2010年2月26日金曜日

― 蝶を見ない ―

  鳥交る日の堤防に描く輪よ      青山茂根


 ヒヨドリがひときわ高く鳴いていたある夕方は、不思議なほどあかるくあたたかく、ああもう春なのだなどという気持ちを誰にも起させる陽気だったが、それが、向かい側の大きな家の取り壊しの日で、コンクリートの塀が取り払われて、あらかたの大木が切り倒され、確か「○○区保存樹木」とプレートが着けられていたはずの木々のうちのほんの七本ほどが、申し訳程度に残されて新たに建設されるマンションの樹木となるのだと、そのやはりはす向かいに、ずっと昔からそこで小商いをしているおばさんから教えてもらって、でも、カブトムシやクワガタがたくさんいたんですよ、テラスのガラス戸を開け放っていると部屋の中でもたくさんの鳥の囀りが聞こえて、音楽をかける気にもならないくらいだったのに、と私が不平を言うと、それがねえ、あの落ち葉を毎日掃くのが大変だったのよ、だから仕方ないのよ、とおばさんに言われてしまい、いつもマンションの前の道路の向こう側まで掃いてくれる管理人さんにまかせっきりで、そんなことしたこともない私は黙ってしまうしかなかった。

 昨年の今頃は、ブロッコリーの葉の上で見つけた幼虫を小さなプラスチックの虫籠に入れて飼っていて、冬の間に、さなぎになっていたのをそのまま放っておいたら、ある朝、虫籠の中で2,3匹がばたばたしていて、開けてみたら少し弱りかけてすぐには飛べないのもいたりして、昨日かおとといに羽化していたのをどうやら気がつかないままだったのかも、と心の中でごめんごめんと謝りながら虫籠の蓋を開けて空へ高く向けてやると、元気な二匹はそのまま飛び立っていって見えなくなったが、最後の一匹は、自分で籠から出てくることもしないのが哀れで、その辺の植木鉢の葉っぱに乗せてやって、ところがあいにく開いている花がどこにもなく、何か蝶が食べられるものはないものかとその辺りを探しても、モンシロチョウの気に入りそうなものはなかったし、風に揺れながらもなんとか葉につかまっていることはできるらしい蝶の姿をしばらく眺めていたが、なんだかいたたまれなくなったので戸を閉めて中に入ってしまった。

 詩人の三木卓氏が、『沖縄探蝶紀行―蝶の島』(小学館ライブラリー 1995)という旅行記を書いていて、ずいぶん前に出ている本ながら今も時折読みたくなって手に取る本で、特に蝶に興味があるわけでもない私でも、沖縄の地には憧れがあって数回訪れていながらまだ足を踏み入れていない島々の話や、すでに知っている食べ物や知らない風物の説明が、詩人の柔らかな目で描かれていて面白く、那覇空港に到着して乗り継ぎを待つ間に、客引きたちがたむろする空港前の空き地にすでに蝶の姿を見つけていたり、その後着いた島の空港の天井に、タテハチョウがぱたぱたしているのを、荷物から紛失した携帯用捕虫網の行方のことで空港係員に詰め寄りながら目で追っていたりして、西表島の蝶の採集家たちがよく泊まる宿の近くで、畑の中におもいがけず「ヒマ」という植物を見つけ、それが第二次大戦の最中、その種から飛行機の潤滑油を取るということで日本および統治国の小学校で作らされた草だという話に、砂糖天ぷら、今ではこの辺のスーパーでも売られているサーターアンダギーを「オムスビドーナツ」と形容する詩人にほのぼのしながら、ちょっとはっとして姿勢を正す。

 『子規画日記』(日新房 1949 )には、現在もハーブの花や寄植え用としてよく出回っているナスタチウムやロベリアが描かれていて、絵から推測するにほぼ現在我々が目にするものと色、花の大きさとも変わりがないことに少し驚きつつ、「小園の記」の中の蝶の描写や、まさに「蝶」という随筆もあったことを思い出し、彼の庭にはどれほどの蝶が訪れたことだろうか、おそらく我々が見ている蝶たちと変わらないものが乱舞していただろう、と遠い時代に思いを馳せる。

 三月、石垣島あたりから、もうすぐ沖縄は海開きとなる。今年は、蝶を目にしていない。
 

  

2010年2月25日木曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(2)

Twitter読書会『新撰21』 第二回 「藤田哲史+榮猿丸」

Web同人誌「haiku&me」主催の特別企画として、Twitterを使用した読書会を実施します。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

昨年末に発行され、各所で話題の若手俳人アンソロジー『セレクション俳人 プラス 新撰21』(邑書林)より、各回一人ずつの作者と小論をとりあげ、自由に鑑賞、批評を行う会にしたいと思います。開催は不定期で、全21回を予定しております。

2月6日(土)の第一回には、多くの方にご参加いただき、まことにありがとうございました。

第二回は藤田哲史さんの「細胞膜」と、栄猿丸さんの小論「アスファルトの上の砂」をテーマとします。

「haiku&me」のレギュラー執筆者三名が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)
また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。(傍聴といっても文字を眺めるだけですが。)

■第二回読書会開催日時: 2010/2/27(土) 22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者三名
青山茂根
榮猿丸
中村安伸
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

■お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

■参考情報ほか:
・第一回読書会のまとめ

新撰21情報(邑書林)

・-俳句空間-豈weekly、新撰21竟宴、シンポジウム第二部の全記録

・『新撰21』のご購入はこちらから

コンセール・デグラッセ第四回演奏会

早春の大河の如き小川かな  上野葉月

一年ほど前から楽しみにしていたバッハの『ロ短調ミサ曲』。行って参りました東京文化会館小ホール。

割と好きな曲なので録音メディアでは三十年以上に渡ってもう数え切れないくらい聴いたのだけど、生で聴くのは初めて。

CDで聴いても胸を押しつぶされそうな緊張感が漂う「Kyrie」冒頭なのだが、生演奏を目の当たりにすると筋肉がつるんじゃないかと思うほど緊張しました。酸素不足の金魚鉢内の金魚のごとき有様で聴き入る葉月。今回の演奏会は果敢にも古楽器のアンサンブルなので、ただでさえ緊張感漂う『ロ短調ミサ曲』が冒頭から緊張感過多に。

