2009年10月30日金曜日

― 季感と手触り ―


  くづほれるとき赤い羽根あたりより     青山茂根 


 テレビでニュースを見る、よりもPCを開いてチェックするほうが多くなっているのは私だけではないはず。それでも時折、何かの片手間にニュース番組をつけておく。大きなニュースがないときに、よく見かけるのが某国の貧困状態を国境付近から探るとか、隣接する国との密貿易の映像だ。とりあえず全世界の注目の的となっている国家を取材しておけば、人々の好奇心や優越感を満たすことができるからだろう。俗物である自分も、ながら見でもつい目をむけてしまうことを否定はしない。レポーターの緊迫した声がかぶり、わざと手持ちで追いかけながら撮る映像には、案外のんびりした国境警備の兵士や、こまごました密貿易物品を抱えたおばちゃんたちが写っていたりするのだが。政府が影で手を引いているか、賄賂で黙認されているとしても、そこまで頻繁にお茶の間向け映像として取材することなのか?と常々疑問に感じつつ、目で追っていた。

 ・・・もっとも、密貿易といっても、なかば公然の経済活動である。業界では国際貿易と呼ぶ。(中略)
 日本では少々想像しにくいことだが、隣国と地続きで接した地域に住む人々は、元来の習慣として、国境の存在にそれほど重きを置かない。一族縁戚が両国にまたがって住んでいるケースもざらにある。物質をあちら側からこちら側へ、あるいはこちら側からあちら側に運ぶことが違法であるという観念は代々薄かった。国が近代化され、国外取引が法の下に置かれるようになって以来、人々の日常行為が密輸呼ばわりされるようになったが、これは漁師にサカナ獲りを禁じるようなものだろう。だからタイの場合も、国防省内に専門の委員会を設け、よほどのことがない限り、この国境貿易を黙認する政策をとっている。・・・       (『妻と娘の国へ行った特派員』  近藤紘一)

 タイ領とビルマ領(現ミャンマー)を画する国境付近の、少数民族カレン族の居住地を訪ねたときのレポートから。先日来、東南アジア関連の書物にはまってしまい、その辺を拾い読みしているなかで目にとまった。もちろん、1970年代から80年代にかけての国際情勢と現在との違いはあるし、亡命の許されぬ国の厳しさや、それこそ38度線付近は恐ろしく厳重に警備されているものと推測するが、島国の我々との認識の違いを痛感する。常にどこかの国と国境を接し、民族・国家間あるいは介入してきた他の大国の思惑による勢力争いのたびに国境線が描き換えられてきた大陸の人々にとって、案外国境とはそのようなものなのではないか。

 カレン族といえば、前の住所に住んでいた頃の知人がその少数民族の男性と結婚していた。タイへ旅行したときに知り合って、と言っていたが、リゾート・ラバーズ(和製英語、死語か、いや私は全く経験なし)のうまくいった例なんだろう。控えめながら黙々と働く人で、いい人だと周囲の評判もよかった。その夫君は日本語が日常会話程度なため、肉体労働に従事していて、妻のほうが子供を保育園に預けて主な働き手となっていた。彼のタイ料理は絶品、などと聞いているうちに、子供が就学年齢になると一家でタイへ帰ってしまった。なんでも、カレン族の村以外にチェンマイ市内にも家があり、子供をチェンマイのインターナショナルスクールに通わせて、夫君はガイド業を現地で始めるためだとか。日本のインターナショナルスクールと違い、あちらではエリートコースへの第一歩となるらしい。その夫君も流暢な英語を話し、数年で日本語もそこそこ話せるようになっていたが、先の書物の中に以下の記述を見つけてなるほどと思った。

 ・・・カレン族は少数民族中、おそらく最大の人口を持ち、推定二百五十万人。(中略)
 もともとカレン族は、最近物故した東南アジアの麻薬王クンサなどが率いるシャン族と異なり、知識層が多く、イギリス植民地時代は官吏、軍人、警察官などに多く登用された。多数派のビルマ族にとっては、<植民地主義者の手先>であったわけだ。イギリス撤退後はそれが祟って逆に多くのビルマ人から憎まれ迫害される立場になった。・・・

 少数民族というものに我々が抱いている意識は、やはり現状を知らない無知からくるものなのだ、と改めて思う。カレン族は、英国留学を経てラングーン大学の教授職についていた人物がいたり、「英語達者のクリスチャン」で、「ビルマの他の少数民族と異なり、阿片の取り引きには手を出さない」。これらが、未開のジャングルでゲリラ活動をしている人々の実態のひとつなのだ。

