2012年9月22日土曜日

 ― 心中って? 現代俳句あんそろじい ―      青山茂根

 変わらないって何だろう?俳句も文楽も、その発祥は江戸時代の町人文化から。しかし、文楽の近松作品など、世話物の心中話について、現代ではあまりにもボロボロに言われている気がする。そういえば、最近の心中は、親子や家族であることのほうが、実際の事件として多いのだろうか。「感情移入できない」、「主人公は三阿呆の一人」などと言われる『冥途の飛脚』、こんな風にも。

 恋の虜となった青年が、思慮の浅さから短絡的な行為を引き起こし、それが周囲の人々を、一気に悲劇に引きずりこむ。すべて忠兵衛に発し、彼は誰をも幸福にできません。愚かさゆえに理不尽な人生を展開させる結末から、人間のある本質を捉えることもできそうです。
       (『文楽にアクセス』 松平盟子著 淡交社 h15)

 お金もなくて、意気地もなくて、ついついいらない見栄を張り、愛する彼女と理不尽に死んでいく、そんな情けない男が主人公で、・・・。
      (『文楽に連れてって!』 田中マリコ著 青弓社 2001)

 梅川と忠兵衛が死への旅路を急ぐ様をみても(冥途の飛脚)、心のどこかに冷静な自分がいて「なにも死ななくても、ほかに道はあったろうに・・・」と思ってしまう。
      (『熱烈文楽』 中本千晶著 三一書房 2008)

 で、先日劇場にて。物語が進行し、たしかに道行になるまでは、心の中で「あ、そこでそれやっちゃまずいでしょ」「わかってるなら、なぜそれを」などと突っ込みつつ自分も見ていた。しかし、道行になると、一転して「あ、仕方ないかもしれない」と思わされてしまう、不思議に。それは、太夫と三味線が道行から増えることによる、音響的な効果によるのかもしれない。この道行を美しくするために、前半までの情けないお話がある、という構造でもあるんだろう。そして、道行を見ることによって、それまでの物語が生き生きと現実味のあるものとして蘇ってくる。とにかく、「出会ってしまった」二人、なのだ。「絶対この人でなくては駄目」「誰にも渡したくない」という唯一無二の心情が、耳から入ってくる語りの情報と、太棹の音色と、眼前に進行する人形たちの姿によって、見ている自分の中で像をむすぶ。忘れていた何かを思い出したように。

 というわけで、心中物から現代に通じる精神を探る、現代の俳句シリーズ。

  ゆめにみる女はひとり星祭       石川桂郎

  恋びとは土竜のやうにぬれてゐる  富澤赤黄男 

  恋ともちがふ紅葉の岸をともにして   飯島晴子

  くじらじやくなま温かき愛の際     攝津幸彦

  黒髪の簪ふかし愛されて       長岡裕一郎

  きみ帰すゆうべうすらに星組まれ  長岡裕一郎

  後朝や掃きて空蝉崩れざり       小林貴子

  手袋も靴下も相手をさがす       小林貴子
 
  ひらがなのやうに男がやってくる    大西泰世

  娘あらば遊び女にせむ梨の花     高山れおな

  お湯入れて5分の麿と死なないか?   高山れおな

  接吻のまま導かれ蝌蚪の国       田島健一

  愛かなしつめたき目玉舐めたれば    榮猿丸

  ストローを愛したように私を愛す     小野裕三

  常闇やまづもつれあふ髪と髪      山田耕司

  ダブルベッドてふアメリカや昭和の日  柴田千晶

  秋風や汝の臍に何植ゑん        藤田哲史

  濃姫の脚のあいだの春の川       中村安伸

  



 

 

 

2012年9月15日土曜日

番外編― 文楽に出てくるオノマトペ集 ―  青山茂根



 

  月光ほろほろ風鈴に戯れ      荻原井泉水
  
  どつぷりぞうと浪あがる島の路かな    〃
  
  わつさり竹動く一つの着想          〃               

 
 井泉水のオノマトペは風変わりなものがある。
 15年ぶりに、文楽を再び見てみると、また新たな魅力に気づく。先日ツイッターにあげたものながら、まとめて再掲。

 俳句に使われる、よくあるオノマトペって物足りなく感じませんか?人と同じ表現をしてもつまらないのでは?それが思いがけず、文楽の中に出てくる江戸時代の町人言葉は、面白いオノマトペの宝庫であることに気づいた。そういえば、俳句の姉弟子の方は江戸悪所文学専攻であったし、いつも指導してもらっている連句のお捌きの方は西鶴の研究者だったりするので、ここに私があげたようなことは自明のことかもしれない。しかしそのあたり不案内な私には耳で受け止めて非常に新鮮だった。誰かが共感してくれるかも、と書き出してみる。今月の文楽東京公演第一部にて、浄瑠璃節から聞き取ったものを、あとからプログラムについていた床本で確認した。(後日、第二部をまた観にいくので、続きがあるかもしれない。)

ぞんぶり擬音語。…「そのつめたさもいとはず向かふの岸へぞんぶり」「ぞんぶり」「ぞんぶり」「ぞんぶり」…(9月文楽東京公演第一部「粂仙人吉野花王(くめのせんにんよしのざくら)吉野山の段」床本より)

ぴんしやん擬態語。…「ぴんしやんしても大鳥が、摑んだからにはもう放さぬ。連れて往んで女房にする。」…(「夏祭浪花鑑 住吉鳥居前の段」)「口説仕掛けて拗ね合うて、ほむらの煙管打ち叩き、煙比べのぴんしやんは、火皿も湯になるばかりなり」…(「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)釣船三婦内の段」より)

古語辞典、広辞苑に記載あり。「ぴんしゃん…(副)「ひんしゃん」とも。きびきびした活発な言動をするさま。とりすましたり、つんつんするさま。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994)  「ツンデレ」?

