2010年1月29日金曜日

― 旅と鑑賞 ―



  誰もゐぬ街よ手毬を追ひゆけば     青山茂根


・・短期とはいえ、外遊の見聞が、日本人のみが持つ感、知性の本源をあらためて糺さねばならぬ実感として迫り、宿ったのもたしかなことのようであった・・・
                (『歳華集』後記 赤尾兜子 角川書店 1975)

 という、記述を紹介したあとに、平井照敏はこう続けている。

 ・・・私も一年間のヨーロッパ滞在によって、詩人から俳人への変貌をとげて帰国した経験があったからであった。もちろん外遊による日本再発見は、それまでに用意されていたものの意識化であろうし、加齢ということの重さも忘れるべきことではないだろうが、ともかく外遊をきっかけにして、兜子が日本的感性と知性とにある重要な再認識をし、それがかれの俳句に大きな変貌をもたらしたこと、それがかれの俳句に、かつてない大きなしぶとさを与えたことだけは確かである。
               (『鑑賞現代俳句全集 第十巻』 立風書房 1981)


 平井照敏による赤尾兜子鑑賞の一部分を引いた。だからといって、外遊を礼賛するつもりはないのだが、むしろ、「加齢ということの重さ」に注目したい。その上での「外遊の見聞」、それが影響をもたらしたと。それは、或る程度社会の一員として、自己の労働に対する報酬で得た資金によって、またその労働の経験により培われた認識ということでもあるだろう。 ま、自分がまた行きたいことの口実なのだが。

 句の読みに作者の実人生を投影するのが正しいのかどうか、いつも迷いつつ自分としては結論を出せていない。ただ、いくつかのその時々の通過儀礼を追って、その事実を句の読みに反映するよりは、その実人生での経験が、作者のものの考え方にどのような影響を与えたか、それが現れていると思しき作者の文章を探しながら、句と対峙していきたいとは思っている。

 先日、週刊俳句で、『新撰21』の一句鑑賞を書かせて頂いた。他で書くつもり(豈本誌次号)だったものを、シンポジウムから日をあけずに掲載したいということだったので、そちらに出させて頂いたのだが、あえて賛辞だけの句評にしたくない、という文が、別の読み方をされているようなので、少しだけ触れておきたい。

 ・・・一口に「旅」といっても色々あるが、私のそれは、『おくの細道』を辿る旅のこと。しかも出来るだけ交通機関を使わずに、芭蕉の辿った道を一歩一歩自分の足で歩いて辿っている。もちろん、一度の旅で全ての行程を辿り終えるような時間と金銭の余裕は持ち合わせていないので、毎年の夏の休暇を利用しては、大体三泊四日くらいで旅に出ることにしている。

 東京の自宅から前回の旅の到達点までは、交通機関の力を借りて行く。しかしそこからは、全くの徒歩。八月半ばの炎天下を一日に四十キロくらい歩くのだから、正直言って、大変にきつい。全身汗まみれになるし、直射日光に焼かれた肌はじりじり痛むし、それに何といっても、歩き通しの体の疲労が甚だしい。(中略)


 しかしほんの僅かであっても、当時の旅の実情を身を以て理解できるようになったのは、意義のあることだと思っている。
             (『―俳句空間ー豈』47号 特集青年の主張「俳句は古いもの」 村上鞆彦)


 作者自身によるこの文章が、源流として私の一句鑑賞の冒頭部分にあることを、読み取っていただければうれしい。
 
       



2010年1月28日木曜日

富士山

星飛びし空に影富士ありにけり     広渡敬雄

「頭を雲の上に出し四方の山を見下ろしてかみなりさまを下に聞く富士は日本一の山」と明治43年以来文部省唱歌として歌われ(平成19年には「日本の歌百選」)、一富士二鷹三茄子と縁起の良い初夢の筆頭にあげられて、昔から多くの日本人に吉相の富士山。

日本人なら、一度は登るべき山とされ、年間25万人の登山客の大半が7月1日から8月31日の2ヶ月に集中、頂上や各合目の山小屋の泊りは1畳に2名の超混雑となる。
 真夏のシーズンは、昼間の直射日光を避けて(5合目以上は樹木もなく砂礫のため)、
夜間に頂上を目指す登山者のヘットライトが、延々と続いているのが山中湖等から見える。

 頂上は、旧測候所の上にあり「日本最高峰富士山剣が峰 三七七六米」の石標がある。ご来迎時には、その反対側の西側の雲海(雲海がない時は、広大な大地や山々)に、端正な富士山のシルエットが出来る。
いわゆる「影富士」である。ご来迎に感激していると見損なってしまうが、ご来迎直後、約2キロのお鉢巡りをすると何とか見られる。
また、夕暮れ時にはご来迎方面(東)に見られる。
 他では、鳥海山で日本海に映る「影鳥海」が知られている。

 昨年の12月、元レーサーで登山家の片山右京氏が所属会社の社員2名と南極最高峰ビンソンマシフ(4897m)登山鍛錬のために登攀中、同行の2名が遭難し、凍死するという悲惨な結果となった。
 雪化粧して優美な冬の富士山は、気温が氷点下20度を越す寒さに加え、20m近い強風で体感温度は同40度以下とも言われ、雪面はコンクリート以上の硬さでアイゼン、ピッケルも撥ね返す程。
加えて風向きも不規則な強風で蟻のように吹き飛ばされ、雪面(「死の滑り台」と言われる)を滑落して死亡する事故が多く、ヒマラヤよりも難易度が高い限られた「エキスパート」のみの領域と言われている。
 今回も天候の急変は予想されたため、片山氏の道義的責任を問う声もある。

 日本を代表する富士山は戦前の時期を除いて(*①)、日本の最高峰であり、万葉集の時代から「田子の浦ゆうちいでてみればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」等の詩歌にも詠まれている。

(*①) 台湾の新高山(現・玉山、3925m)、次高山(現・雪山、3886m)、
新高山は太平洋戦争開戦時の暗号電文「ニイタカヤマニノボレ 一二〇八」で有名。
五月の富士山は五合目近く迄残雪があり、立夏の眩い陽光のもと快適な雪山を楽しめたが、新高山は、南回帰線上にあり、同時期に登った時は雪も無かった。日本では細く逞しい這松が、その数倍の太幹だったのが印象的だった。

 富士山に登りたいという願いは庶民の間に強く、殊に江戸時代には「お伊勢まいり」と同様に「富士講」が盛んで、富士吉田等の登山口には、百軒近い御師(おし)の集落があり、夏季は、富士山に登る参拝者に宿坊を提供し、山頂まで案内、他の季節は関東一円で布教活動を行った。戦後は登山もレジャー化し減少したが、まだ十五講が活動している。

 年齢、体力面で登山出来ない人のために造営された山(塚)が「富士塚」で、東京を中心に六十近くが残っており、富士山の山開きの日には、富士講の人達が富士塚に登り、富士山を望んだ。概ね3~10米の高さ。
つまり、かっては都内の大半が富士の展望に恵まれていたことになる。
現在、江古田、豊島長崎、下谷坂本、川口木曽呂の四基が重要有形民俗文化財に指定されている。
一度、六十近くある富士塚のどれかに登り、江戸の庶民の気持ちを実感するのも面白い。

