野氏による爽快な電子音楽に、近代文学のマスターピースから引用された英語のフレーズが、詩人の深澤紗織氏のリーディングとヴォーカルによって載せられてゆく。さまざまなデバイスを操る諏訪創氏によるタイトなドラムもまたすばらしかった。
 ドストエフスキーや三島を含め、すべての作品を英語で演じたことについて小野氏は、西洋を起源とするポップミュージックに日本語を載せることの困難さを語った。また、歌詞として言葉を使えば、そこに意味は生じてしまうのだから、せっかくなら自分の愛好する文学作品から好きなフレーズを引用しようということも言っておられた。
 昨年末小野氏とはじめてお会いしたとき、俳句のリズムについて深い分析をされていて驚いたことを記憶している。そのことからも、彼が日本語のリズムを考え抜いたうえで、あえて英語を選択したことが伺える。ポップミュージックの歌詞には英語と日本語のどちらがふさわしいか? その問いに正解はないだろうが、今回の小野氏の選択はひとつの有効なアプローチであろう。実際出来上がった作品はポップで品の良いものであったとともに、他に類のない硬質な世界観をそなえた好ましいエンターテイメント作品と感じられた。
 もちろん文学作品から引用した断片的フレーズのみで、作品全体にがもたらす重厚な存在感に匹敵することは不可能だし、日本語を母語とするリスナーが、英文から精妙なニュアンスを感受することもまた難しい。題材となった作品を読んだことがあるかどうか、作者や作品の背景についての知識があるかどうかによって、リスナーが受容できる内容や連想できる範囲が異なるという問題点も指摘できるだろう。
 それらに関して小野氏は、曲の間にレクチャーを行なうことでカバーしようとしていた。彼の講義を聞いていると、楽曲を楽しむための解説という範囲を超え、このパフォーマンス自体を、文学作品の豊穣な世界へと誘う入口にしようという意図が感じられた。文学作品に匹敵する音楽を作ろうということではなく、言葉の海からフレーズを借りることで独自の音楽作品を完成させるとともに、その音楽作品自体が文学作品への扉を開く鍵にもなるという、ふたつの達成を意識していたということだろう。正直に言うと、実際にパフォーマンスを目にし、曲を耳にするまでは、「文学と音楽」というタイトルが素朴で大仰すぎて、抵抗感もなくはなかった。しかし、文学と音楽とが、小野氏のなかで主従なく並立しているなら、他のタイトルを選ぶことは難しかったのかもしれない。

 最後には小野氏の楽曲に乗せて、深澤氏が自作の日本語詩を朗読した。コントロールされたパフォーマンスで作品世界の創造に寄与してきた深澤氏が、ここでは主役となって文字通りセンターに立っていた。巻紙に毛筆で記された詩篇を、一行ごとに巻き取りながら読み上げる動作は、スッパ氏の洗練された合理的な動きとは対称的に、どこか呪術的なエモーションを感じさせるものだった。この巻紙はただのメモではなく、神官の祝詞や文楽大夫の床本と同じく、言霊の依代なのだろう。深澤氏は古代の巫女のように大地を踏みしめ、あるいは音楽にあわせて体を揺らせ、彼女の発する言葉のひとつひとつが見えざるものへの捧げ物であることを体現していた。

 深澤氏の朗読の余韻のなかで思い出したのは、ono osamu bandの三人が登場するとき長唄囃子が用いられたことである。それは、祭祀に起源をさかのぼることができる芸能という大樹の、一枚の若葉となることを宣言するものだったのかもしれない。

書物の河に書物の橋や夕桜     中村安伸