きなきな擬態語。…「お案じなされますな。この九郎兵衛がをりますわいの。きなきな思はずと早うごんせ。」・・・(「夏祭浪花鑑 内本町道具屋の段」)

古語辞典、広辞苑に記載あり。「きなきな…(副)近世語。くよくよと思い悩むさま。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994)

ぼつとり擬態語。…「花を飾るはこの家の娘、嫁入り盛りのぼつとり者、名もお中(なか)とての新入りの、手代清七と深い仲」…(「夏祭浪花鑑 内本町道具屋の段」)

「ぼっとり者」で古語辞典、「ぼっとり」で広辞苑に記載あり。「ぼっとり者…(名)近世語。ふくよかで愛嬌のある女。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994) 「ぼっとり…女のふっくらとして愛敬のあるさま。また、ういういしく愛敬のあるさま。」(「広辞苑第三版」岩波s61)

のめのめ擬態語。…「私とても同じこと。金は騙られ、団七に預けられ、のめのめとしてゐられず、」・・・(「夏祭浪花鑑 内本町道具屋の段」)

古語辞典、広辞苑に記載あり。「のめのめ(と)…(副)それをするのにさからうこともなく。恥知らずに。平気で。おめおめ。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994)

どんぶり擬音語。…「昔に変はらぬ達者な和郎、八と権とを蓮池へなんの苦もなうどんぶり云はせ」…(「夏祭浪花鑑 釣船三婦内の段」)

わつぱさつぱ擬音語。…「なんのお礼に及ぶ事。今も今とていけずめがわつぱさつぱ、連れ合ひはその出入りに往かれました。」…(「夏祭浪花鑑 釣船三婦内の段」)

「わっぱ」で古語辞典、広辞苑とも記載あり。「わっぱ(と)…(副)大声でわめきたてるさま。わあわあ。」(「古語辞典 第八版」旺文社 1994)

そぶそぶ擬音語?…「さればいな。どうやらそぶそぶ云ふによつて、お辰さんに預け磯さんは備中へ遣る。」…(「夏祭浪花鑑 釣船三婦内の段」)

 声に出して読んでみると面白いのでぜひ。言葉の流れ、リズム感も味わってみて欲しい。




2012年9月14日金曜日

 ― 『乗船券』を手にして ―


 スイスの画家、エルンスト・クライドルフ(Ernst Kreidolf 1863年2月9日-1956年8月12日)の展覧会は、現在、以下のスケジュールで巡回中。

  郡山市立美術館(福島) 2012/8/4(土)-9/17(月)

  富山県立近代美術館(富山) 2012/11/10(土)-12/27(木)

  そごう美術館(横浜) 2013/1/30(水)-2/24(日)

 スイスでは国民的な画家で、教科書の挿絵も担当していたりするが、英語圏の国でそれほど知られているわけではないようだ。日本では、いくつか翻訳された美しい絵本が刊行されているので、メルヘンチックな画家として認識されているらしい。子ども向けのようで、実は精神の多面性をどこかに潜ませた緻密な描写による作品は、しばらく眺めているとふと笑顔が消えている自分に気づく。子どもによっては、静かに本を閉じて黙り込んでしまう。アルプスの花々や昆虫を妖精になぞらえて描いた絵には、その厳しい冬、変化しやすい山の天候に暮らすものの日常がどこかに含まれているからだろうか。


 金子敦氏の句集『乗船券』からは、クライドルフの絵にある繊細な筆致を思い起こす。読んでいると、すうっと、肩の力が抜けて、リラックスしてくる句群。美しさとないまぜの諧謔。これを、食べ物や菓子の句が多いことだけで評してしまうのは惜しいと思う。もちろん、音韻の効果的な<星涼しつるんと滑る餡子玉>、黄の断崖のクローズアップ<カステラの黄の弾力に春立ちぬ>、これらの句の完成度が高いことは言うまでもないのだが。以下、句集『乗船券』(ふらんす堂 2012)より。

  年賀客ともに渚へ走りけり     金子敦 

  高跳びのバーのかたんと鳥雲に   

  消えかけし虹へペンギン歩み寄る

  少しづつ粘土が象になる日永
 「少しづつ」の句、句跨りの効果。日永ののどけさと、粘土を伸ばしてひねっている雰囲気を表す技巧。しかし、何が生み出されるかわからないときの不穏さもどこかに孕んでいる。春の駘蕩たる雰囲気でありながら、ふと日陰に入ったときに立ちくらみを起こすような感覚。

  空深きよりぶらんこの戻りくる
 
  高く漕いだブランコが永遠に戻らないような、あの焦燥感。755のリズムもふっと息がとまる効果。

  かさぶたのきれいに剥がれ雲の峰

 かさぶたのあとのつるんとした肌は、終わり行く夏への暗示のようで。裸足や外遊びで傷を作りやすい夏の季感。

  鶏頭へ砥石の水の流れゆく

 柔らかな花の質感と石の硬質さを、水の流れがつなぐ。たゆたうような懐かしさ。しかし、「鶏頭」も「砥石」も、ひとつ踏み外せば怖ろしい奈落へ向かう危うさを含んだ語であることを。