高層建築物が無かった江戸、明治時代は、都内至る所から、富士山が望めたので、10近くの富士見町(富士見台)、22の富士見坂の地名が残っている。

   放水を富士に向けたる出初式

 最近もそうだが、来日した外国人は、必ず秀麗な富士山に登りたいと熱望する。
幕末に来日した初代の英国公使オールコックが、幕府の強硬な反対を押し切って、万延元年7月(1860年)、外人として初登頂し、標高、緯度、経度等の測量結果も含め詳細な行程記録他江戸郊外からの富士山の画を残している。

 富士山を描いた絵画は、近年では梅原龍三郎、横山大観が有名だが、江戸時代の巨匠 葛飾北斎、歌川広重の富士の画も傑出している。
 北斎の「富嶽三十六景」では、遠近感のある「神奈川沖浪裏」、画面一杯に赤富士を描いた「凱風快晴」が殊に名高い。(*②)
 広重の「東海道五十三次」の中では、由井(薩多嶺)、原(朝の富士)、吉原(左富士)にそれぞれの地からの富士の姿が描かれているが、「左富士」は知らない人が多い。(*③)

 東海道を江戸から京都に西下する際、富士山は常に右側に見え、左側は太平洋であるが、吉原宿近くの松並木の間から唯一行く手の左手に見える名勝地。
津波で吉原宿が内陸に移転し、道筋が北上したために左手に見えるようになったと言う。
 現在、一里塚は残っていないが、一本の老松と広重が描いた左富士の浮世絵を刻んだ石碑がある。(*④)   
 東海道新幹線からも「左富士」が見える。筆者も関西に行く折は注意して見る様に心がけているが、静岡駅を越えて安部川のあたりまでの僅かな時間である。
 一度A席かA席側のデッキで挑戦して見たら車窓展望の楽しみも増すだろう。

また、浜名湖を過ぎて豊橋の手前、旧二川宿付近の右手後方が富士が最後に見える地点でもある。(135km)
 東北新幹線からは、宇都宮を過ぎて那須塩原手前あたりが最後の地点となる。

最後に、遥か遠方から富士山を見つけ出す感激を追い求めている人がいる。
超遠望の富士は、200~300km離れた処から見られる。
コンピューター上からは眺望可能と目される地点から、富士山を実見しカメラに収めるべく、空気の澄んだ厳寒期の日の出直前に、シャッターチャンスを待つマニアも少なくない。
南東は、八丈島の東山(271km)、西は奈良県、三重県の県境で日本百名山の大台ヶ原・日出ヶ岳(273km)、圧巻は南西方向の「那智の滝」近くの妙法山(323km、カメラにも写っている最遠地点と言われる)。
北方向では苗場山に隣接した神楽ヶ峰(165km)、勿論日光中禅寺湖付近の男体山も。北アルプスでは白馬岳、立山からも眺望出来る。実際筆者も実見したが、思いの外鮮明だった。ほぼ日本列島の最大横幅に相当する距離。(180km)
北東では福島市近郊の花塚山(308km)と言われるが写真には残っていない。

  遠富士や寒朝焼の芯となす

 富士の展望は、このように色々な楽しみ方がある。

勿論飛行機からの眺望も素晴らしい。第二次大戦で、日本本土の空襲のために北上する米国爆撃機は富士山を目印にしたとも聞く。山頂測候所も三度ほど空襲を受けている。
その米軍機が撮影した富士山は孤高だが、屹然と聳えているのが印象深い。

■参考文献/サイト等

①「富士山展望百科」 田代博監修「山と地図のフォーラム」編(実業之日本社)
②「週刊俳句」09.2.15号「俳枕 山中湖・赤富士と富安風生」
 「北斎と地図でめぐる富嶽三十六景」(浮世絵のアダチ版画 楽天市場店)
「広重と地図でたどる東海道五拾三次」(浮世絵のアダチ版画 楽天市場店)
「左富士」(新橋町)

2010年1月27日水曜日

新年会(句会報)

猿丸さんの記事にもある通り、1月23日土曜日、有楽町にてhaiku&meの新年会が行われた。レギュラー執筆者の三名と、これまでご執筆いただいたゲスト執筆者の方々、さらには今後ご執筆頂く予定の方々にお声をかけたところ、急なお誘いにもかかわらず、また新年会シーズンで慌ただしい中にもかかわらず、総勢十名にお集まりいただくことができた。
自己紹介では、それぞれ俳句をはじめたきっかけを語り、代表句を披露することとなった。これによって俳人の集まりらしい雰囲気になったと思う。

さて、飲み会終了後、近くのルノアールに移動して二次会となったのだが、葉月氏が懐中より細長い紙束を取り出し、句会をやらねば帰すまじという気魄で皆に押し付けるので、急遽句会が行われることになった。ちなみに十名全員が二次会に参加してくださったのはありがたいことである。

題詠、二句以上出句、閉店まで時間があまり無かったので、清記せず短冊をそのまま回す方式をとった。席題は松本てふこ氏出題の「新」そして、浜いぶき氏出題の「針」の二つである。一人あたり6句投句した人が二名、合計34句が投句された。

以下に各作者の句を1,2句ご紹介してゆきたい。なお、当日選評の時間がなかったため、各句に私の評を付しておく。当日参加者のみなさまはコメント欄に選評を記していただければ幸いである。もちろん参加者以外の方からのコメントもお待ちしております。


大寒や短針も長針も好き   上野葉月

時計の針フェチという性向はなかなかニッチなものであろうが、一方で「短針も長針も」と意外におおらかな面を見せている。「大寒」の緊張感が効いている。
(五点句、毬子、隆、いぶき、茂根、安伸選)


初桜レコード針の落つる場所   上野葉月

漆黒のレコード盤に吸い込まれるように落ちて行くレコード針。初桜というややロマンチックな季語もいい。レコードの黒に初桜の白と、色彩的なとりあわせとしても効果的である。
(二点句、隆特選、いぶき選)


運針表貼られて壁や冬日さす   山口珠央

中七の倒置の効果で、やわらかな冬の日差しのはいりこんだ室内の景が見えてくる。見事にライティングされた映画のよう。
(五点句、葉月、隆、いぶき、猿丸、安伸選)


盤上のレコード針や冷ややかに   山口珠央

とりあわせが見事だった葉月句と対照的に、こちらはレコード針そのものに視点を絞り込んだ。ともあれ、アナログレコードはhaiku&me的に重要なアイテムである。
(三点句、葉月、隆、安伸選)


釘打って日時計の針日短   興梠隆

釘が針となる。日短の日時計。ズレと繰り返しの妙。
(四点句、葉月、てふこ、いぶき、安伸選)


新曲を集めて駄盤冬ぬくし   興梠隆

安易な企画もののベスト盤であろうか。駄盤と言いながらも憎めない感じがするのは「冬ぬくし」の効果であろうか。
(三点句、葉月、安伸、猿丸選)


針山の綿はみ出して久女の忌   松本てふこ

最高得点句二つのうち一つだが、特選がある分こちらが上位と言える。久女の「足袋つぐやノラともならず教師妻」へのオマージュとも。忌日の句としてはちょうど良い距離感か。
(六点句、珠央特選、毬子、隆、茂根、猿丸、安伸選)


霜柱新しさうに輝けり   松本てふこ

シンプルにして鮮明な景。その一方で「新しさう」という言い方に「新しい」という概念への批評を感じる。私は当日並選としたが、報告者の特権によりあらためて特選とします。
(三点句、安伸特選、葉月、茂根選)


