2009年10月30日金曜日

― 季感と手触り ―


  くづほれるとき赤い羽根あたりより     青山茂根 


 テレビでニュースを見る、よりもPCを開いてチェックするほうが多くなっているのは私だけではないはず。それでも時折、何かの片手間にニュース番組をつけておく。大きなニュースがないときに、よく見かけるのが某国の貧困状態を国境付近から探るとか、隣接する国との密貿易の映像だ。とりあえず全世界の注目の的となっている国家を取材しておけば、人々の好奇心や優越感を満たすことができるからだろう。俗物である自分も、ながら見でもつい目をむけてしまうことを否定はしない。レポーターの緊迫した声がかぶり、わざと手持ちで追いかけながら撮る映像には、案外のんびりした国境警備の兵士や、こまごました密貿易物品を抱えたおばちゃんたちが写っていたりするのだが。政府が影で手を引いているか、賄賂で黙認されているとしても、そこまで頻繁にお茶の間向け映像として取材することなのか?と常々疑問に感じつつ、目で追っていた。

 ・・・もっとも、密貿易といっても、なかば公然の経済活動である。業界では国際貿易と呼ぶ。(中略)
 日本では少々想像しにくいことだが、隣国と地続きで接した地域に住む人々は、元来の習慣として、国境の存在にそれほど重きを置かない。一族縁戚が両国にまたがって住んでいるケースもざらにある。物質をあちら側からこちら側へ、あるいはこちら側からあちら側に運ぶことが違法であるという観念は代々薄かった。国が近代化され、国外取引が法の下に置かれるようになって以来、人々の日常行為が密輸呼ばわりされるようになったが、これは漁師にサカナ獲りを禁じるようなものだろう。だからタイの場合も、国防省内に専門の委員会を設け、よほどのことがない限り、この国境貿易を黙認する政策をとっている。・・・       (『妻と娘の国へ行った特派員』  近藤紘一)

 タイ領とビルマ領(現ミャンマー)を画する国境付近の、少数民族カレン族の居住地を訪ねたときのレポートから。先日来、東南アジア関連の書物にはまってしまい、その辺を拾い読みしているなかで目にとまった。もちろん、1970年代から80年代にかけての国際情勢と現在との違いはあるし、亡命の許されぬ国の厳しさや、それこそ38度線付近は恐ろしく厳重に警備されているものと推測するが、島国の我々との認識の違いを痛感する。常にどこかの国と国境を接し、民族・国家間あるいは介入してきた他の大国の思惑による勢力争いのたびに国境線が描き換えられてきた大陸の人々にとって、案外国境とはそのようなものなのではないか。

 カレン族といえば、前の住所に住んでいた頃の知人がその少数民族の男性と結婚していた。タイへ旅行したときに知り合って、と言っていたが、リゾート・ラバーズ(和製英語、死語か、いや私は全く経験なし)のうまくいった例なんだろう。控えめながら黙々と働く人で、いい人だと周囲の評判もよかった。その夫君は日本語が日常会話程度なため、肉体労働に従事していて、妻のほうが子供を保育園に預けて主な働き手となっていた。彼のタイ料理は絶品、などと聞いているうちに、子供が就学年齢になると一家でタイへ帰ってしまった。なんでも、カレン族の村以外にチェンマイ市内にも家があり、子供をチェンマイのインターナショナルスクールに通わせて、夫君はガイド業を現地で始めるためだとか。日本のインターナショナルスクールと違い、あちらではエリートコースへの第一歩となるらしい。その夫君も流暢な英語を話し、数年で日本語もそこそこ話せるようになっていたが、先の書物の中に以下の記述を見つけてなるほどと思った。

 ・・・カレン族は少数民族中、おそらく最大の人口を持ち、推定二百五十万人。(中略)
 もともとカレン族は、最近物故した東南アジアの麻薬王クンサなどが率いるシャン族と異なり、知識層が多く、イギリス植民地時代は官吏、軍人、警察官などに多く登用された。多数派のビルマ族にとっては、<植民地主義者の手先>であったわけだ。イギリス撤退後はそれが祟って逆に多くのビルマ人から憎まれ迫害される立場になった。・・・

 少数民族というものに我々が抱いている意識は、やはり現状を知らない無知からくるものなのだ、と改めて思う。カレン族は、英国留学を経てラングーン大学の教授職についていた人物がいたり、「英語達者のクリスチャン」で、「ビルマの他の少数民族と異なり、阿片の取り引きには手を出さない」。これらが、未開のジャングルでゲリラ活動をしている人々の実態のひとつなのだ。

 ・・・たとえば、タイは小乗仏教国だが、マレーシアに接した南部二、三の省(日本の県に相当)は圧倒的に回教徒住民が多い。人種的にもマレー人との混血が多い。これらの地方では中央政府の<差別待遇>に反発し、分離独立運動あるいは回教国である隣接マレーシアへの帰属を要求する声が絶えない。マレーシア政府が積極的にそれをけしかけている兆候はないが、タイ側としては疑心暗鬼で同じASEAN仲間である隣国の挙措に神経をとがらせていなければならないことになる。逆にマレーシア側としては自国の共産分子残党が国境を越えてタイ側のこの回教徒地域に拠点を構えていることが面白くない。(中略)
 つまりASEAN中の超近代都市国家シンガポールはいまだに隣接マレー人大国(つまりマレーシアとインドネシア)による併呑を恐れ、潜在的には常時この両国を仮想敵国とみなしているのである。・・・ 

                       (『目撃者‐近藤紘一全軌跡1971~1986』 近藤紘一)

 過去にどこの植民地支配も受けずに独立国の立場を守ってきたタイと、フランス・日本・アメリカ(その後にソ連も加えるべきか、*1)の干渉を受けてきた旧サイゴンを中心とするベトナム(*2)の決定的な気候の違い、かたや湿度が非常に高く、もう一方は暑いながらさらっとした気候であるなど、またその両国間の民族意識の違い、龍と虎と呼ばれ静かに反目しあう関係が古くから続いていることも、知らずに旅したり日々のニュースを見ているのとではかなり違う。そこにからんでくるマレーシア、インドネシア、シンガポールの情勢も、様々な国際政治上のかけひきが、昔からの根強い民族感情に起因するものであると。

 ちょっとした旅行でも、「日本とベトナムはフレンドだ、どちらも米国に爆弾を落とされた」、「ベトナムは過去4度中国の侵略軍を追い返し、決してその属国となることはなかった、日本も同じだ、自国に攻め込んできた彼らの船を跳ね返した」等、都市部の若い勤め人でも、ビーチの絵葉書売りの青年でも我々に語りかけてくる(*3)。自国に攻め込んできた船、それって元寇のことか、ってそんな時代の話を今さら、とこっちは当惑するが、過去の歴史上の事実を普通に日常的に口にするのは、他の国でも同様らしい。日露戦争で日本が勝利したからという理由で、ロシアにたびたび侵攻されてきたトルコ共和国の人々がいまだに親日家であるのは有名な話だし、私もアメリカで、いきなり「あなたたちはずるい、パールハーバーで我々を騙し討ちにした」と面と向かって言われたことがある。そもそも電信伝聞の技術と国際間の駆け引きの問題がらみだと、説明する会話力も私にはないしそうしても仕方の無い話だ。彼らと違い、他国に対する歴史上の認識を、島国に生まれ育った我々は常に意識する習慣がないのだろう。

 西東三鬼がいた頃の、英国統治下のシンガポールはどのようであったのか。在来住民による独立運動が起こり多少キナ臭くなってきた頃のその地の空気や、オランダやフランスによる植民地となっていた近隣諸国との関係を肌で感じて暮らしていたことが、後の三鬼の戦火想望俳句に、(無季俳句であることと矛盾するようだが)大陸および熱帯の実際の季感や、国家間の紛争における実質的な手触りを与えたのではと思った。

