2009年12月29日火曜日

山で出会った動物

  雷鳥の砂浴びの窪あたたかし    広渡敬雄

  NHK大河ドラマ「天地人」のタイトルバックは上杉景勝、直江兼続が幼少期を過ごした坂戸城、雲洞庵から近い越後三山のひとつ岩峰八海山。(清酒名でも有名だが、、、)

兼続(妻夫木聡)が見おろす魚沼平野に魚野川がきらきらと光りながら流れている。

 その後11月末から始まった「坂の上の雲」は、延々と延びる稜線に一本の確かな道が続いている。
 
どこかなと目を凝らし、北アルプス・白馬連峰の小蓮華岳から大蓮華岳あたりの稜線かと思った。

残雪がところどころに残っており、7月上旬頃だろうか。青々とした稜線の下はまもなく楽園のようなお花畑となろう。明治維新後の近代日本の黎明期の大河ドラマらしいタイトルバックだと思った。

「雷鳥」

 日本に生息するのは、ユーラシア大陸の最終氷河期(1~2万年)に取り残された世界でも最南端の種。国の天然記念物だが、20年前の3,000羽から最近は1,800羽と40%も減少している絶滅危惧種。
登山者の残飯のサルモネラ菌の感染や地球温暖化で稜線まで登ってくる狐、貂等の餌食になっているとも言われている。

2,000米から3,000米の這松帯に生息しているが、既に富士山、八ヶ岳は絶滅し、白山は70年ぶりに確認された。現在は北アルプス、乗鞍岳、御嶽山、火打山、南アルプスに生息しており、筆者は殆どの山域で目撃したことがある。

上空の鷹、地上の狐、貂という天敵から保護色(冬は純白、春から秋は褐色に羽毛が生え変わる)と這松帯が彼らを守っている。這松は強風の吹き荒れる稜線一帯に生育するため、丈は低く枝は見た目からは想像も出来ないくらいに地表を繁茂しており絶好の巣となり、雪に閉ざされる厳冬期には、強風の稜線に比較して驚くほど静かな快適環境となる。

  よく稜線で親子での散歩姿、砂浴び姿を見かけるが、恋や威嚇の声は穏やかな姿から想像できないくらいの濁声でガオー、グエツと鳴き叫ぶ。

 稜線を歩いていると、砂浴びの砂が飛んできて顔に当るくらいの近さでも見られる。

   雷鳥の母呼ぶこゑや霧走り

「猪」

 映画でも有名な旧天城トンネルを抜けたところで猟師が仕留めた猪に遭遇した。

窪地にべったりと血が溜まっており、猟師は手際よく解体していった。

まだ生きた現物に遭遇したこともなし、遭遇したくもないが、、、
 「伊勢街道」の上多気(北畠氏館跡)を過ぎた峠近くを歩いていて、生け捕りにされ鉄の檻に入れられた猪に突然出遭った。

檻からも眼光鋭くこちらを伺い、突如こちらの方に体当たりをして来た。檻は大きく揺れ、大音響。檻があるものの毛は逆立っていて鬼気迫る恐ろしさで身がすくんだ。

  殺生禁止の江戸時代以前から「山鯨」と称して「薬喰い」の典型的な食材とされるが、伊豆、篠山、東吉野の猪鍋は美味だった。短足なので雪深い地域にはいない。

 富士山近くの紅葉の道志の山を歩いていたら、道のあちらこちらに掘り起こしたような跡があり、ぴんと来ることがあった。

ゴルフ場でやや日陰の地を掘り返えした跡は、猪が大好物の「みみず」を食べるためと聞いていたからだ。彼らには「みみず」は、人間の刺身みたいなものなのかも知れない。

その体躯からは想像出来ないほど身のこなしは軽く、1メートルくらいの柵は飛び越えるし、体当たりでも崩してしまう。

 猪から作物を守るために「猪垣」を田畑の周りに張り巡らせるが、トタン、弱電流の電線のものが多い。その体躯の割には臆病なので、音のするトタン、電流の刺激は効果を発揮する。さらに柵を手前に傾くように折り曲げていると、視点が地面から低いかれらは飛び越えられないと思うらしい。

京都と同様に筍で有名な北九州市南部の合馬の筍林の周りには、ぐるっと電流柵が張り巡らされていた。筍も雑食性の猪の大好物。

   猪鍋やまつかな炭の運ばるる

「羚羊」

 子牛ほどの大きさだが、性格はおとなしくややとぼけた容貌と額の上の二本の角、大きな耳、頬の白毛に特長がある。

「鹿」科ではなく「牛」科の天然記念物。

険しい岩場も難なく移動。皮のみならず肉も美味で、参謀本部測量部の剣岳登攀の案内人宇治長次郎等の猟師も「羚羊撃ち」だった。

解体燻製にして「岩魚」同様町まで運んだという。

一度北アルプスの裏銀座の登山口近くで遭遇。愛嬌のあるやや物憂げな顔でこちらを窺い、登山道の真ん中で動こうともしない。騒ぐと角を向けて突進されるかと思い10分近くにらめっこしたことがある。

  羚羊の攀ぢりてこぼす脚の雪

  羚羊の眼に宿る深き冬


「エゾ鹿」

 日本の古来からの鹿に比べるとかなり大型。最近爆発的に増え、北海道内の至る所で出遭うがこちらとの距離をはかり、こちらの状況をじっと窺い、ある距離以上近づくと尻を返して山中に逃げ去る。
草木の葉を舌で巻き込むように食べる時も視線は周りを窺っている。

  その澄んだ視線を恐ろしいと実感したことがある。

 北海道、日高山脈の「はるかなる秘峰」ペテガリ岳の登山口のペテガリ山荘で、夕食を終えてふと窓ガラスを見ると、10頭近くエゾ鹿が暗闇の中から眼を爛々と輝かせてこちらを窺っていた。

彼らの視力は、暗闇でも昼間同様だと言う。静まり返った小屋が一層凍えつくような恐怖を感じたものだ。

 兎以上の繁殖力で爆発的に増加しており、穀物を荒らす害獣として、エゾオオカミの再導入による森林の生態系の回復も検討されており、捕獲し「鹿肉」(鹿刺、もみじ鍋、シビエ)として盛んに売り出し始めている。

  母鹿の一瞥の眼の澄みにけり

「なきうさぎ」

 雷鳥と同様に氷河期の生き残りで北海道のみに生息。

中央部の山地(大雪山系、日高山脈等)の露岩帯(岩の積み重なったところ)に見かけ「生きた化石」とも言われている。

キチッ、キチッ、キチッとその澄んだ声を鳥かと思い岩場に眼を向けると姿を見せ、天敵のオゴジョ、キタキツネが現われるとその岩陰に身をひるがえす。

ねずみ程度の大きさだが、上あごの前歯の裏にも歯があり、兎である。コケモモ、シラネニンジン等草木の実、茎、葉を食するが、日中は岩の陽だまりで日光浴をして熱を体内に貯め、夜の寒さに耐えるとも聞く。

その愛らしい姿を見ていると爽快な風が通りすぎていった。すぐ近くには、お花畑とまぶしい雪渓が広がり生涯忘れえない光景のひとつである。

  なきうさぎ成層圏も晴れわたり

参考サイト:
「雷鳥物語」「ナキウサギ動画ページ」「kamosikakun wwwjーserow.com

2009年12月25日金曜日

 ― 森の匂い ―

  鶴の群とは崩れゆく塔のごと     青山茂根



 アフリカ系アメリカ人らしき、ガタイのいい父親が、鼻歌でも歌いだしそうにご機嫌な様子で、もみの木を入れたカートを押していた。黒い髪、少しくたびれた黒い革コート、そしてカートに詰まれた緑の針葉樹とポインセチアの鉢。
 その、本当にうれしそうな、家に帰ったら家族に囲まれて誇らしげな笑顔をみせるであろう姿に、一瞬でノックアウトされてしまった。いや、一応売り場を見て、値札を見て、その赤いシールに、その父親の笑顔の理由もわかったのだが。

 やってしまった・・・。
この極月の、細々とした取り込み事に追われ、気忙しく感じる日々の中で、ふと、エアポケットの瞬間が訪れると、いけない。
 しかも今月は、一週目のマリインスキー・バレエのあと、先週の日曜に今度はレニングラードバレエを観にいったばかりで、お財布の空間も大きくなっているが、気分も高揚しているところだった。
さらに、そのバレエが、会場が国際フォーラム?というマイナス要因に反して悪くなかった。椅子のちゃちさを除けば、生オケの音響もそれほど気にならなかったし、後ろのほうではあったが、センターだったために見難さを感じることもなく、意外と拾い物!とご機嫌になっていたのだ。
 家の中の掃除は終わってないし、クリスマスのクッキーも焼いてないし、料理の買出しもしてないというのに、つい、である。
 ま、この時期よくある、衝動買いというヤツなのだが(12月は特に危ない)、物が、生木、つまりもみの木を買ってしまった。うっ、部屋に入れるとけっこうな場所塞ぎ・・・。
 土曜日の夕方、近所の、小さなホームセンターに掃除用品か何か、ちょっと買いに出たら、見てしまったのだ、その光景を。もみの木を載せたカートを押す、世界一幸福そうなどこかの父親の姿を。

 そもそも、もみの木の生木を買うのはこれが初めてではなく、10年ほど前にも、一度手に入れている。そのときも、ふらりと立ち寄った成城の花屋で、その辺りの外国人宅向けに鉢に入れられて店頭にあったのをつい、買ってしまったのだった。枝ぶりのよい、ウラジロモミで、八ヶ岳から持ってきたのだけれど、かなり根を切ってしまっているから、根づくかわからない、と言われたのに、即決してしまった。場所柄結構な買い物だったのだが、どこを探しても見つからないのでは、と思えるくらいの容姿(枝?)に一目惚れだった。店員の言葉とは裏腹に、冬を無事に越して、春には枝いっぱいに新芽をつけた。見事な枝ぶりに、更に満艦飾のごとく芽吹いたのが、とても誇らしかったのだが、夏の暑さで、枯らしてしまった。

 花のつかない、純粋な観葉植物も好きなほうで、見ると欲しくなってしまう。アレカ椰子の立派な鉢なぞ街で見かけると、もううずうずしてたまらない。十五年くらい家にある八丈島産のフェニクス椰子は、思いがけず、数年に一度、花をつける。地味な、見落としてしまいそうな花なのだが、いかにも熱帯を思わせる、むせるような匂いを漂わせるのが嬉しい。これは、東京の冬なら、屋外に置いた鉢でもそうそう枯れずに元気だ。沖縄なら道端に雑草化しているクワズイモも、この辺の冬は地上部が枯れることもあるが、春にはまた葉を伸ばし、やはり匂いのある質素な仏炎苞の花の後に、赤い実を見せてくれる。

 担いで帰ったもみの木を、枯らした薔薇を抜いたあとの素焼きの鉢に植え替えて、なぜか家に溜まっていた(いえ、原因は私だが)ワインのコルク栓で根元をマルチングし(鉢土の乾燥防止のため)、部屋に入れた。ちびたちは大喜び。飾り付けに夢中である。こんなものでそれほど喜ぶなら、とも思うが、枯らしてしまうにしのびないのでおちおち旅行もできない。室内に置く数日間のことながら、エアコンがあたると乾燥するから、とついつけるのも躊躇してしまう。厄介な買い物ながら、眠る前に電飾を落としてふと葉先に触れたときの、つんとくる針葉樹の香りに、北の冬への遙かな思いが広がる。

 

観劇録(3)歌舞伎座『大江戸りびんぐでっど』

歌舞伎役者たちが現代の劇作家、演出家と組んで、新作や古典の新演出を行う例が増えている。
最も積極的にそれを行っているのが中村勘三郎のグループで、これまでで一番の成功例が野田秀樹と組んだ『野田版 研辰の討たれ』(2001)だったと思う。

小劇場と呼ばれた現代演劇のスタイルを歌舞伎座で、歌舞伎役者を使ってやってみたら、思いのほかうまく行ったというのが、この『野田版研辰』を観たときの印象であった。もちろん女形も登場する舞台が現代演劇「そのまま」な筈はなく、歌舞伎に蓄積された様式的演出を現代演劇に融合させるためにさまざまな工夫がされているに違いない。野田と勘三郎それぞれのセンスと相互理解、そして初の試みに立ち向かうことの緊張感などがうまく作用したのだろう。もちろん観客の側も初の試みに対する新鮮さがあった。

勘三郎と現代の演出家とのコラボレーションという点では、コクーン歌舞伎や平成中村座における串田和美の存在が先行している。もともと演出家が存在しない歌舞伎を、現代の演出家が、その審美眼をもって再構成するという試みは成功だった。たとえばコクーン歌舞伎「三人吉三」(2001)の終幕における蒙々たる雪煙の凄絶さは、現代演劇の美意識によるものだった。
そのようにして蓄積されたノウハウが、野田とのコラボレーションにおいても有効に働いたのだろう。

今月の歌舞伎座夜の部には、野田秀樹をフィーチャーした二作目『野田版鼠小僧』が上演されているのだが、私はこれを初演のときに観て『研辰』ほどには感心しなかったと記憶している。観客にとって新鮮さが幾分減じたということもあるかもしれない。

そして、昼の部には宮藤官九郎を作、演出に迎えた新作『大江戸りびんぐでっど』が上演されている。
私は21日(月)に一幕見席でこれを観た。

平日にもかかわらず一幕見席は朝から満席だった。約1時間ほど並んで二幕目(実際には三幕目だが、一幕、二幕目がセットで販売されていた。)の『身替座禅』から観ることにした。
『身替座禅』は三津五郎の奥方玉ノ井に愛嬌があって抜群に良かった。勘三郎の山陰右京はもちろんハマり役であり、これまで何度も観た芝居ではあるが、非常に新鮮に感じられた。