白鳥に戦争写真は新しい   九堂夜想

上五は「白鳥にとって」というように解釈するのだろうが、そのように限定しないほうがいい気がする。「戦争写真は新しい」というフレーズが、戦争写真そのものの人の心に及ぼす深い影響の、一側面を鋭くとらえているからである。上五で切れるかたちのほうが、私にとってより好ましい句となる。
(三点句、毬子、てふこ、安伸選)


針てふ蝶へ蝶へと招く空   吉村毬子

「針てふ」と言いはじめた言葉の音韻が「蝶」を招き寄せ、さらに蝶が「空」を招く。言霊ということを最も感じた句である。音数を整えつつどこかに捻りを作れば、もっと素晴らしい句になるのではないか。
(二点句、夜想、安伸選)


まち針の頭(ず)のぎつしりと星冴ゆる  浜いぶき

明瞭な景に見事に季語がはまったということか。収縮から開放へのダイナミックな展開がすごい。「頭」へ「冴ゆる」が響いて、世界がクリアにひきしめられた感もある。これも後付の特選とします。
(四点句、安伸特選、毬子、隆、猿丸選)


梟のむかふは新たなる塔と   青山茂根

闇の中にくろぐろと聳える「新たなる塔」はやはり、人間の欲望を象徴しているだろうか。梟のひそやかな飛翔は、闇夜を司る王の遷宮といったところか。建造中の東京スカイツリーをちょっと思い出した。夜、間近で見ると魘されるんじゃないかと思うほどデカいです。
(五点句、毬子、夜想、珠央、猿丸、安伸選)


秒針の跳ねて震へや春隣   榮猿丸

葉月氏の句では存在を無視されてしまった秒針だが、その動作の面白さを中七に凝縮した。「震へや」と体言+やにしたところ、下五の「春隣」とも相俟って、かろやかな昂揚感を引き出している。とてもキュートな一句。これも後付の特選としよう。
(五点句、安伸特選、葉月、隆、てふこ、珠央選)


最後に拙句をひとつ挙げさせていただきます。(六点句、隆、てふこ、珠央、いぶき、茂根選)

新宿に廃墟ありけり宝船   中村安伸

2010年1月26日火曜日

DNA解析   上野葉月

先日、ニホンザルの群に関する記事を読んでいたら気になる事例が書いてあった。ある群の生まれた子猿たちのDNAを調査したところ、観察されていた生殖行動とは違って、下位の雄の遺伝子を受け継いだ子猿の方が多いということがわかったそうだ。

ニホンザルはボスザルを筆頭に上位の雄ほど交尾の回数が多いことが長年の観察の結果よく知られているのだけど、実際は下位の雄の方が子供を残しているらしい。ヒトの雌は(一部の例外を除いて)浮気が大好きなことはよく知られているが、どうやらサルの雌の同様だったようだ。

なんか科学技術というのは改めて言うのもなんだけど野暮なものだと思う。

こういう記事を読みながら気になるのはやはりサルではなくヒトのことだ。なにしろニホンザルの雌はDNA鑑定についての知識はないがヒトの雌は実際にどんなことが行われているか説明できなくてもDNA鑑定の結果どのようなことがわかるかについてある程度把握している。

生まれた子供の父親が誰なのか産んだ当人でなければよくわからない(時として当人にもよくわからない)という状況と、地球上の多くの人間の個体は父親の社会的経済的地位によってスタート地点が決まってしまうように見えるという状況、この二つの矛盾するベクトルが長いあいだ人間社会のダイナミズムの原動力のひとつだったはずだ。にもかかわらず今日、生まれた子供に関して父親の候補者を絞れる状態だったらほぼ特定できるし、社会的な父親と遺伝的なつながりがなかった場合ほぼ100%つながりがないことを立証できるようになってしまっている。かなり大がかりなパラダイムシフト。日本などは元来太平洋の島国で性的なおおらかなところがあるからそれほどシフトしないのかもしれないけれど、人間の文明のスタンダードな部分、ユーラシア大陸の大文明地帯などではけっこう深刻な事態のようにも思える。たかが塩基配列を記号化してパターンを調べただけだというのにえらい騒ぎだとも言える。

そもそも人生の大半は思い込みと誤解で成立しているので、ヒトには動かし様のない事実なんてものを歓迎する謂われはない。それはやはり野暮というものではないだろうか。たとえば一昔前までは「日本人の祖先はどこからきたか」なんてお題を出された日には百家争鳴の盛況を呈したものだったが、いまでは盛況のセの字もない。DNA解析の成果でおおよその事柄ははっきりしてしまっているのだ。食材研究家も人相研究家も神話学者も言語学者も民謡収集家も出番なしである。

ヒトは胎児状態で生まれてしまうせいもあって子育てに無闇に時間をかけざるをえない。一匹の雌が生涯育てられる子供の数は限られるので子孫を残すためには数で勝負するわけにはいかず、勢い質での勝負になる。

仮にここに二匹のヒトの雌がいて、片方は同じ父親の子を四匹産んでもう片方は各々違う父親の子を四匹産んだとする。ヒトがインフルエンザ天然痘AIDSなどウィルス性の疾患の攻撃に極端に弱いことを考えれば、どちらの雌が産んだ子供達の方の生存率が高いかは分子生物学の専門家でなくとも火を見るより明らかだ。どの程度生存率が変わるかの計算はとても難しそうだけど。そんなことが数千世代にもわたって繰り返されてきたなら、太古の昔もし一匹の雄に尽くす行動が目立つ一群の雌がいたとしても新石器時代を迎えるのを待たずにそういう雌達の遺伝子が失われたことも火を見るより明らかだ。

いつものように紋切り型の締め方を許してもらえれば、遺伝的な父親が誰であろうが安心して子育てができる社会制度や法律を整備していかなければ今後少子化は歯止めの効かないところまで行くしかないだろうと言っておきたい。もっともヒトは増えすぎたので減らすべきだという声がすぐにでも聞こえてきそうな話ではあるが。

初夢の毛深い平行従姉妹かな  上野葉月

2010年1月25日月曜日

怒涛の俳句ウィークエンド

金、土、日と酒を飲む。まだ身体がだるい。
いや、そうじゃなくて、怒涛の俳句ウィークエンドだった。22日(金)は、角川俳句短歌新年会。相子智恵さんの角川俳句賞授賞式。選考委員の先生のスピーチで、なんと2年連続でわたくしの名前と句が挙げられるという快挙を達成。先生方に感謝です。この地味な、ある意味どうでもいい快挙、とってもうれしいけどこのもやもや感、もやもやさまぁ〜ずな感じが私らしいではないか。「名前だけでも覚えていってくださいね」と毎回言うけど覚えてもらえない漫才師、しかもボケ役の相子は人気が出てすぐ覚えられ、ツッコミ役の猿丸はなかなか覚えてもらえない「○○じゃない方芸人」ならぬ「じゃない方俳人」という言葉が一瞬頭に浮かぶが、もちろん冗談です。「アメトーーーク」を観てない人にはわからないネタですみません。去年はさすがに恐縮したが、今年は素直によろこびました。相子はくやしかったろう。へっへ。でも俺のがくやしいんだ。くやしいと思えないのがくやしいのだ。相子智恵ばんざい。