(*1)共産党政権下での旧支配層・知識層への思想改造や差別の凄まじさは、以前触れたパリ移民たちも経験してきている人々が多く、神田憲行著『ハノイの純情、サイゴンの夢』にも書かれている、しかもこの著者、バックパッカー嫌いで私と同じだ。
私が現地で会ったベトナム人ガイド氏は同じ年くらいながらソ連の国内紛争への従軍経験があった。観光ガイドになる前はホーチミン市内で若者向けバーを経営していて、とても流行っていた店だったが、役人に渡す賄賂の額がどんどん大きくなり、儲けが残らなくなってしまったので廃業したという。
(*2)しかもカンボジア戦争のときは密林の中でクメールルージュとの死闘を経ている。
(*3)日本語や英語のレッスンのつもりで話しかけてくる人が多い。何が安い、いいとこ案内すると言うのはまず危ない輩。 

2009年10月28日水曜日

俳句日和

先日放送されたNHK BSの番組「ニッポン全国俳句日和」に、一次選者として参加させていただいた。
メール、ファックスで視聴者から送られてくる作品と、中継会場にいる学生たちの作品から、たったひとつの大賞を選ぶ、その過程を見せるのが番組の趣旨であり、選者の目に触れる前にある程度の選考を行うのがわれわれの役割ということになる。

まず放送三日前の木曜日の午後、渋谷のNHK放送センター近くのビルの会議室に、一次選者五名が集められた。
ここで選考に使用するシステムの説明を受け、その時点までに集まっていた事前投稿作品の選を行った。
選句用のシステムを構築した会社の人たちがサポートに来てくれていて、昨年まで似たような仕事をしていた私としては、なんとなく懐かしさと親近感をおぼえた。
そして、画面を見てひととおり使い方がわかると、システムがどういう仕組みで動いているかについて質問したくなったのだが、役割上関係のないことでもあるし、とりあえず遠慮しておいた。

生放送本番の日曜日は、雨がぱらついて寒い日であった。こういうのもまた俳句日和のひとつではあるのだろう。
原宿駅から急いで近道をしたつもりが、結果的に遠回りとなった。集合時間に遅れこそしなかったが、ぎりぎりの到着となった。
放送開始二時間前の午前9時である。
そのままスタジオ片隅に設けられた席まで誘導され、段取りの説明を受けたあと、さっそく選考作業を開始した。
私はファックスで来た作品の選考を担当したので、二次選考へまわす作品を選別し、個人情報が表示されないように画面上でトリミングしていった。

そのような作業をしながらも、スタジオ内のやりとりは聞こえてくるし、中継先の様子も耳に入ってくる。
中継先は國學院大學で、櫂未知子さんが選者となり、学生の皆さんの作品を審査しているのだった。
haiku&meに何度か寄稿していただいた浜いぶきさんをはじめ、知っている人も何人か活躍していて、ついつい作業の手をやすめてモニターへ首を伸ばしたりもした。

番組をごらんになった方ならお分かりだろうが、この番組の特徴は選者によるディベート対決にあると思う。
二人の選者が、それぞれの題ごとに選んだ作品を引っさげて対決し、残りの選者がどちらの勝ちかを判定するという方式である。
これによって半数になった作品から、最終的にはひとつの作品を合議によって決めるということになる。
ある意味俳句甲子園の方式がとりいれられているということなのかもしれないが、自身の作品ではなく、選んだ作品を解説し、擁護するディベートというのは、ゲーム性もあり、また選者それぞれの価値観や、俳句論の急所が明確となって面白く感じることができた。

ゲストの山本太郎氏が「感性の格闘技」と呼んだのは非常に的確であったと思う。山本氏は俳句そのものについてこのように呼んだのあるが、選者たちのディベートに関して言えば「感性と論理の格闘技」と呼んでよいものと感じた。

今回の番組で奇異に感じたというか、自分にはできないと感じたことがひとつあった。
それは、中継先の学生たちの俳句作品についてである。
題ごとに選ばれた上位二句の作者が自作を擁護するディベートを行い、櫂さんが勝敗を決定する。そのようにして会場へ持参する一句を選抜する方法をとっていた。
俳句甲子園と似ているが、自チームではなく自分自身の作品を解説し、擁護するというかたちであった。

このように、自作を解説し、誉めるといったことは、私にはできそうにない。
ただし、作者と作品の距離感は人それぞれなので、私のように感じる人ばかりではないだろう。
誤解を避けるために付け加えておくと、自作を擁護したり誉めたりすることがかっこ悪いとか、照れくさいというようなことではない。
作者というものは、自作をもっとも誤読しやすい存在であり、解説や擁護には適していないと思うだけである。
もちろん私個人の場合は、ということである。

ブラックコーヒーといふ喪装や秋晴れに   中村安伸

2009年10月26日月曜日

『俳句』11月号を自分のことを棚に上げて読む

入院して、ほとんど点滴で過ごしたのに、なぜか体重が10キロも増えていたと、前回書いた。顔がまんまるくなって、瞼も重くなって、体型も思いっきり中年になった。ビーチ・ボーイズの映画「アン・アメリカン・バンド」の、寝間着姿のブライアン・ウィルソンみたいだった。20年以上、体重変わらなかったのに、たった11日間の入院で、10キロ太ったのだ。点滴つづけていたら、ふつう痩せるのに、と周囲から言われ、ふだんどんな食事をしているんだと突っ込まれた。いや、もうめちゃめちゃヘルシーな食事をしているんだ。ポップなお菓子も食ってるんだ。ヘルシーかつポップな食生活なのに。

一週間たって体重をはかったら、7キロ痩せて、61キロになっていた。あと3キロ減れば、もとの体重にもどる。なんだったのだろうか。

『俳句』11月号、角川俳句賞発表を読む。
気持ちいいくらいの相子の圧勝。評価された句が「日盛や梯子貼りつくガスタンク」というのが示しているとおり、全体に手堅い。しっかりした佳句だが、澤の句会だったら、並選だろうなとも思う。いや、けなしているわけではなく、いい意味で力んでいないというか、ホームラン狙いではなく、勝つためにはヒットを重ねて確実に塁に出るという気迫を感じた。まあ、ぼくは相子のホームランを何度もまのあたりにしているから、こういう感想になるわけで……。とにかく、ここまで50句揃えたのがすごい。悔しかったら揃えてみろ、ってことだ。しかも、残塁の山を築くことなく、確実に得点を重ねているのは、正木さんが言われているとおり「1ミリ抜きんでるうまさ」があるから。相子の実力発揮だ。ぼくら澤の仲間からしてみれば、受賞遅せえよ、てなもんだが。

しかし、うまい句をつくれば、冒険してないといわれ、冒険すれば、俳句らしくないといわれ……ま、いいんだけどさ。それにしても、正木さんはブレないなあ。すごいわ。

最後に、正木さんが「文体にある癖などから早く脱皮して、この安定した技術を自信にして、これから思い切って自由にどんどん作っていただきたいですね」と言われているとおり、「小澤實の秘蔵っ子」というレッテルから、どう脱皮するか。期待されてますね。たのしみだ。でもぼくは、この受賞が、すでに「秘蔵っ子」からの脱皮なのだと思う。もう「秘蔵」じゃないもんね。というか、相子が角川俳句賞に賭けていたのは、このレッテルからの脱皮のためだったのではないかとも思う。澤イズムの継承者として、これからもどんどん突っ走ってほしい。