さて、目当ての『大江戸りびんぐでっど』であるが、死体が蘇ってゾンビとなり、人を食べる、そして食べられた人もまたゾンビとなるというのがこの芝居の趣向であり、宮藤の所属する劇団、大人計画の『生きてるし死んでるし』(1997)に類似している面がある。

特殊メイクのグロテスクさや頻出する下ネタに辟易したのだろうか、途中で席を立ってしまう客も散見されたが、前述の大人計画の芝居を観たことのある私は、グロテスクさ自体を特に強烈とは感じなかった。
当時の大人計画はシナリオ、演出は松尾スズキが一手に行っており、宮藤官九郎は、阿部サダヲに並ぶ看板役者の一人であった。その彼がテレビドラマ等の脚本を書いて評判となり、松尾以上に有名になってしまったのであるが、実際のところ彼のテレビドラマ、映画、演劇等はあまりきちんと観たことがない。

前述の大人計画の芝居では、よみがえった死体を「IS(生きてるし死んでるし)」と名付け、生とは死とは何かという疑問を投げかけると同時に、差別などの社会的問題を躊躇なく描くものだった。差別を扱う作品は他にもあって、観るものに痛みを感じさせるものだった。
描写がグロテスクかつ強烈であればあるほどテーマが明確になる。しかし、そこまでお付き合いいただくためには、客を惹きつけて離さない笑いの力が重要となる。大人計画においては、テンポの速い会話のなかにズレを生じさせることによって起きる笑いが最も有効なものであった。

今回の作品も、そうした笑いを取り入れようとしていることは明らかだった。しかしそれは歌舞伎とは非常に相性が悪いものかもしれない。
大きな劇場の隅々までナマの声を届けなければいけない歌舞伎では、ゆっくりと節をつけるような台詞まわしが基本となる。実際に一幕見席からでは、特に主役の染五郎のセリフ等に聞き取れないところが多くあった。

一方で、落語ネタのパロディの挟み方などはとてもうまく、そうしたコラージュ的な作劇にこそ宮藤の真骨頂があるのではという気もするが、肝心の脚本そのものに練り足りない部分が見受けられたのは残念なところである。

たとえば物語において最も重要な存在であるゾンビたちは、「らくだ衆」と呼ばれ、一方で「ぞんび(存鼻)」とも呼ばれている。やがて彼らに人がやらないような仕事をさせるというビジネスが発足するに及び「はけん衆」と名付けられるのである。
このゾンビ達は、要所要所でZAZEN BOYSの向井秀徳の唄にあわせ、クドカンの妻である八反田リコの振付で軽妙に踊るのだが、その歌詞中で彼らは「りびんぐでっど」あるいは「生きる屍」と呼ばれている。
これらの呼び名の使い分けが、物語に絡めてきっちりと描かれていたかというと疑問が残る。
少なくとも私にはその意図がはっきりしない部分があった。

落語を原典とし、歌舞伎の演目としても定着している「らくだ」を劇中に登場させ、「かんかんのう」を踊らせたりもしているのだから「らくだ衆」という呼称を強調しても良かったのではないか。
また「はけん」という呼称を使ったのは、この芝居が派遣労働という問題を扱っているということを、わかりやすく示そうとしたのだろう。
しかしそこまでしなくても十分に意図は伝わったはずだし、「はけん」という言葉を使ったことの弊害もある。
たとえば「はけん」に対立させて「人間様」という言葉を使った箇所があったが、これでは派遣労働者を人間以下の存在だと言っていると受け取られかねない。また、それが皮肉であるということが伝わるとは限らない。

たとえば大人計画の芝居は、身体障害者などへの差別をあからさまに描き、差別というものの痛み(差別されることの痛み、のみではなく、差別をし、差別されもする人間そのものの痛みというような)を、観客に突きつけるようなものであった。そうしたギリギリの表現が可能なのも、劇団のやり方をある程度知っている観客が相手だからでもある。
歌舞伎座へ非日常の祝祭空間を楽しみに来た観客とは、受け手のスタンスが全く違うのである。もちろんクドカンのファンでこの『大江戸りびんぐでっど』を楽しみにして来る方も少なくはなかった筈だが。

一方、この芝居を楽しめた点を挙げれば、それは歌舞伎役者の力量そのものということになる。
演技力だけではなく、歌舞伎座という劇場空間を支配する力。それは、親戚家族がみな役者であり、幼い頃より舞台に立つことが日常であるというような生活がもたらすものである。
そして、野田版にせよクドカン版せよ、役者へのあて書き、つまり役者のキャラクターにあわせて登場人物の造形がなされているのであるが、そのキャラクターのつかみ方が非常にハマっている。それは演出家の才能によるところだろうが、それ以上に、勘三郎を中心とした役者同士の、家族のような付き合いから生じる、深い相互理解に根ざしたものという気がする。
クセのあるキャラクターを演じた中村扇雀、坂東三津五郎といった人々のハジケぶりはとても痛快であった。
また、悲劇的な人物を演じた勘三郎の、沼底でのたうちまわる獣のような怪演ぶりには、異様な凄みがあった。平成中村座で演じた『法界坊』(2000)もそうだったが、このような悲惨でグロテスクな役柄こそ、勘三郎の真骨頂なのかもしれない。

役者が楽しんでいる、またクドカンも楽しんだという感じは伝わってきたが、残念ながら楽しめない部分を残す芝居となってしまった。今回は練りこむ時間が足りなかったのかもしれない。私としてはぜひ、クドカン歌舞伎の次回作に期待したいと思う。

聖誕祭空よりもらふ酸素かな   中村安伸

2009年12月22日火曜日

空港マジック   浜いぶき

 空港という場所が、小さい頃からずっと好きだ。空港で誰かに何かを頼まれたら、その通りにしてしまう自信(?)がある。例えば、この仕事をして欲しい、と言われたら頷いてしまうだろうし、告白めいたことをされたら、くらっときてしまう気がする。お金を貸してくださいと言われたら、もしかしたら貸してしまうかも知れない(普段そういう状況に身をおいてはいるわけではないが)。だからこそ、空港では自分の言動によく気を付けよう、とは思うのだけれど、それでも空港に着くとそんなことも忘れてはしゃいでしまうほど、空港が好きだ。先日北海道へ行った時も、出発前に“テンションが上がり”、スターバックスでマンゴー味のフラペチーノの余計に大きなサイズを頼んで、飲みきれなくて困ったりした。待ち合わせの時も、空港だと、とても早く行く。他では考えられないことなので、こういうのを、空港マジックというのかも知れないと思う。

 ごくたまにではあるけれど、用もないのに、空港へ行く。
 たいていの場合、それは羽田空港の第2ターミナルだ。5年前に新設されたきれいなターミナル。トルネードのような形のエレベーターが往き来する巨大な吹き抜けが気持ちよく、屋外の展望デッキからは離着陸の様子がよく見えるし、ベンチも沢山あって、アップルタイザーも売っている。館内のつるつると光るロビーの床は、早朝や夜がとくにそれらしいと思う。一度、そこをスケートボードで気持ちよさそうに走っていく男性を見かけたことがある。そのひとはTシャツにサングラスといういでたちだったので、ファッションでやっていたのだとは思うけれど、ああ、あの人はきっとこの床を見て、滑りたくて仕方なくなったのだろうな、と分かった。そういう滑り方だった。きっと空港のことも好きなのだろう、と勘ぐる。

 旅行の経験は多くないが、印象深い空港が幾つかある。
 先にも書いたが、夏に出かけた北海道の旭川空港。(行きは新千歳空港で降りたが、空港から支笏湖へ向かう道路が、緑濃く、ゆたかな起伏のあるとても北海道らしい道だったことをのぞけば、空港自体にそれほど印象はなかった。)旭川空港は、旅程を終えて帰路に使った。その日は富良野から旭山動物園を訪ねて、ラーメンを食して温泉につかり、満喫したところでレンタカーを返すと、辺りは夜になっていた。ターミナルビルは新しく、コンパクトで感じが良かった。搭乗まで少し時間があったので、送迎デッキに行くことにする。入場料が必要で、それがとてもささやかな、微妙といっていい金額(大人50円くらい)だったのが可笑しかった。金網のないオープンデッキは、真正面が発着場になっていて、停まっている飛行機の迫力が凄かった。周囲を静かな丘陵地帯がとりまく夜の滑走路に、点々と青やグリーンの誘導灯が続いている。子供の頃に遊んだレゴにあった、一番小さな色とりどりのキラキラした部品、あれは飛行場の誘導灯だったことに、兄と話していて気が付く。漠然とライトだとは思っていたけれど、そういえばレゴの基礎板の中に滑走路があったことを思い出した。夜の誘導灯は、どこかなつかしくて、見飽きない。

 あるいは、大学二年の時に行った、パリのシャルル・ド・ゴール空港。2Fターミナルの出発ロビーは、日本では考えられないほど広々としていて目をみはった。一面ガラス張りの三角屋根がまっすぐにどこまでも広がり、淡い銀の鉄筋の梁がむき出しになったデザインがその開放感を引き締めている。国内便に乗り換えてニースに着いたのが夜だったから、シャルル・ド・ゴール空港にいた時間はちょうど日が翳り出す頃だったと思う。青空からロビーへと降り注ぐ日差しがそれはきれいだったことを覚えている。
 確かそのとき、一緒に出かけた美大の友達だったか、私だったかに熱が出ていたのだった。初めての海外二人旅であるうえに出発日だったので、少し不安な気持ちのまま、とりあえず乗り継ぎ待ちの時間をラウンジで何か飲みながら過ごした。熱を出したのがどちらだったか覚えていないというのも妙な話なのだけれど(ただ、自分には珍しくないことで、記憶のなかで他人と自分の区別がつかなくなってしまう)、それでもその不安さも気付くと拡散しているほどに、ロビーには光が溢れていて、不思議に神々しかった(事実、友達と私は健康にその後の道中を過ごせたのだった)。そのときも、本当はふたりとも、これから出かけるヴァンスのロザリオ礼拝堂のことで、胸をいっぱいにしていた気がする。

 そこに「時間」が生まれること、それが空港の魅力ではないかと思う。旅立つ前の時間や、旅から戻った後の時間。最近は搭乗の手間もかからなくなってきてはいるけれど、それでもチェックインをしたり、荷物検査をしたり、国際線であれば審査をしたり——そういうことのすきまの時間が、空港では、やっぱり一定以上要る。搭乗時間を待つのにも。その、ある限定された時間、けれどどうしても生まれる時間に、旅をする人のひとりひとりが、辺りを見回して、何かを思っている(例えば来し方や行く末)こと。それが、空港に流れているどことなく熱っぽく、けれど冷静な空気の理由のような気がする。

 清潔で、機能的で、最も現代的であるけれど、空港には少しの“余分”が存在する。例えば、ホテルに置き換えていうと、その“余分”とは“サービス”や“贅沢”なのだろう。でも、空港でのそれは“浪漫”といってもいいと思う(何しろ、飛び立つので)。だから、私のように用もなく空港に遊びに行っても、せわしなさに居たたまれなくなることなく、居心地よく空港を愉しむことができる。それは、そこに流れている、“旅”を思う余分な時間と空間のためなのかな、と思う。


  冬暁の引き締めて滑走路なる   浜いぶき

2009年12月21日月曜日

クリスマスのあれ

いまさらながら、赤瀬川源平の『老人力』を読んでいる。私はずいぶんと老人力をため込んでいるぞとうれしくなる。だいたい若いうちから俳句をやっているのだから、もう折り紙付きだ。しかし私の老人力はそれだけではない。

もともと、もの忘れがひどい、というところから、それをプラスにとらえて「老人力」と命名しているのだが、私もこの「もの忘れ」がはんぱではない。会話は「あれがあれで…」と「あれ」ばっかりである。財布も忘れる。財布を持たずに飲食店に入るなんてざらである。いまどきツケで飯を食っている人はそういないだろう。ライブのチケットを買って、ライブが終わって何日か経ってから気付いてへこむという経験も相当ある。また、公私ともにダブル・ブッキングの帝王である。って、こんなこと威張ってどうする。

さすがに最近は気を付けている。予定を入れるとき、なんかもやもやしたら、すぐに確認するようにしている。財布は鞄を変えさえしなければ大丈夫だ。しかし、財布の中身までは確認し忘れる。今後の課題である。


茂根さんがクリスマスの絵本を紹介していたので、私はフェイバリット・ソングを。

Father Christmas / The Kinks
1977年だから、パンクを意識したサウンド。当時のパンクスは、ストーンズはゴミ、ジジイ呼ばわりで、一方キンクスはフーと並んで「ゴッド・ファーザー・オブ・パンクス」と崇められていたのだ。で、本人たちもそれを意識して、元気でかわいい。
詞の内容はというと、クリスマスの買い物の帰り、デパートの前で、子供たちに襲われる。サビのフレーズが、
「サンタさん、金をくれよ!あんたの抱えてる馬鹿げたおもちゃなんていらない、そんなもんは金持ちのガキにくれてやれ。親父に仕事をくれ、俺たちに金をくれ!」というもの。実体験を元に書いたそうだ。パンクである。『Come Dancing with the Kinks』ほかベスト盤に収録。

One Chrismas Catalogue / Captain Sensible
パンク御三家のひとつ、ダムドのベーシストのキャプテン・センシブルの84年のソロ・シングル。赤いベレー帽と丸いサングラスがトレードマークで、数々の奇行で知られる人。生きたネズミを食ったって本当か。ファースト・ソロ・アルバム『ウーマン&キャプテンズ・ファースト』は死ぬほど聴いた。テクノ・アコースティックという感じで、ダムドとはうってかわってなかなかナイーブでかわいい。『ザ・パワー・オブ・ラブ』に収録。

Xmas no Hi / Original Love
田島貴男率いる(いまはひとりだが)オリジナル・ラブの、インディーズ時代の曲。「朝早く起きても、クリスマスは来ない。しゃくだから、隣の家に火をつけた」というとんでもない歌だが、それゆえかわいい。『ORIGINAL LOVE』ほかベスト盤に収録。


