猿丸俳句のリズム感 神野紗希
ひるがほや錆の文字浮く錆の中 榮 猿丸
「ひるがほ」は海辺によく咲く花なので、「錆の文字」は、船に書かれた船名だろうか。長く使いこまれた船体は、潮に錆びて、ごつごつとしている。その船体の錆びた肌に、「○○丸」といった船の名前を、かろうじて読みとることができる。そんな、さびれた漁港の風景と読んだ。
「浮く」の一語が、錆の立体感を言い得ているし、「錆」のリフレインも、その重厚さを示している。このリフレインは、三橋敏雄の「鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中」の形のうつくしさをも彷彿とさせて、口ずさんでも心地いい。「ひるがほ」が平仮名にくずされているのも、錆の重量感をより強く見せるために、効果的にはたらいている。
錆びるほどの年月を経てきた船を、使いこんできた人の思いに還元することもできるだろう。けれど、この句は、錆のみに特化して非常に即物的につくられているので、船にまつわる人情物語を拒否しているように見える。そんなところも、惹かれた理由だった。
すいかバー西瓜無果汁種はチョコ 猿丸
これも、実は、「錆」の句同様、「すいか」のリフレインが、句の調子を整えている。
西瓜無果汁というジャンクな感じと、種はチョコレートでかたどっているというナンセンスが、まさに「すいかバー」。そうそう、あのチョコが美味しいんだよねー、という感想が、つい頭の中に湧いてくる。
つまりは、すいかバーを知らないことには、楽しめない一句なんだけれども、それってプラス要素にこそなれ、マイナス要素にはならないだろう。たとえば「蚊帳」「炭」といった古い季語や、「常臥し」「戦友」といった、ある年代に共感を呼ぶ類の素材を扱った俳句が、私の経験や年齢ではどうにも実感が湧かないように、読者のターゲットをおのずと絞ってしまう俳句があったっていい。そういった句は、「私には分かる!」という偏愛を呼ぶ強さがある。
穴開きしれんげや冷し担々麺 猿丸
ということで、掲句も、「あるある感」を共有できない限り、楽しめない句なんだけれど、私なんかは、「穴、開いてる開いてる!」と、嬉しくなってしまうのである。高浜虚子の「茎右往左往菓子器のさくらんぼ」に対して「さくらんぼの茎って、確かに右往左往してるよねー」と共感するのと、おんなじ感覚である。
ここでも、「や」で語調を整えていること、「坦々麺」という語感のリズムのよさが、印象的だ。
猿丸俳句は、その素材の選択に特徴を見出されることが多い。私も、およそ俳句には詠まれてこなかった素材を、きちんと俳句に仕立て上げる手腕に、いつも感服する。けれど、猿丸俳句の面白さは、素材を見つけてきたことだけではなく、むしろ「きちんと俳句に仕立てあげる」過程にあって、そこに、リズムのよさとか、リフレインの問題なんかも関わってくるのではないんだろうか。この過程を見落として、素材にのみ評価を向けると、猿丸俳句の醍醐味を、ほんとうに味わったことにはならないだろう。
なんて素敵なんでしょうか。
返信削除水底から特に形のよい石ばかりキュッチキュッチと拾い上げ綺麗につみあげちゃうんだから。もずくを拾って岸に放る様な自分の適当さが恥ずかしい。明晰さを支える筋肉があるんだ。地力のある人はやはり違う。
昨日からですがブログも楽しく読ませていただきました。何といっても選ばれてある句が非常に良く、評も前述の様な明晰さでもって心地よいものでした。
ご挨拶おそくなりましてすみません。はじめましてです。
ああ、やばい、しごとしごと。