優夢の句は、最後の「野遊びのつづきのやうに結婚す」がよかった。優夢らしい。これはまぎれもなく優夢の句だ。しかもタイトル句。自分でもよくわかっているのだ。取り上げられた「材木は木よりあかるし春の風」や「吐き出せる巨峰の皮の重さかな」も佳句だが、優夢じゃなくてもいい。というか、これらの句で受賞しても俳壇的には何も変わらないと思う。まあ、受賞することに大きな意味があるのだけど。もちろん、こういう佳句があるから候補に残るわけだ。50句の平均点を上げていき、かつ、「結婚す」のような優夢らしい句がいくつかあるということが大切なのだな。言うは易し、だけど。でも、それを期待されているんだ。

興梠さんの作品、とてもおもしろかった。「はこべらや犬に抜かれて抜き返す」「春風や仮設便所を積んで去る」など、好きです。「春の闇より側転でやつて来る」の〈やっちゃった感〉もとてもいい。笑った。この姿勢、ひじょうに共感した。

相子の受賞のことば。選考委員から「わからない」と言われた最後の句の自句自解なのだろう。「わからない」と言われることがわかっていても入れた心意気がいいではないか。よい子は真似しないほうがいいです。

来週は澤の秋季鍛錬会@諏訪。宴会でお祝いだ!

  新米に埋もれ計量カップなる   榮 猿丸


2009年10月23日金曜日

 ― 蹴球 ―

 土曜日は句会に出なくちゃ、と思いつつ、ついJリーグの試合を見に行ってしまった。大してルールも用語も詳しくないし、スポーツニュースを毎度チェックして試合結果を追いかけているわけでもないのだが、あのスタジアムの独特の雰囲気が好きだ。では他のスポーツではどうかというと、なぜか野球にはあまり関心がもてない。ナイターは季語だし、と、この夏も神宮球場に出かけたりしたのだが、すぐ飽きてしまい、結局途中で出て、近くの店でお茶して連れが観戦を終えるのを待っていたという不真面目な観客だった。試合そのものはサヨナラホームランとかで、歓声が球場の外まで響いていたが。刻々と移り行く空の色は確かに美しい、それとて国立競技場で見た景色のほうが数段勝るように感じたのは、単に私の気質が血は流れずともラテン系に傾いているのか、そのすり鉢の大きさと夜間照明の配置の具合に拠るものか。

 その日行ったサッカー場は、まさに離陸直後の飛行機をすぐ脇に眺められる立地で、コンパクトな滑走路を緑が取り囲む風景にも心和む。大体、サッカーを熱心に見るようになったのも1998年のワールドカップ辺りからで、頻繁に海外に出かけた頃に現地で試合を観戦したこともなかった。家の幼い者が、某Jリーグチーム関連の子供向けサッカースクールに入れてもらったのがきっかけで、そこのホームゲームに足を運ぶことになったようなものだ。それも、将来はサッカー選手に、とか夢見るわけでもなく、近所の駒沢公園の天然芝のところで練習できるなんて入らなきゃもったいない、というのが動機だった。出来るなら私が参加してボールを追いかけたいくらいだ、コーチはスポーツマン系イケメンだし。

 応援するチームがなんとなく決まってくると、観戦に行くのも楽しくなってくる。Jリーグが始まったばかりの頃に、仕事で有名選手に会ったり招待チケットをもらって何度か見に行ったこともあるのだが、その頃はあまり面白く感じたことがなかった。10年ほどのブランクの後に、再びスタジアムへ足を運んでみると、あきらかに変わった、と感じることがあった。チームカラーのウェアを身に付けたりして、自分もそこに歩み寄ろうとしていることもあるが、サポーターの応援がJリーグが始まった当初とは格段に進化しているのだ。以前は多少フーリガン的な行動も目に付き、その中へ同化して応援しよう、などとは少しも考えなかった。どこか統率を欠いた、剣呑な、熱情的というよりはただ騒ぐために来ているような客が応援団を成している中に混じっていたような印象がある。しかし、昨今の試合に行ってみると、自分もついサポーターが集う席に程近いところで、チームカラーのタオルマフラーを掲げたり、よく知らないのに応援歌を口ずさんでしまう。サポーターたちは三々五々集まってきて、いつのまにか歌声が始まり、大体どんな場面でどの応援歌(各チームに数種類ある)を選ぶかは暗黙の了解があるようだ。観客席の傾斜が大きいのか、沸きあがる、といった形容がぴったりな太い歌声だ。野球ほど、厳密に応援がマニュアル化されていないようにみえるのも好感を持つ(ファンの応援サイトを覗いたら、今度のナビスコカップの最終戦で、勝利の瞬間にチームカラーの紙テープを投げ込んでいいものかどうか、議論が交わされていた。こうして節度ある応援のルールが形成されていくのだろうか)。

 そんなサポーターたちを見渡すと、割と30代以上の年齢の人々が多いことに気づく。その試合中の一喜一憂、ゴールが決まった際の興奮ぶりを見ていると、勝敗には関係なく不思議な悲哀が感じられて、バブルの崩壊がこの効果をもたらしたのかも、と唐突に思った。Jリーグ設立当時は、もっと皆金銭的に余裕があり、スポンサーも多く潤沢に投資していて、そういったスポンサー流れのチケットで観に来ている客も(自分を含めて)多かったはずだ。新し物好きがJリーグが出来たから、チケットが手に入ったから、といって女の子を誘って来ていたり、割のいいバイトで稼ぐ学生やフリーターたちがとりあえず話の種に的ノリでかなりの数を占めていたように思う。現在はといえば、楕円形の短い弧の部分、ゴール裏に陣取るサポーター群と少し離れた席で、自分の座る辺りを見渡すと、親子連れはもちろん、中年の夫婦、おじさま二人連れの客、つっかけサンダル履きで一人で来ているご老人、赤ちゃんを連れた(その赤ちゃんが青赤のタオルマフラーを巻いていてかわいい)夫婦とそのどちらかの両親といった三世代も見受けられて、ほほえましい光景だ。そして、試合が終わると、いっせいに自転車を連ねて帰っていく父子連れなどが大通りを埋めるのだ。欧米ではサッカーチームは地域密着型が基本であるはずだが、日本ではバブル時代の設立当初スポンサーの思惑が何より優先であったのかもしれない。裕福な時代が弾けて、地元の人々がちょっと応援にくる、休日や退社後の楽しみとして機能しだしたのか。きっと普段は普通の勤め人であるサポーターたちの、仕事や実人生での大小の成功や挫折を、試合ごとのひとつひとつのシュートやパスに映しこんで、どよめいたり歓声をあげたりしている姿であるように。違った意味での、バブルの恩恵のひとつが、今のプロサッカーリーグ人気につながるのかもしれない。

 ささいな、取るに足らない記憶の中から、あれこれを拾い出す。アンダルシアの田舎町で、昼間からカフェに集ってサッカー観戦に夢中な年配の男たちの姿、サッカーを見ないのかこの試合は見なくちゃ、いや闘牛に行くと言ったらけげんな顔をされた(こちらの言語力が拙かっただけか)。フィレンツェのドゥオモの裏手の石畳で、ボールを蹴りあってゲームに興じていた少年たち、三十三間堂の脇でキャッチボールするような感覚だろうか。ベトナムの海辺の町ニャチャンで、日が傾いてようやく涼しくなってきた海岸べりのコンクリートの上、潮風を浴びながらサッカーボールを真剣に追いかけあう勤め人らしき青年たち、昼間の仕事を終えて別の夜業へ行くまでのつかの間の楽しみだと。ボールをめぐる物語はまだもっと存在するだろう。