 公衆電話受話器重たし聖樹の灯   榮 猿丸


2009年12月18日金曜日

― クリスマス(の本)は子どものためにあるのではない ―



  空母より点り始めし冬至かな        青山茂根


 冬の朝の、喧騒の第一弾が過ぎたあとの、空虚な静けさの中を、早足で歩く。近くの小学校へ、絵本を一冊抱えて。子どもたちへ、本の読み聞かせのボランティアのために。無論、子ども好きというわけではない。何より仕事をずっと続けていこうと思っていたくらい、むしろ苦手だった。人が足りないから、と誘われたのだが、数人で、一年間一つのクラスを担当し、月に数回程度、自分もいろいろな子供の反応が見られて面白い。たいていの月は、事前にボランティアのメンバーが集まって決めておいた本を読むが、12月は違う。クリスマス関連の本なら、クラス担当者ごとに、好きに読む本を選んでよいことになっている。朝の、授業前の20分ほどなので、あまり長い話だと終わらない。やんちゃ坊主が集まっている一年生のクラスだと、展開のはっきりしたものでないと、すぐ落ち着きがなくなるし(かと言って無理矢理聞かせても仕方がない)、生意気ざかりの3,4年生ぐらいになると、知っている話は聞いてくれない(こっちもむっとしなくもない)。多少の新たな知識や、驚きのあるものを選ばないと。ただ担当の本を読むだけではなく、自分なりの解釈や、付随する知識を子どもたちに披露すると、それまで本の内容に茶々を入れまくっていた子どもも、口を噤んで、耳を傾け始める。それはほんの些細な余計なこと、「ハリーアップ!」と言ってたのを名前が呼ばれたと聞き違いしたんだよ(『うみべのハリー』)、などだが。

 それでなくとも、クリスマスの絵本を選ぶのは楽しい。どこの書店も図書館も、クリスマス関連の児童書コーナーを設け、色彩も鮮やかだ。古くから読みつがれている名作や、最近出たばかりのベストセラーものは、目につくところに並んでいるので、それ以外から選ぶようにしている。それでも、あれもこれも、読みたくなって困る。30人ほどの、子供たちの前で読むので、あまり小さな本では絵が判りにくい(見えないと立ち上がったりする子がいて、その子に文句をいう子が出始め、クラス中に余波が広がり、収集がつかなくなる)。なかなかこれ、という本が見つからず、ブックオフにまで足を運んだ。

 子供たちの前で読むのでなければ、定番シリーズのあまり知られていないクリスマスの話、『グロースターの仕たて屋』‐ピーターラビットシリーズ‐や『もみの木‐ムーミン谷のクリスマス』、自分が子供の頃からある岩波の子どもの本シリーズの『山のクリスマス』がいい。ムーミン谷の話は、アニメとは異なる内容で、こちらのほうがシュールで好みだ。シュールといえば、スズキコージ作『クリスマス・プレゼントン』も忘れてはいけない。こんな奇妙な、空恐ろしいような絵を、よく児童書として出したものだと思う。しかし、どこか宗教画の趣きもあり、ルオーの印象にも近いか。そんな、なんだか幸せなだけではないクリスマスの話に惹かれてしまう(まあ天邪鬼ですから)私の一押しは、トルーマン・カポーティ作村上春樹訳の『クリスマスの思い出』。これは3部作になっていて、カポーティの幼少時代の哀しみが、ガラスの破片の輝きのように、胸に突きささる。『あるクリスマス』『おじいさんの思い出』も良いが、やはりこの、貧しく、寂しく、善良な、古き良きアメリカの市井の人々を描いた『クリスマスの思い出』がダントツだろう。しかし、これはもう少し大きくなってから一人で味わう本だ。人生の四分の一を過ぎてからでも遅くはないくらい。

 あちこちはしごしまくった挙句、やはり村上春樹訳の『急行「北極号」』を選ぶ。なにより、この作家の訳には深く掴まれる。カポーティやレイモンド・カーヴァーの、いくつかの翻訳物は何度読み返しても海から上がった後のぞくぞくさながら、言葉が水際立って迫ってくる。選んだ本を、実際、声に出して読んでみると、どの文も一息で読むのにちょうど良い長さながら、言葉がひっかかるようでそこがエッジになって聞き流さない、自然に文末に余韻が生まれる作りになっていた。大人になってしまった子どものための、本でもある。

2009年12月17日木曜日

水死

大江健三郎の新しい書下ろし小説『水死』が近くの書店に並んだので、さっそく購入した。
赤い表紙に黒の文字で「大江健三郎 水死」と印刷された表紙は、昔の句集を思わせるシンプルさ。ややグロテスクで、インパクトがある。

読みはじめると、文体がとても平易になっていることに改めて驚いた。
これは『取り替え子』にはじまる三部作からすでに幾分はみられた傾向であるし、前作『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』でも明らかだった。
そして、この最新作においては、その傾向がさらに顕著になっているように感じた。

私は『万延元年のフットボール』や『同時代ゲーム』あたりのゴツゴツした文体が好きである。
おそらくそれは、日本語の曖昧さを極力排除しようとするところから生まれたものなのだろう。
文と格闘するように読むすすむ刺激を楽しみながら、ようやく慣れてきたころには、すっかり物語に夢中になってしまっている。そうなると仕事があろうがなんだろうが、本を手放すことができなくなる。

大江作品のなかでも、終盤、詩的イメージの氾濫が物語の大団円と交錯するようなもの、交響曲を聴き終えたときのような大きなカタルシスを得ることができるものがとくに好きである。
例をあげるなら『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『取り替え子』あたりだろうか。
『宙返り』にはエピローグ的な部分がついているが、クライマックスでの昂揚感は凄まじかった。

とは言え、最近のどちらかというと平易な文体が物足りないかというと、そういうわけでもない。
ただ単になめらかで読みやすいというだけではなく、かつてはゴツゴツと表面化していた知性というか批評性が内部に沈潜し、独特の粘りのある文体になっている。
文体そのものの刺激や抵抗感が薄れることによって、物語そのものの力強さが際立ってくるという面もある。

『水死』の「序章」を読んで、表紙の赤色が、物語のキーとなるらしい「赤革のトランク」の質感を再現したものだということがわかった。
本人も作中でやや自虐的に述べているとおり、発端は前作『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』とやや類似したパターンとも言える。
ただし雰囲気はがらりと違っていて、大江本人が投影された老作家の喜劇的な振る舞いは『アワーミュージック』(2004)でのゴダールを思わせるところがある。
散歩道で出会う人物も、前作では同年輩の男だったが、今作ではいかにも大江好みと思われる活動的な女性である。
この女性を相手役にして、おなじみのちょっと変態的な道化を自らの分身に演じさせる様子は、先生やりたい放題ですナと微笑ましくもあるが、本作のタイトルからも容易に想像できる今後の深刻な展開への予兆はしっかりと織り込まれている。

ちょっとした祝祭的な雰囲気を楽しみつつも、すでに物語という装置に絡め取られたというところか。
読後の印象はまた別途。

榾に書く村の記録の失せにけり   中村安伸

2009年12月14日月曜日

灯をともす

テレビで手相占いをやっているのを観て、なにげなく自分の手を眺めてみた。
はじめて気がついた。

生命線がない。いや、よくみるとある。3センチくらい。

生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある一本の釘  寺山修司

全体的にうすいしきれぎれだしごちゃごちゃしていてよくわからん。

螢来てともす手相の迷路かな  修司

しかし、あげまん線はある。

明日はジゴロかペテン師か
爪に灯をともし
暗い夜空に手をかざして
我身を占えば        (スカンピン/鈴木慶一)


じっと手をみる。

 弁当を電子レンジや沢庵にほふ   榮 猿丸

2009年12月11日金曜日

― 悪役礼賛! ―



  群舞また始まる寒林を抜けて   青山茂根



 上野の辺りには、異空間が存在するようだ。先週の週末、バレエを見るために東京文化会館へ向かった。言わずと知れた、バレエの殿堂である。大井町駅でJRを待っていると、ホームに子供を二人連れた母親らしき女性がいた。わりと大きな荷物を持ち、母親は何かを一心に調べている。その傍で二人の兄弟らしき男の子たちは、ふざけあうかと思うと蹴りあいになり、三年生くらいのお兄ちゃんのほうが、二つ下くらいの弟のおなかにボディーブロー、それがけっこう強力そうだ、大丈夫か、と心配になる。下の子は泣くわけではないがおなかを押さえてうずくまっていた。しまいに母親が仲裁に入り、「だってお兄ちゃんが・・・。」という弟に、兄が反論を始め、こちらは少し離れたところから面白く見物していた。

 入ってきた電車に、こちらも乗った。電車の中でまた二人は小競り合いを始め、ぴあマップか何かを見入っていた母親が、「あれ、この傷どうしたの?」と兄の顔を見咎める。「○○がさっきひっかいた。」「全くもう、あんたたちは・・・。」という会話が切れ切れに耳に入ってくる。「今日、僕の知ってる人出るの?△△△とか?」と聞こえた言葉にあれっと思った。それはどう考えてもロシアか或いは東欧方面の名前だったからである。

 案の定、彼らも私たちと同じく上野で電車を降りて、公園口へ向かうようである。科学博物館かも、でも電車の中の会話からすると、もしかして、と思いつつ先を急いだ。

 クラシックバレエを見始めたのは最近で、勤め出してから自分で先行発売のチケットを買って行っていたのは、もっぱらモダンバレエやダンスの類だった。ほとんど着ているかどうかといった衣装から、極限までの肉体というものの美しさが感じられたからだ。今回、クラシックバレエ鑑賞四回目にしてやっと、なぜ今まで自分がそれに興味を感じなかったのか悟った。そういや、小さい頃から、子供向け童話に登場するヒーロー、お姫様を助ける王子様に、全く関心がなかったのだ。それより、お城の絵が出てくると、じっと見入っている子供だった。もちろん、クラシックバレエの演目には王子様などの登場しないものもたくさんあるが、日本で客が入るのは古典的な白鳥の湖やくるみ割り、といった公演なため、自然とそれ以外の演目はあまり舞台に掛からない。

 と、いうわけで、その日の「眠れる森の美女」も、知り合いから友達が行けなくなったからチケット買ってくれない?と頼まれたからだった。ワガノワバレエ学校日本校関係者の席で、前から3列目とオーケストラピットから近いのに興味を持ったせいでもある。そんな席は生まれて初めてだった。そして、生オケって素晴らしい!と大興奮。生の演奏がついているというのは、バレエには必然なのだ、と悟る。トウシューズのつま先が床に当たる音を、舞台下から湧き上がる音楽が消してくれるのだ。録音のテープを使う公演だと、スピーカーが上部にあるため、このアタック音が非常に耳につく。自分にとって、それは大きな発見だったが、次回からこのような席でないと堪能できない身体になりそうで怖い。どうしよう、だって今回は知り合いが割り引いてくれたからいいが、通常はかなり高い。

 さらに、その舞台近くで見る、ダンサーたちの素晴らしさ!周りの女性たちは老いも若きも、王子様役のダンサーの金髪と整った容姿(まさしく白系ロシア美男子!)に(もちろんその技術にも)、感嘆の声を挙げていたが、私は全く違うところで一人盛り上がる。悪役のダンサーがなんとも魅力的なのだ。デコラティブな白いきらきらの乗り物を手下の悪の精に引かせて登場し、黒いマントを翻しながら、杖を振り上げ、やりたい放題の演技。しかも、邪悪な作りながらめちゃイケメン。ああ、悪の精カラボス!とクラクラである。衣装の見事さも目をひいた。王子様はよく見かけるのと同じ白いきらきらした上衣に白いタイツで、日本のバレエ団の公演とそう変わりばえするようには見えないが、この悪の精カラボスは、つま先まである黒い光沢のあるベルベットのロングガウンにスワロフスキーの輝きをふんだんに散りばめてまあゴージャス。ど派手なゴスロリである。他で見た日本の公演でそんな衣装はなかった。こういうところが本場ロシアでも最高峰のバレエ団らしい。舞台全体の迫力というものを、計算し尽くしてあるのだろう。

 しかも、そのやりたい放題カラボスを取り巻く邪悪な手下たちの踊りと衣装がまた凝っていた。コウモリのような黒い魔物たちが外側を跳ね回り、オフホワイトの衣装の手下たちがゴシックレースの袖口を指先よりびらびらに長く垂らして、インベーダーのように身体を屈めて踊りまくる。楳図かずおの『漂流教室』に確かこんな人間の変化したやつ出てきたはず、と見入ってしまった。もうこのヒールたちが見られただけで幸せ。この場面で舞台に心奪われて放心状態なのは多分私一人か。周りの席の人などもう目に入らない、至福の3時間半だった。

 こういった観劇の楽しみは、幕間に、来場している観客たちの着てるものチェックをすることにもある。たまに結婚式の御呼ばれと同じような格好で来る人たちがいるが、かなり格好悪いとしか見えないことを知らないのだろう。こういう場合、華はステージ上であり、自分は少し引いていながら、バレエを見る喜びを服装でもどこかで表現しているのが理想。と、自分をかなり棚にあげているが、とにかく来ている人を見るのは楽しい。その日はわりと観客全体が地味だったが、きちんとスーツに身を包んだロシア人のカップルや、やはりロシア系らしい白と黒の市松模様に黒いベルベットのドレスの女の子など、こちらも思わず笑みがこぼれる。今時ボディコンの短いワンピースはコールガールにしか見えないだろ、と突っ込みたくなる二人連れの白人女性もいたが、エスコート無しなところを見ると本当にそっち系の方かもしれない(いや自分だってエスコートなしの娘連れだが)。などと、ソファに座って観察していたら、さっきの男の子たちがいた。よく飽きてしまわなかったな、と感心する。いやがるのをとにかく着せました、という感じのボタンダウンシャツとカーキのコーデュロイのズボンが、開けた襟元(というより一番上までボタンを留めるのをいやがったのだろう)やゆったりした足まわりなどかえってこなれていておしゃれに見える。小さい子にもきっちりスーツにネクタイを着せる人もいるが、お式でもないのに何か形式ばっていてつまらない。男の人の場合は、ばっちりきめるにしろルーズに着こなすにしろ、その人の雰囲気に合っていないといま一つなようだ。とかなんとか、アルコールのグラスを傾けながらぼんやり眺めるのが幕間の楽しみなのだ。ガラスの外は、見事な銀杏黄葉だった。