  ハンプティダンプティめく毛糸玉
 
 弾んで転げ落ちて。定型でありつつ、心象を何も語らず、しかし表現の自由度。マザーグースの寓話は怖さを秘めたものが多いが、落ちて割れてしまうハンプティダンプティは、ここでは割れずに小さくなってどこまでも転がる。

  眼鏡置くごとくに山の眠りけり

 人が眠りに落ちる前の習慣化したしぐさを、擬人化を重ねつつも、それが山の形象の描写になっていることに驚く。双子の山なみ。

  梅林に金平糖が降つてゐる

  スポイトにしがみつきたる子猫かな

  ゆつくりとガーゼ剥がしぬ鳥雲に

  しやぼん玉弾けて僕がゐなくなる

 明るい真昼の、ふとした恐怖感。

  パレットに小さきみづうみ新樹光

  今ここに菓子あつた筈夏座敷

 この上五中七に、「夏休み」などとつけたらべた付けの、誰でも考えつく発想になる。季語の本意をつかんでいないと、「夏座敷」をつけられない。夏座敷とは、簾越しに縁側や整えられた庭が透かし見える、団扇や夏座布団など涼しげな装いに整えしつらえられた座敷のこと。来客に、とっておきの菓子が出されていた筈の。いいなあ、あのお菓子、と覗き見て、「子供は向こうへ行ってなさい!」と叱られたりして引っ込んで。で、お客さまが玄関に立たれ引き戸がしまる音したからそれっ、て座敷に飛び込んだときの落胆。ばたばたっという足音も聞こえてくる。ぷぷっとするおかしみと郷愁の句。

  約束のベンチに銀杏降るばかり

 ごく身の回りにある風物を描いても、ここではないどこかのように、日本的な情趣に収束されないのもこの作者の句の特徴。作家性を思う。







2012年9月7日金曜日

 ― おひるねと貨物船 ―




  『OLD STATION 15 余白句会100回記念特集号』を頂く(ありがとうございます)。現メンバーの代表句「余白の十七句」から。

  マラカスの父カスタネットの母朧    柴田千晶

  校庭を剥がせば朧なる地球       辻  憲

  夏座敷ちからある乳横座り       八木忠栄

 89年に始まった余白句会の、第4回から99回までの句会記録が掲載されている。すでに鬼籍に入られた方も多く、その残された句が今この時間に一読者をくすりと笑わせているなどとは思わなかっただろう。俳句を始めたばかりの頃に手に取った『おひるね歳時記』(筑摩書房 1993)の著者、多田道太郎の句(「袂より椿とりだす闇屋かな」)(「というわけでひとりしずかに風の吹く」)を見つけて、何かほのぼのとしたり。連句でご一緒させて頂いたことのある方の句も載っていた。中でも、辻征夫の句に、心ひかれるものがあった。詩性とか、自分語りの有無とか、よく言われるそういった評価にはまったく無頓着であるかのように、無心に身の回りを見わたした、といった句ながら、詩人ならではの視点と言葉の選択の確かさ。また、おそらく無意識であろうが、既存の俳句にほぼ類想句が見つからない独特の語り口。見えている世界への茫漠とした疑念を句にあらわして、巧拙を超えた魅力がある。亡くなられた後に、俳号をタイトルに『貨物船句集』(書肆山田 2001)が刊行されている。当日の兼題らしき同一の題の句が並ぶ中での比較も面白い、余白句会での句から引いてみる。

  つゆのひのえんぴつの芯やわらかき   辻征夫

  梅一輪妻の故郷の土砂崩れ

  姫胡桃義眼の母の浮浪癖

  咳こんで胸をたたけば冬の音

  物売りが水飲んでおる暑さかな

  冬の雨饅頭熱き離別かな

  吾が妻という橋渡る五月かな

  猫じゃらし化け猫も野を横切りし

  落葉降る天に木立はなけれども

  雛壇や他家の官女の美しき

  衣でて衣にはいるまるはだか

 現メンバーによるエッセイ<わたしの好物>では、今井聖氏の「カツ丼」が面白かった。誰かに話したくて、ここに記したくてうずうずする。そんな刺青もあるのか。ほとんど現代アートだ。








  

  

  

   

  

2012年8月24日金曜日

 - 『北村太郎の仕事』から -



  月祀る日を地下室に眠りをり     青山茂根



 猫を描いた一連もある、詩人の北村太郎の、随筆などのとりとめのない文体が好きで、ときおり拾い読みする。その中に、俳句について書かれたものがいくつかあった。

    自由率と定型

  たまに剃つた顔ぢかに空が青い      海藤抱壺(かいどうほうこ)