 ・・・たとえば、タイは小乗仏教国だが、マレーシアに接した南部二、三の省(日本の県に相当)は圧倒的に回教徒住民が多い。人種的にもマレー人との混血が多い。これらの地方では中央政府の<差別待遇>に反発し、分離独立運動あるいは回教国である隣接マレーシアへの帰属を要求する声が絶えない。マレーシア政府が積極的にそれをけしかけている兆候はないが、タイ側としては疑心暗鬼で同じASEAN仲間である隣国の挙措に神経をとがらせていなければならないことになる。逆にマレーシア側としては自国の共産分子残党が国境を越えてタイ側のこの回教徒地域に拠点を構えていることが面白くない。(中略)
 つまりASEAN中の超近代都市国家シンガポールはいまだに隣接マレー人大国(つまりマレーシアとインドネシア)による併呑を恐れ、潜在的には常時この両国を仮想敵国とみなしているのである。・・・ 

                       (『目撃者‐近藤紘一全軌跡1971~1986』 近藤紘一)

 過去にどこの植民地支配も受けずに独立国の立場を守ってきたタイと、フランス・日本・アメリカ(その後にソ連も加えるべきか、*1)の干渉を受けてきた旧サイゴンを中心とするベトナム(*2)の決定的な気候の違い、かたや湿度が非常に高く、もう一方は暑いながらさらっとした気候であるなど、またその両国間の民族意識の違い、龍と虎と呼ばれ静かに反目しあう関係が古くから続いていることも、知らずに旅したり日々のニュースを見ているのとではかなり違う。そこにからんでくるマレーシア、インドネシア、シンガポールの情勢も、様々な国際政治上のかけひきが、昔からの根強い民族感情に起因するものであると。

 ちょっとした旅行でも、「日本とベトナムはフレンドだ、どちらも米国に爆弾を落とされた」、「ベトナムは過去4度中国の侵略軍を追い返し、決してその属国となることはなかった、日本も同じだ、自国に攻め込んできた彼らの船を跳ね返した」等、都市部の若い勤め人でも、ビーチの絵葉書売りの青年でも我々に語りかけてくる(*3)。自国に攻め込んできた船、それって元寇のことか、ってそんな時代の話を今さら、とこっちは当惑するが、過去の歴史上の事実を普通に日常的に口にするのは、他の国でも同様らしい。日露戦争で日本が勝利したからという理由で、ロシアにたびたび侵攻されてきたトルコ共和国の人々がいまだに親日家であるのは有名な話だし、私もアメリカで、いきなり「あなたたちはずるい、パールハーバーで我々を騙し討ちにした」と面と向かって言われたことがある。そもそも電信伝聞の技術と国際間の駆け引きの問題がらみだと、説明する会話力も私にはないしそうしても仕方の無い話だ。彼らと違い、他国に対する歴史上の認識を、島国に生まれ育った我々は常に意識する習慣がないのだろう。

 西東三鬼がいた頃の、英国統治下のシンガポールはどのようであったのか。在来住民による独立運動が起こり多少キナ臭くなってきた頃のその地の空気や、オランダやフランスによる植民地となっていた近隣諸国との関係を肌で感じて暮らしていたことが、後の三鬼の戦火想望俳句に、(無季俳句であることと矛盾するようだが)大陸および熱帯の実際の季感や、国家間の紛争における実質的な手触りを与えたのではと思った。

(*1)共産党政権下での旧支配層・知識層への思想改造や差別の凄まじさは、以前触れたパリ移民たちも経験してきている人々が多く、神田憲行著『ハノイの純情、サイゴンの夢』にも書かれている、しかもこの著者、バックパッカー嫌いで私と同じだ。
私が現地で会ったベトナム人ガイド氏は同じ年くらいながらソ連の国内紛争への従軍経験があった。観光ガイドになる前はホーチミン市内で若者向けバーを経営していて、とても流行っていた店だったが、役人に渡す賄賂の額がどんどん大きくなり、儲けが残らなくなってしまったので廃業したという。
(*2)しかもカンボジア戦争のときは密林の中でクメールルージュとの死闘を経ている。
(*3)日本語や英語のレッスンのつもりで話しかけてくる人が多い。何が安い、いいとこ案内すると言うのはまず危ない輩。 

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