 前回は10年以上前のキーロフ・オペラだったか、久々の上野に行くならコリアンタウンだよ、と数人から言われていたのだが、バレエを見た格好ではそうも行かず残念だった。匂いもつくだろうし、ディープな店にはかなり場違いである。観劇のあとのリラックスした食事も、欠かせない要素なのだが。結局いつも劇場の上の店でお茶を濁してしまうので、どっか上野で探しておかなくちゃ、ともう次を見る気になっている。

 
 

2009年12月10日木曜日

男子校茶道部

高校の茶道部に入部した理由のひとつは、陶磁器を中心に古美術が好きな父親の影響だろう。
もうひとつの理由は顧問のO先生の存在である。

世界史担当のO先生の授業はユーモアと含蓄に富んだもので、崇拝している生徒が少なくなかった。
一年間の授業時間数に内容が収まりきらないので、夏休みに奈良市内で補修のための「世界史合宿」が行われた。
世界史の授業のみが朝から夕方まで行われる二日間というのは、私にとっては至福であった。
合宿といってもほとんどの生徒は自宅から通ったのだが、私を含めた数人は、家が遠いわけでもないのに先生とともに会場に宿泊することにした。
就寝前には先生が日課としている特殊な体操を教えてもらい、起床後は会場に隣接した平城宮址を散歩したような気がする。

茶道部は外部から先生をお呼びするのではなく、O先生直接のご指導によるものであった。
流派は少しマイナーな石州流である。
わが母校に程近い大和小泉というところは、石州流の祖、片桐石州のかつての所領で、石州が父の菩提寺として建立し、現在も石州流の拠点である慈光院の所在地である。
先生の言によれば、石州流は表千家や裏千家とは異なる武家の茶であり、男子が嗜むにふさわしいということであった。
たしかに裏千家と比較すると、手数もやや多く、やや格式張ったところがある。

週二回の練習は和室のある宿直室で行われた。炉がないため年中風炉点前である。
基本の平点前より先に、小卓というちいさな棚のようなものを用いた点前を覚えた。
菓子は四分の一程度から、ひどいときには十六分の一程度の大きさに切り分けて使用したものだった。

文化祭においては、一般公開の日曜日に野点を行うのが恒例で、大和郡山市内にある老舗の菓子店に、この日のために特注したお菓子を使用した。
道具はO先生私有のものを貸していただいたのだが、法隆寺古材を用いた茶杓、荻原井泉水の「棹さして月のただ中」の短冊などがあったのを記憶している。
半東という茶席の進行役が道具を紹介した。
部員は主人と半東、そして水屋で正客以外の茶を用意する裏方を交代でつとめた。

当時の私は、岡倉天心の『茶の本』を読んだりして、茶道の型だけではなく、自分なりにその精神を理解しようとしていたと思う。
奈良の文化会館ではじめて歌舞伎公演を観て夢中になったのもちょうどその頃で、伝統文化への関心を大きく深めた時期だったのだろう。

ちなみにそのときの公演は、中村扇雀(現坂田藤十郎)、中村富十郎、市川左團次を中心とした一座で、亡くなった坂東吉弥もいた。演目は『土屋主税』と『身替座禅』で口上もあった。
私はさっそく年末の南座顔見世興行を観劇しており、先代(代数としては先々代)片岡仁左衛門の『馬斬り』、先代坂東三津五郎の『喜撰』、扇雀の『二月堂』、富十郎の弁慶、福助(現梅玉)の富樫による『勧進帳』、あと、配役は忘れてしまったが『三人吉三』の大川端が出た。
改築前の、洞窟のように暗くて狭い三階席である。

O先生については他にも忘れられない思い出がある。
私は当時、軽音楽部、茶道部のほかに文芸部にも所属していたのだが、その機関誌に掲載したSF風の短編をお褒めいただいた一方で、一緒に掲載したいくつかの俳句作品について多少厳しく批判されたのだった。
そのご意見を今も折にふれて思い出すことがある。それが、俳句と向き合う姿勢を反省するよすがになっていると思う。


凩を束ねて狭き冠木門   中村安伸

―――――――――――――――

告知

猿丸さんの記事ですでにご紹介いただいておりますが、再度告知させていただきます。

・筑紫磐井、対馬康子、高山れおな編 『新撰21』 (邑書林)
四十歳以下の俳人二十一人の俳句作品百句を掲載したアンソロジーで、若手俳人を中心にしたこのような企画が世に出るのは約二十年ぶりとのことです。
私も参加させていただいております。
なお、haiku&meの青山茂根、栄猿丸両氏を含む四十五歳以下の二十一人が、各俳人の小論を寄せています。
詳細はこちらをご参照ください。

・第115回現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」
小野裕三氏、上田信治氏、大畑等氏という強力なメンバーをゲストにお迎えしております。
私は僭越ながら司会を努めさせていただきます。
詳細はこちらをご参照ください。

2009年12月8日火曜日

三角点

  
  月明の三角点に獣来る    広渡敬雄


 今年の夏、新田次郎原作「劒岳 点の記」が封切されて話題となった。

 1907年(明治40年、)日本山岳会初代会長小島烏水(仲村トオル)等と競いながら、
参謀本部測量部の測量手柴崎芳太郎(浅井忠信)、案内人宇治長次郎(香川照之)、測夫生田信(松田龍平)ら総勢七名が、周辺の山々の頂きに三角点を設置後、難航不落と言われた劒岳に紆余曲折の末、長次郎谷の急峻な雪渓を攀じ登り三角点を設置した事実を映画化。過酷な気候の中、日本地図完成の為に最後の空白地点を埋めるべく、命を賭けて挑む男のドラマとして注目された。

  四季折々の美しくも厳しい大自然がスクリーン一杯に圧倒的迫力で迫ってくるのは、名カメラマン木村大作の50年の映画人生での始めての監督作品であるからかも知れない。前人未踏と言われたこの頂きには、既に祈願礼拝の法具(錫杖、鉄剣の先等)が残されていて、今でも初登頂者は謎と言われる。

 「点の記」とは、三角点の戸籍と言われ、設置日時、場所、設定者、経緯、周辺略図等が記載され、永久保存されている(閲覧可能)。明治24年の東京湾平均海面による「日本水準点」を元に、麻布にあった旧東京天文台と千葉県鹿野山(マザー牧場、神野寺で名高い)とを結んだ線を基本底辺(基準方位)とした三角測量をスタートし、その後は同様な三角測量を展開。

 概ね一等三角点は、一辺25~45キロ毎に全国に975ヶ所、一辺8キロ毎の二等三角点は約5,000ヶ所、一辺4キロ毎の三等三角点が、約32,000ヶ所あり、現在も増えている。

 重さ約90キロの三角点標石、45キロのその磐石、測量機材等を運び上げる苦労は並大抵では無かったろう。その当時、殆どの山には概ね道がなく、地元の猟師、木樵等を雇って進めたと聞く。また、それを設置する場所の選定(選点)も大変だった。

 測量上他の三角点からの眺望の良さに加え、観測用の櫓を組み、標石を埋め込めるかがポイントになるからである。標石を埋め込めない岩峰は不可となるからである。

 現在は、車で容易に行ける場所に、GPS(全地球測位システム)を利用した電子基準点が増大している。

 意外に思われるかも知れないが、「三角点」に関心を持つ人は多く、ブログ等が多く開設されており、その解説書、三角点の山からの展望図の書物も多い。

 「日本百名山」同様に、「日本一等三角点百名山」もあるが、その内の2~3の山は道がなく、猛烈な藪を漕ぐか、沢づたいか、積雪期登山でしか登頂が出来ず、文字通り三角点が設置された百年以上前を彷彿される登山となる。

 三角点は、山頂ばかりでなく、平地にも多く、校庭、田畑、住宅地にもある。
意外な所としては、お台場公園の第三台場、女人禁制の山上ヶ岳、自衛隊敷地内の大滝根山、東京天文台の敷地内の堂平山、絶海の孤島の渡島大島等がある。

 三角点のある山頂は総じて展望に恵まれるが、既に設置されてから百年以上経過しているため、樹木に覆われて全く展望がきかないところ、その三角点すら見つからないのもある。
(三角点の設置場所は、国土地理院の地図に△印と、その標高の表示がある)

 日本で一番高い一等三角点は、富士山でも第二の高峰北岳でもなく、南アルプスの赤石山脈の盟主赤石岳(3120.06m)、ちなみに富士山は二等三角点(3775.6m)。

  この山の所有者は東海パルプ(旧大倉林業)。大倉財閥の総帥大倉喜八郎が、1926年(大正15年)88歳の時、駕籠に乗り、200名の従者に風呂桶、水、食料等を運ばせ愛人と伴に大名登山を行い、頂上で風呂に入ったという逸話もある山であり、日本アルプスの父であるウオルター・ウエストンも来日早々の1892年(明治25年)に登っている。殆どの高峰が国有のなか、稀な私有である。この地域は、戦前南アルプスの大量伐採した木材を筏に組み大井川の水流を活用して搬送していた。

  翻って最低の一等三角点は、大阪・堺の蘇鉄山(6.80m)。蘇鉄山は人工の盛土だが、名勝大浜公園内にあり、地元の俳句結社の吟行地にもなっている、階段をとんとんと登れば山頂である。

 三等三角点まで広げると、大阪港の天保山(4.53m)。文字通り天保時代(1831~33年)に安治川、木津川の河口改修の浚渫の土砂を積み上げ最盛期には高さ20mはあり、大阪町人の春夏秋冬の行楽地として賑わった。現在も海遊館を中心に大阪ベイエリアの人気スポット、話題のユニバーサル・スタジオ・ジャパンも近い。大阪人らしい「遊びの精神」で近くの店で10円の登頂認定書をもらえる。直ぐ横は岸壁で海。

 三角点は、頭部が18cm角(正方形)が標準、全体の高さは82cmで、そのうち70cmが地中に埋められている。つまり、よく山頂で見かける三角点は、氷山よろしく大半は地中にある。標石に南面に三角点(一等、二等、三等)の表示があるので、その面に立てば、顔の向きは北となる。

 標石の頭部の中央に+印が刻んであるが、極めて稀のケースでは、それが×印のものがある。測量部の指示が地元の石屋に徹底しなかったからとも言われているが、南アルプスの深南部の黒法師岳、他にも少々。マニア垂涎の山であるが、深山の秘峰。

 これまで踏破した中で殊に印象深かった一等三角点は、九州の屋久島と種子島。

 屋久島は洋上アルプスとも言われ、九州最高峰の宮之浦岳(1934.99m)は、美しい花崗岩とそれを埋め尽くす笹原の中にあり、全方位に海が見下ろせる。

 その森林限界の下は世界自然遺産ともなっている「屋久杉」の宝庫。屋久島では、樹齢7,200年とも言われる縄文杉他樹齢千年以上の大杉しか「屋久杉」と呼ばれないそうだが、一ヶ月に35日雨が降るという年間3,000~10,000mmの降水量と温暖な気候が豊かな大杉を育てる。鹿、猿も住民の数以上に生息している。

 一方、その屋久島の東に対照的に平らな種子島がある。鉄砲伝来と内之浦のロケット打ち上げで有名だが、宮之浦岳から見ると、その中心部が低いため、一島が離れた二島のように見える。この島のやや北部の上大久保の一等三角点(158.06m)は、なだらかな丘陵地帯の一面のサトウキビ畑の中にある。そこからサトウキビ畑越しに宮之浦岳を始めとした洋上アルプスの屋久島がまるで巨艦のようにぽっかりと海を隔てて見えて圧巻だった。

 対照的なふたつの島とその一等三角点が忘れえない。

参考文献:日本山岳会会報「山」、ウオルター・ウエストン「日本アルプス 登山と探検」、窪田弘「一等三角点」(新ハイキング社)、他各種三角点関連出版資料、ブログ。

2009年12月7日月曜日

宣伝と告知でお茶を濁しているわけではない

昨夜遅く帰宅すると、『セレクション俳人プラス 新撰21』が届いていた。40歳未満の若手俳人のアンソロジー。まだパラパラとしか見ていないが、おもしろい。最初の感想は、人選がバラエティに富んでいるのがよかったということ。これが、高柳克弘とか佐藤文香とか相子智恵とか、雑誌でみるような人たちばかりが並んでいたら、意外につまらないんじゃないかと思う、本としては。評価の定まった俳人のアンソロジーならいざ知らず、この本で実質的に俳壇デビューする人もいるわけで、なんでこんな奴がのってるんだ、と言われそうな人がじつはこの本を魅力的にしている、と感じた。まだパラパラ読みの感想だが。巻末の、筑紫磐井、対馬康子、小澤實、高山れおなの合評座談会も4人のバランスがよく、オールド・パーソンズ・ガイドとして抜群の企画。痒いところに手が届くような配慮がうれしい。編者と島田牙城氏、さすがだ。作品自体の評価は作者の負うところだが、一冊の本としてとても充実している。なによりおもしろい。

座談会でも述べられている、「澤」の若手特集(2007年7月号 特集「二十代三十代の俳人」)では13人50句だったが、今回は21人100句。100句ならぶとさすがにその作家の個性や力量など、いろいろなものが見えてくる。顕わになる。これはまた句集とも違うんだな。アンソロジーの面白さと怖さ。あらためて俳句アンソロジーの魅力を再確認した。

というわけで当分パラパラ読みが続きそうだ。パラパラめくっていて、ふと目が止まり、じっくり読む。そんなことを繰り返す。どこからでも読めるという、これもアンソロジーの愉しい読み方。2100句だもんな。お買い得です、これは。みなさん本屋に走りましょう(今日はまだ東京の本屋では並んでいなかったようですが、数日のうちに並ぶでしょう)。

ちなみにhaiku&meの3人も参加してます。中村安伸は21人のひとり、青山茂根とわたしのオーバー40組は作家小論執筆を担当させてもらっています。しかし3人のうち、プロフィールにhaiku&meのことを載せているのは茂根さんだけという事実が判明。なんということだ。粗忽ですみません。


以下、告知です。
わがhaiku&meの中村安伸さんがMC!