 (略)
 掲出句は偶然十七音ではあるが、「たまに剃つた顔」が八、「ぢかに」以下が九で、これではむろん定型とは言えない。無季であるが、感覚的には冬と受けとれる。『海藤抱壺句集』でも紫苑と八手の花の句のあいだに置かれている。「ぢかに」が平俗ながら鋭い措辞で、一読、忘れ難い印象を与える。
 自由律の俳句は一行詩と言い換えてもよいくらいに思われもするが、しかし、やはり俳句なのである。尾崎放哉の「せきをしてもひとり」とか、山頭火の「うしろすがたのしぐれてうゆくか」など周知の作品は、詩心がひたすら<俳境>に向いていることを明示している。定住しようがしまいが、漂泊の志という一点だけからみても、彼らは芭蕉や一茶の流れにつながっているのだ。
 定型の俳人たちにすれば、季語も五・七・五も墨守しない作家を俳人と呼ぶわけにはいかないだろう。自由律はうまくいけば新鮮、へたをすればクサくもなる。抱壺、放哉、山頭火はその間の平衡を保った稀な俳人というべきか。
      (『北村太郎の仕事2 散文Ⅰ』  北村太郎  思潮社 1990)- 初出は、「読売新聞」1986年12月掲載<俳句という器>。

 海藤抱壺、最近はあまり語られることのない自由律の俳人だが(とはいえ、「俳句あるふぁ」2011年2-3月号、「俳句界」2011年5月号にそれぞれ取り上げられているが、未見)、この文章が書かれた数年前に『海藤抱壺句集』が刊行されたようだ。北村太郎の述べたような、「漂泊の志」を病床からの視点として持っていた作者だろう。また、季語を本来の意味として使用した句が多いようにも見受けられる。境涯性だけではなく、より近代的な心情や濃密な季節感を感じさせる句もあり、他の自由律俳人とは多少異なる方法論であったのかもしれない。海藤抱壺については、こちら(「草原」)のサイト、を参照。山頭火が抱壺を詠んだ句、「風鈴鳴ればはるかなるかな抱壺のすがた  山頭火」「抱壺逝けるかよ水仙のしほるるごとく  山頭火」などある。また、生前に出版された海藤抱壺の句集、『三羽の鶴』から。

  寝てゐると空から桜がさいた       海藤抱壺

  風も雲もまだ芽ぶかない

  黒い塀におもひ出のやうな蝶がきた

  わが心のやうな林檎があるナイフのそば
    
  かげのない日の柿をもいでしまふ

  今の波音はこの心臓の夢か

  アンテナをいくつもいれた虹です

  秋風のやうなオブラートたべてゐる
 
  夕陽が蜂の巣にさはり長い一日     

  そつと首を出すみのむしと夜ふけてゐる

  かつこう鳴く日となつて遠くにもかつこう

  ちぶさだけがおばあさん

  秋の水となり枕べにもある

  カーテンのかげ星と風ときてゐた

  掃くにははや土にならうとする落葉もある

  死をおもへば透明にしてうぐひす
  
  蛍もらへば一人ふけてゆく

  下駄の下のこほろぎ葉書なら出しに行けさうな

  ゐないやうなわたしがゐる八手咲いてくる 

  云はずによかつた口へ松の実わつてゐる

  クリストの齢なるこそ女に触れぬ我身こそ

  夕風ゆきわたりうちはもつてゐる

 
  (句集『三羽の鶴』については、そねだ ゆ氏がweb上に転載されていたものから引用させて頂きました。さまざまな情報を収集してあり、大変参考になりました。ありがとうございました。)
 
    

2012年7月17日火曜日

風づくし02    上野葉月


白南風や世界一周貝柱   葉月

前回と話は前後して去年の出来事である。
昔から好きだったミシェル・ルグランのMoulins De Mon Coeurという曲を好きになったきっかけが、もう三十年ほど前の小林薫が出演していたサントリーウイスキーのCMだったことを何気なく思い出した葉月さんをイメージしていただきたい。
さて次に彼が何をするか。大方の人は想像付くかもしれない。そう、YouTubeで「ルグラン」「小林薫」「サントリーCM」などの語を駆使して検索をかけるわけだ。

結局探していたCMを発見することは適わなかったのだが、Moulins De Mon Coeurの邦題が『風のささやき』であることを突き止めるに至ったのである。なんという僥倖。深夜Displayの前でほとんど躍り上がりそうになった。時はちょうど句会の度に「風使ひ」の句を作っていたころの出来事。

Moulins De Mon Coeurから『風のささやき』への飛躍!
『風のささやき』……、うーん、まるで『男子高校生の日常』の「風使ひ」ヒデノリとやっさん(文学少女)の名勝負を彷彿とさせる邦題ではないか。三十年以上前にこの邦題を思いついた訳者のセンスに舌を巻かざるを得ない。

ここまで読んできてMoulins De Mon Coeurの英語タイトルがWindmills Of Your Mindであることを知っていて、なんで私がそんなに驚き喜びに震えたのか理解に苦しむ読者もあるかもしれない。

実はこの時点で私はフランス語歌詞が英語の歌詞からの仏訳であることを知らなかった。ミッシェル・ルグラン作曲だからフランス語の歌詞の方がオリジナルだと頭から決め込んでいたのである。まさに予断。フランス語で言うpréjugésに他ならない。
あまり私を責めないでいただきたい。ルグラン作曲なんだからフランス語の歌だと思い込むのをそれほど愚かしいことでもないはずだ(力強く断言はできないのは残念だが)。

歌い出しはこうである。
Comme une pierre que l´on jette
Dans l´eau vive d´un ruisseau
Et qui laisse derrière elle
Des milliers de ronds dans l´eau