  夜業着を背負ひて長き橋渡る      青山茂根

2009年10月22日木曜日

こっそり出かけて ―「陶猫展」回想―

八月の末のことだから、もうひと月以上前のことになるけれど、こしのゆみこさんの「陶猫展―コイツァンの猫―」を観るために銀座へ行った。最終日で、一人で、はじめていくギャラリーだったので、少し緊張していた気がする。

こしのさんの第一句集『コイツァンの猫』が上梓されたのが今年の四月。その句集と同じ名前の個展がひらかれるという案内のお葉書を、ちょっとしたきっかけがあっていただいた。「陶猫展」というのは、猫の陶芸作品を集めた個展で、今までに何度も開かれているそうだが、伺うのは初めてだった。イタリアの小さな海の町だという「コイツァン」が、きっとこしのさんを魅了したのだろうな。そう思いながら、こしのさんの俳句も陶芸作品も大好きな私は、こっそり出かけていった。(どうしてか、こっそり、という気分だった)。

会場は、細長いビルの4階のフロア。ガラスの扉を開けてギャラリーに入ると、L字形の室内に、まずモノクロの写真に俳句が添えられた作品が並んでいる。写真に映っているのは、こしのさんの「陶猫」たち。一枚一枚の写真と俳句は、それぞれがよく合っていて、しかしちょうどいい距離感がある。お互いがお互いを補完しあっているというより、手をつないで、遠心力でくるくる回っている感じ。

左へ進むと小さなスペースがあって、数十センチの、色も大きさも表情も様々な猫たちが十何匹も展示されていた。そこに、こしのゆみこさんもいらした。ご挨拶すると、久しぶりだったから分からなかった、とのこと。どうぞ見ていってください、とにこやかにおっしゃったこしのさんは、私が名乗る前からずっと目を細めて笑っていらして、猫たちのなんだかたのしげな、優しい雰囲気に溶け込んでいるのだった。

こしのさんの創る猫の表情は、その殆どが、はっきりとした感情を指し示してはいない(笑っている顔、とか、せつなそうな顔、とかいうふうに)。それなのに、びっくりするほどそれぞれに表情が豊かだと思う。そしてそれは、観ている私に、説明しがたい色々な感情を呼び覚ます。そしてそれは不思議なくらい、なつかしさと深く結びついていて、淡く胸がざわつく。

思うことには、たとえば“癒される”というほど、こしのさんの猫の性質は“寛大”ではない気がする(結果的に“癒される”というような気持ちになるのは、とてもよく分かるのだけれど)。きっともう少し、好き嫌いのはっきりしている猫(猫だもの)。キャパシティが決して広くない、その“広くなさ”がすなわち純粋さであるような。そして、自分の好きなものをよく心得ていて、だからこそちゃんと自力で満ち足りた気持ちになれる。そんな猫に見える。

実際、猫たちに囲まれてお茶をいただき、俳句と陶芸との関係や、俳句のどこに惹かれたのかなどをこしのさんに伺っているあいだ、おどろくほど私は安らかな気持ちでいた。猫たちの発するオーラが、とても優しくて、静かで、険がないのだ。思わず、「なんだかすごく安らぎます」と言ってしまったほどだった。あの安らかさはきっと、猫たちの寛大さではなくて、猫たちの満足によっていたのかなと思う。

販売コーナーで、横たわった猫(白くて、耳が桃色なので、少しうさぎのようにも見える)の小物入れと、絵葉書を買った。小物入れは、顔と身体の上半分にあたる蓋を開けると、中が浅い器になっていて、底が引き込まれるように深い青色をしている(ガラスを溶かしたものを流し込んで創るのだという)。その猫のそっけない外見と、内側の美しい青の対比が気に入って、(散々迷った挙げ句)それに決めた。茨木のり子の『みずうみ』という詩に、「田沢湖のように青く深い湖」という言葉があったことを思い出した。

帰り道、私はとても満ち足りた気分でいた。何かの展覧会に行って、こんなにいい気持ちで帰ってきたのは久しぶりだった。普段なら、銀座に行くと、何かと寄りたくなってしまう伊東屋や、入りはしないけど前を通ってみたくなる資生堂パーラー、思い出のあるミニシアターなどに、その日はひとつも立ち寄らないで、やっぱりこっそり帰った。その快い気分を、気を散らして逃してしまいたくなかった。

あの日出かけたときも、帰る道でも、どうして「こっそり」という気分だったのか、今になって考えてみる。それは多分、こしのさんの作品が、大袈裟な、飾り立てたもの、巧妙で、目立ちたがるものを好まないからだと思う。こしのさんの創る句や猫は、にぎわいから少し離れた木陰にちょこんと坐っている子供のような感じがする。きっと(まだ社会的には)無力で、華やかに見える場所から少し距離をおいてはいるけれど、すっとして曇りのない、澄んだ目をしている(それは汚れていないという意味ではなく、ごまかしのきかない、という意味)。そういう、小さいけれど完全な猫。

こしのさん自身は、陶芸の分野でも、俳句の分野でも華々しい活躍をされていて、旦那様と世界中を回る生活をなさっているけれど、きっとずっと「そういう部分」を持ち続けている方なのだと思う。こっそり出かけた私が、こしのさんの作品からつよいなつかしさを感じたのも、きっとそのためなのだろう。

踊り場の壁のかたさや星月夜   浜いぶき


2009年10月21日水曜日

続・ロシア大使館

はじめて訪れた日の翌朝9時頃、私はふたたび麻布台のロシア大使館の近くにいた。

オフィスに出勤する人たちの颯爽とした足取りにまぎれて、ぶらぶらしながら、いつごろ並びはじめればよいかタイミングを見計らっていた。
どうしても先頭か二番目くらいに並びたい理由があったのだが、あまり早すぎても退屈してしまうだろうし。
妻はそのころ家でトランクに荷物を詰めていたのだろう。

9時15分くらいから一人で門の前に佇む。
忙中閑有りというが、こういうひとときはなんとなく好きだ。

受付がはじまる9時半近くになると私の後ろにすでに十人程度の人が並んでいた。
私の前には鉄の扉が閉ざされている。
この扉は時間になると自動で鍵がはずれるらしい。案内などは無い。

9時半前後に何度か扉を押してみたが、開かない。
私はなぜか、鉄の扉の下のほうについている棒状のものが動くことによって鍵が開くものだと思い込んでおり、いつまでたってもそれが微動だにしないことに業を煮やしかけていた。

ちなみにこの日予定していたスケジュールは以下のとおりである。
9時半ちょうどにビザを受け取り、タクシーで東京駅に向かう。東京駅で妻と落ち合い、10時3分発の成田エクスプレスに乗車。
成田空港駅に10時56分に到着。そして、妻を12時発の飛行機に滑り込ませる。
すこしでも手違いがあったら失敗してしまうだろう。もちろん電車の遅延などがあった場合も然り。

担当者が今日に限って扉の操作を忘れていたとしたら、誰に連絡すべきだろうか。
それにビザが本当におりているかの確証もなかった。
昨日の申請のとき、書類をきちんと確認されたかどうか……。

不安をつのらせつつ、2,3分じっと待っていたところが、列の後方から一人の中年男性がつかつかと歩いてきて、扉を押した。すると、開いた。

脱力、してる場合ではない、待たせてしまった皆さんへのお詫びもそこそこに、窓口へと向かう。
防弾ガラスの窓の向こうには、ロシア人女性が、ちょうど椅子に座ろうとしていた。
昨日受け取っていたぺらぺらとした引き換えの紙を、カウンターのくぼんだ部分へ、鉄製の蓋を開けて滑り込ませると、窓口の女性はそれを拾い上げ、あちこち探してパスポートを渡してくれた。