二次会も椅子がなくなるくらい盛況で、三次会へ。私は終電を逃す勇気が出ずに終電に飛び乗り一足先に帰宅。守りに入っています。そのあと相子とMさんとNさんは四次会へと行かれたようで。うらやましい。

23日(土)はhaiku&meの新年会。急なお誘いにもかかわらず総勢10名、ありがたし。急遽席題句会もして、この句会での句は近いうちにアップする予定です。アップするなら、飲む前に句会したかったな。でも飲んだあとに句会をするというのも、なかなか気持のよい体験でした。くせになりそうです。

24日(日)は、現俳協青年部勉強会「四ツ谷龍講演 田中裕明『夜の形式』とは何か」を聴きに行く。とても大きな会場(天井にミラーボール!)に、大勢の聴衆が入っていた。四ツ谷さんの講演は、絵画、音楽、テキストを駆使して、尋常じゃない力と熱のこもったものだった。プロレスでいえば地方巡業ではなく、最高峰の東京ドームクラス。すばらしかったです。
当然そのあとの懇親会も盛り上がる。懇親会場の入口で、鴇田智哉さんに声かけられる。電話とメール句会はしたが初対面、おお飲もうぜ!ってな感じでディープにお話しできてうれしかった。席が入れ替わり入れ替わり、気がつけば、西村麒麟さん、野口る理さん、鴇田智哉さん、私と、「哲学科出身(在籍)俳人」が横並びに揃う。理系俳人に負けないぞと訳のわからん共闘意識が芽生える。ニーチェ、プラトン、ベルクソン、ブレイク。さて、どの哲学者(詩人)が誰の卒論テーマでしょう。

俺ってなんにも言ってねえー(「今夜はブギーバック」オザケン祝復活)という毎度の文章になってしまったが、いろいろな方とお話しができたいへん有意義な3日間であった。

 梢までむささび駆けぬそのまま跳ぶ   榮 猿丸

2010年1月22日金曜日

 ― 勝手に親近感 ―



  剥ぎ取りし皮干す薬喰終へて     青山茂根


 あ、と気がついてしまうことがある。嫌悪感を覚えるとかではなく。だからどうだ、というわけでもなく、自分がそこに気づいてしまう、というだけだ。電車の中で、あるいは、ご飯を食べていて、また、字を書くとき、その他様々な場面で、人の仕草のある特徴に目が行く。自分でも、時々忘れていて、あ、いかん、と直したりする。他の人々には、かなりどうでもいいことのはず。日常の中で、ふと気にかかる些細なことは、人それぞれだろうけれど、自分の場合、気がついてしまう根拠がわかっているだけに、うーむ、である。

 電車の中で、つり革につかまっている人をみると、ふむ。
 人が何か書いているところを見ると、おや、と思う。
 包丁とか、何か道具を使う人を見ても、同じところに視線がいく。
 行儀作法とか、躾とか、そういうことではなくて(自分もそんなこと人に言えた義理ではない)、目が行くのは、
「脇が締まってない。」
というところである。一般的に、「脇が甘い」といわれることだが、これ、武道系の基本なのだ。剣道なら、すかさず、胴に一本打ち込まれる。合気道なら、技が決まらない。いや、たぶん大多数の方には全く関係ない話だろう。

 クラシックバレエをやっている子供にも、つい、「ほら、脇が空いてる。」と口が出てしまう。宿題をやっているときにも、その内容云々より、「脇が締まってなーい!」と言いたくなる。サッカーで子供が転ぶと、「受身が取れてない!」と突っ込みいれたくなる。

 悲しいかな、ちょっとでも武道系に籍を置いた者の、習性なんだろう。クラシックバレエとは関係ないのは確かだが、実は合気道はモダンバレエやダンスの世界では注目されていて、世界中からワークショップとして短期間の研修にダンサーたちがやってくる。かなり世界的に有名な若手ダンサーも来日して、一般の道場に通ってきたりするのだ。アクロバティックな飛び受身や型の美しさに、モダンダンスの方たちは関心を抱くらしい。書道には暗いのでわからないが、刃物や大工道具などは、脇が空いた状態で使うと怪我をしやすいのはよく言われることだ。最近のサッカーの試合を見ていると、日本代表選手の動きなどは、受身を多少習っているのでは、という転び方をしている。確かに、背骨付近を着地させないので(真の飛び受身は空中で身体を回転し、膝下の脚の外側部分と足裏のみで着地して立ち上がる、危険なので安易に真似しないこと)、怪我もしにくいし、派手に転んだように見えるので、審判へのアプローチにもなる。

 なんで正座なんてしなくちゃいけないの、と聞いてくる子供には、「正座していれば、敵が襲ってきたときにすぐ、片膝立てて応戦態勢に入れるんだよ。」と教えてしまう。「ふーん。」と子供は納得したのかしないのか、だが。だって、他の座り方だとそうはいかない。正座の状態から、片膝を立てて自分の身を反転させ、相手を投げてしまう技もある。

 たまに、俳句関係の中でも、そっち方面に関わっていた方にお会いして、親近感を覚える。というより、そういった雰囲気が、どこかにやはり出るのだろう。新撰21メンバーの中にも、そのような若手もいて、ちょっと嬉しい。ほんとは、弓道を習いたかったのだ。駒沢公園へ行くたびに、いや、まだ始められるかな、と思ったりして(立派な弓道場があるのだ)。あの静かな立ち居振る舞い、ものを見据える格好よさに、憧れる。

2010年1月21日木曜日

haiku&me 9, 10月の俳句鑑賞

足が出て手が出てやがてカーニバル  田島健一

たじまでございます。あけましておめでとうございま…した。
年もあらたまってしまって、なんだかいまさらなのですが、昨年の9月、10月のhaiku&meの作品について鑑賞させていただきました。
なんか、とても昔のことのようで恐縮ですが。ま、それはそれとして。


9/18
飛行機を降りて夜食の民の中      青山茂根

<違和感>、それは俳句における時間軸のなかで何かが変容する瞬間なのかも知れない。
揚句の場合、「夜食の民」ということばに何か聞きなれない響きがあり、そこに日常性から切り離された作者独自の感覚がはたらいている。
その響きはそれとなく続いて、日常的な風景を「飛行機を降り」た瞬間に変化させる。
「夜食の民」とは、飛行機から見下ろす都市の暗黒と、そこへ降り立つ作者自身との<違和感>を受け入れることによって経ち現れる作者の主体に他ならない。
この「夜食」ということばは、季語としての営みと同時に、「夜ニ食ス」ということばの表層によって、どことなく無機質で不気味な行為にも感じられてくる。
作者自身もその「夜食の民」の一員なのだ。そして最初に感じた<違和感>へ、作者の主体が再帰する。
この主体の再帰によって、事後的に私たちは<具体的な普遍>という幻想を得るのである。



9/21
蜜厚く大学芋や胡麻うごく   榮 猿丸

<物>が、もっとも手前の景色として与えられ、それが全体としての私たちの幻想を覆う。
もっとも手前にある「部分」が「全体」である、ということ、それが「イメージ」だ。
揚句の「大学芋」という言葉の、なにか重厚な、それでいて愛嬌のある印象が、この句をもっと大きな「奥」へと導いてくれるような気がする。
ポイントは、上五の「厚く」と切れ字の「や」ではないか。
異議をはさむべくもなく、この句が「部分」から「全体」へと読み手の意識を連れて行くのは「や」の切れによる効果と言ってよいだろう。
上五中七の静的なイメージから「胡麻うごく」と展開したことで、まるでそれまで止まっていた時間が、突然ゆっくりと動き出す。
そう考えると、上五の「蜜厚く(mi-tsu-a-tsu-ku)という「tsu」の小気味好いリズムが活きてくる。
なんだか、ゆっくりと動く「蜜」と「胡麻」のまわりの大きな空間がひきずられるように動き出すような気がして、気が気でない。