そういえば私はバロックやそれ以前の古楽が好きでよく聴く割には古楽器での演奏には常々疑問を感じている。古楽器は一般に音量が小さいしピッチが不安定なように感じる。私のように音痴な人間がそんなこと言っても何の説得力もないのだけど、クラシックの演奏会というのは私にとって概ね緊張感過多なので古楽器の生演奏ともなるとパニック寸前なのである。

古楽器の音色は典雅で捨てがたいのはもちろんなのだけど、例えば今日チェンバロを用いることが常識になってしまった感のある『ブランデンブルグ協奏曲』なんかもピアノを用いた古い録音のCDを聴くのは嫌いじゃない。ただし今回の演奏会に関して言えば、やはり古楽器はいいなあとしか言いようがなかった。特に独唱に対してオーボエ・ダモーレと通奏低音という編成になる数曲のオーボエ・ダモーレの音色は正に天上的だったと言っていい。あんなに美しい音をこの世のものと信じるには努力が必要だと思います(エッチなのはいけないと思いますという台詞を堀川由衣さんが言うような調子で読んでください)。

話は変わって今回も中田八十八さんは手ぶら、完全暗譜状態でしたね。あの大曲を。なんと猛々しい。俳句など短詩系は端正な作風なのに、前にピアノ独奏のブラームスを聴いたときも思ったのですが、ミュージッシャンとしての八十八さんにはなにか猛々しい印象がある。

生で見るまで三十年以上知らなかったのですが、「Sanctus」と「Osanna」ではコーラスの編成がそれまでのソプラノ2部アルト1部からソプラノ2部アルト2部あるいは全部2パートに変わるのに今回初めて気付いた。この編成変更の効果といったらとにかく凄まじくて完全に幻惑されました。なんか「群盲象を撫でる」という顰みもあってバッハについて直接言及することを多くの人は避けがちだが、素人の気楽な立場で声を大にして言っておきたい。すごいぞ、ヨハン・セバスチャン・バッハ!!

いと高きところへ オザンナ

2010年2月18日木曜日

ordinary man

バカボンのパパは41歳だという。ぼくと同じ年齢だ。ということは、40歳のときは、「マカロニほうれん荘」のきんどーさんと同じ年齢だったことになる。子どものときから親しんでいたキャラクターと自分が同じ年齢になったということに、ああそうかと思う。40を過ぎると、さすがにこういうことに一喜一憂したりするのは恥ずかしい。自然に受け入れる。諦念とも言う。

好きなミュージシャンや俳優などが死んだ年齢を越えたりすると、ちょっと考えたりする。ジョン・レノンは40歳、松田優作は39歳か。正岡子規は……さすがに時代が遠すぎてリアリティはないが、それでもやはり感じ入るものがある。

ドアーズのジム・モリソン、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、そしてニルヴァーナのカート・コバーンが死んだのはみな27歳だった。ロック・ファンにとっては、27歳は意識してしまう年齢だ。しかしこういうことを考え込んでしまうと、精神的によろしくない。ここから派生して、ああ、彼らはこの短い人生であんな偉業を成し遂げたのか、それにひきかえ俺は……という不毛地帯から出られなくなったりするからだ。バカボンのパパと同い年だからといって、べつに悩んだりはしない。あたりまえか。

ロックは若者の音楽なので、若者でなくなると、もやもやしたり、思い詰めたりせずに聴けるようになる。最近はドアーズをよく聴いている。

ドアーズというバンド名は、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』から取られている。幻覚剤メスカリンを自ら服用し、知覚の変容がもたらす意識の拡張体験を考察した本だ。後のサイケデリックやニューエイジ・ムーヴメントに多大な影響を与えた。この本のタイトルは、ウィリアム・ブレイクの詩の一節が元となっている。

 知覚の扉が浄化されるならば
 全ての物はありのままに現れ
 無限に見える

また、ブレイクの詩といえば、「一粒の砂に世界を、一輪の野の花に天国を見、君の掌のうちに無限を、一瞬のうちに永遠を握る」というフレーズも有名だ。こうした一節に、俳句を始めた頃は感じ入ったものだった。これは俳句の世界を言い表した言葉ではないか、と。

しかし、今はちょっと違うように思っている。一部分、一断片が全体を表す、内包するというのはホログラムだが、たしかに俳句はホログラム的性格をもった詩だ。しかし、そこに俳句の価値があるわけではない。そこを拡大解釈するのは危険だ。「小宇宙」とか「宇宙的感覚」とか「広大な時空」とか、やたら大きく大きく言おうとする俳句の批評や鑑賞を僕は素直に受け入れられない。そんなものは嘘っぱちだ、とさえ思う。たんなる文学コンプレックスの裏返しに見えてしまう。そんなものを俳句に持ち込まんでいいのではないか。

断片は断片のまま、すばらしいのだ。俳句を等身大に読んであげたい、と思う。

ドアーズの初期の歌はまさにブレイクの詩のように透き通っている。それがだんだん曇っていく。ドアーズは初期がいいと言う人が多い。ぼくもそう思っていたのだけど、最近は、後期の、ふつうのバンドとなってポップ・ソングやブルースを歌うジム・モリソンが、好きだ。ジョン・レノンがそうだったように、彼もふつうの男に戻りたかったんじゃないだろうか。ロック・スターのまま、伝説の男となって、彼は死んでしまった。

 くちびるに湯豆腐触れぬ吹きをれば   榮 猿丸


2010年2月13日土曜日

反米という常識   上野葉月

私も俳人のはしくれなので常識というものが嫌いだ。

と、短い割に突っ込みどころ満載な一文で始まってしまいましたが、思うに反米という態度が世界の常識になったのはソ連崩壊後、冷戦という枠組みがなくなってからではないだろうか。
もちろん冷戦以前だって金持ちというだけで嫌だったり戦争ばかり仕掛けるので嫌だったりという反応は世界のあちこちであったし、中南米の人たちはどう転んだって今も昔もエルグリンゴ(白んぼ)が嫌いだったりする。

しかし今日の反米感情の世界的な蔓延は金持ちとか唯一の超大国に対する反感というものとは別のところに由来しているような気がする。だいたい合衆国は貧富の差が激しい場所なので本当に金持ちなのはほんの一握りだけで大半は貧乏だったりする。貧乏なほど肥満しているという笑うに笑えない状況もあるけど。