貼り付けられたビザに印字された名前、パスポート番号に間違いのないことを確認し、いそいそと大使館をあとにした。
タクシーに乗り込んだときには成田エクスプレスの発車まで約20分あまり。

運転手さんが訊く「ホームはどちら?」
「え?」
調べてなかった。
「成田エクスプレスなんですが。」
「ああ、地下ですね。」
地下と言われたとき京葉線のはるか遠いホームを一瞬思い浮かべたが、総武線の比較的近いホームだということがわかり、少し安堵した。

天気は快晴。皇居の周りをめぐるようにして車は進む。
東京駅の丸の内口に着いたらまだ10分ばかり余裕があった、特急券は購入済み。
足取りも軽くホームへと向かい、妻をさがしたが、いない。
電話をしたが、出ない。
これから乗る列車がホームに入ってきて連結作業をはじめている。

電話が鳴って、ホームに着いたと妻の声がした。ホームに鳴り響く発車ベルの音が電話からも響く。
なんとか列車に乗り込んだとき「トランクの鍵がない」と妻。
車両の端にあるトランク置き場で蓋を開けてさぐると、一番底にそれがあった。

やっと安心して座席に落ち着き1時間弱。車内のモニターで発着情報をチェックしたが、遅延はないようだ。

駅に到着後、急いで航空会社のカウンターへ。離陸まで1時間をきっていたので、すでに妻の名前が放送で呼び出されていた。
しかしなんとかチェックイン完了。

両替をすませた妻は、あっという間に手荷物検査場へと吸い込まれた。

きちかうに神経に火をつけむとす   中村安伸

2009年10月20日火曜日

haiku&me 9月の俳句鑑賞(1)

   「あ」とか言いながら     上田信治


  引く波の渦を残せり秋彼岸           中村安伸

 ふつうにいい。haiku&meの人たちの句は、前から好きで、それなりに傾向と対策を意識して読むものだから、ヤスノブさんに、こんなに現実に近い言葉を書かれると、とまどいます。


  胡麻振るやハンバーガーのパンの上    榮 猿丸


 サルマルさんは、パン屋さんなのだろうか。あ、でも、もう20年くらいしたら、サルマルさんも、アルトマンの「ショート・カッツ」のパン屋さんの役が似合うようになるかもしれない。


  少しだけあらがふやうに砧かな        青山茂根

 モネさんが何かを打てば、それは「少しだけあらがふ」だろう。あるいは、モネさんは、何かを「打つ」ということは、それが「少しだけあらがふ」ような誘惑を込めて打つことだ、と考えているのだろう。


  蜜厚く大学芋や胡麻うごく           榮 猿丸

 あ、これは、もうたいへんけっこうですね。「蜜厚く」という言い方が写生です。「蜜厚き」だと、概念ですから、止まってしまいますからね。


  緞帳の河緞帳の月映る               中村安伸

 夜の河に映る光の質感が、緞帳の暗く照る質感に重なるところが、重たい音とあいまって佳きです。



  どれほどの船を見て来し小鳥かな       青山茂根

 小鳥は、その小さな頭に何もとどめておけないので、見たものは眼の穴を素通りして、見たもの捨て場のようなところに行ってしまうのかもしれない。どれだけものを見ても、何も残っていなそうな、小鳥頭のさっぱり感──と、これは自分の好みに引きつけて、読みました。



  果てることなき休暇とも纏足とも         中村安伸

 不意打ち的表現でありながら、たいへん共感性が高い。好きな句です。


  朝顔の薄い薄いと呟けり                上野葉月

 「エッセイと俳句」というスタイルの楽しみは、両者が、ビミョーに裏切り合うことによって、お互いを照らし合うことにあるのだと思います。ハヅキさんのエッセイは、俳句以前に、なんかいろいろ裏切ってて、もう。掲句、「朝顔の」と、かっきりはじまって、後半、なにも了解できる意味がない、ぱーっと底抜けているところが、味わいです。

 好き勝手に突っ込み入れながら、読ませていただきました。妄言多謝。

2009年10月19日月曜日

ザ・厄年

約2週間、入院した。
いきなり高熱がでて、一晩寝ても下がらず、これはインフルか、と近くの病院へ。結果は、インフルでなく、ウィルス性の腸炎だということだった。クスリもらって、熱はすぐひいたが、嘔吐と下痢は激しさを増し、水分もとれなくなり、脱水状態に。点滴打ってもらおうと病院へ行こうとしたが、からだがうごかない。人生初の救急車。大きな病院へ運ばれ、点滴打ちながら検査した結果、急性腎不全ということで即入院となった。脱水状態で、血液濃度が上昇したためとのこと。たしかにおしっこまったく出てなかったもんなあ。

その後、サルモネラ菌にあたったことが判明。「海外に行ったでしょう」とドクターに言われるも、もちろん行ってない。それどころか、生肉も海鮮も食べてない。いまだに何の食物が原因だったのかわからず。

しかし、サルモネラ菌おそるべし。炎症度をあらわす数値が、通常は1未満で、風邪で1、インフルで4、肺炎で10くらいで、10を超えると即入院らしいのだけど、入院時の数値が26だった。というわけで、入院して一週間は車椅子。歩けない。

で、なんとか下痢がおさまって、食事が出るようになって、歩けるようになった。徐々に入院生活を満喫。「タイガー&ドラゴン」の再放送みたり。なぜかむしょうにファンタグレープが飲みたくなる。病院の売店に行ったら、おお、ミニ缶が。ちょうどいい。ナースさんの目を盗んで飲む。うまい。

読書も少々。最近出た、ちばあきおの名作「キャプテン」完全版の1、2巻。谷口クンのがんばりに泣く。「マカロニほうれん荘」とならんで、私のバイブルです。こういうときは、ふだんまったく読まないものを、ということで、ミステリーから、我孫子武丸の「殺戮にいたる病」。それからこれもふだん読まない、ベストセラー系(?)から、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」。これはよかった。まだ読んでいない人はぜひ。すばらしい作家だ、っていまさら。

最初、ドクターから「透析になるから」と言われた。マジか。しかし、「若いから大丈夫かな」ということで、透析やらずに快復。よかったよかった。

ちょうど「澤」の編集が佳境というか、これから本格的にというところでの入院。森下編集長に多大な迷惑をかける。原稿も落とす。ごめんなさい。そういえば、向かいのベッドのおじいさんが、某俳句結社に属する俳人だった。カルチャーの講師とかしているらしい。ナースの実習生が、そのひとに付いていて、なんか俳句の指導はじめちゃって。「コスモス」で一句作ってみなさい、なんて。退院するとき、「私も俳句やってまして」と言おうと思ったが、やめた。

いちばんショックなのが、太ったこと。10キロくらい太る。人生ではじめて60キロ台に。しかも後半だ。そして嘔吐のしすぎか、腹筋が痛い。筋肉痛だ。どういうことだ。健康が一番、ということだ。厄年とか言うんじゃねえ。刷り込みされんじゃねえか。いや、みなさん、厄年には気を付けましょう。

 ブルドーザーの椅子尻の形【なり】鰯雲   榮 猿丸

2009年10月16日金曜日

 ― ミューズ ―

   航海を終へたる銀杏黄葉かな     青山茂根

 ・・・小生に取りては階段のほとりに金ボタン輝したる番卒の如きもの立ちて、人の出入に敬礼する大旅館に宿泊するほど趣味なきものは無之(これなく)候。又四方より燕尾服着たる給仕人に見張りせられ燭光昼の如く石の柱に反射する処、銀器きらめく食卓に食事するほど耐え難きものは無之候。

 此れに反して小生は曲がりくねりたる巴里の小路の安泊りのさまを忘れ得ず候。・・・  

                       (『ふらんす物語』 永井荷風  「ひとり旅」より)  