9/23
こほろぎを聴く図書館の設計図   中村安伸

「図書館の設計図」という文字列は、両側に「図」という角ばった文字が据えられ、いかにも硬質なコンクリートで作られた建物のような印象を受ける。
その建物の周りに、「やわらかい」世界として「こほろぎを聞く」時間と空間がある。
「こおろぎ」という闇を感じさせる季語とは対照的に、夜でも光のつまった図書館のイメージが現れる。
ただし、そこにはまだ「図書館」は存在しておらず、まだ外部(こおろぎを聴く空間)と内部(図書館)の空間は分けられていない。その設計図には、まるで「こほろぎを聴く」空間も書き込まれているのではないか、という気にさせられる。
そこにまだ存在しない図書館が「予定」されるだけで、その空間にさまざまな「意味」が与えられる。
「無」に対して「意味」を付与できるということ。それは「時間性」を基礎とする人間の重要な機能の一つなのだ。言うまでもなく「こほろぎを聴く」というのは作者自身だろう。「こほろぎ」を聴く、という<現実>に対して「図書館」という未来の時間を描き出す、ということは、それはもう世界そのものだということなのだ。


10/8
流星やバカと囁かれてみたい  上野葉月

作者が何か世界の核になる場所から、身をかわす、ということがひとつの態度だとすれば、「バカと囁かれてみたい」と、「バカではなく」かつ「バカでないわけでもない」位置に自身の主体を置く、ということにいったいどのような意味があるだろう。
あたかも中七下五によって作者は何か重要な問題から「身をかわし」たように見えなくもないが、実は「身をかわす」自分自身を見つめている、もうひとりの主体などは存在しない。
それは俳句形式の宿命のようなものである。
あたかも「バカと囁かれてみたい」と、問題のスポットライトの輪の外部へと逃れたように見えても、その外部もまた、俳句形式という存在論によって照らし出されてしまっているのだ。
皮肉にも「流星や」という季語が、この句を象徴的にしてしまっているのだが、なんど身をかわしても「私」は世界の中心に置かれてしまう、ということが宿命だとすれば、世界から「身をかわす」こともまたひとつの選択肢であると、言えないこともない。


10/22
踊り場の壁のかたさや星月夜   浜いぶき

「踊り場」ということばは、なにはともあれ踊る。踊って、踊って、踊りまくる。
もちろん「踊り場」とは階段の途中にある平らな場所のことに違いないのだが、そのような場所でも印象は「踊る」。
そのような、なにか賑やかな印象をうける「踊り場」の壁の「かたさ」、そしてその壁の向こう側にある「星月夜」。「陽気」な部分をとじこめてしまっているように感じるのは、既成の「俳句」という概念が持っている閉鎖的な「作法」のせいかも知れない。
重要なのは、その「踊り場」ということばの表層にある印象で、「それ」が「あれ」だという指示は二の次である。「踊り場」で踊り出すということ、馬鹿げて見えるかも知れないが、それこそが即ち、俳句で描くべきことじゃなかろうか。
ほんとうは「踊り場」と「星月夜」のあいだに「壁」はない。「かたい」も「やわらかい」もないと思うのだけれど。でもやっぱり「それ(踊り場)」は「あれ(階段の途中にある広い場所)」だから。…だからなのか!?
私たちにとって何が<現実>なのか。それは「それ」が「あれ」である以前に根源的に表面的な出来事であって、「ありえない」かつ「文脈で捉えきれない」意味がそこに存在する、ということだと思うのだけれど。
とはいえ、揚句を読んで、読んだ瞬間にこころは踊りだして、もうどうすることもできない。

2010年1月19日火曜日

デビルイヤーは地獄耳   上野葉月

ごきげんよう、親愛なる読者の皆様。
句会への出席も順調に(?)減少している葉月です。如何お過ごしでしょうか?
ともあれ今年もよろしくお願いいたします。

ところで最近、俳句に関して作風が変わったと複数の俳句仲間から何回か指摘された。
本人としてはまったく自覚がないので、よく聞き質したところ、結局のところ以下のような感じのものを詠まなくなったということを意味しているらしい。

新しいパパが来た希望のパパだ  葉月

言うまでもなく無季である。もともと俳句ですらないことは多くの俳人が同意してくれるはずだ。
実はこういうものを読むと元気が出ると言ってくれる人が何人かあることは知っていた。
しかし、これが俳句なのか出来がいいのかそもそも作品として語る価値があるのかという疑問をすべてすっかり置き去りにして言わしてもらえば、こういった類のものは宇宙の深度にも匹敵するような魂の相克の果てに偶然出現するようなものなので、しょっちゅう作れと要望されても戸惑うばかりだ。

まあ元来そういう傾向だったとは言えるのだが、最近とみに句作に労力を傾けなくなったというか集中力が持続しなくなったのは確かなような気がする。

寒椿父の表札外しをり
狩人の袋に甘き玉いくつ
大寒の風降りてくる秩父かな


先週のSara句会で短冊回しをしたときの句。一分程度で作ったので手癖のままの作句だが、短冊回し袋回しでなくて三十分ぐらい時間が与えられているときでも昨今は一句作るのに数分程度しか時間をかけないように思う。集中力が持続しないし、もとより私には俳句を推敲する習慣がない。
句集をほとんど読んだことがなく同時に句会でしか俳句を作らない者の偏見かもしれないが、私にとって俳句は徹頭徹尾「座の文芸」である。まあその場で面白ければ後のことはどうでもいいというか。いやむしろ文芸というほどのものでもなく、日常の会話でもあるように人前でちょっと気の利いたことを口にしてみたいというか。見かけほど頭が悪くないんだよと虚勢を張りたいという程度のささやかな煩悩に基づく行為と言ってもいい。
少なくとも、言語の新しい可能性を追求したいというようなことを考えていないのは確かだ。
そういうことじゃいけないんでしょうね。いけない? ん、いけてないのか? やっぱり、いけない?