冷戦はキャピタリズムとコミュニズムの対立という仮想的な図式を世界に対して押しつけていたのだが、終わってしまえばそんなものは効力を失ってしまうのは自明だ。そもそもキャピタリズムとコミュニズムも同根なのであって、「生産力の拡大は人類の幸福につながる」というとんでもない楽観論から出発している。
どのくらいとんでもないかというと「アナルセックスは近親相姦にならない」とか言って性行為を妹に強要する兄くらいとんでもないのだが、キャピタリズムもコミュニズムも発達段階の違いであって方向性はまったく同様である。どちらともグローバリズムだと言える。

今日ある反米感情は要するに反グローバリズムなのであってアメリカ合衆国はグローバリズムの象徴にしか過ぎない。
いずれにせよ大量消費連鎖の末、もう売る物にすら困り、地球温暖化という根拠もなにもないものを持ち出しながら二酸化炭素すら売り買いしようという世の中である。しかも国家間で。心ある人たちが反グローバリズムに走るのは無理もない。いくら人間の愚行には限りがないからと云ったって二酸化炭素排出量の売買なんて無茶もいいところである。どれくらい無茶かというと「アナル(中略)くらい無茶なのだが、それにしても私には妹萌えというものが未だによくわからない。

ともあれ世界中に反米感情が蔓延するようになって長いが日本だけはずっと親米国であり続けてきた。
生まれたてだった米海軍のペリー提督が浦賀に元気よくやって来て以来の付き合いなのでアメリカ側の感覚ではけっこう古い付き合いだと言えないこともない。
結局、日本はアメリカ合衆国とはまったく異質なので嫌いになりようもないという部分もあるのかもしれない。合衆国は社会契約の果てに成立するいわば演繹的な国家、人工的な国家の代表格でリンカーンに言わせれば民主主義の実験だったりもするわけだけど、日本は海岸線という自然的風土に依存したいわば帰納的国家の代表格である。物理的にも精神的にも距離があるし、その他諸々違いが大きすぎて結局理解不能なので嫌いようもない。第二次大戦後半ば占領状態が続いているけど、近隣諸国のように「日本列島は我が国固有の領土である」とか決して言い出しそうもないところもプラス要因かも。

そんな日本でも最近ネット上などでは反米的な発言がやたら増えてきたように感じる。昨今では民主党の複数議員へのごり押し的な捜査のせいか東京地検特捜部(この言葉を見るといつも安永航一朗のマンガに出てきた性感痴漢側頭部(星間地検特捜部)を思い出してしまう)は合衆国の手先だという非難が盛んだ。そりゃ東京地検特捜部はGHQの肝いりで発足した組織かもしれないけど今更そんなこと持ち出さなくたって敗戦後60年以上も属国として付き従っているのだから日本政府なんて全体的に合衆国の手先以外の何者でもない。当節ネットで濫用される言い回しを使えば売国奴である。ごく短期間だけど私は日本政府から給料の出ている時期があったので自信を持って言えるのだが、日本政府には合衆国内の州政府程度の独立性もない。水道局がなくなれば水道が出なくて困るだろうし消防署がなくなれば火事のとき消防車が来なくて困るかもしれないけど、仮に霞ヶ関のキャリア・ノンキャリア全ての職員をリストラしたところで地球上で誰一人困らないことだろう(当人たちとその家族を除いて)。国家機能が脆弱になっているのは世界中どこの地域でも共通しているとは思うけど日本の場合は格別な感じがする。
そう言えば去年の総選挙で有権者の多くが民主党に流れたのは民主党に期待してということでなく自民党に投票したくないということだったのだと思う。いわば合衆国の経済に関して将来的な期待を寄せられなくなったので、狡猾とも言える庶民的な勘に基づいてCIAの後押しで誕生したような政党から逃げたのだ。なんというか「金の切れ目が縁の切れ目」みたいな話であるがまあまあしぶとい選択ではある。

そういえば今年は中国のGDPが日本を抜いて世界第二位になる見込みであることをマスコミはよく取り上げる。
18世紀までは二千年以上、中国GDPが世界のトップであり続けたのだから今更騒ぐようなことではないはずだ。阿片戦争での中国の敗北が当時の東アジアの知識層にもたらした衝撃は大きく、その後の日本の西洋崇拝の遠因ともなっているのだがその話になると長くなりそうなので今日のところは華麗にスルーしておきます。

日本に住んでいると少なくない日本人が自分たちのことを頭が良いというイメージを持って見ているのに驚くことがある。そりゃまあドイツ人は自分たちにちょっとユーモアが足りないんじゃないかと滅多に思ったりしないし、フランス人にとってフランスは理性と科学の国だったりするので、どんな民族でもセルフイメージは予想しがたい方向にずれてしまうのは仕方ないことではあるけれども、言語能力が極端に低い挨拶もろくにできない精薄児みたいなイメージの強い日本人が頭が良いというのはかなり大胆な発想だとは思う。それでも日本人の頭の出来に関してとりあえず保留しておくとして、日本では他の国では決して起こらないような出来事が起こるのは否定できない事実である。

たとえば織田信長の時代、日本は地球上の鉄砲の約半数を生産するような軍事大国だったのだけど秀吉の刀狩りを経て徳川政権の時代には鎖国と大幅な軍縮が進んだ。17世紀の日本では人と物の流れが極端に固定される中で軍縮が進み人口爆発があり経済が大きく発展するというとんでもないの事態が進行したのである。どれくらいとんでもないかというと、…、とんでもなさは置いておいてもこういう不思議な出来事はまあ日本でぐらいしか起こらない。

第二次大戦の結果、合衆国に世界の富の半分が集中するという出来事があったため戦争は儲かるものだとする偏見が未だにアメリカ人の一部にはあるのかもしれないけど、戦争は長い目で見れば割に合わないものである。しかしながら割に合わない行動、無駄な行動を人間から取り去っていったら何が残るんだという問題もあるのだけど。