 バックパッカーとまではいかないが、明治41,2年頃からすでにそんな安宿を好む風潮があったようだ。江戸の下町を徘徊した晩年の荷風を思うと、まだ青年の頃からそのような嗜好が芽生えていたのだろう。たとえそこが外遊先の欧州だとしても。


 ・・・かかる安泊りの殊に印象深きは、昼とも夕ともつかぬ薄暗き秋の日の午後(ひるすぎ)いつとはなく暮れ行く頃に有之(これあり)候。一室の空気は壁より生ずる幾分の湿気を帯び、永き昼のままに沈滞致し居り候。唯だ一つ、穿れたる窓より名残の空の光進み入りて白き窓掛を青白く照す。・・・


 そうそう、と思わず楽しくなってくる。荷風の言う「帳場には髪の毛汚き老婆」とか「窓の下には貧しき小路にのみ聞かるる女房の声」ってレベルまでは同意し難いが(そこまでだと治安もよくないし、娼婦街辺りはさすがにパス)、普通に庶民的な通りにある宿が私も好きだ。『○球の歩き方』に載ってる宿は往々にして日本語の案内書きがあったりして少々興ざめなところが多い気がするので(飲食店もしかり、日本人ズレしたとこ多し)、現地で歩いてみて探す。繁忙期や到着日の宿は各国の政府観光局などで調べて出発前に予約しておくが、観光局のホテルガイドと地図をつき合わせて部屋数が少なく、治安が悪くなく庶民の生活するエリアに近いところを見つける。当たり外れももちろんあり。といいつつも、プールサイドでのんびりを考えると、リゾート地などではやっぱり贅沢な宿も捨てがたい。懐具合も考えて、大都市なら二つ+から三ツ星レベル、アジアやリゾートならもう少しランク上、というのが旅の楽しみだ。この二つ+から三ツ星ランクで、家族経営のこじんまりした宿となると、現地語しか通じないことも。でも当地の会話集片手に単語を並べてもなんとかなるものだ。トラブルにあったときは別だけれど。その土地の近所の人々がフロントでおしゃべりに興じていたりするのも、何か懐かしい温かさだ。

 「寂寥は無二の詩神(ミューズ)」と荷風は書いているが、さて我が詩神は何処に行ったやら。

2009年10月14日水曜日

ロシア大使館

渡航ビザ申請のため麻布台のロシア大使館を訪れた。
ちなみに渡航するのは私ではない。

頑丈な高い塀の向こうには木々が生い茂り、奥まったところに白い建造物の聳えるのが見える。
ロシアのあざやかな三色旗もそこここにはためいている。

正門の前には二人の警官が立ち、車止めのバリケードが敷き詰められている。
とてもものものしい雰囲気である。

ビザの申請窓口へは少しはなれたところの勝手口のようなところから入るのだが、ここにも警官がひとり立っており、やはり警戒は厳重である。
昔勤務していた会社の事業所がこの大使館の並びにあったため、この付近を通りすぎたことは何度もあるのだが、中に入るのははじめてのことである。

各国の大使館が多く存在するからだろう、東京のなかでもどことなく異国へ通じる雰囲気を持っているのが、この六本木麻布界隈ということになるだろう。

待合室は思ったよりも明るく、飲み物の自動販売機などもある。
また、銀行や郵便局でよく見かける、順番待ちのための受付カードを発券する機械があって、思ったより親しみやすいという感覚を持った。

順番が来て窓口へ行ってみると、こちらはうって変わってものものしい雰囲気を醸し出していた。
おそらくは防弾ガラスと思われる厚いガラス板で完全に仕切られ、職員との会話はインターホン越しである。
なんとか無事に申請を終えて六本木方面へ、六本木ヒルズに目当てのものはなかったが、東京国際映画祭のポスターなどを眺めて楽しんだ。

行ったことはないが、ロシアという国へは憧れと畏怖を持つ。
すばらしい音楽や文学を生み出した人々が住んでいた国であり、バレエやフィギュアスケートなどにおいて多くの優れた演者を輩出してもいる。
その情熱的で享楽的なイメージと、かつての恐怖政治や強大な軍事力といった冷酷で力強いイメージとの強いコントラスト、それが私のもつロシアという国への先入観である。

すこし恐ろしく、面倒な気もするが、やはりいつかはロシアに行ってみたい気がする。
……ところでビザは無事発行されるだろうか?

十月の森に囲まれ大使館   中村安伸

2009年10月9日金曜日

 ― ピース ―

 

  名月の中にも骨を拾ひをり      青山茂根


 ひとが語る故郷の話が好きだ。特に名所旧跡があってもなくても、それが誰かを通した言葉で語られるだけで、聞いているうちに憧れがつのる。その語る人物と特別な関係があるわけでもなく、日常の瑣末な描写―学校の帰りにどこの川辺でぼーとしていたとか、どんなものを食べさせる店があるとか―に胸が躍るのだ。誰かの記憶の断片から、空想の地を自分なりに作り上げて楽しめるタイプなのだろう。

 時には、そうして話を聞いているうちにどうしても行きたくてたまらなくなり、そこへ旅してみることもある。案内にその語り手を頼まずとも、一人でも出かける。もう自分の中にある程度その地のイメージが出来上がっていて、残ったパズルのピースを埋めに行くようなものか。それが全く違ったピースであることはまずなくて、多少の紆余曲折があろうとも、自分なりに、残りのピースを探すのを楽しむ。観光名所の裏側に息づく、その土地ならではの日常のほうにより興味が湧いてしまう旅だ。

 仕事が忙しい日々が続いて、休日も夏休みもないまま8月9月が過ぎ、秋も終わりの気配が漂い始めた平日に、やっと4,5日まとまった休みがとれることになったとき、真っ先に頭に浮かんだのは郡上八幡だった。まだ俳句なぞに首を突っ込んでいない頃だ。会社の数歳上の先輩が、その辺りの出身で、よく話を聞かされていた。一ヶ月あまりの期間、町のどこかで日々踊りが催され、お盆の三日間は徹夜で踊り続けるという郡上踊りの風景、町中を流れる水、少年たちの川への飛び込みの儀式。六本木にあった、郡上出身の青年が雇われ店長をしていたバーに行って、郡上ハムや朴葉で焼いた郡上味噌をつまみに飲みながら。その人物云々より、その人の向こうにある、その語る土地にすっかり心奪われていた。休暇の届けを出すと、荷物を掴んで夜行バスに乗った。岐阜からの電車はだんだんと車両が少なくなり、最初は通学の学生で混雑していた車内も、土地のおじさんやおばさんがぽつんぽつんと腰掛けているだけになる。窓からの景色も、のんびりした、特に変わったものは何もない風景に変わる。その過程が、面白いのだ。

 郡上踊りを終えてしまった町は、ひっそりとしていて、自分しか観光客らしき人も見当たらなかったが、なんとなく歩いていた裏道に、紅殻格子を残している家々があったり、町中を水の流れが巡り、それが驚くほど冷たく澄んでいるのだった。ところどころの水舟と呼ばれる水槽では、今でもそこに住む人々が本当に野菜を洗っていた。飯島晴子の随筆にもある、郡上踊りはいまや観光客で溢れているらしいが、その少し先の、キリコ灯籠の下の白鳥踊りを見に、またいつか行かなくてはと思っている。

 そのときついでに、郡上からさらにバスを乗り継いで、白川郷へ出た。その場のひらめきで、日に何本かのバスを見つけて飛び乗ったに過ぎないのだが、ちょうどそちらが秋祭りの最中だった。といっても当時はまだ村の鄙びた祭りで、観光客の姿もほとんどなく、裃姿に笛や太鼓を鳴らす人々が家々を回って歩くものだった。確かそのあとを獅子舞や竜がのし歩いていたように思う。笛を吹く青年の手甲に美しい刺繍がなされていたのを、夢にあったもののように覚えている。紅葉には、すでに遅かった。