せせらぎに放り込まれ
そのあとに
いくつもの水の輪を
残す石のように

冒頭の水のイメージが強いのでMoulins De Mon Coeurは長い期間私の中では『我が心の水車小屋』だったのだ。

『我が心の水車小屋』から『風のささやき』、これはかなりの距離を持った跳躍だ。
『君の魂の風車』から『風のささやき』だったら、特に驚きはしなかっただろう。

改めて英語ヴァージョンと仏語ヴァージョンを聞き比べてみると、英語の方が少し長い。でも歌われる内容全体のモチーフはほとんど変わらない。
ほとんど変わらないのだが、仏語ヴァージョン(Moulins De Mon Coeur)の方がずっと良く感じられる。

いつもなら英語が嫌いだからかと自分自身で早々に納得してしまうところだが、どうもそういうものではない。
もとよりフランス語が美しい言語だというのはあまりアテにならないような気がする。少なくとも響きでは日本語やイタリア語の方がきれいだし。
米系企業と十年近く付き合っているけど、あいかわらずアメリカ人の英語は聞き取り難くて困っている。それにアクセントが強すぎて話しているというよりしゃっくりしているようにしか聞こえないこともある。あるいは仕事の話なのにふざけているようにしか聞こえないとか、たいていの場合、相手は大まじめで話しているのだが。あとどこの国のかなり知性的な人間でも英語で話しているとIQが20程度は低く見えるということはあるかもしれないけど、メロディーに乗って言わば歌詞として英語で歌っているときにはそういう風には見えないものだ。
ちなみに印欧語系統ではペルシャ語やヒンディ語で話しているとなんとなく知性的に見えるのはどうしてなんだろう(あれは何言っているのかさっぱり見当がつかないせいかもしれないが)。

閑話休題。

英語ヴァージョン(Windmills Of Your Mind)がオリジナルで仏語ヴァージョン(Moulins De Mon Coeur)が訳詞であるにもかかわらず、仏語ヴァージョン(Moulins De Mon Coeur)の方がずっと自然に耳になじむように感じる。

参考までにオリジナルと仏訳歌詞を掲載しておく。

英語ヴァージョン(Windmills Of Your Mind)
Alan & Marilyn Bergman

Round, like a circle in a spiral
Like a wheel within a wheel
Never ending or beginning
On an ever spinning wheel
Like a snowball down a mountain
Or a carnival balloon
Like a carousel that's turning
Running rings around the moon
Like a clock whose hands are sweeping
Past the minutes on its face
And the world is like an apple
Whirling silently in space
Like the circles that you find
In the windmills of your mind

Like a tunnel that you follow
To a tunnel of its own
Down a hollow to a cavern
Where the sun has never shone
Like a door that keeps revolving
In a half forgotten dream
Or the ripples from a pebble
Someone tosses in a stream
Like a clock whose hands are sweeping
Past the minutes on its face
And the world is like an apple
Whirling silently in space
Like the circles that you find
In the windmills of your mind

Keys that jingle in your pocket
Words that jangle in your head
Why did summer go so quickly
Was it something that I said
Lovers walk along the shore
Leave their footprints in the sand
Was the sound of distant drumming
Just the fingers of your hand
Pictures hanging in a hallway
And a fragment of the song
Half remembered names and faces
But to whom do they belong
When you knew that it was over
Were you suddenly aware
That the autumn leaves were turning
To the color of her hair

Like a circle in a spiral
Like a wheel within a wheel
Never ending or beginning
On an ever spinning wheel
As the images unwind
Like the circle that you find
In the windmills of your mind


仏語ヴァージョン(Les Moulins de Mon Coeur)
Amaury Vassili

Comme une pierre que l´on jette
Dans l´eau vive d´un ruisseau
Et qui laisse derrière elle
Des milliers de ronds dans l´eau
Comme un manège de lune
Avec ses chevaux d´étoiles
Comme un anneau de Saturne
Un ballon de carnaval
Comme le chemin de ronde
Que font sans cesse les heures
Le voyage autour du monde
D´un tournesol dans sa fleur
Tu fais tourner de ton nom
Tous les moulins de mon cœur

Comme un écheveau de laine
Entre les mains d´un enfant
Ou les mots d´une rengaine
Pris dans les harpes du vent
Comme un tourbillon de neige
Comme un vol de goélands
Sur des forêts de Norvège
Sur des moutons d´océan
Comme le chemin de ronde
Que font sans cesse les heures
Le voyage autour du monde
D´un tournesol dans sa fleur
Tu fais tourner de ton nom
Tous les moulins de mon cœur

Ce jour-là près de la source
Dieu sait ce que tu m´as dit
Mais l´été finit sa course
L´oiseau tomba de son nid
Et voila que sur le sable
Nos pas s´effacent déjà
Et je suis seul à la table
Qui résonne sous mes doigts
Comme un tambourin qui pleure
Sous les gouttes de la pluie
Comme les chansons qui meurent
Aussitôt qu´on les oublie
Et les feuilles de l´automne
Rencontre des ciels moins bleus
Et ton absence leur donne
La couleur de tes cheveux

Une pierre que l´on jette
Dans l´eau vive d´un ruisseau
Et qui laisse derrière elle
Des milliers de ronds dans l´eau
Au vent des quatre saisons
Tu fais tourner de ton nom
Tous les moulins de mon cœur