今までの日本歴史の中で何か教訓にすることができるものがあるとすればそれは鎖国政策であって明治維新のようなものではないと思う。また同時に鎖国のような引き籠もり的な心性こそが日本人の精神を形成する根源的な要素のひとつであるように感じる。
現在日本の農業は壊滅的な状況にあるが、なにしろ日本人というのは何を始めるか予想がつかないのだから、唐突に食料自給率を上げてあっというまに鎖国なんて行動にでないとも限らない。
遠くない将来ローカリズムは世界の大きな潮流になっていくだろうけど、もし日本が世界に貢献できるとしたらこの引き籠もり的な精神性が軸になるのではないか。

もっとも士農工商であると同時に相互監視的な社会が到来するとわかっていたら私なんて真っ先にそこから逃げ出すだろうけど。

妾宅へ向かう電車や春の雨  上野葉月

2010年2月12日金曜日

― フジタその他 ―



  雉子よりほか通ひ路を知らぬはず       青山茂根



 ・・・それから間もなく、私は学校を半年はやく卒業させられて兵隊に征くことになり、一夜、麹町の藤田邸でお別れのもてなしを受けた。私の女友だちが主の許可を受けてご馳走をつくってくれたのだ。物の不足した時代だったが、藤田家は南方から還ってくる従軍画家たちの土産で、バターやチーズなんかもあったのだろう。今から戦争に征く人に遇いたいというこの家の主の言葉で、私はアトリエへ通された。藤田夫妻はドアをあけたすぐのテーブルに並んで座っていて、私はその前に腰をおろし、主がむいてくれる林檎を緊張して食べた。果物が食べられるだけでも感激だった。
  (『四百字のデッサン』「戦争画とその後―藤田嗣治」 野見山暁治 1978河出書房新社)


 そういえば、先の大戦時の従軍画家について、卒論らしきものをまとめたのだった。先日のウラハイの記事(前田普羅関連)を読んでいて、ふと遠い昔の記憶が蘇ってきた。押入れか、どこかを探せば手書きのを束ねたそれがあるはずだが、そもそもそんな大した出来ではない。今と違って、ファイルとしてPCのどこかに残っていることもないので、どんなものを書いたのかもほぼ忘れてしまっている。

 その頃、芸大の図書館などで、戦時中の美術雑誌や新聞などを当たっていたときに、従軍画家の記事とともに、同時に従軍していた俳句作家たちの名があった。当時の新聞だから、並んでいた大本営発表記事と同様に、軍部の検閲済みであることは間違いない。かなり多くの、今も名の知られた俳句作家たち、といっても当時は私自身は全く俳句に興味がなく、それらの俳人たちの有名な句さえ知らなかった。ただ、論文の資料に付随する内容として、メモを取っていた記憶がある。

 冒頭に引いた、第二次世界大戦時の従軍画家に比べると、日清戦争時に従軍した正岡子規たちは随分と待遇に違いがあったようだ。「自分の座というのは自分が足を伸ばして寝るだけの広さで、同業の新聞記者が十一人頭を並べて居る」、「時々上の座敷で茶をこぼす、それが板の隙間から漏りて下に寝て居る人の頭の辺へポチポチと落ちて来る」「この梅干船(この船は賄が悪いのでこの仇名を得ていた)」等の従軍から帰る船中の記述(『正岡子規』「病」筑摩書房2009)にもそれが読み取れるし、また喀血に至る病を得たのもその従軍中の待遇のひどさが原因であったらしい。子規の半年ほど前には、黒田清輝がやはり日清戦争に従軍しており、『黒田清輝日記』(中央公論美術出版1966、黒田記念館資料)に当時の日記が収録されているが、やはり帰る船については「下等ノ下等 即チ馬ト同ジ處ニ乘セラレ皆々大不平」とある。最も、「不平の結果がめし丈上等で食ふ事と爲る」とも書かれているので、子規の「梅干船」よりはましだったか(行軍中も「水畫の繪具凍りて筆自由ならず」ぐらいしか不平が書かれていないので、結構よくお酒も飲んでいるし、子規よりよい待遇にあたったのかも)。「従軍記事」(『子規随筆 新装復刻』 沖積者 2009)で、「待遇の厚薄は各軍師団各兵站部に依りて一々相異なり」「某将校の言ふ所<新聞記者は泥棒と思へ><新聞記者は兵卒同様なり>等の語」と子規も書いているように、日清戦争当時はまだ、従軍記者や画家の社会的地位が高くなかったのかもしれない。「(待遇の相違は)是れ軍隊に規律なき者にして此の如き軍隊は戦争に適せざるなり」との子規の指摘通り、軍部の統率力が絶対で強大になる前であり、なおかつ、翼賛体制記事を書かせるためのもてなしがなかったということかもしれない。

 子規が従軍していたからといって、(その後の前田普羅のような)そういった思想だったというわけではないだろう。自身が従軍する一年前には、

        従軍の人を送る
  生きて帰れ露の命と言ひながら     『寒山落木 巻三(明治27年)』

という、そののちの太平洋戦争時なら非国民扱いされかねない句もあるのだ。

・・・二十八年の春金州に行きし時は不折君を見しより一年の後なれば、少しは美といふ事も分る心地せしにぞ、新に得たる審美眼を以て支那の建築器具などを見しは如何に愉快なりしぞ。
                          (『子規居士絵画観』日新房 1949)


との子規自身の文もあり、多方面へ旺盛な好奇心を持っていた子規には、従軍記者となれば外地へ旅することもできる、との考えもあったかと思える。

 その子規に絵画の楽しみを伝え、共に従軍した中村不折は、のちに「日露役日本海海戦」(明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館で見られる)という戦争画を描いているが、やはり、個人の思想云々より、そうした時代だったのだと見るべきだろう(現在、台東区立書道博物館で不折と子規に関する展示を行っている。その従軍中のスケッチもあり)。

 それらを考え合わせれば、前田普羅も、より状況が厳しくなった時代を生きたのであり、そういった思想を持つに至ったのも、その是非は別にして、より時代というものに忠実であったためかもしれない。 と言うことしか、彼ら多くの犠牲者の後の、平和な時代を生きる自分には出来ない。

 ・・・元来画家というものは真の自由愛好者であって軍国主義者であろうはずは断じて無い。偶々開戦の大召喚発せらるるや一億国民は悉く戦争完遂に協力し画家の多数の者も共に国民的義務を遂行したに過ぎない。              (「朝日新聞 10/25日付」藤田嗣治の投書 1945)