週刊俳句さんの記事からの引用。

第115回現代俳句協会青年部勉強会
俳人とインターネット

30 年前、車が飛行し、テレビは立体映像、月への定期便が運行されるような21世紀を誰もが夢想していました。しかし、携帯電話やインターネットの普及を予知した人はいませんでした。俳人が「インターネットと俳句」について薔薇色の未来を語るとき、似たような過ちを犯してはいないでしょうか。正確な知識を持たない人ほどふわふわとした「可能性」を語りがちです。普及して十数年の間、俳人たちがインターネットとどのように関わってきたか、現在どのように活用しているか、その限界や特徴を整理したうえで、はじめて未来に目を向けることができるはず。積極的にインターネットを活用している俳人をゲストにお迎えし、実践的なお話を伺う予定です。

  ゲスト:上田信治氏・大畑等氏・小野裕三氏
  司 会:中村安伸
  日 時:平成21年12月12日(土)14:00〜16:30(予定)
  場 所:現代俳句協会分室
  (文京区湯島3-10-10吉澤・川辺ビル4階)
  ※終了後に懇親会を予定しています

  参加費 参加費500円、定員30名(受付順)
  お申し込み、お問い合わせなど 現代俳句協会青年部
  TEL 03-3839-8190  FAX 03-3839-8191
  <E-mail> genhaiseinenbu@yahoo.co.jp


『新撰21』、そして現俳協青年部の告知のあとに、自分の句を載せるってどうなの。

 ビニルテープの線冴ゆ体育館の床   榮 猿丸


2009年12月4日金曜日

 ― 例句と解体 ―

  うしろから口ふさがれてゐてふくろふ    青山茂根


 すでに絶版になっているが、水原秋櫻子編の『新編 歳時記』(大泉書店 私が持っているのは昭和48年発行の第33版)を折に触れひらく。A6横判という小さいもので、季語も三千余りと少ないのだが、布張りの表紙の手触りとともに、心和むものがある。これを古本屋で見つけたときは、まだ最初の結社に入ったばかりだったか。秋櫻子による序を開くと、当時の私の師の師である、能村登四郎と林翔の名が、新進と称される若き編者として載っていた。

 例句ばかりでなく季語の説明文も、旧仮名で記されていて、柔らかに頭へ染み込むように思う。そもそもの国文の素養に欠ける私は、仮名遣いの間違いを始終していたので、古書店にいくつか並んでいた歳時記の中で、それを選んだのはそんな理由もあった。載っている季語の選択も、もしかして馬酔木好み?と思える部分もあり、説明も叙情を目指せと言わんばかりの傾向なのがかえって面白い。「梅」の項に(春の部担当は林翔)、書かれている文を引いてみる。ちょっとおせっかい過ぎと感じられなくもないのがかえって親しみを覚える。私はたまたま梅の名所というところに近く育ったので、その満開の木々が川の堤に遠くまで並び、白くほの明るい夕べの風景もまた郷愁を誘うものであることを知っている。

 (前略)・・・梅園などへ行くと、茶屋の縁台に緋毛氈が掛けてあつたりするが、そんな俗な所に目を着けたのでは、梅の句としての価値を全くなくしてしまふ。梅林を訪れるのは差し支えないが、野路に山路に或いは庭先に見出した一幹乃至数幹の梅にこそ、真の風情はあるであらう。

 そこに載せられている例句はといえば、一時馬酔木に投句していた作者もあり、今の我々からは意外な、あの人のこんな句が馬酔木に存在していたのか、という印象を受ける。
  曳曳と猪逐ふ聲は三つの峯に      静塔
  三日月のひたとありたる嚏かな     草田男
  対岸の人と寒風もてつながる       三鬼

 どちらかというと、その俳人の代表句には入らないだろうという選択なのも何か頷けるのだ。各季節の執筆者によっても、その選び取られた句の傾向があるのだが、秋や冬の項には全く例句が入っていないが、春・夏には頻繁に出てくる馬酔木内の作者がいるのも興をそそる。
  金堂のくづほるるごとかげろひぬ     かけい
  胸あつくなりて胡蝶に手をのべぬ      〃
  いよよ窮迫今年の蟻のまづよぎる      〃
  わがまへに木瓜燃えたてりわが性も     〃
  かへりみてはげしきわれぞすみれ摘む   〃
  草競馬きつとまさをき雲の翳         〃
  雨安居螺鈿の手筥くもらさじ          〃
  佛法僧ちかきたぎちを夜目に越ゆ      〃
  馬籠妻籠をだまきの花こぼれけり      〃
  喜雨の蟹しづくたれつつ閾越ゆ       〃
  晒井の底より見たる揚羽蝶         〃
  
 俳号の苗字を記した箇所が一切ないので(他の句の作者についても同様)、断言は出来ないが、おそらく加藤かけいの句で間違いないだろう。掲載句に選ばれていない秋・冬に秀句が全くない、ということではなく、秋・冬の選者、それぞれ篠田悌二郎・澤聰の意向に拠るものと思われる。この歳時記の初版年が不明なのでなんとも言えないが(web上で見つけた橋本直氏の「近代季語についての報告(二)秋季・新年編」の調査歳時記一覧の中に、「昭和26年、大泉書店」とあったが、それが初版との記述はない)、その後馬酔木を去ることになるかけいの、馬酔木時代の句ということだろう。ともあれ、かけいを馬酔木内で評価していたのは、春・夏の執筆者、林翔・能村登四郎であったことは想像できる。 昭和23年にかけいは馬酔木を退会しているという事実、結社を去った人物の句をその主宰が編纂する一般へ向けての歳時記に載せるには、それだけの意志を必要とするだろう。

 仕事の合間に、この歳時記を見つけたのだった。その頃、よく足を運んでいた、神田錦町の博報堂旧本社ビルが、取り壊される予定だという。古書店街にも近く、そのクラシックな外観と、正面玄関から一歩足を踏み入れると間口とは不釣合いなほど太く大きな柱の間から、待ち合わせ用のソファが見え隠れする構図が好きだった。実際には、そこでゆっくりとソファに身を沈めている暇などなく、素通りするばかりだったのだが。昭和5年竣工、名建築家・岡田信一郎の設計による建物というのは、最近知った。もう一つ、その頃よく出かけた、東京駅の向かいの中央郵便局に並ぶ、旧東京ビルはすでに取り壊され、立て替えられてしまっている。深夜、石造りの廊下に響く足音や、古めかしい音をたてるエレベーターホールの意匠など、もう存在しないのだと思うとやるせない。

  

2009年12月3日木曜日

ならまちライブ

先週の記事で触れたが、落語とライブ(「歌うたい」と称している)のイベントに参加することになり、奈良へ帰省した。
このイベントは、中高時代の友人でアマチュア落語家でもあるM氏が中心となって数ヶ月に一度行っているものである。
後半の歌うたいコーナーは毎回、M氏、Y氏にリードギタリストG氏を加えた「はんなりブラザーズ」が受け持っている。
私はそのユニットにゲストのベーシストとして参加することになっていた。
ひと月ほど前にY氏が送ってくれた二曲分の音源ファイル。それにあわせて炬燵に入りながら一人でベースのアレンジと練習を行い、大体感じはつかめていた。

帰省の交通機関は飛行機や夜行バスを使うことも多いが、今回は楽器を預けたくなかったので、新幹線にした。
時代おくれのソフトケースに入ったフェンダーの黒いベース。
中学生のとき祖母にねだってはじめて手にしたものであり、これ以外のベースを所持したことはない。

木曜日の夕方だった。
『鹿男あをによし』の第一回のように、京都から奈良へ向かう近鉄電車に乗った。
充血したような夕陽が車窓から、ちょうど私たちに並走しつつ低い山の稜線上を転がってゆく

近鉄奈良駅からJR奈良駅へと歩き(結構遠い。)関西本線に乗って午後6時前にはY氏の経営する歯科医院に到着。さっそく二人でセッティングをはじめた。
7時すぎにM氏が到着した。
リードギターのG氏は仕事の都合で来られなかったため、三人でさらに音のバランスを調整しつつ、新参の私が参加する二曲を中心に音をあわせていった。
自然と曲に抑揚が生まれ、Y氏の歌いかたも、私のベースのアレンジもそれにつれて変化してゆく。
音源ファイルによる練習では決して生まれない一体感、これこそがバンドの醍醐味である。

ライブ前日の土曜日の夕方には、会場へ機材を運んでさらに練習を行った。
リードギターのG氏を加え、最終的な音のバランスを調整する。

今回の会場は落語のためのスペースであり、音響に関する設備はなく、機材はすべて持ち込みである。
本来ならばベースはベースアンプにつなぎたいところだが、機材が多くなりすぎるため、シールドケーブルを直接ミキサーにつなぐことになった。
このためか、どうしても低音の圧力が不足してしまった。
途中まで使っていたギター用のシールドケーブルを、私が用意していたベース用のものに交換すると、幾分改善された。

この日も深夜まで練習は続き、後片付けをして食事し、帰宅すると日付は変わっており、寝たのは結局3時すぎであった。
帰宅後ベースの弦を替えようとしたら、用意していた弦がベースのサイズにあわない、つまり短すぎるものだったということが判明した。
ベースのスケール(長さ)にはラージ、ミディアム、ショートという三種類があり、私が所持しているベースはミディアムスケールなのだが、なぜかショートスケール用の弦を購入していたのだった。

翌朝11時半の集合時間までになんとか弦を購入し、リハーサルがはじまるまでの間に張替えなくてはならない。
すこしはやめに奈良に到着し、ネットで探しておいたJR奈良駅付近の楽器店に行ってみると、年老いた店主が一人で経営しているローカル色豊かな店で、ベースの弦もあるにはあったが、私がほしかったダダリオというブランドの弦はロングスケール用のものしかなかった。
大は小をかねるということで、しかたなくそれを購入した。
帰り際に店主が「あわてんと、ゆっくり張替えてください。」と言ってくれた。

会場に着くと早すぎてまだ開いていない。
すこしばかり散歩しようと楽器を背負ったまま奈良町を少々散歩した。
もともと中世からの古い町並みで知られた場所ではあるが、近年はカフェなどのおしゃれな店も増え、日曜日ということもあって多くの観光客がそぞろ歩いている。
漢方薬のお店に立ち寄って生姜飴を購入したところ、お店の女性が私の背負った楽器に目をつけ「近くで演奏するの?」と聞いてくれた。
「奈良町落語館で午後からやります。」と答えたが、落語館をご存知ではない様子であった。

11時半ちょうどに会場入りした私は、楽屋となっている仏間――つまりここは個人宅でもあるのだが――にこもって弦の張替え作業を開始した。
先ほどの楽器店店主は「張り替えたことあるんやったら、余計なことは言わんとこう。」とおっしゃっていた。
もちろん弦の張替え作業は何度も行っているのだが、実のところ十年以上ぶりであり、緊張していた。
ロングスケール用なので、太さは同じだが長い。
したがって先の余る部分をペンチで切ることになる。
このとき、まず弦を折り曲げてから切断しないと、弦の性能が著しく落ちるらしい。

金属そのものの色にかがやく新しい弦。
それにくらべると、とりはずした古い弦は輝きを失い、衰えたものとして目に映った。
それを、新しい弦の切れ端といっしょに袋につめこんだ。

新しい弦を張ったベースはビリビリとした金属質のノイズをたてつつ、よく鳴った。
最初はあちこちにゆるみがあるので、しごいたり引っ張ったり、弾き込んだりして慣らしていかなくてはならない。音程も狂いやすい。
本番まで時間があるにもかかわらず、急いで作業をしなければならなかったのはそのためである。

メンバーが揃うとすぐに機材を並べ、最終リハーサルを行った。
私の前に置かれた譜面台は、尺八をやっている父から借りてきたもので、アルミ製で軽い邦楽用の簡易版である。

リハーサル直前に最大のピンチが発生した。Y氏のミスで4つほどのエフェクターがこわれてしまったのである。
エフェクターとは、ギターの音色を加工するための小型の機器であるが、電圧の違うACアダプターをつないだため、おそらくはコンデンサーが飛んでしまった。
なんとか無事だったいくつかのエフェクターを使って演奏することにして、急遽セッティングを変更し、どうにかリハーサルを開始することになった。
時間がないので、各曲の一部だけをやった。

私はもともとは、二曲のみ演奏する予定だったが、最後の二曲を残して引っ込むのもさびしいので、それらも急遽弾くことにした。合計四曲である。
ラストの曲は前日のリハーサルでも弾いていたが、ラスト前の曲については、このリハーサルでワンコーラス弾いたのみのぶっつけ本番となった。

リハーサル終盤には気のはやいお客さんが入ってきた。
といっても最初に来たのはわれわれの中高時代の恩師、そして二組めが私の両親だった。

機材をいったん片付け、第一部の落語である。
最初に登場するのがM氏なのだが、ネタをコピーした紙を前日、会場に忘れて帰ったとかで、結局覚えきることが出来なかったらしい。
そこで、予定していたネタとは違うものを急遽演じることになってしまったが、さすがに何の問題もなくこなしていた。