2010年1月18日月曜日

ことごとく

ネタがないときは俳句のことを書く。

「—俳句空間—豈weekly第73号」の記事「新撰21竟宴 パネルディスカッション『今、俳人は何を書こうとしているのか』記録」を読んだ。パネリストは、関悦史、相子智恵、佐藤文香、山口優夢の各氏。司会は高山れおな氏。たいへんなボリューム。以下一部について雑感を。

最初のテーマだった「形式の問題」で、レジュメとして用意された外山一機さんの「消費時代の詩—佐藤文香論」の抜粋部分を問題提起としてディスカッションが進むのだけど、外山さんの論に対し、当の本人である佐藤文香をはじめ、優夢も違和感を表明していた。極めつけは、高山さんが「ひとつ問題があって、それは患者を取り違えているのではないかという気がしました。要するに佐藤文香はこの場合の患者じゃなくてですね、じゃあ患者は誰かというと、それは二十代の頃の高山れおなではないかなと。」と発言されていて、これにはすごく納得してしまった。

外山さんの論は、長谷川櫂、岸本尚毅、田中裕明、夏石番矢、小澤實といった、昭和の末期から平成にかけて台頭してきた「ニュー・ウェーブ」と呼ばれた俳人たちとの差異がわかりにくかったというか、むしろニューウェイブ俳人たちの登場から現在まで状況は何も変わっていないということを示しているのではないかと思った。僕は彼らニューウェイブたちを「ポスト・モダン俳人」と呼んでいるが、彼らは、歴史や価値の相対化、脱中心化が進む時代状況のなかで、周縁的な存在であった俳句を「発見」した。裕明の初期の代表作「悉く全集にあり衣被」のとおり、彼らの前には、もう新しいものはなかった。ことごとく全集に収められていた。全集という、すべてがフラットな配列の中で、彼らは自身の感性の赴くままに、伝統も前衛も俳諧も現代も問わず、引き出していった。『セレクション俳人 小澤實集』に収録されている、筑紫盤井氏の小澤實論「伝統俳句の現代とは何か 再び・小澤實の時代来たる」のなかに「虚無とこそ違え、そこには定型に対するほのかな絶望がある」という指摘があるが、彼らにみられる形式への信頼は、俳句の自明性の喪失という「絶望」と表裏一体であり、この時点ですでに、線的な、目的論的な俳句表現史は終焉を迎えていたのではないか。パラダイムシフトはこの時点ですでに起こっていたのにもかかわらず、俳壇はずっと棚上げしてきた。そのツケが今来ているわけで、僕らが自分たちの俳句について語ろうとしたとき、このパラダイムシフトを語らされることになり、それが混乱を招くのだと思う。

もちろん、この状況は現在も続いており、その意味で外山さんの論考は的確だ。でも、レジメに同じく引用されている椹木野衣の「シミュレーショニズム論」も1991年のもので、しかも副題にハウス・ミュージックとあって、はっきり言って古く感じるのは否めない。やっぱり、時代的にも「ウルトラ」の頃の高山さんがぴったりくる。

僕としては、関さんが言及している「ノイズ」という言葉に一番興奮した。日本語の詩では音韻はノイズ的になる、とか、ノイズに個体の単独性が出てくる、というような発言なんか、ぞくぞくした。僕もそこから発展させて、切字もノイズなのではないか、とか思ったり。すくなくとも澤俳句の切字(とくに、外部から批判というか違和感を感じられやすい、内容的には一物なのにわざわざ中七を「や」で切るパターンの句など)や字余りの多用は、ノイズ的なはたらきをしていると思う。この辺考えてみたい。

悉く全集にあり衣被   田中裕明
ことごとく未踏なりけり冬の星   高柳克弘

ぼくらがいま立っている位置は、「悉く全集にあり」から出発して、いまだにその中にある。でも、椹木野衣のいう「シミュレーショニズム」は、やっぱり『ウルトラ』の頃の高山さんとか、あるいは「ニュー・ウエイブ」あたりにはみることができるけれど、外山さん以外の『新撰21』に載っている(20代の)俳人たちにあてはめるのは無理だと思う。もっと無邪気というのか、俳句形式に対するストラグルもフェティッシュな偏愛も感じられない。勉強机に敷かれた世界地図のデスクマットのうえに白地図を重ねて自分の世界を描いているような感覚がある。ただ、それがいつのまにか未踏の地へと反転したらおもしろい。未踏とは可能性のことだ。

 ゑがほなり風邪の子ゑがく風邪の神   榮 猿丸


2010年1月15日金曜日

 ― 欲望と郷愁 ―

  人参を積みて市場の口笛よ    青山茂根


 正月休みに、海外へ行くなら、南の島より、やはり寒いところが好きだ。クリスマス前から休みを取り(クリスマスを過ぎるとチケットが高くなるため、まあそんなに会社を休めないから結局近場の南のリゾートへ行くのだろう)、現地の本場のイルミネーションを寒さに震えつつ見て歩く(体中に靴の中にも使い捨て懐炉を貼っていても、ところどころでカフェに入らねば凍える)。どんな小さな通りにも、その通りごとの意匠をこらした電飾が点されていて、日没の早い、欧州の冬を感じる。通常から街灯が暗めに設定されているため、この時期のイルミネーションがひときわ印象的に映る。と、夢のように美しいコペンハーゲンの街でも、鉄道駅の裏側の通りには「○ex shop」の看板が並んでいて、どこにも欲望はある。

 たいていの教会には、表の扉を入ったところにミサやオルガン演奏の日取りと時間を知らせる小さな紙が貼られている。地味なところだが、レアールにあるサントゥスタッシュ教会のパイプオルガンが好きだった。天上から、容赦なく降り注ぐ、というにふさわしい、荘厳さを通り越した神の力そのものの強い音色だ。あの銀色のパイプが神の手のようで、大いなる指に摑まれそうだ。どこの教会も、失礼でない身なりと、わずかでも献金を忘れない。あとは、騒がない。

 大都市を離れて、電車で近くの郊外の町を訪ねるのもいい。どこの町にもある小さな市場の賑わいを眺めたり、ちょっとした古道具屋兼骨董屋はたいていの町にある。大都市の街中よりずっと値段も低く、小さなものを一年間働いた自分へのご褒美に。ただ、どこも店じまいは都心よりかなり早いので気をつけなくては。町を一回りして後でもう一回来よう、と思っていると既に閉まっている。

 大きな、ターミナル駅も、その季節はクリスマス休暇でふるさとに戻る人々ばかりだ。駅中のカフェや、走り出す前の列車の窓で、様々なドラマが繰り広げられるのを見に行く。古い駅舎の、優美な天井のアーチ、様々な列車の落ち着いた色調とデザイン。そこで切符を買って、国際列車の旅に移るのも好きだ。国境付近で始まるパスポートチェックにもお国柄がある。雪山へ近づき、トンネルを抜けて、また違う街の、異なる歳末がある。

 大晦日のスーパーは、炭酸入りの水の大きなペットボトルをかごに入れた人で溢れている。除夜の街のあちこち、誰からともなく国歌を歌い始め(日本でそんなことしてたら右翼と間違われそうだ)、橋の上に、銅像の前(銅像に乗っている人も)に、広場に、それこそ黒だかりに大勢の人が集まってくる。革命でも今ここで始まるかのような、民衆の力を感じる瞬間でもある。カウントダウンが始まり、日付の変わるその瞬間に、「新年おめでとう!」の声とともにペットボトルの中身を宙へ振りまく。誰も高価なシャンパンをそんなところでムダに使わない。よく振った、ガス入りの水なら、服も頭もべたべたしない。自分で持っていかなくても、ただそこに集まっていればもれなく知らない人々からその洗礼を受けられる。そんな街の警備にあたっている警官が、パトカーの脇で、シャンパンの壜(スパークリングかもしれないが)をラッパ飲みしているところは見たが。

 歳末の街は、いつもと違う表情をしている。日本のどこかでも、海の向こうでも。とりあえず、もう十年どこにも出かけていない。バレエ鑑賞、というより本場の劇場建築(マリインスキー劇場はバイオリンソロとかのときにオーケストラピットが上がる!それが終わるとまた下がる!)と舞台美術(来日するときは全てのセットを持ってこないのだ)が今むらむらと見たくてたまらない。大体、日本公演の値段が高すぎる。ミラノスカラ座だって、公演数日前に出るキャンセル席の割引チケットを取ると、五千円程度であの歴史ある建築のクラシックなバルコニー席で見ることができる。というわけで、いつになるかわからないが、目指せサンクト・ペテルブルグ!
 