 戦後最も厳しく批判された画家、藤田嗣治を語る文を、もうひとつ引く。

 ・・・戦争がみじめな敗け方で終った日、フジタは邸内の防空壕に入れてあった、軍部から依頼されて描いた戦争画を全部アトリエに運び出させた。そうして画面に書きいれてあった日本紀元号、題名、本人の署名を絵具で丹念に塗りつぶし、新たに横文字でFUJITAと書きいれた。先生、どうして、と私の女友だちは訝しがった。なにしろ戦争画を描いた絵かき達は、どうなることかと生きた心地もない折だ。なに今までは日本人だけにしか見せられなかったが、これからは世界の人に見せなきゃならんからね、と画家は臆面もなく答えたという。
          (『四百字のデッサン』「戦争画とその後―藤田嗣治」 野見山暁治 )



 


2010年2月11日木曜日

オールドファッション黒みつきなこ   越智友亮

僕がミスタードーナツでバイトをし始めて、もうじき8ヵ月経とうとする。だからなんやねん、ってつっこまれるとそれまでの話なのだけど、そのまま続けたいと思う。

さて、僕が働いている店では休憩時間中に一部を除いたドーナツを食べることができる。だから、毎回なにかを食べてしまう。例えば、今日はポン・デ・リングとオールドファッション。すでに7カ月このようにしてドーナツを食べ続けてきたのだが、一向に飽きる気配はない。いや、今後とも飽きないという自信がある。な ぜならば、僕は甘党だからだ。世に言うスイーツ系男子。ふふ。そんな自分にとって、ミスタードーナツでのバイトはきっと天職であるに違いない。

話がだんだんと脱線してきた。もとに戻そう。今年でミスタードーナツは40周年をめでたく迎えたらしい。そこで「今も愛されているおなじみの味」であるオールドファッションの「過去に発売された人気の味」から「新作」を含んだ8種類を「オールドファッションの殿堂」というフェアでお客さまに販売している(注:僕が原稿を書くのが遅かったため、書き終えたときには「ポン・デ・リング人気No.1の栄光」というフェアに変わってしまった)。その中でも、今回紹介したいのが「オールドファッション黒みつきなこ」である。

オールドファッションの生地に黒みつを染みこませ、きなこをまぶしました。黒みつの甘さと、香ばしいきなこが、相性よく広がります。

という紹介文がHPに書かれているのだけど、これでは「黒みつきなこ」の本当の魅力を伝えきれてないと思う。なぜならば、あの固さが持ち味でもあったオールドファッションにしっとり感を持たせたことが書かれていないからだ。黒みつをしみこませることによって生まれたしっとり感は、口の中ですっと溶けていき、きな粉が邪魔にならずに、心地よく食べることができる。これがこのドーナツの本当の魅力、と勝手ながら僕は思う。また、甘さもちょうどよく、ちょっと疲れたときなんかに、コーヒーと一緒に食べられたらもう幸せである。

そんなわけで、僕的に今一押しのドーナツ。もう食べるしかない。ちなみに販売が2月いっぱいで終了してしまうらしいのでお早めにどうぞ。

  春めくやドーナツの穴から君を   越智友亮


参考サイト
ミスタードーナツ
http://www.misterdonut.jp/m_menu/new/100106_001/index.html

2010年2月10日水曜日

Twitter読書会『新撰21』第一回のご報告  中村安伸

2/6(土)Web同人誌、haiku&me特別企画として、Twitter読書会『新撰21』 第一回 「越智友亮+小野裕三」を実施しました。
多くの方にご参加いただくことができ、感謝しております。
当日の発言記録はこちらをご覧下さい。

さて、読書会では越智友亮の俳句の魅力や特徴について、さまざまな意見を交わすことができ、たとえば、以下のような意見があがりました。

水や地球といった題材を、独自の感性で認識しようとした句が目立つ。

接続詞によって時間の経過を取り入れる独自の文体がある。

身近な人との関わりを淡い色調で描いている。

季語の取り合わせに無理や、カッコつけたようなところがない。

また、小野裕三の小論について、若い世代の俳人たちに向けて「俳句想望俳句」という言葉を使って批評していることに注目が集まりました。

さて、今回、はじめての試みでもあり、次回以降に向けて運営上の課題点もいろいろと浮き彫りになったことも確かでしょう。

もともとこの読書会は「haiku&me」のメンバー三人での座談会をやろうという企画からスタートしています。
最初は実際に集まるか、あるいはチャットで、という話だったのが、いつのまにかTwitterを使っての読書会というかたちに決まったのは、新年会の勢いにまかせてのことだったかもしれません。

あらためて他の方法と比較検討してみると、チャットとの違いは、誰でも参加でき、発言がそのまま公開されてしまうというオープン性にあると思います。
実際に想像していたよりも多くの方のご発言を得ることができましたし、傍聴のみの方も、数を把握することは出来ないが、かなりいらっしゃったようです。
一方で、発言がそのままのかたちで公開されてしまうということについて、敷居を高く感じた方もいらっしゃったでしょう、実際、ご発言いただいた方々は、普段からある程度Twitterでの発言を行なっている方がほとんどでした。

BBSを使った場合でもオープンに参加者をつのり、そのまま発言を公開するということが出来た筈です。これに対してTwitterを差別化することは難しいですが、強いて述べるなら、次のような特徴があげられるのではないでしょうか。
各発言者のフォロワーのTLに、断片的ながら読書会関連の発言が表示されることになります。これが、俳句に関心を持っていない人に対して、意外なつながりを呼び起こす可能性があるのではないかということです。
Twitterそのものの注目度が高いということも、他のシステムと比較した際のアドバンテージとして挙げてよいでしょう。

座談会あるいはチャットでやろうとしたことをTwitterに置き換えるところから出発したせいか、実際にやってみると、やはりチャットに近い雰囲気になってしまった面がありました。

発言者として感じた問題点としては、自分の意見をまとめ、発言することと、他の参加者の発言を読み、返信するということを同時に行う必要があったため、すこし慌ただしく感じたということがあります。
後述するTwitterのシステム上の不具合もあり、思うように発言出来なかった方もいらっしゃったのではないでしょうか。
また、スケジュールの都合上、終盤のみのご参加になってしまった方もいらっしゃっいました。