 

2009年10月8日木曜日

メールが来ない(私は誰にも愛されないんだ)

古今東西の心理学に精通しついには住処に霊的防衛線を張るところにまで至ったと噂される葉月です(単なる噂です)が、「連合弛緩」が進行した状態が「言葉のサラダ」という医学用語で呼ばれていることは『マンガで分かる心療内科』を読むまで知らずにいました。

「ネコは緑色だから卑弥呼だ」ならそれが「言葉のサラダ」であることに多くの人が気づくだろうし狂気の匂いを嗅ぎ取ることもできるかもしれない。
「メールが来ない…。私は誰にも愛されないんだ」ではどうだろうか?
狂気に関する訓練の行き届いている人でなければ気づかないようなレベルであって、日常性に覆われているとも言えるのではないか。いやむしろポエミーと呼ぶべきだろうか。

さて『豆の木HP』の十月分『二句競作』に見慣れない俳人の作品が二句載っている。

幸福や蜻蛉のたくさん顔へのキャベツ  ねここ
順番に日記のあおい虹に水  ねここ

この「ねここ」というのは実在する俳人ではなく、三島ゆかりさんが『犬猿短歌』という短歌自動生成スクリプトに触発されて組んだ俳句自動生成スクリプトの名称である。それにしてもあの「豆の木」と言えども人間でなくスクリプトから投句があったのはさすが初めてではないだろうか(なんか都市伝説みたい)。姉妹スクリプト「木枯二号」と違ってこの「ねここ」は定型という縛りもないので、いかにも「言葉のサラダ」な様相を呈しているとも言える。詳細は三島ゆかりさんのサイトをご覧ください。

広く流通している暗黙の了解の如きものとして芸術と狂気の親和性とでも呼べるものがあると思う(むしろ芸術と非論理の親和性なのか)。「詩的飛躍」とでも呼んでいいのかもしれないしそれこそ「言葉のサラダ」でもかまわないのかもしれないけど、芸術というものを狂気の断崖のぎりぎりのところで爪先立って見える風景のように捉える見解は珍しいものではない。もしかしたらアルチュール・ランボーの私信の中の「詩人は、あらゆる感覚の、長く、無制限かつ、吟味された錯乱によって見者たる(Le Poète se fait voyant par un long, immense et raisonné dérèglement de tous les sens.)」という行が有名になってから一般化したのかもしれない。

俳句が詩の一種であることに私は異存はないが、ご立派な芸術であるかどうかには心もとない気持ちになる。
ただ「ネコは緑色だから卑弥呼だ」ならそのサラダ性(芸術性?)はあからさまだが、「メールが来ない…。私は誰にも愛されないんだ」ではサラダ性(芸術性?)は隠微されやすいということはわかる。そして隠微された毒の方が即効性の毒より手遅れになりやすく致死率が高いということも。

ところでこの『マンガで分かる心療内科』に登場する看護師の官越あすなさんは的確なボケも容赦ないツッコミもこなすスーパー看護師で「簡単に休めたら苦労しませんよね」(第一回)、「バカほどうつになりにくいんですね!」(第八回)などの名台詞のせいかマンガ好きの間では少数ながら熱烈なファンもいるのだが、今回もやってくれました。「この『言葉のサラダ』という医学用語をつけた医者たちの『してやったり感』が目に浮かびますね」。
なんか看護師さんと結婚したがる俳人が後を絶たないのも頷けます。うーん、マンガの登場人物から現実を演繹するという荒業!!(良い子は真似をしないように)

流星やバカと囁かれてみたい  上野葉月

2009年10月7日水曜日

名月

中秋の名月の日、秋葉原でオフ会。
スタート前の18時、会場近くで雲間に見え隠れする月を見た。

そもそも、10年以上前にniftyの俳句関連のオフ会に一、二回参加したことがあるくらいで、オフ会というものに出るのは大変久しぶりである。最近ははじめての句会に参加するということもほとんどなく、今回のように、会う人全員が初対面というシチュエーションもまた、ずいぶん長く経験していないことであった。

会にはtwnovel(ついったー小説)の書き手が18人集合した。
無線LAN環境のあるお店で、ほとんど全員がモバイルPCやiPhoneを手にして、オンライン、オフライン相半ばして、というところは先日のSweet Vacationのライブイベントと似ているようでもある。
実際、専用のタグを用意したということろも共通していた。このタグを使用して、遠方などの参加できない人々を巻き込みつつコミュニケーションをとったり、席題(という言い方はしていなかったが)を出してみんなで小説を作り、合図でいっせいに投稿するなどという遊びをしたりと、なかなかユニークな会合であった。

興味深かったのは、何人かの方が、ついったー小説を書く習慣によって報告書など仕事上のドキュメントを上手に書くことができるようになったと言っていたこと。
つまり、無駄を省き簡潔明瞭な文章を書くということが習慣化することによって、文章の伝達力が増したというわけである。
無駄を省くという点では俳句でも同様の効果がありそうだが、少し違う面もある。
つまり、ついったー小説はあくまでも散文作品であり、短い言葉ではあっても対象をくっきりと描出することが求められるのに対して、俳句は散文としては成立しないほどに言葉を省略するのであって、伝達ツールとしては欠陥品でなければならないのである。
だから俳句の修練が直接的に文章の上達につながるかという点には疑問が残る。むしろ説明不足の文を書いてしまうことが往々にしてあるような気がするのだ。

ところで、先日書かなかったことだが、twitterの特徴のひとつとして、twitterをより楽しむためのサービスを、ユーザーが開発提供している例がたくさんあるということがある。
twitterの機能のひとつに、自分が気に入った発言にfavoliteという☆マークをつけ、クリップしておくことが出来るというものがある。俗にfavoliteをつけることを「ふぁぼる」、つけられることを「ふぁぼられる」もしくは「ふぁぼをいただく」などと言う。この機能を利用したサービスに「ふぁぼったー」というものがあり、自分の発言が誰にふぁぼられたかを見ることができるのだ。
このサービスがついったー小説作家たちに重要視されており、貰ったふぁぼの数をモチベーションにしている作家も多い。
システムとして句会ほど公平ではない部分もあるが、ともかくも読んでもらえているという実感がダイレクトに伝わってくるという点が、創作への意欲をかきたてるのであろう。

オフ会と二次会が終わった頃、名月は中天に昇っていた。
秋葉原駅北口の空間がひらけたあたりで、最後まで残っていた数人が月を眺め、ある女性が月に関するいろんな言葉を教えてくれた。

帰宅後、いつものようにtwitterにアクセスすると、オフ会に参加していた人たちも、参加できなかった人たちも等しくオンラインでタイムライン上にあらわれ、今日の感想やらなにやら話し合っている。
いつものように私はそれを眺めるだけでほとんど発言はしなかったが、すこしばかり文字列に表情がついたような気がした。

月姫のつめたき肌を病みにけり   中村安伸

2009年10月1日木曜日

 ― バックパッカー ―

  

  滑走路途切れて虫の闇はじまる       青山茂根


 バックパッカーはどこにでもいる、いややってくる。普通に暮らす我々が知らないだけで、東京のあちこちにも、世界中のバックパッカーに名を知られたドミトリーやゲストハウスが存在するのだという。そもそもはヒッピー文化に源流を発し、日本では私たちの世代あたり、沢木耕太郎の『深夜特急』から影響を受けて、海外へ出かけるものが格段に増えたようだ。沢木耕太郎も、金子光晴の著書に啓発されたらしいことを書いていたが、もう少し以前から、その旅行形態はあったらしい(昨年出た、同じ著者の『旅する力 ― 深夜特急ノート』をまだ読んでいない)。