二人目に登場したのは、われわれの中高時代の先輩にあたる方である。
非常に上手く味のある落語で、われわれも楽屋兼仏間で出番を待ちながらつい笑ってしまうほどであった。

休憩10分のあいだにスタンバイを行い、演奏がはじまった。
セットリストは全部で7曲だがY氏、M氏を中心にしたトークがかなりのウエイトを占めている。

3人の「はんなりブラザーズ」による演奏3曲が終わり、M氏の紹介で私が登場した。
といっても、最前列の客席から高座前の椅子まで2メートルほど移動したのみであるが。
実は演奏よりもむしろトークのほうに緊張していたのだが、なんとか切り抜けて4曲めがはじまった。
これはM氏の作詞作曲によるミディアムテンポのバラード曲である。
Y氏、M氏がサビのワンフレーズをアカペラで唄い、つづいて私が背後の高座に置かれたリズムマシンのPlayボタンを押す。カウントのあとイントロ。
緊張もあったので、落ち着いて正確に弾くようにこころがけた。

5曲目でY氏がギターをオベーションのエレアコからレスポールに持ち替えるため、私とM氏がトークでつながなくてはならない。
曲はG氏が高校生のときに作った曲で、彼がリードボーカルを担当する。また、カズーという笛のようなプラスチックの楽器をハーモニカホルダーに挟み、間奏を吹いた。
ベースは基本的に八分音符のべた弾きするのだが、低音の音圧が足りないせいか、ノリを出すのがとても難しかった。
5曲目終了後には再度Y氏のギター持ち替えが発生し、再度トークである。実のところトークに関してはほとんどM氏におんぶにだっこ状態であった。

さて、6曲目、これはY氏の作曲であるが作詞したおぼえはないとのこと。つまり作詞者不明。
土曜日の練習のあとにスコア(といっても歌詞の上にコードが書いてあるだけ。)をコピーしてもらい、眺めているうちにこれなら弾けると思って練習をはじめたのが当日の朝。
コード進行がシンプルだったので、出かけるまでには歌いながら弾けそうなくらいの感じになってはいた。
先程のべたとおり、フルコーラスあわせるのはぶっつけ本番だったが、気持ちよく弾くことができた。

基本的にはコードのルート音、たとえばCというコードならC、AmならAの音を弾くだけなので、べつに難しいことはないのだが、ボーカルの音域の都合などで、作曲後にキーを変えてあったりすると少々ややこしい。
ギターはカポタストという器具を使うことにより、簡単に言うとギターの長さを縮めることによってキーを上げることができるが、ベースにはそういったものがないため、頭の中で音をずらさないといけなくなる。
6曲め、7曲目をほとんど即席で弾けたのは、こうしたキーの変更がなかったからでもある。
スコアの音名を書きなおせば済む話かもしれないが……。

ラストの7曲目はM氏の作詞作曲による、10分ほどにもおよぶ大作であり、台詞というか語りのパートもある。
歌詞の内容は挽歌ということになるが、やさしい言葉でつづられており、メロディーも覚えやすく美しい。

「はんなりブラザーズ」の楽曲はどれも親しみやすいもので、M氏の美声をよく生かしていると思った。
ちなみに三人の音楽的バックグラウンドは、Y氏がロック、M氏がポップス、G氏がブルースといったところか。それらがバランスよく組み合わせられていると思う。
私も次回からはゲストではなく正式メンバーということになるようだ。

いろいろとトラブルがあったとはいえ、ライブはおおむね成功だったと思う。
身内や知り合いがほとんどだったとはいえ、オーディエンスの反応もあたたかいものだった。

イベント終了後判明したことだが、ビデオテープの交換ミスのため、私の登場直前に録画が切れてしまっていた。
したがって、演奏シーンをyoutubeもしくはニコニコ動画にアップするという目論見は残念ながら頓挫してしまった。

さて、以下に掲出する拙句は、練習のなかった金曜日、実家の近所の信貴山と竜田川の紅葉を見てまわった折のものである。

人造湖くらき紅葉を映しけり   中村安伸

2009年12月1日火曜日

  俳句鑑賞は終わらない

haiku & meの言葉・即物・浪漫……高山れおな


 「俳句界」の十二月号をパラパラしておりましたら、半頁大のとある広告に目が止まりました。「宝井其角生誕三五〇年記念 本邦初 俳文コンテスト作品募集」というのがそれです。選者には、加藤郁乎氏を先頭に、土屋実郎、須藤徹、鳴戸奈菜、二上貴夫……と、知った名前や知らない名前がならんでおります。驚いたのは主催者で、NPO法人其角座継承會というのです。うーむ、其角座などというものがいまだ存続していたとは。さて、その広告の「俳文の定義」の項を見ますと、「公募にあたり一義的に俳文の定義を定めず、《少なくとも俳句一句以上を含んだ、千二百字以内の文章》とします。」とあります。「haiku & me」の皆さんが、俳文という意識で書いておられるのかどうか、今ひとつ判然としませんが、どうせならその方向で純化してゆくことを試みられたら面白いのに、といつも思いながら拝見しておりました。そんなこともあって、「俳句界」の広告にハッとしたのでした。

 「haiku & me」の俳句を鑑賞せよと青山茂根さんから御下命を受けたまま日がたってしまいました。ホームグラウンドである「俳句空間――豈weekly」にさえ記事を書けない状態がずっと続いておりました。御海容を請う次第です。で、日がたちすぎて「haiku & me」の何月分を鑑賞せよというお話だったのか忘れてしまいました。茂根さんに尋ねればいいんですけど、それも面倒なので、ラベル欄の掲出順に、既発表作を全て読んでしまいます(十一月二十日分まで)。基本的に対象は俳句だけ。文章の方は、必要に応じて参照します。

 上野葉月
  流星やバカと囁かれてみたい    10月8日
  鍵盤を滑る指先秋桜           9月15日
  朝顔の薄い薄いと呟けり        9月8日
  肖像の首長くあり桐一葉         9月3日
  パプリカのサラダさらさら夜の秋    8月25日
  零戦に尾鰭背鰭のありにけり      8月18日
  梨硬しメール取り出す塾帰り       8月11日

 言葉の意味はわかっても、何を表現したいのかが伝わってこない憾みがあります。着想、レトリック共に、突き抜けたものが感じられないのは残念でした。例えば一句目「流星やバカと囁かれてみたい」。着想が、いささか古めかしい通俗歌謡の歌詞のようでいただけません。作者は、ほんとに「バカと囁かれてみたい」のでしょうか。気がお若いのはよくわかるのですが。

 それから六句目「零戦に尾鰭背鰭のありにけり」。零戦にはとうぜん主翼があり尾翼があり垂直翼があります。飛行機の翼はそもそも魚の鰭のような形をしています。元来、似た形状のものを、「尾鰭背鰭」と言い換えることにどのような興があるのでしょうか。南方で撃墜された零戦が、魚のように海中をさまよっている、といったようなイメージなら興の在り処は見えます。しかしもちろん、この句はそのようには書かれていません。

 次の「梨硬しメール取り出す塾帰り」も表現が舌足らずに思われます。塾が終わってポケットか鞄から携帯電話を取り出し、メールをチェックしている情景なのでしょうが、「メール取り出す」は言い回しとして熟していない感じがします(スラングとして定着している?)。「梨硬し」も情景にふさわしくないようです。弁当に梨が入っていることはあるにせよ、「塾帰り」なんですから今さら弁当の梨でもないでしょう。リンゴを歩きながら皮ごと食べることはあっても、梨はあまりそのようにしません。それとも、もう家に着いているのでしょうか。帰宅してパソコンを開いている。だったら景としてはまだしもわかります。でもどちらにしてもあまり面白くないし、再現的な句なのにピントが甘いのは争えません。他の四句は特に難も無いものの、ごく普通の俳句という以上を出ないようです。

 中村安伸
  ブラックコーヒーといふ喪装や秋晴れに   10月28日
  きちかうに神経に火をつけむとす       10月21日
  十月の森に囲まれ大使館            10月14日
  月姫のつめたき肌を病みにけり        10月7日
  引く波の渦を残せり秋彼岸            9月30日
  こほろぎを聴く図書館の設計図         9月23日
  緞帳の河緞帳の月映る              9月16日
  果てることなき休暇とも纏足とも        9月9日
  水の秋余白を毀す碧梧桐             9月2日
  秋空の一点に吊る転害門             8月26日
  秋の蚊やジグソーパズルとなる笑顔       8月19日
  液晶に秋の天気図指紋捺す            8月12日
  赤姫に臓腑の無くて日傘かな            8月5日
 
 沈鬱な表情をたたえた佳句がいくつもあり感銘しました。一句目「ブラックコーヒーといふ喪装や秋晴れに」は、コーヒーの黒を喪の表象としての黒にとりなしているわけですが、喪服ではなく、「喪装」という見慣れない言葉を持ってきたのがポイントだと思います。喪服では具体的に過ぎ、平俗で理に落ちた印象になったでしょう。この句では具体的なのは「ブラックコーヒー」だけでいいのです。身近な誰かの死があったと読んでもいいし、そうではなく、何らかの失意をこのように表現したとしてもよいと思います。明るい「秋晴れ」を背景に、コーヒーの黒いたゆたいに見入っている暗い心を感じ取れば充分です。

 次の「きちかうに神経に火をつけむとす」も同様の構造を持っています。「きちかう」は、前句の「ブラックコーヒー」同様、眼前の実です。前句の人物がコーヒーに見入っていたように、この句の人物は「きちかう」に見入っているのですが、その心情は一層激しく、失意を通り越して身の内を焼くような怒りに苛まれています。それが「神経に火をつけむとす」というメタファーを呼び起こします。この「きちかう」は、いま現在うつくしく咲いているのであり、それに火をつけることはありえませんが、一方、枯れた供花を燃やすのは普通のことです。そこで「火をつけむとす」のメタファーは単なる比喩には終わらず、半ば実の裏づけも持っているのです。そのことが自分で自分が何をしでかすのかわからなくなっているような切迫感に、リアリティを与えています。「きちかうに神経に」というたたみかけるようなリズムも内容によく合って、強い句になっています。

 四句目「月姫のつめたき肌を病みにけり」は、上五中七を短歌の序詞のように読みたい。つまり、句の内容は「病みにけり」だけということです。本当に病んでいるのでも、病んでいるような気分だということでも、それはどちらでもいい。で、それはどんな病、どんな気分なのかといえば、「月姫のつめたき肌」のような病あるいは気分なのだという。世界から拒絶されたような、冷え冷えと萎縮した、そんな心持ちでしょうか。オタク界に「月姫」というアニメキャラクターが存在するようですが、この場合はそれではなく、文字面から読み手各人がイメージする「月姫」でいいし、かぐや姫の物語もありますからそれもそんなに難しいことではないでしょう。

 六句目は、「こほろぎを聴く/図書館の設計図」と句切って読めば、建築家が図書館の図面を引いている、あるいは関係者が図書館の図面を囲んで打ち合わせをしている、開け放たれた窓からはコオロギの声が聞こえてくる、といった情景を無理なく得ることができます。しかし、同時にそれだけで終わらせたくない気もします。そんな気を起こさせるのはもちろん「図書館」の力でしょう。もし、図書館をマンションに置き換えたらどうか。「こほろぎを聴くマンションの設計図」――うん、これでも全然、問題はない。むしろ情景としてはより普遍的かもしれません。でもしかし、やはり図書館の方がよいのです。そこでいっそ前述のように句切らずに、「『こほろぎを聴く図書館』の設計図」というふうに読んでみたらどうかと思うのです。秋には虫がすだくような庭のある図書館、あるいは建物の裏がそのまま山野に臨んでいる図書館かもしれません。江戸時代には、虫聞きといって、虫の名所に出かけていって虫の声を楽しむ習俗がありましたが(子規&虚子の道灌山一件で有名な道灌山はそうした名所のひとつでした)、そういう場所に建てるのだから、せっかくなら秋には虫たちの声を聞きながら本を読める構造に設計しよう、クライアントか建築家がそんなアイディアを思いついたとしたら……。想像をたくましくし過ぎだと言われそうですが、図書館の本質がじつはそのようなロマンティックなものなのではないでしょうか。我々の街のつまらない図書館ですら、一生かかっても読みきれないほどの文学と科学の、つまりは人間の想像力の産物を集積した場所なのです。いわんや史上のまた現在の数々の大図書館においておや。というわけで、最初に記したような実際的な情景を担保しつつ幻想に溶出してゆく、そんな二重性を持っているところが、この句の素晴らしさだと思います。

 八句目「果てることなき休暇とも纏足とも」も面白い。たまたま作者の中村さんの個人的状況を存じ上げていますし、またその個人的状況が機縁になって詠まれた句には違いないでしょうが、それにしても下六の「纏足とも」の転回には驚かされます。「纏足」という言葉に託されたのが閉塞感や地に足がつかないような不安な気分なのだとしても、この飛躍自体に一種の救いを覚えます。これをしも境涯詠と言って言えなくはありませんが、だとしたら境涯詠のニュータイプに他なりますまい。

 次の「水の秋余白を毀す碧梧桐」は成功作ではないとしても、凡作でもない。“余白の美”なる逃げ口上がわが国の造型美術を多分につまらなくしたと思っている人間としては、「余白を毀す」者として再定義された「碧梧桐」に快哉を叫ぶのにやぶさかではありません。しかし、「水の秋」――「余白」の語には映っているけれど、「碧梧桐」には合っているのかな。そこが今ひとつわかりません。