上記の問題点に対し、私がいま考えている対応策の案を挙げます。

ある程度の密度の評をまとめて発表することと、他者の評を読み、反応するということを同時にこなすということは、かなり難しいので、その二つはできるだけ分けたいと思っています。
参加者は可能な限り事前に評や意見をまとめ、発言しておく。そして、リアルタイム会議の時間帯は、議論を中心に行うというかたちにすれば良いのではないでしょうか。
リアルタイムと非リアルタイムの会議を用意することで、会議中の慌ただしさを緩和し、スケジュールの合わない方にも、意見表明の場を設けるという二つの効果が期待できると思っています。ハッシュタグを分ける必要があるかどうかは、もう少し検討が必要でしょう。

もうひとつはシステム的な問題。
読書会の最中に、一部の方から、ハッシュタグを用いた検索に不具合があるという声が聞かれました。これはTwitter側の一時的な障害であることが判明したのですが、土曜日の夜という混雑時間帯に行うことを考慮すると、次回以降も何かしらの障害が発生しないとも限りません。
今回の障害は、TweetDeckという専用ソフトを使っていた私には影響がなく、Internet Explorerを使用していた方のみの問題であったようです。他のブラウザやTwitter専用ソフトを導入し、Twitterに接続する方法を複数用意しておくことにより、問題回避できる可能性があります。

以上の対策は現時点での私の案であり、ご意見はこの記事へのコメント、あるいはTwitterで #ss21mng タグを付けてご発言いただければ幸いです。

なお、第二回読書会については詳細がかたまり次第ご案内いたします。

2010年2月9日火曜日

世界の終わりとその前後   外山一機

 たとえば鈴木六林男、阿部完市、田中裕明。俳人の死のたびに自分の位置を測定する行為は、僕のなかで常習化してしまったようだ。かつて大学の図書館で『俳句研究』のバックナンバーを漁りながら、僕の生まれた年に高柳重信が死に、寺山修司が死んでいたのを知ったときの、あの甘ったるい孤独感が、いけなかったのかもしれない。

 今の僕にとって「未来」は、目の前にあっけらかんと広がるそれではなくなってしまった。白紙のページに「未来」を期待するのではなく、むしろ、すでに書き込まれているページを逆さまに繰りつつ、そこにかつて存在していたはずの何がしかを嗅ぎとっていく行為のなかにこそ、かろうじて僕は「未来」らしきものを感じることができるのである。

 二〇〇〇年、高校二年生だった僕はひそかに俳句を書いていた。当時の僕は「世紀末」という言葉に、あまりに多くを期待していた。その頃は酒鬼薔薇聖斗や少年によるバスジャック事件などの凶悪な少年犯罪が世間を賑わしていて、オウム真理教のテロや阪神・淡路大震災もまだ記憶に新しかった。一方で、僕の住む田舎町にも急速に増えだしたコンビニには「昭和」を売り物にしたレトログッズが並びはじめていた。時代がいよいよ終わりに近づきつつあるような気分を僕は漠然と感じていたのだった。

 けれども、「世紀末」はいともあっさりと僕を「世紀末」後へと置き去りにしていった。むろん、本当のことを言えば、僕が「世紀末」を生き残ってしまうことは初めからわかっていたことだった。二〇世紀末の後の物語を描いたマンガ「二十世紀少年」や、同じく世紀末的惨事の後の世界を描いた「新世紀エヴァンゲリオン」が「世紀末」後の世界を暗示していることを知りつつも、僕はその終末的な気分に夢中になったのだった。

 気が付くと僕は「世紀末」の後を生きなければならなくなっていた。僕の本棚の傍らにはコミケのたびに兄が段ボールで山のように買ってくる同人誌が並んでいた。そこでは書き手と読み手の欲望のために奇妙に胸の膨らんだ綾波レイが男や女に犯されるお決まりのパターンが繰り返されていた。碇シンジの巨大にデフォルメされたペニスにも僕は飽き飽きしていた。僕はそれらを呪いながら、だが嬉々として読んだのを覚えている。

 いわば、何もかも終わってしまった後で、それでも唯一手放さなかったものが、俳句だったのだ。当時の僕にとって、俳句とはついに読み解くことのできないテクストであり、それゆえに、僕をある種のエクスタシーへと誘う呪術的な言葉の連なりとしてあった。僕が俳句を書いていたのは、言葉に意味をのせられないことへの不安と、意思疎通を諦めることの快楽とに衝き動かされていたからにほかならない。

 言葉と戯れつつ世界との繋がりから身を引くことによって「僕」であろうとした僕にとって、何よりも眩しかったのが阿部完市や攝津幸彦や加藤郁乎だった。彼らは、誰よりも、いかにも享楽的に言葉と対峙しているように見えたのだった。

  静かなうしろ紙の木紙の木の林        阿部完市
  幾千代も散るは美し明日は三越        攝津幸彦
  とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン  加藤郁乎

 けれども、僕が彼らを知ったころ、すでに攝津幸彦は亡くなっており、阿部完市は魅力を減ずることはあれ決して今まで以上ではない地点で「アベカン」然としていたし、加藤郁乎もまた『球体感覚』や『形而情学』とは異なる地点へ出てきていた。けれどもそれらもまた彼らの眩しさの反転であってみれば、僕のように後からやってきた者が軽々に非難できるものではないだろう。

 二〇〇二年、大学生になってからの僕のテクストは、高柳重信が編集長を務めていた頃の『俳句研究』と、すでに休刊した『俳句空間』だった。「五〇句競作」がどんなに眩しかったか。『俳句空間』の投句欄がどんなに眩しかったか。そこには俳句表現の現在を引き受けることで自らの「未来」に大きく期待し絶望する、いわば「青年」たちがいたのだった。

 わびも、さびも、僕は知らない。切字も、季語も、僕は知らない。しかし、そんなものがどうして僕に必要だろう。
 俳句が美しいのは、その限られた音数のもつ緊張感と、生誕時より定められてもちつづけている切り捨てられた部分の不安感のせいであろう。だから僕は、ただそれだけに賭けた。(郡山淳一「自由の砦」)

 たとえば五〇句競作第一回入選者として祝福を受けた郡山淳一のこの言葉ほど、僕を嫉妬させたものはない。こんなにも堂々と「青年」らしく主張できる郡山が羨ましかった。けれどそれは皆、終わってしまった「物語」だった。郡山淳一も長岡裕一郎も、あるいは宮崎大地もいなくなってしまった。