2010年1月14日木曜日

バトル・ロワイアル・ストレート・フラッシュ   九堂夜想

「この本(『新撰21』)に登場する作家・評者の皆さんは、今まさに処刑台の前に立たされているのです」――年の瀬も押し迫った昨年末の「新撰21竟宴」において、図らずもそのように嘯いた心境が、〝狂宴〟を終え、あらたな年を迎えるに当たって、さらなる実感として強く胸中に蟠っている。作句信条はタブラ・ラサ、しかし「年寄りに冷や水を、若人には熱湯風呂を」を作家信条とする者としては先のコメントのぬるま湯加減にいささかの心残りが無いわけでもない。実際、この程度の印象はあの「竟宴」の場にいた多くの見者がすでに心中に抱いていたであろうからだ。

 小説/映画『バトル・ロワイアル』(略『B・R』)も現在となってはすでに〝懐メロ〟の部類だが、『新撰21』をパラ読みしてふといくつかの印象的なシークエンスが想い出された。別段、誰某がどの登場人物に似ているということではないが、およそ弱冠前後から不惑過ぎあたりまで一列に並ばされた『新撰21』収録メンバーが、意識する/しないに関わらず、或る闘いの場に投げ出されていることは間違いない。殊更、敵味方の区別や上下左右(編纂方、他の目には、左翼・右翼の違いがあるようだが、実はそんなものは無い)があるわけでもない。ましてや、善悪もない。ただ、今や『仮面ライダー』でさえ互いに裏切り殺し合う時代にあっては、如何なる切り結びが存在しても不思議ではない。顧みて、『新撰21』収録メンバーをあらためて眺めつつ、誰々が『B・R』の七原や中川、桐山や川田、千草、相馬に当て嵌まるなどと想像を逞しくするのはやはり一興である(となると、キタノに相応するのは編者の御三方ということになるだろうか。いや、これは妄想の話)。

「処刑台の前に立たされている」とは、端的に言えば、この度の『新撰21』各作品百句、或いは各作家論において、それぞれの書き手が〝可能性〟以上に〝限界〟を暴露しているということである。つまりは、見者たちによって各人の力量とその展望(〝滅び〟と言った方が分かりやすいか)が容易に見透かされているということだ。しかし、斯く言う当人も皆と同様、目隠しされ死の高台にある身なれば、これ以上多くは語るまい。結びにひとつ。『竟宴』での旧態依然とした俳句論議とサテリコンを超希釈したようなおチャラけた句会パーティの只中で、次のように意をあらたにしたものである――我(々)の当面の矛先は、我々の内外に巣食う〝ハイク・ゾンビ〟どもに向けられた、不可視の闘争である、と。

 と、いうわけで、この度、中村安伸氏のご依頼によりご挨拶がてら一筆書かせていただいた九堂夜想です。あらためて、新年とhaiku&meと『新撰21』関係者各位へ、一句――

日の果てをサーベルタイガーなど吼えよ   九堂夜想

2010年1月13日水曜日

大会(秘宝館)

昨年11月、奈良でライブをしたときの記事でご紹介した二人の友人、小学校以来の幼なじみであるY氏、中学からの親友であるM氏の二人とともに、例年行なっている「大会」という行事がある。

各人がレポート用紙数枚に、一年後の自分たち三人に向けてのメッセージを記す。
昨年記した文書を開封して読み、今年の文書を作成し封印するまでの一連の儀式を、一泊二日程度の旅行に出かけて行うのである。

高校生のとき私の実家を会場にはじめたものだが、今回21回目を迎えることになった。
メンバー三人が持ち回りで幹事をつとめており、今回は私の番である。
ちなみに私が主催したときは開催地に関わらず「東京大会」と呼ぶ。Y氏主催のときは「広島大会」、M氏のときは「奈良大会」である。この名称はそれぞれが大学時代を過ごした土地にちなんでいる。

今回は熱海が会場であるため「第21回 東京大会 in 熱海」という名称となる。

熱海の海沿いにあるホテルに現地集合し、食事前に開封の儀を執り行った。
各自昨年の大会のときに執筆した文書を読み、感想やこの一年間の出来事を語り合う。ちなみに昨年の「奈良大会」は渥美半島の田原市にて3月に行われた。

今回は大会の他にもやらなくてはいけないことがあった。
Y氏作曲の新曲に私が詞をつけることになっているのだが、その第一稿へのダメ出しの会がそれである。
作詞ははじめてながら、思ったよりも良い詞が書けたと自身を持っていたのだが、二人の、特にM氏からのダメ出しはかなり厳しかった。共同創作ということは楽しいが、難しさも当然ある。
作詞者として私の名がクレジットされるとはいえ、出来上がった歌は作曲者のものでもあり、演奏者のものでもある。
したがって彼らは、俳句で他人の作品を批評する場合とは違い、自分の作品として批評を加えてくるのである。
当然矛先も鋭いし、言い方にも遠慮はない。
加えて、もっと基本的なことだが、言葉を音にあわせることの難しさがある。音より言葉が余るようにしたほうがいいと言われたのは意外だった。

二日目は朝から三人で海岸を散歩した。
お約束だが、貫一、お宮の像の前で私が貫一役、M氏がお宮役としでポーズをとり、写真を撮影してみた。

チェックアウト後、伊豆山という、熱海の北端側の山にある神社に向かった。
ここには源頼朝、北条政子に縁のある石などがある。

続いて熱海の南端の岬のような場所に建つ、鉄筋コンクリートの城、熱海城に向かった。昭和30年代に作られたこの城には、甲冑やマッチ棒で作った城郭の模型、浮世絵を複製したパネルなんかが飾られていて、なかなか良い感じにいかがわしい場所だった。

そして、歩いてすぐのところにある熱海秘宝館へ向かった。
かつては全国各地の温泉街にこうした秘宝館があったらしいが、多くはすでに閉じられてしまったようである。
展示物は男三人で見て回るには、なんとも微妙なものが多かった。何組かの若いカップルがいて、それなりに楽しそうにしていた。
BGMとして流れているムード歌謡調の「熱海秘宝館のテーマ」がとても気になってしまい、調べてみると「サロメの唇」というグループが近年、この歌をカヴァーし、CD化したという。

秘宝館をあとにして、熱海駅へ向かった。
昼食のあと駅前ビルにある喫茶店でコーヒーを飲みながら、各自の文書を封筒におさめ、封印し、一連の儀式は終了である。
封筒に表書き、裏書を行うM氏の達筆を店員の女性が覗いていた。

絨毯の深くもあらぬ秘宝館   中村安伸


2010年1月8日金曜日

 ― 9から10へ ―

 

   石積んで崩して寒泳を待ちぬ     青山茂根 


 過ぎたことを、年があけてから語るのもなんだか面映いが、年末から新年にかけてのあれこれを、少し。休みに入った、冬の一日を、炬燵でのんびり、もいいけれど、師走の29日か30日くらいに築地の場外市場へ買出しに行くのも楽しい。昔、鰹節やら昆布やらの母の買い物のお供で時折でかけた。気っ風のいい売り子の掛け声を聞きながらあちこち冷やかし、仕舞いの時間(かなり早い、昼過ぎに閉めてしまう店も)が近づくとまとめて値引きしてもらえたりする。といっても、もう何年も出かけていない。今年こそは、と思うが、本当に移転してしまうのだろうか。