思うにComme quelquechose(何々のように) と始めて、あとから次々に修飾を重ねて行くような言い回しはフランス語では自然な流れだ。
フランス語では(おそらくラテン語系では皆そうなのだろうけど)形容詞は名詞のあとに来る。それにフランス人は日常的にde(英語のofやドイツ語のvonに相当)を頻繁に使用して語の連結を長くする傾向がある。さらに関係代名詞であとから説明を付け加える。

普通に会話していてもフランス人だと話しながら文章の着地点を探っているときが時々あるように見える。日本語だと一文の着地点を設けずに話し始めるのはかなりの冒険になってしまうが。

このMoulins De Mon Coeurの場合、「何々のように」の淀みない繰り返しが風車の回転の連想作用を強化している。

例えば、

Comme un vol de goélands
Sur des forêts de Norvège
Sur des moutons d´océan

この一節を語順になるべく忠実に日本語に移そうとすると

鴎の飛翔のように
ノルウエイの森の上の
海の白波の上の

と日本語にしては据わりの悪い、ある意味詩的な倒置になってしまうが、フランス語では会話でも日常的に可能な語順だ。

続く二行でも同様で

Comme le chemin de ronde
Que font sans cesse les heures
円環の途のように
時を休み無く刻み続けるところの

日本語だとよく考えないと時計の文字盤の比喩だということもわからない。

結局全体の大意をくみ取るようにしかも原詞の語順に即して訳すというのは大変難しいものだなと今更ながら思ったりする。

しかし乗りかかった舟。以下Les Moulins De Mon Coeurの日本語試訳を載せます。もちろん仏語歌詞の語順に忠実ではありません。あきらかな誤訳もあるかもしれないけどあんまり怒らないでください。


せせらぎに放り込まれ
そしてあとに
いくつもの水の輪を
残す石のように
星の馬で飾られた
月の回転木馬のように
土星の輪のように
カーニヴァルの風船
時を休みなく辿り続ける
円環の途のように
ひまわりの花の
世界一周
君は君の名で
いっせいに僕の心の風車を回す

子どもの両手の間の
一束の毛糸のように
または風の竪琴にからまる
聞き慣れた歌の文句
旋回する吹雪のように
ノルウエイの森の上の
海の白波の上の
鴎の飛翔のように
時を休みなく辿り続ける
円環の途のように
ひまわりの花の
世界一周
君は君の名で
いっせいに僕の心の風車を回す

あの日泉のほとりで
君が僕に言ったことを誰も知らない
だが夏はその行程を終え
鳥は巣から落ちる
そしてほら砂の上
僕たちの足跡はすでに消え去る
そして僕の指の下で音を立てるテーブルで
僕はひとりだ
雨粒の下の
泣くタンバリンのように
忘れられるやいなや
朽ちる歌のように
そして秋の葉は
青みを失った空と出会う
そして君のいない秋は
君の髪の色になる

せせらぎに放り込まれ
そしてあとに
いくつもの水の輪を
残す石
四季の風の
君は君の名で
いっせいに僕の心の風車を回す

2012年6月30日土曜日

風づくし01   上野葉月


風薫る緑茶の色のワンピース  葉月

葉月句というのはその時々のお気に入りキャラクタを句会の度に一句は必ず読み込んでしまう傾向があって、これまでも「秋の海」、「東京眼鏡つ子」、「おつかさん部隊」、「足洗ふ女医」などの人気キャラクタが世の多くの心ある俳人達の強い支持を受けてきたのはご存じの通りだ。こういう使いまわしというかスターシステムとも呼べる形態を採用してしまうのは結局のところ手塚治虫や吾妻ひでおのマンガの影響なのだと思う。

そんな私が一年ほど前から句会で頻繁に登場願ってしまうのは「風使ひ」である。
「風使ひ」とは何か説明すると長くなるが、要するにガンガンONLINE連載中の山内泰延『男子高校生の日常』で数多くの名勝負を繰り広げたヒデノリとやっさん(文学少女)の二人のことだと考えてくれて良い。
http://www.square-enix.com/jp/magazine/ganganonline/comic/danshinichijyo/

てなわけで、この数年「風使ひ」と言えば『男子高校生の日常』、「でもこの風…、少し泣いています」「風がこの町によくないものを運んできちまったようだ」、「急ごう、風がやんでしまう前に」etcが世の常識だった。

しかしながらその平安な日々も長くは続かなかった。2012年2月を境にすべては変わった。今や「風使ひ」といえば緑川なお一色「勇気凛々直球勝負!」「風のプリキュア・キュアマーチ」。
まさに「そのとき歴史は動いた!」である。

100億円玩具市場を背負ったプリキュアシリーズ。キュアピースが「1+2+3+4」を即答できなかっただけで、全国津々浦々のお父さんお母さんが「勉強ができなくてもプリキュアになれるの?」と質問攻めにあってTV局の電話に苦情が殺到するようなコンテンツは、やはりガンガンONLINEとは格が違う。

このところ年を追うごとにTV離れが進みどんな番組でも視聴率の低下傾向に喘いでいるわけだけど、視聴率なんてまるで気にしないでただひたすら玩具の売上げ高だけを注視しているバンダイという企業には学ぶべきところが多いと思う。そういえばプリキュアシリーズの前にやっていた『明日のナージャ』は視聴率も良く視聴者層の保護者の評判も悪くなかったらしいが、玩具の売り上げに結びつかなかったのでシリーズ化しなかったそうだ。