 こんな感慨に耽るのはもうやめよう。けれど、もしかしたらこんな感慨に耽ることで「僕」であるのかもしれない。「僕」はいったいどこにいるのだろう。その答えは、たとえば「過去」と「未来」と「現在」が互いを映しあう合わせ鏡の中にあるのかもしれない。

  深追いの鏡の中の麦秋よ  外山一機


2010年2月6日土曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(1)

第一回終了しました。
Twitter読書会『新撰21』 第一回 「越智友亮+小野裕三」

Web同人誌「haiku&me」主催の特別企画として、Twitterを使用した読書会を実施します。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

昨年末に発行され、各所で話題の若手俳人アンソロジー『セレクション俳人 プラス 新撰21』(邑書林)より、各回一人ずつの作者と小論をとりあげ、自由に鑑賞、批評を行う会にしたいと思います。開催は不定期で、全21回を予定しております。

第一回は掲載順でも年齢順でも最も若い作者である越智友亮さんの「十八歳」と、小野裕三さんの小論「俳句を継ぐ者」をテーマとします。

「haiku&me」のレギュラー執筆者三名が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)
また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。(傍聴といっても文字を眺めるだけですが。)

・第一回開催日時: 2010/2/6(土) 22時より24時頃まで

・参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者三名
青山茂根(mone424)
榮猿丸(micropopster)
中村安伸(yasnakam)
※( )内はTwitterアカウント名です。

その他どなたでもご参加いただけます。

・ご参加方法:
(1)ご発言される場合
開催時間にTwitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

(3)当日ご都合が悪い方で、ご意見のおありの方は、事前に中村までメール等でお送りいただければ、開催中適宜発表させていただきます。


・お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

・参考情報ほか:

新撰21情報(邑書林)
湊圭史さんによる越智作品鑑賞
関悦史さんによる同作品鑑賞
-俳句空間-豈weekly、新撰21竟宴、シンポジウム第二部の全記録

『新撰21』のご購入はこちらから

2010年2月5日金曜日

 ― 俳人ロボット ―


  流氷に封筒を載せ返しけり    青山茂根


 しばらく、haiku&me俳句強化月間のため、俳句の話題が続きます。

 昭和十八年(一九四三)    三二歳
 「馬酔木」に殆ど休まずに投句したが、常に一、二句入選の境をさまよっていた。(後略)
 昭和二十年(一九四五)    三四歳
 (前略)惨鼻(原文ママ)を極めた兵隊生活を送る。原爆投下も終戦詔勅も知らず終戦を迎えた。横須賀に戻り、残務整理して九月遅く除隊。原職に復帰したが、ひどい栄養失調。
 昭和二一年(一九四六)    三五歳
 (前略)学友、教え子多く戦死。「馬酔木」復刊を機に、もう一度俳句を一から始める気持で投句するも相変らず一、二句入選。(後略)
 ・・・
 昭和二三年(一九四八)    三七歳
 三月、「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」の句一連で「馬酔木」巻頭となる。秋櫻子の激賞で有頂天になったが、当時清瀬に療養中の石田波郷から、趣味に溺れた新人らしくない句だと厳しい批判を受け、少なからずショックを受けた。 (*)
 世は平和に戻ったものの、戦後の混乱と物資欠乏の時代で、俳句に燃える一方で生活に難渋した。秋櫻子は事情をよく知っていられて『新編歳時記』(大泉書店)の編集に加えてくれた。(後略)
        (『能村登四郎読本』 能村登四郎年譜より抜粋 平成二年 富士見書房)


 ご子息の筆による年譜なので、多少の主観が入っているかもしれないが、上記のような話を、よく登四郎自身が語っていたと、沖に所属していた複数の方から聞いたことがある。初期の馬酔木投句時代から何十年の歳月が流れたあとでも、「ずっと秋櫻子先生には1,2句欄でしか採ってもらえなくてね・・・。」と折に触れ口にしていたという。

 加藤楸邨か、楸邨夫人が書いていたものか、どこで読んだものか覚えていないのだが、戦後すぐの頃、当時、教職にあったものは、生徒たちの模範にならねばとの使命感から、闇物資に手を伸ばすことをよしとしなかったそうだ。配給の食糧だけでは足りなくて、皆、箪笥に残っていた着物や帯をもって遠くまで満員の電車に揺られて僅かながらの米や食料を物々交換で手に入れに行った時代の話だ。それは違法行為で、見つかると苦労して手に入れたものを没収された。遠くまで行けない者は闇市で売られている食品を求め、そうしなければ飢えるしかなかった。実際、そうした教師たちの何人かは、栄養失調で亡くなっていったという。

 では、そのころ教職にあった登四郎の句はといえば、ここでは例に挙げない。作者情報をかかげた過剰な読みだと、戦争も飢餓も身近には存在しないから関係ないと言い切ってしまえる人々には、伝わらないのだ。一度記憶された情報を消すには、洗脳するしかないだろうし。

 私はといえば、心惹かれる句に出会うと、もっと作者や、その句が詠まれた当時のことを知りたいという欲求が芽生える。句の読み方はそれぞれが選択すればいい、とも。

 作者名も、作者の存在にまつわる情報も、作者を取り巻く時代の状況も、一切読みに必要ないなら、極論を言えば、俳句自動生成ロボットや、自動短歌生成装置で充分ではないか。作者名だけ必要なら、なぜかそういったものには名前がつけられているし、それらプログラムのほうが、やすやすと、見事な一句、一首をものにするのだから。