 十句目「秋空の一点に吊る転害門」。奈良といえば芭蕉であり、子規であり、秋櫻子であり、誰であり、彼であり、要するに俳句史はかなりの佳什を蓄えてきました。本作は、その列に加わるに足りる出来ではないでしょうか。まずは、転害門(てがいもん)という目のつけどころが冴えています。同じ東大寺の門でも、南大門や中門のあたりは観光客でごったがえしておりますが、広大な境内の西の外れに孤立している転害門まで見にゆくのは結構な物好きだけです。じつは東大寺でも唯一の創建当初の建物で(三月堂もそうですが、鎌倉時代に大改修を受けています)、単層の簡素な造りながら、やはり後出来のものとは違うんですね、アルカイックでとても美しい。そんな名建築が、車がビュンビュン行き交う道路のそばにさりげなく建っているのも古都の凄みではあります。さて、作者はそのような門を「秋空」に「吊る」してしまいました。この自在なイメージは、安井浩司(「埜をやくやしじまの空に馬具ひとつ」など)や攝津幸彦(「秋風の机上に六波羅蜜寺かな」など)に学んだものでしょう。天然の清爽と人工の清爽を、「一点に」貫いた佳吟です。

 十一句目「秋の蚊やジグソーパズルとなる笑顔」は、ただでさえ皺だらけの老人が笑うといよいよ無数の皺が寄ってまるでジグソーパズルのようだ、と言っているわけでは多分ない。というか、そうとも取れますが、それだとやや浅薄な見立て俳句にとどまるようです。年齢によらず笑えば皺が寄るわけで、皺は発想源にあるにはある。しかし、そこからさらに一歩踏みこんで心理的な崩壊感とか、疎隔感を詠もうとしていると思います。ジグソーパズルとは崩れを内包したものであり、かつイメージが細分化されている結果、元のままのつるんとした絵や写真よりも遠くにあるものだからです。「秋の蚊」にはそのような崩壊感、疎隔感とパラレルな、寓意的なニュアンスがこめられていると見てよいでしょう。そのあたりさえ押えておけば、自称と取るか他称と取るかなどは、読者の好みでよいと思います。

 最後に「赤姫に臓腑の無くて日傘かな」。歌舞伎のお姫様役は、赤い着物を着ていることが多いため、赤姫と総称されるそうです。赤姫は、生身の役者が演じているにもかかわらず、いわば「臓腑の無」い記号そのものではないか、と作者は言っているのでしょう。それにしてもなぜ“赤”姫なのでしょうか。他の色ではいけなかったのでしょうか。だって例えば、わが国の最高の文学作品で最高の女性として描かれている貴婦人をシンボライズする色は、紫だったではありませんか。もちろん視覚効果ということを考えれば、わからないではありません。しかし、それはほんとうに単なる視覚効果のためだけなの? 「蓮實重彦の書物は女が出てくるとにわかに精彩を放つ。それはまるで批評書ではなくフィクションを読んでいるような体験だと言ってもかまわない。そしてそのとき、読者の目の前で、本書に点在する『赤』は生々しい傷口、『フィクションという尋常ならざるものへの不気味な開孔部』になり、禍々しい緋文字、真っ赤な嘘に変貌する。」――これは二年前に出た蓮實重彦著『「赤」の誘惑 フィクション論序説』(新潮社 二〇〇七年)についての若島正氏の書評の一部です。赤姫が赤姫でなくてはいけない理由をかすめているのではないか、そんなふうに思って、唐突ながら引いてみました。この一節を読むと、「臓腑の無くて」の表現がいよいよ納得されるようです。中村赤姫は、おのが体腔の真っ赤な空虚を見せつけながら、長々と赤い裾を引き、日傘を差して俳句という舞台を悠然と横切ります。その時、生身即記号の存在である赤姫は、境涯即言葉の位置へと通過しようとする中村俳句の象徴と化すのかも知れません。

 広渡敬雄
  かなかなに遠き祖先やこの山毛欅にも   11月5日
  雪解けの水吸ふ音か山毛欅稚し         同
  雲生まる雪渓よりもまだ淡く          10月1日
  露過ぎしあとの水滴鳥兜              同
  広げたる地図に雲海迫り来る           同  


 先日は、御句集『ライカ』(ふらんす堂 二〇〇九年七月五日刊)の御恵投にあずかりました。遅ればせながら、この場を借りて御礼を申し上げます。人事句、自然詠、それぞれに読みどころ満載の句集だと思いましたが、とりわけ自分ではよくしない自然詠に惹かれました。櫂未知子さんの栞文に、「写生と情との間に存在する、曰く言い難いもの。自然の中に人間が分け入って、その言い難いものを得るのが俳句の理想ならば、敬雄俳句はその王道を歩んでいるといえるだろう。」とありますが、言い得て妙だと思います。

 一句目「かなかなに遠き祖先やこの山毛欅にも」はしかし、櫂さんの言う情の部分が、やや性急に前に出すぎて消化不良になってしまったようです。この場合の「遠き祖先」はもちろん、生物進化上の祖先ということでしょう。なるほど、「かなかな」にも「この山毛欅」にも「遠き祖先」にあたる種はあるに違いありませんけれど、そのことにシンパシーを抱けといわれてもいささか難しいのかなと思います。かなかなにせよ山毛欅にせよ、種としてあまりにも人間から遠過ぎるためです。

 二句目、三句目、四句目は、『ライカ』で拝見しました。どれもすがすがしい句ですが、こんどの文章と一緒に読むと、句の理解という点では逆に混乱するように思いました。例えば「雲生まる雪渓よりもまだ淡く」の句に引き続いて、大水上山に登られた話が出てきて、三角雪渓周辺の様子などが語られます。ために引きづられてこの句を近景を詠んだものと思って腑に落ちなかったのですが、句集では「乗鞍の雪渓見ゆる馬柵の冷え」と並んでいますから、遠景の句なのだと了解しました。それならよくわかります。三者のうちではとりわけ、「雪解けの水吸ふ音か山毛欅稚し」が好きです。御句集中には他に、「蓬摘む畦の弾みの伝はり来」「春筍を掘るや鼓動を探るかに」などがありましたが、それらと同様の視線のやさしさ、濃やかさに打たれます。

 句集の中に、「日本三百名山完登」との前書があって驚愕しました。五句目「広げたる地図に雲海迫り来る」は、ベテラン登山者である広渡さんにはごくおなじみの体験ということなのでしょう。尾根の上で地図を広げ、コースを確認している場面などが想像されますが、現実の地形を二次元に縮小した地図と現実そのものとが重ねあわされることで、句の中に懐かしくも広大な空間が開かれるように感じられるのが不思議です。現実の反映であると同時に、観念の反映でもある地図という存在の二重性が、その不思議を引き起こしているのでしょうか。また、「雲海迫り来る」によって、尾根を吹き渡る風が見えてくるは言うまでもないことです。

 榮猿丸
  水洟を拭かれこどもや話止めず     11月16日
  文化祭即席バンド音符にルビ       11月9日
  相部屋の隅のトランク櫨紅葉        11月2日
  新米に埋もれ計量カップなる        10月26日
  ブルドーザーの椅子尻の形(なり)鰯雲  10月19日
  胡麻振るやハンバーガーのパンの上    9月28日
  蜜厚く大学芋や胡麻うごく           9月21日
  恋文を燃やす灰皿秋暑し            9月14日
  怪談の擬音が怖し夜の秋            9月7日
  穴開きしれんげや冷し担々麺          8月31日
  襟首に汚れ二すぢ百日紅            8月24日
  すいかバー西瓜無果汁種はチョコ       8月17日
  ロックフェスティバル先づ麦酒のむ草に坐し  8月10日
  ひるがほや錆の文字浮く錆の中         8月3日


 榮猿丸さんの文章は少しも理解できません。というのは言い過ぎで、話題が俳句の場合は大丈夫ですが、音楽の場合は全くチンプンカンプンです。もちろん、当方が音楽を聴かない人間だからです。それでもクラシック音楽であれば多少はわかりますが……。難しい話がされているわけではないのは承知しております。しかし、当方にわからせようと思ったら一行一行に注釈が要るでしょう。難解だ平明だといっても、要するにたまたまある情報のセットを共有しているか否かに過ぎなかったりするわけで、俳句の価値判断に無造作に持ち込むのは考えものです。これは余談。


 さて、上掲の十四句のほとんどが、真・行・草でいえば真、すなわち楷書体の句です。最後の「ひるがほや錆の文字浮く錆の中」だけが行書体といったところでしょうか。要するに非常に明解な再現性を帯びていて、鑑賞といっても何を付け加えたらよいのやら困るところがあります。しかし、あえて気になるところにこだわれば、例えば一句目「水洟を拭かれこどもや話止めず」の中七のや切れです。いわゆる澤調の一特徴であり、他に七句目に「蜜厚く大学芋や胡麻うごく」があります。なぜここに「や」を使うのか。「水洟を拭かるるこども話止めず」「蜜厚き大学芋の胡麻うごく」でも内容は変わらないし、むしろリズムがなだらかになる分ベターであるという判断もあり得ます。作者も多分それを承知の上で「や」を使っている、そこが気になる。結論から言ってしまえば、これらの句では描かれている景と読者の間に、作者という抵抗体が挿入されているのではないかと思います。そしてそのことにより、一句を仕立ててゆく意識の流れのようなものが外在化される。「水洟」の句はおそらく、子供が母親に鼻水を拭いてもらいながらも、興奮して喋り続けているのを面白いと思って作られたのでしょう。その様子は、充分よく捉えられていますが、再現性が高まるほど、その出来上がりまでのプロセスで積み重ねられる取捨選択の痕跡は掻き消されてしまいがちです。そして実際、ホトトギス系の写生などは、上善は水の如しとでもいうような、作者の存在を完全に消去したゆき方になっている。ところがこの作者には、それでは物足りないという思いがあるのでしょう。その思いが、このように必ずしも必要ではない「や」を要請しているのではないでしょうか。

 作者という抵抗体の挿入の仕方にはこのような「や」の使用だけではなく、五句目「ブルドーザーの椅子尻の形(なり)鰯雲」におけるような字余りもあれば、十二句目「すいかバー西瓜無果汁種はチョコ」のような視覚とリズムの微分化、十三句目「ロックフェスティバル先づ麦酒のむ草に坐し」のような倒置法によるいささか駄目押し感を伴う下五の斡旋など、さまざまなやり方があるようです。つまりはこの作者(というより「澤」に、というべきかも知れませんが)に遍在する手法に他なりません。手法というよりは態度という方が正確なのかしら。どちらにせよ作者は、この手法もしくは態度の採用によって、文学からはもちろん俳句からさえもこぼれ落ちてしまいそうなあらゆる瑣末な事象を、トリビアリズムの無味乾燥に陥ることなく、また伝統美学による保証抜きで、作品化する自由を手に入れたのです。

 最後に、これのみは行書体の句ではないかといった「ひるがほや錆の文字浮く錆の中」については、神野紗希さんと中村安伸さんの名鑑賞があるので、ご参照いただきたいところ。中村さんが「ところで『錆の文字』という書き方は、すこしばかり曖昧だ。」と指摘する、まさにその点が、当方が行書体を云々するゆえんです。神野さんが提示する漁港風景という解釈はまず穏当なところでしょうけれど、そう書かれているとも言い切れない、言葉の上からは。中村さんが一案として述べる「錆」という文字そのものが錆びた鉄板に書かれているのではないかというイメージはですから、あり、だろうと思うのです。例えば「錆び落とし」などと書いてある、板金工場や自動車修理工場の古びた看板を思い浮かべればいいわけです。看板自体は錆びていなくても、看板が掛かっている工場の壁が錆びたトタンだったりするのでもよい。このように多義的な解釈を許す曖昧さがつまり行書体ということで、個人的には楷書体より好きなようです。

 浜いぶき
  踊り場の壁のかたさや星月夜       10月22日
  助手席の少女越しなる花野かな      8月27日
 
 一句目の人物は「踊り場」にひとりでいるのでしょうか。ふたりかも知れません。といったあたりから当方はすでに妄想ないし回想モードに入っております。ほっておいてください。

 二句目ですが、ロードムービーを話題にした文章に付いた句ですので、映画のワンシーンということかも知れません。それはともかく、いちおう車の運転もする人間として申せば、この状況は危険です。やっぱり運転手は景色は楽しめないものでして、ややリアリティの薄い句ということになりそうです。


 興梠隆
  さみだれをしのぐに高し関門橋      11月12日
 
 上田五千石に「塔しのぐもののなければしぐれくる」という名句があって、郁乎御大が激賞していたやに記憶します。その句など思い出しました。掲句は五千石句のようなシリアスな求心性よりは、雨宿りしようとしたが橋が高すぎ、斜めに雨が吹き込んできて埒があかない、というコミカルな内容が持ち味になっています。文章の方を短く整えれば、それこそ格好の俳文が出来上がりそうです。


 青山茂根
  冬薔薇のちぎり取られし名を拾ふ     11月20日
  漂流の小さき机をフレームに        11月13日
  落花生干して聖書の上の手よ       11月6日
  くづほれるとき赤い羽根あたりより    10月30日
  夜業着を背負ひて長き橋渡る       10月23日
  航海を終へたる銀杏黄葉かな      10月16日
  名月の中にも骨を拾ひをり         10月9日
  滑走路途切れて虫の闇はじまる      10月1日
  少しだけあらがふやうに砧かな        9月25日
  飛行機を降りて夜食の民の中         9月18日
  どれほどの船を見て来し小鳥かな      9月11日
  誰が袖にあらずや菊枕咬めど         9月4日
  鈴虫を連れ隊商(キャラバン)の最後の一人  8月28日
  カンテッラとはかげろふの歓びに        8月21日
  八月十五日の紙飛行機を追へば        8月14日
  墓石の雲居のしみを洗ひけり          8月7日
  空耳やキャンプファイヤーの闇に        8月4日
  水に棲むやうに遠雷を聞きぬ          7月31日

 「haiku & me」発足のいきさつはよく存じ上げませんが、言葉主義、即物主義、ロマン主義と、三者三様のメンバーが一緒に事を始められたのが不思議でもあり、面白くもあり。そう、青山茂根はロマン主義者だなと、これら十八句を読みながら再確認しております。本人がそのように呼ばれて喜ぶか否かはさておき、それが客観的評価というものでしょう。