以前ウラハイでもちょっと触れさせてもらったが(http://hw02.blogspot.jp/2012/05/blog-post_05.html)プリキュアは二人が基本である。

しかしながら今期は放映開始早々五人が登場。これなんか玩具の売上げをきわめてセヴェラルに見つめた選択であることは疑いない。プリキュアシリーズですらそこまで追い詰められている今日この頃とも言えるかもしれない。

今期スマイルプリキュアではっきり感じ取れる全体的に明朗な雰囲気も時代の反映に他ならない。世間の暗い雰囲気に反比例する形で明るい方向性が強くなっている。人類史上最悪の事故が進行中のこの国でどこまでの明るさが求められ続けるかは予想し難い。
わずか二年前のこととは今となっては信じがたいが、ハートキャッチプリキュアが未就学児童向け番組としては臨界状況ともいえる過酷な筋立てになってしまったのも、ある意味まだまだ世の中にそれだけの余裕があったからかもしれない。それにしても月影ゆり、最終的には「妹殺しのプリキュア」だもんなあ。いくらなんでもつら過ぎないか。

今期はタイトルからしてスマイルだし、エンディングのダンスなどひたすら明るい。敵キャラもなんか普通にほのぼのしていかにも幼児向けだし。やっぱりプリキュアのような影響力の大きいコンテンツは反作用で世相から影響を同時に受けるものだとしみじみ感じる。

さてスマイルプリキュアの「風使ひ」キュアマーチだが、どこかスタッフ連から強くサポートされているように感じられて仕方がない。『プリキュア5』の秋元こまちが散々「緑は存在感がない、緑は空気」と言われまくった反省なのか、キュアマーチ/緑川なおに関しては、台詞も見せ場もズームアップも他のメンバーより若干多めだ。さらに言えば変身後の髪の毛も多めだ(そういえば、スマイルプリキュアの各メンバは変身後に比べて変身前の方がずっと可愛いのには何か意図があるのだろうか。というか玩具販売的には問題なのではないか)。

「こんなにあざといとかえって清々しい」とまで言われたキュアピース/黄瀬やよい登場時には、このままではコミケが真っ黄色になるのではないかと広く世間で危惧されたものだが、二次創作のフィールドでもキュアマーチ/緑川なおの巻き返しが目に付く。たとえばpixivでの緑川なお関連のタグの量には舌を巻く。「すこぶるどうでもいい」「なおちゃんマジ男前」「風の谷のなおしか」「なおの虫嫌い」「スマプリ7話ノーブラ事件」「腹ペコなおちゃん」「なおれい」「れいなお」「風使い」「もふもふマーチ」「なおちゃんマジ総受け」「なおこれかわいい」「マーチシュート」「なおこれかっこいい」なんというか本当に数え切れない。属性多過ぎだろ。

プリキュアシリーズは年々恋愛要素が希薄になる傾向にあることはよく知られている。具体的には男子キャラの出番が減少しているとも表現可能だ。恋愛がらみの展開は視聴者の保護者に受けがよくないそうだ。気持ちはわからんでもない。
でも最近のプリキュアは水着にもなれないなんて過剰な対応のような気がする(触手を出さないというのは理解できるし賢明な選択だと感じる)。
ともあれ男子キャラの登場が少なくなるほど、大きなお友達は百合方面への妄想に突っ走る傾向が強くなるわけだが、これを負のスパイラルと呼ばずしてなんとしよう(でももしかして正のスパイラルだと感じる人間が少数とは限らないのか?)。
それに緑川なおと青木れいかが幼なじみだというだけで、オタクというのはなんであんなにも食いつくのだろう。口にしても詮無いことだが。
RGBトリオ(わからない人はGoogleで検索!)関連イラストで頻繁にあかねとれいかがなおを取り合っているし。二年前はダークプリキュアと来海ももかが月影ゆりをよく取り合っていたものだけど、あれなら本編のストーリーとの関連性が推測できないこともないが、今期に関しては少し先走りすぎているように思える。

誰も指摘していないような気がするのでこの機会に言っておきたいのだが、今回の緑川なおの声は明堂院いつきを強く意識していると思う。キュアマーチ/緑川なおの声を担当しているのは学習院が世界に誇る“できる子声優”井上麻里奈だが、念願叶ってプリキュア出演を果たしたせいか気合いが入っているのが如実に伝わってきて好感。しかしながら少し固くなっているというか熱情が内部で旋回して外に突き抜けていかない印象もある。

まあ例えばニャル子さん(CV:阿澄佳奈)ような感じで突き抜けた演技になるとプリキュアではなくなってしまうわけだけど。
http://www.youtube.com/watch?v=Z3lLl9Qx6iQ

(つづく)…(つづいてしまった、なんとなくスランプだが、次回を刮目して待て!)