* 当時の秋櫻子の選後評。「今の世で童たちがたやすく買える菓子といったらまず第一に飴であろう。いやこれは現代だけの話ではない。むかしも飴ならば手に入れやすく、童好きの良寛上人は袂の中にこれを忍ばせて、童たちに与えるのを楽しみにされたことと想像される。良寛忌にあたって黒飴を見た作者の頭の中では、自然にこの句の着想がうかんだにちがいない。その上良寛上人は飴屋の看板を書いている。これが越後のどこかに残っている筈だーそんな因縁がからんでくると、この句の味わいは相当に深くなる。そうして全体に高雅な燻しをかけるため、作者は「ぬばたま」という枕詞を用意したのである。こんなわけで、この句は仲々念が入っており、古典的な風格をもつとともに現代生活とも関連している。」
  一方石田波郷は当時まだ「馬酔木」へ復帰していなかったが、「・・・あの黒飴の句は俳句に必要な具象性をもたない、あまりに趣味に溺れた句である。殊に枕詞を使用するなどは、若い生活派といわれる作者のすべきことではない」と難じたという。
  登四郎自身の自句自解から引く。「・・・二三年頃の物資欠乏の折の黒飴は、ただ黒砂糖をかためただけの粗末な菓子であったが、結構子供達には喜ばれたものである。」
                               (『能村登四郎読本』 平成二年 富士見書房)

2010年2月4日木曜日

雪の積もった日

ひとつの完成された作品のように記憶されている幼い頃の一日、というのがいくつかある。
一日というよりはもうすこし短い単位かもしれない。
どんな行動をして、周囲にいた友達が誰で、どんな会話をしたか等は、ほとんど忘れてしまっている。
ただ、その日の光と空気の感じは、はっきりと皮膚に残った感覚として思い出すことができる。

畦道で袋いっぱいに採っても尽きないほどの土筆に笑い転げた日とか、長い旱のあと黒雲がうねりながらやって来た夏休みの終わりの日とか、二十人ばかりが二手にわかれて火のような曼珠沙華を投げつけあった日とか。

共通しているのは、そのときの私の気分である。
それを反芻しようとすると、途端にざわざわとした昂揚感が甦ってくる。

なかでも雪の日の記憶がとりわけ多く、また記憶の鮮度も高いような気がする。
私の生まれ育った土地では、年に数回ほど雪の積もることがある程度で、見渡す限りすべてのものが真っ白に覆われるというのは、やはり珍しい光景だった。

ほんとうに小さいときには雪だるまを作って炭の目鼻をつけたりもしたし、学校の授業を中断してクラスで山に登った記憶もある。
凍りついた沼の上を覆っているたいらな雪や、樹木の黒々とした幹とまっしろな雪のつくる不可思議な文様とか、一塊のひかる雪を支える笹の細かな枝ぶりとか。
なにひとつ事件らしいことは起きなかったとしても、さまざまな細部をこそくっきりと記憶させられている。
雪の積もった日というのは、私にとってはそのようなものである。

雪といふ透明な音つもりゆく   中村安伸

2010年2月2日火曜日

ドラマCD

はい、すみません。買ってしまいました。『恋愛ラボ・ドラマCD』。ああ、生まれてきてすみません。ごめんなさい(いったい誰に謝っているんだ)。それにしてもドラマCDなんて代物買ってしまったのは生まれて初めてです(ついでに「初めてだったんです、私」と書こうとして止めました)。

実をいうとあまり期待してなかったんですが。リコ役が釘宮だというあたり、なんとなく?マークだったんですよ。なにもあんな売れっ子もってこなくてもというか。『恋愛ラボ』に限らずマンガを読むとき登場人物の声を具体的にイメージすることはないので、やはりリコ役はあまり聞いたことのない声を当てていただきたいと漠然と願っていた。

でも予想に反して釘宮のリコが悪くないんです。原作のイメージ通りと言ってしまうと月並みだけど全然違和感がない。”乙女リコ”バージョンも充分笑える出来になってるし。そういえばマキマキオも悪くなかった。

マキ役が堀江由衣というのには誰も文句ないでしょうけど、現時点ではどうしても(どうしても!!!)シャフト『化物語』の「メガネオッパイ」じゃなくて「あの抱き心地の良さそうな委員長(by八九寺真宵)」を思い出してしまうのでなんとなく損しているような気がしてしまう。

決して悪い出来じゃないのだけど、なんとなく物足りない。『恋愛ラボ』は台詞回しが異様に巧みでしかも四コマ漫画だから気付きにくかったけど、けっこう絵の説得力で見せているマンガなんだと改めて気付きました。すごいぞ、宮原るり。

でも、これだけ人気声優を集めたってことは、やはりアニメ化への布石なんでしょうか。新房監督が好んで使う人も多いし。まさか、シャフト制作・新房監督で『まりあ†ほりっく』みたいなことに、なんてことはないだろうな。まさか。ないない。

それともGONZO制作で『ストライクウィッチーズ』のようなことに? ないない、それだけはないないない。

ぬばたまのフレンド軒のライスカリ  上野葉月

ヴィレッジ・ハイク・プリザヴェイション・ソサエティ

『俳句界』2月号に師匠の句が掲載されているので、買おうと思ったんだが、ダサい表紙をみると買う気が失せる。いちおう言っとかないとな。買うよ俺は。

 俳句総合誌(に限ったことではないが、わかりやすいので)の頁をめくっていると、いったい今はいつなんだろう、ここはどこなんだろう、とわからなくなることがある。ある人にとっては、つまり「俳句村」の中で自足している俳人にとっては、そこは楽園なのかもしれないが、ぼくには息苦しくて仕方がない。モチーフやスタイルは関係ない。現代的なモチーフを詠んでいても、それがかえって古くささを強調し、読んでいて痛々しくなる。「現代的」と評された俳句を読んでみたら、世間的には「ダサい」ものであることも多々ある。黛まどかの「旅終へてよりB面の夏休み」が発表されたのは九十年代初頭だったと記憶しているが、この句を俳句を始める前に知っていたら、ぼくは一生俳句に近づくことはなかったろう。七十年代後期から八十年代初頭に流行ったシティ・ポップスのセンスをそのまま俳句に持ち込み、それがギャグではなく本気で詠まれ、しかも評価されているような俳句界に、いったいどんな若者が興味を持つというのか。こういう首をかしげたくなるような評価はもちろん現在でも続いているのだろうが、あまり若者を信用しないほうがいい。俳壇には若者は珍しいからこういうことが起こりやすいのだろうが、同世代の視点でみると、恥ずかしくなるような「現代性」はたくさんあるのだ。年齢とか世代とか関係ない。あたりまえの話。あーまた俺ってなんにも言ってねえ。

ぼくらは俳句村保存会、神よ、季語を、日常を、風土を護り給え

列車の扉【と】に凭るる汝【なれ】や雪に照る   榮 猿丸