 一句目「冬薔薇のちぎり取られし名を拾ふ」からして、ロマンティックな自己劇化が見られます。しかし、そうした自己劇化が女性作者によくあるナルシズムに陥らないのが、この作者の珍しい個性です。こんどの文章を読んで、ずいぶん薔薇に詳しいことを知りましたが、その詳しさが発想の前提になります。詳しくなければ、長たらしい片仮名語を薔薇それも冬薔薇の品名と特定することはできません。まして、「ちぎり取られ」ている以上、品名自体、完全な形では読めないかも知れないのですから。さて、「冬薔薇」も「ちぎり取られし」もそれだけですでに劇的な気配を帯びてはいますが、茂根ロマン主義の肝は、この場合、下五の「名を拾ふ」にあります。品名の書かれた札を拾う、紙切れを拾う、では猿丸即物主義になってしまいます。実際はそうだとしてもこの作者は「名を拾ふ」のです。なぜなら彼女は、「いま・ここ」には不在の「いつか・どこか」をこそ希求するロマン主義者なのですから。物としての「冬薔薇」はこの句の中に存在していません。しかし、「いつか・どこか」でそれは咲くのです。その「いつか・どこか」への通路になるのが「名」に他なりません。非在の「冬薔薇」は、「名」によって無への消滅を免れているのです。

 二句目「漂流の小さき机をフレームに」は、やや歌い過ぎの感あり。「フレームに」は写真に撮るということでしょうか。雰囲気は良いのですが、どうも解釈しきれませんでした。

 三句目「落花生干して聖書の上の手よ」。「落花生」の例句なら歳時記にありますが、「落花生干す」の説明は見つけられず……あ、いいものがあったと取り出したのは高山修一著『千葉はうまい 旬・菜・記』(崙書房出版 二〇〇九年十月二十日刊)。高山修一とは船橋に住んでいる当方の父親で、「食といえばフランス。フランスといえばプロバンスが頭に浮かぶが千葉にないのはワインぐらい。誰もいわないけど実は房総の方がはるかに幅広く奥深い食材の宝庫で、素材の実力では世界一豊かなのは千葉ではないか。」と、フランスにもイタリアにも中国にも行ったことない身で妄想を膨らませ、千葉の食材を紹介している地元自慢本です。大産地ですから、当然、落花生の項が立っております。「温暖な気候の県内の農産物は全国上位に位置する品が多い。ずば抜けているのが落花生で、全国の7割のシェアを占める。……乾燥のために落花生を積み上げたボッチは晩秋の風物詩だ。……ボッチは地面からの湿気を避けるため10センチほどの高さのパレットの上に重ね、雨よけにワラをかぶせる昔ながらのやり方で、丁寧に寒風を当て、乾燥させる。」――はい、「落花生干す」についてはわかりました。掲句に戻れば、もし「落花生“食ひて”聖書の上の手よ」なら、「落花生喰ひつつ読むや罪と罰  虚子」と同様の状況としていいのでしょうが、あくまで「食ひて」ではなく「干して」なのです。かといって千葉県のクリスチャンの農民を詠んだとも思えない。あれこれ考えた末、これはアメリカの黒人奴隷をモティーフにしているのではと思い至りました。かの国では、落花生には奴隷の食べ物との連想があるのではなかったかしら。一方、「聖書の上の手よ」はオバマ大統領の宣誓のイメージでしょう。黒人奴隷の受難史と、(本人は奴隷の子孫ではないとはいえ)初の黒人大統領誕生の栄光とが、モンタージュされているのです。落花生を干すボッチの嘱目から発想したものか、大統領就任式の報道から発想したものかわかりませんが、両者を結びつけた飛躍はみごと。「よ」の一語に共感を漏らしながらも、さらりと乾いた感触なのも良いと思います。

 四句目「くづほれるとき赤い羽根あたりより」は基本的にはメタファーの句でしょう。その場合、「くずほれる」のは肉体ではなく心です。「とき」や「あたり」などの表現はゆるいと言えばゆるい。でも、だからこそ「赤い羽根」のはかなさに吊り合っているともみなせます。この句はもうひとつ、ロバート・キャパがスペイン内戦の時に撮った有名な《崩れ落ちる兵士》のイメージが元になっているのではないか、とも考えられます。《崩れ落ちる兵士》が撃たれたのは頭部ですが、もちろん「赤い羽根」を帽子に付けることはあるわけですし、また必ずしも頭部にこだわらなくともよいでしょう。「赤い羽根あたり」は、銃弾が貫く位置を示すと同時に、吹き出る血の幻視ともなっています。こう解釈するなら、塚本邦雄の「突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼」と同様の構造を持った句ということになります。「赤い羽根」という凡庸な風物詩と、戦場における無残な死、その両者のイメージの重ね焼き。エキセントリックで不吉な魅力を湛えた句です。

 五句目「夜業着を背負ひて長き橋渡る」を読んで、自分も深夜まで働くことが多いが、その場合、着ているものは夜業着ということになるのだろうかとふと思いました。もちろん違うでしょうね。夜業とは基本的には工場労働であり、夜業着は工場の制服だと思ってよいでしょう。掲句は、仕事を終えた労働者が深夜ないし明け方、仕事の火照りの残る体を秋の夜風になぶらせながら帰ってゆく光景。季語発想で作ったに過ぎないかも知れませんが、「長き橋渡る」の設定が巧みで、しんみりとした叙情性を獲得しています。
 
 六句目「航海を終へたる銀杏黄葉かな」もまたロマン主義者らしい作でしょう。長い船旅を終えた人と会っている、おりしも銀杏黄葉の頃であったというのが最も常識的な解釈。その航海を終えた人の眼に、このみごとな銀杏黄葉はどう映っているだろうかと思い遣った、ということでもよいでしょう。また、人生航路という言い方があるように、「航海」を比喩と解することも許されます。銀杏黄葉の壮麗さのうちに、喪失感と安堵感とがこもごもにわきおこる、そんな時間がしみじみと流れているようです。

 七句目「名月の中にも骨を拾ひをり」は、美と凶の対比があざとく、それだけにどこか類型の匂いがします。

 八句目「滑走路途切れて虫の闇はじまる」。これはもう実景そのもの。ではありますが、煌々と照明された人工の世界が「途切れて」、人間以外の生き物たちの闇の世界が「はじまる」という言葉の続けように、単なる描写にとどまらない思いの深さを感じます。なお、空港は(特に大空港は)たいそううるさいので、はたして虫の声が聞こえるかどうか。それでも、空港周辺の虫たちのいそうな闇ならきっと見える。その闇を見て、その声を心に聴いている、ということでもよいのです。

 九句目「少しだけあらがふやうに砧かな」は、おそらく季語発想で書かれた実感の薄い句で、歌い過ぎでもある、というふうに思いました。

 十句目「飛行機を降りて夜食の民の中」は、「民」という言葉が醸す距離感からして外国の空港に降り立った情景であると考えられます。「夜食の民」がいるのは空港ではなく、街の方でしょう。空港から車で市街に入ると、まだカフェやレストランは明るく、人々がさかんに飲み食いしているというのです。一読、降り立ったのはどちらかといえば貧しい国なのではと思いましたが、だんだんパリでもロンドンでもいいような気がしてきました。たった数時間前まで属していたのとは異なる秩序や時間の中に合流して覚える胸のときめきを、「夜食の民の中」という、いささか角張って大仰な表現で捉えています。この作者には珍しく、少しくコミカルな味わいがあるようです。

 十一句目「どれほどの船を見て来し小鳥かな」は、やや感傷的ながら斬新。「船」も「小鳥」も、共に旅するものであり、それぞれに浪漫的精神を象徴する存在といってよいわけですが、この作者はさらに両者を結びつけ、交錯させてしまう。句の表面に現われた言葉は穏やかでも、高ぶった心が潜められています。両者の比較はまた、小さな哀れな小鳥が、人間の造った巨大で頑丈な船にも劣らず、何千キロもの海をわたる力を持っていることを想起させます。そのような生命の可能性に対する讃嘆や、いじらしいと思う気持ちも込められているでしょう。

 十二句目「誰が袖にあらずや菊枕咬めど」の「菊枕」には、主君の枕を跨いだ罪で山中深く追放された周の穆王の寵童の故事に基づく、謡曲「菊慈童」の面影があります。また、「袖」は、『古今集』の「さつきまつ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」以来、王朝和歌においては別れた恋人を思い出すよすがとされ、殊に『新古今集』の歌人たちはこの古今歌の本歌取りをさかんに試みました。花橘、菊の両者とも匂いが観賞のポイントになる花ですし、枕と袖をつなぐ媒介項としてはもうひとつ、“袖枕”という歌語の存在も指摘できます。この句、要は、男色の気配もまつわらせつつ、菊枕を咬んで過ぎた恋への感傷に耽る、茂根風新古今調の悶々ぶりを楽しめばよいのでしょう。新古今調なのですから言葉のつながりは曖昧模糊とした朦朧体でよいのですが、それにしても「誰が袖にあらずや」の疑問形は「誰が袖」にすでに疑問のニュアンスがある以上、少々おかしい気がします。語法的には「誰が袖にもあらず菊枕咬めど」とあるべきかも知れません。

 十三句目「鈴虫を連れ隊商(キャラバン)の最後の一人」も、ロマン派的な旅への憧れの横溢した句です。日本人ばかりでなく、中国人も古来、虫の声を楽しんできました。この句の「隊商(キャラバン)」は中国人のそれでもよいですが、あるいは西域から来たイスラムの隊商のメンバーの一人が、中国人の虫声愛好に目を止めて、「鈴虫を連れ」て帰ろうとするところかも知れません。その方が、「最後の一人」のやさしい心栄えが際立つように思われます。

 十四句目「カンテッラとはかげろふの歓びに」の「カンテッラ」をどう解釈したらよいか迷っています。この句を末尾に置いた文章は、「キャンプ場から戻ると、蜩が鳴き始めていた。」と結ばれています。ですので、キャンプ場などで使う照明器具のカンテラをあえてカンテッラと古風な調子に言いなした可能性がひとつ。昔、カステラをカステーラとも言ったのに準じたわけです。しかし、そうとも言い切れないのは、文章のタイトルが「―Candela―Buena Vista Social Club」であることで、Candelaすなわち光度の国際単位カンデラ(英語の発音ならキャンディーラ)なのかとも思えます。ちなみに照明器具のカンテラはオランダ語由来の外来語で、綴りはkandelaar。カンデヤという表記もあったらしい。両者のスペルを見るといずれ共通の語源に遡るのかとも思えますが、カンテッラははたしてカンテラなのかカンデラなのか。一方、「かげろふの歓び」は難しくはありません。カゲロウは成虫になるとすぐ交尾して、数時間で死んでしまう虫で、王朝時代には、はかなく終わった恋の象徴としてしばしば歌に詠まれています。従って、この「歓び」はカゲロウの生殖行為を第一義として、人間の性愛をも暗示しているとしてよいでしょう。句の内容はですから、カンテッラを照明器具とすれば、カンテラの光に、乱れ飛ぶ恋のカゲロウが照らし出されている、ということになります。また、光度単位カンデラだとすれば、カンデラという光の単位は、カゲロウたちの生命の燃焼に付けられた名だろうか、というほどの意味になるでしょう。つまり、どちらでも句として成り立ちますが、人間の性愛の暗示への傾きが強いのは後者ということになりそうです。とまれ、カンテラでもカンデラでもなく、わざわざカンテッラと表記しているのは、あるいは両者を兼ねた例の曖昧模糊たる新古今調を狙ったものかも知れません。あれこれ突っつきまわしているうちに、其角の「切られたる夢はまことか蚤のあと」について芭蕉が述べた、「かれは定家の卿也。さしてもなき事をことごとしくいひつらね侍ると、きこへし評に似たり。」という言葉(『去来抄』)が頭に浮かびました。もちろん褒め詞のつもり。この句の上ずったまま中空に消えてゆく声調はとても美しいと思います。

 十五句目「八月十五日の紙飛行機を追へば」の「追へば」の言いさしは、句の意味を宙吊りにする効果をあげています。「八月十五日の紙飛行機」も、それを追う心も、どこにも着地することが出来ないので、句も着地することが出来ないのです。

 十六句目「墓石の雲居のしみを洗ひけり」。雨風にさらされて墓石に浮いたしみを「雲居のしみ」と言い換えたまでですが、そこに眠る死者への思いもよく伝わってきます。墓石に霧がかかることは普通ですし、霧と雲は同じものですからこの句は一方で事実に即してもいる。また、イメージの上では、雲に包まれることは天上にあることを意味しますし、雲に乗った如来や菩薩がここに来迎したあかしの「しみ」なのかも知れません。「雲居のしみ」は単なる美辞ではないようです。

 十七句目「空耳やキャンプファイヤーの闇に」は、五八三の破調です。表面上の意味は一見あきらかですし、ごく普通の句のようでいて、妙に切なく迫ってくる印象があるのは、字足らずの、つんのめるような、途切れるような、このリズムのせいでしょう。何が聞こえてきたのやら、なにしろ「空耳」ですからなんでもあてはめられるし、いろいろ言いたい感じもしますが、しかしそれこそ「さしてもなき事をことごとしくいひつらね侍る」この作者の幻術に翻弄される仕儀のようです。

 十八句目「水に棲むやうに遠雷を聞きぬ」は、これまでの十七句より一段見劣りがします。「水に棲むやうに」は、こんにちではもはやインフレ気味の比喩ですし、「遠雷を聞きぬ」との連絡にも冴えがない。本作は、「haiku & me」の記念すべき一句目。作者はこのあたりからぐんぐん調子をあげてきたわけで、それについてはつまり本稿に縷々述べた通りです。