 昨年の12月は、バレエを二回見て、横浜の夜の景色と白金の明学のツリー(ここは人がいなくて、静か)を見に出かける(あ、旧フランス大使館建て替えに伴うアートイベントにも出かけた。クラブルームもあり夜のがいい雰囲気)。外にディナーを二回食べに行き(一軒目は大外し、去年までは良かったのに)、家でクリスマスのディナーを二回作り、そこで体調を崩しローストチキンを焼く匂いで胃が駄目になりダウン。1,2日寝込み、なんとか復活し、多少掃除をこなし(でもとても大掃除とは言えない、中掃除くらい)、30日からおせちを作り始める。
家によっては、仕事納めを終えた父親が全てのおせち料理を作るしきたりのところもあるそうで、それもいい風景だ。

 私はといえば料理上手ではないし(ただの食いしん坊)、うちの母もあまり得意ではなかったので、本を見ながらなんとか(それにあまり好きでないごまめとかは作らない)だが、ちゃんと出汁をとればまあまあ。小さなレストランなどで作っているおせち一式を買ってくるのも好きなのだが(八雲にお気に入りの家庭的フレンチがあり、そこのを買うか、ぎりぎりまで悩む)、買ってきても結局和風のを自分で多少は作り足すことになるため、今年は購入をあきらめる。ま、季語だし、作るかってことで。子供が案外、家で作ったものを好むのだ(黒豆なぞ、煮てるそばから啄ばみにくるのでへたすると正月前になくなる)。栗きんとんの裏ごしでへとへと。フードプロセッサーだと何秒で済むか。おせちの他に小豆を煮る。

 

 新年の瞬間を、大桟橋や山下公園あたりで、いっせいに鳴り出す船の汽笛に包まれて迎えるのもいいのだが、寒い。これは帰りに、その辺の裏道でラーメンでも食べて帰らないと、のパターン。その裏街道っぽい雰囲気の町も、面白い。

 昨年は、除夜の鐘に出かけた。近所の寺で、前日に配っていた整理券をもらい、当日深夜集合。人通りも、車も絶えた道を歩いてゆく。寺の周囲は真っ暗だったが、薄暗い境内にぽつぽつと人影が。到着順に石段を登り、手を合わせてから横木をくぐって入る。思ったより軽い手応えながら、鐘のすぐ下で聞く音の違い。突き終えて、寒さが少し収まった、静かな道をゆっくり帰る。本当は、新年の瞬間に発砲系の飲み物といきたいところだが、まだ胃が回復しきっていない。

 三日には、多摩川の河川敷で凧揚げ&サッカーに燃える。この何もない広い空間も貴重だ。次週は、以前何度か出かけた、欧州の歳末から新年のことを。またゆっくり行けるのは、いつになるやら。


 
 



2010年1月7日木曜日

暗峠

去年今年ただひろがつてゆく卓布   中村安伸

一月二日、徒歩での暗峠越えを思いつき、大阪側の近鉄枚岡駅を午前11時半頃スタートした。

駅近くの枚岡神社は初詣の客で賑わっていたが、喪中のため参拝はせず。
国道308号というのが暗峠を越す道である。はじめは住宅街の中を急峻な道が続く。

臨終の地となった大阪へ、奈良方面から暗峠を越えてきた芭蕉の逆の道順をたどる。周囲が山道の雰囲気となってきた頃、その芭蕉の句碑があった。










峠に至るまで急坂が続き、ゆっくりと歩いていてもすぐに息があがってしまい、あまり写真を撮る余裕もなかった。
途中やや平坦になったところにあった地蔵堂が印象的だった。










峠が近づくと人家も増えて、棚田がひろがっている。有名な石畳は数百メートルほど。
奈良側から大阪側をのぞむ。










奈良側への道をおりてゆくと、やはり美しい棚田が広がっている。










このまま308号を降りると、近鉄生駒線の南生駒駅に至るのだが、途中で昼食に入った手打ちうどん店の店主から、北の宝山寺方面へ至る道があることを教えてもらい、そちらへ向かうことにした。

生駒山中腹を横断する道より生駒山頂方面をのぞむ。










道沿いに山荘が点在している。ペット焼却場に反対する地元自治会の看板などもある。
やがて宝山寺の参道にぶつかり、まもなく宝山寺駅に到着、日本最古といわれるケーブルカーで生駒駅へ。

2010年1月5日火曜日

モノとヴァイブ

年末に本の整理をしようと思っていたのだけど、結局できないまま年を越してしまった。それで、いちばん手っ取りばやい「整理」法として、本棚を買うことにした。といっても、カラーボックスである。これなら、とりあえず床に散乱させているより、見栄えがいいし、探すのも便利だし、なによりカラーボックスだから、買うにもずいぶんと気楽である。

CDは、いちおうアーティスト名でアルファベット順に並べてある。最初はジャズなどは別にまとめたりしていたが、結局、ジャンル分けせずにすべてアルファベット順にしたほうが便利なことに気づいた。ジャンルで聴かないのだ、音楽は。というより、ふだん聴くものはほとんどPCに入れてあるから、もうCD棚というものは必要ない気もする。押入にしまってもいいかもしれない。時間があったら、プラスティックのケースから全部出して、市販されているうすいビニールのスリーブに入れて、収納したい。今住んでいるところに引っ越したときに、ステレオを捨ててしまった。だから、レコードも押入に置きっぱなしだ。ダンボール箱に入ったままのもずいぶんある。なんだかずいぶんさっぱりしてしまった。CDになってから、かつてのレコードにはあった、媒体としての「モノ」に対するフェティッシュな魅力はなくなってしまった。今やダウンロードだもんな(でも、ステレオもアナログプレーヤーも持ってないけど、いまだにレコード買うけど)。

「本のためのiPod」というふれこみの、アマゾンの電子ブックリーダー「キンドル」が日本でも発売になった。といっても英語のみで、日本語には対応していないが、近い将来、確実に日本語バージョンも発売されるだろう。本も音楽と同じ道を辿るのだろうか。

本もレコードも、僕のフェチ心を誘うのは、匂いだな。モノから立ち上がるヴァイブといってもいい。俳句というのは、フェティシズムと表裏一体なところがあるが、それはヴァイブを持っているからだ。モノというリアリティではなく、ヴァイブというアクチュアリティを表現したいと思う今日のこの頃。

  レコードの漆黒にほふ寝酒かな   榮 猿丸


2010年1月1日金曜日

 ― 2010 ― 

新年おめでとうございます。

ふとした、思いつきで始まったhaiku&meに、
お立ち寄り下さった皆様、ありがとうございました。

様々な情報が真贋取り混ぜて交錯するインターネット上の世界に、
自分たちの俳句をとりあえず泳がせてみる、
サブカル的な話題から新たな俳句の読者へ向けて、
との試みは、御叱責・御批判等もありましたが、
御意見・御感想をくださった方も多くあり、励みとなりました。
この場を借りて、お礼申し上げます。

至らないところも多々ありますが、
どうぞ2010年もお時間がありましたら、
haiku&meを開いていただければと思います。

新たな年が、皆様にとって実り多き一年となりますよう。

  迷ひ子のやうに初景色の中に     青山茂根