 バックパッカーというものを初めて認識したのは、私が幼稚園の頃だった。年の離れた従兄弟(当時大学生だったか)の一人が、友達を連れて、その頃転勤で海外にいた我が家に居候にやってきたのだ。日本よりはゆったり作られているとはいえ、都会の、ゲストルームもないアパートメントに、文字通りバックパックを抱えて二人で転がり込んできた。私たち子供が寝ていたベッドを彼ら客人に明け渡し、私たちは両親のベッドルームの床に毛布で寝床を作らされ、彼らは2週間くらい滞在していた。風呂場に洗濯した下着をおおっぴらに干す、とか(バスルームだけで八畳くらいの広さながら、トイレとバスタブが同じ空間にあるのでトイレに入るたびにその煮しめたような下着を拝観するはめになる)、まあその欧州をあちこち放浪してきた貫禄とも言える格好に母はお冠だった。でも私は、その従兄弟がなかなか男前だったせいもあって(連れてきた友人はそうでなかったが)、朝御飯を食べると深夜までほっつき歩いて帰ってこない彼らを、面白そうな人たちだなあと眺めていた。

 自分が学生の頃は、ちょうどそんな人種だらけな時代(或いは環境か)だったのかもしれない。夏休みごとに中国全土を踏破しようと目論んでいた友人たちに限らず、会社勤めをしていたころも、とにかく若手社員の半分ほどは、1,2年南アメリカを放浪していたとか、インドで格安の宿を渡り歩いて強盗に身包みはがれたとか、女の子でも一人でモンゴルを歩いてきた、といった経歴を持つ人々が占めていた。もちろん、一人旅の気楽さに慣れるあまり、日本の会社というシステムに対応できなかったり、激務に耐えられず辞めてしまう者もその中にはいた。私にはそこまで放浪する行動力はなく、なんとなくバックパックという形態も肌に合わなかった。せいぜい2,3週間、軽めのスーツケースひとつ、たいていの駅には荷物預かりがあるし、いつ戻ってまた泊まると予約を入れておけば小さなホテルでも荷物を保管しておいてくれるし、とりあえず大物を預けて身軽に街を歩き回るのが常だった。そもそも、大荷物を背負って歩くのはいかにも旅行者然としていて、むしろちょっとした犯罪にも会いやすい(同居人もヒースロー空港で床に置いたバックパックをやられてるが、そういえば、一度も私自身は海外でスリをはじめとする犯罪にあったことがない)。図書館で先日、『定年バックパッカー読本』という本を見つけたのだが、バックパックという形態に賛同はしないながら、なかなか肯ける旅の知識が載っていて、面白かった。ターゲット設定みえみえの題名はともかく、ドミトリーなどの安宿を避けることや、食べることについて、安全面での心得など、一人旅の楽しみ方は自分に近いものがある本だった。もちろん、私はこの著者の方ほどあちこちへ出かけていないので、未知なる街の話にまたもやうずうずしてきてしまうのだが。

 アジアの大都市の片隅には、そうやって旅するうちに所持金がつき、また非合法の物に手を出したりして日本に帰れずに路上生活者化している者がかなりいるという。ヨーロッパの都市においても、状況は同じだ。むしろ裏社会というものは、そちらのほうが充実しているのかもしれない(『野性の夜に』1992 シリル・コラール監督作品や、『憎しみ』1995マチュー・カソヴィッツ監督作品などにも現実の有様が写し取られている)。先だって触れた近藤紘一氏の本のいくつかをまた改めて読み返していたら、『パリへ行った妻と娘』の中にも、現地のベトナム人社会の実態が出ていて、興味深かった。移民として生きる人々の姿、しかし同じアジアの隅っこを産とする我々には、その移民街のレストランが、旅先では何より心強いものだったりするからだ。私も、その13区界隈の、ベトナム料理屋でフォーを食べて、疲れた胃を休めた思い出がある。ユダヤ人街のファラフェルとともに、今でも食べたくなる味だった。

 紙製の金の冠の飾りを載せた、新年のお菓子が並べられたカルチェラタンの一角で、冷たい雨が降る商店の軒先に、いわゆる白人、アメリカかオーストラリアから来たと思しきバックパッカーが二人、身を寄せて雨をしのいでいた。まだ若者の部類に入る男と女、脇に置かれた荷物以外は何もない、足を折り曲げて座っていてもかなりな背の高さがうかがえる、その姿に憐れみと嫌悪を覚えるとともに、何も求めずに二人でただ眼前の通りという世界を日がな一日眺めている恋人たちが、無性に羨ましかった。

中央分水嶺

   雲生まる雪渓よりもまだ淡く       広渡敬雄 


 9月のシルバーウィークに上越(新潟・群馬)国境の大水上山(おおみなかみやま、1831米)に登った。
登山口から、標高差1300米、約5時間。頂上付近は既に秋の真盛りで、雑木紅葉、草黄葉、熊笹の緑のコントラストが素晴らしかった。
この山には、「利根川水源碑」があり、日本最大の流域面積を持つ利根川の最初の一滴は、 この南峰東側斜面の「三角雪渓」に始まり源流となる。
ここから銚子河口で太平洋に注ぐ迄322キロを流れ下る訳だ。この水は飛び切り冷えていて手がしびれる程だが、喉越しが唸るほど旨い。
頂上近くで、防水タイツ、渓流足袋姿の4名の登山者に会った。
南の水上町、宝川温泉の奥の奥利根湖で舟をチャーターして湖の最深部まで運んで貰い、そこから利根川源流の沢筋を忠実に辿り二日半かけて登ってきたとのこと。
晴天故にさすがに夜は冷え、6度だったと話していた。
この雪渓付近は夏は高山植物があふれ、カモシカ、熊等ともよく遭遇するらしい。
又雪渓付近は大気が冷えているせいか、雲が生まれやすい。

 霧も瞬く間に広がり、視界を閉ざしまた過ぎ去ると視界が戻る。
鳥兜が群生している所があり、吹き上げた霧が過ぎ去ったあとびしょりと濡れていた。

   霧過ぎしあとの水滴鳥兜  

 稜線付近の鳥兜は、山野のそれと違い、絶えず風雪、霧にさらされているせいか、小振りで色彩が殊に濃いように感じられ、愛おしい。
一方、この大水上山の稜線の逆の斜面の水は、魚野川を経て日本最長の信濃川となり、日本海に注ぐ。
と言うことは、この稜線は、日本列島(北海道~九州)の6000キロにわたって縦断している中央分水嶺(または大分水嶺)そのものなのである。
単純に考えれば中央分水嶺は、より高い山岳の頂上を通過するようにも思えるが、ことはそう簡単ではなく、日本高峰上位三山である、富士山、南アルプスの北岳、北アルプスの奥穂高岳の山頂は、その線上にはない。

  広げたる地図に雲海迫り来る

 この中央分水嶺は、日本列島の背骨たる山稜を辿るが、途中で峠等も通過するので、自動車で知らず知らず通過しているケースも多いかも知れないが、総じて海抜は高い。
但し、とびきり標高が低くわずか海抜95米しかない所がある。
それは、兵庫県丹波市氷上町石生(いそう)の水分れ公園。
この一滴が各々由良川を経て日本海に、加古川を経て瀬戸内海(太平洋)に注ぐ。
ともに約70キロとの標識がある。
誰にでも気軽に行けるせいか、中央分水嶺を手頃に実感出来、その水に手を浸すと不思議な感慨が生まれる。いつか湧き上がるような句を得たい。