2012年6月29日金曜日

― ガラム ―                  青山茂根



 

            ガラム


     不時着の砂漠を箱庭と思(も)へば

     萍やはるかパラシュートの空も

     夕映に包まれゐたる水喧嘩

     金亀子だけが開かずの間へ向かふ
  
     茅の輪より見る高階と飛行機と

     須弥山を巡りてプール流れをり

     夜濯に異国の微笑みが集ふ







2012年6月22日金曜日

― マシンガンと蜂 ―                  青山茂根




 竹岡一郎氏の句集『蜂の巣マシンガン』 (ふらんす堂 2011)。

 「蜂の巣」は受動であり、「マシンガン」は能動。相反するものを己の中に持ちつつということだろうか。好みによるのだろうが、タイトルと装丁がまず心惹かれる作り。第一印象でどう捉えるかはそれぞれながら、装丁から想像されるアヴァンギャルドさよりも、安定した句が並んでいる句集と思う。このタイトル、その元となった句を超越して、本としての存在感を存分に発揮している。

  みづうみにみみさとくをり月見草  竹岡一郎

  手毬唄とも南朝の嘆きとも

 景の広がりと、所々に顔を覗かせる歴史上の素材、そしてこれらの句の頭韻の効果。作者が、「高野素十の句が好きである」、とあとがきに書いているのは、このような句に現れていると思う。みづうみの夕暮れの葦のさやぎに耳傾けつつ、みづからも「みづのあふみ」の一点として。また、手毬唄のどこか地底から湧くような響きや、少し恐ろしい歌詞も、南朝方の悲劇に合っているように。

  戦争と雁共に来たりけり
 
  香水に女の戦まばゆけれ
 
 話題になった、「トランクはヴィトン家出は雁の頃」の隣に置かれた句。しかし、この句のほうが印象に残る。「戦」の語も、べたな斡旋と見えつつ意外にこの季語に使われていないのでは。「まばゆし」は、香水壜の耀き、美人ぞろいの売り子たちの差し出すサンプルの匂い、そして香水がもっとも発達したといわれるフランスのブルボン王朝の時代、その鏡の間の景をも内包する表現になっている。それを、已然形で用いることにより、「女の戦」のあとに「こそ」が省略されている、と読み取れる。いや、「香水に」の後だろうか、そんなことを読者に考え迷わせる句でもある。裏側の醜さもほのめかしつつ。どちらに「こそ」を付けるととるか、それは読み手のそれまでの人生経験によるのかも?

  枯園や跪拝久しきアラブ人

 同じ「鷹」に句を発表していた飯島晴子の句をテクストとして呼び出しつつ、その宗教的行動への関心を描く句。宗教的なモチーフは以下にあげる他の句にも散見されるのだが、この句はその白いアラブ服を惜しげなく地へ投げ出す彼らの行動と景の取り合わせが気にかかる句。ただ、彼ら故郷の砂漠に似た景として、「枯園」に意味を持たせない読みとしておきたいところだ。

  きのふ巫女けふは金魚を売りにけり

  色白の子の泣いてゐる飼屋かな
 
 薄暗い飼屋。ぼうっと浮かぶ子の顔。雨のように、蚕が桑の葉を食む音が降ってくる中で、一人泣く姿。少しグロテスクな蚕の容姿も、無感情なせわしない音に紛らわされて、むしろ慰めに。白は柔らかな蚕の色でもある。すぐそばに飼屋のある日常への郷愁。

  甘藍や遠き野に立つ馬百頭

  百済への航路さへぎる海市なり
  
  初夢の死者玲瓏と謡ひけり

  一舟に向日葵の束積まれあり

  聖典の挿絵の悪魔胡桃割る

  房州の蛸這つてゐる鉄路かな


  初夢や無辺の河を徒渡(かちわたり)

  冬眠のものの夢凝る虚空かな

 ときに異空間を現出させる景。宗教的なモチーフ、とさきほど述べたのだが、以下の句に見られるように、実はキリスト教の原罪の意識がどこかに隠れているようにも思う。作者自身が信仰を持っているかどうかは全く存じ上げないのだが。様々な背後の物語を感じさせつつ、衒学的にならない句群。  


  使徒像のガラスの眼鳥交る 

  息白き少年打つも打たるるも
 
  朝顔を百も咲かせて山師たり

 後に裏切ったり遁走してしまう使徒たちの眼は、何も映していない。季語の取り合わせが、実景としても、原罪意識としても巧み。そういった像の周りには、無数の鳩が。
 鞭打ちという欧米で一時期まで躾として行われていた罰としても、座禅の景でも、また少年同士の秘密の儀式ととってもよいのだが、その白さに、周囲の張り詰めた空気が伝わる。打つ側の罪の意識も、と。
 朝顔を見るなんとはなしの後ろめたさを、「山師」という語を取り合わせて表現する面白さ。空とぼけた飄逸さも。しかし、その花の美しい咲きぶりが、むしろ際立つ作りとなっている。 江戸期の変わり咲き朝顔のニュアンスも含んで。

 マシンガンは、撃った後の銃身の反動の強さも相当なものだろう。カヴァ-に隠れた扉に蜂が。先日の週刊俳句での『比良坂變』はよりマシンガン的な、力を感じる連作だった。硝煙の匂いの。




2012年5月26日土曜日

― マッチ棒の感触 ―             青山茂根



  そういえば、幼い頃ポーカーにはまった時期があって、といっても家族や知人と勝負する程度の他愛のないものだったが、ハウツー的な本を買ってもらって様々な手を覚えることに熱中していた。もうほとんど忘れてしまっているのだが、局面での駆け引きや、子どもながらに勝負に出るときの表情(いわゆるポーカーフェイスというものですね)など、ふと蘇ってくるものがある。あのまま博才があれば今頃は、などと。残念ながら現金を積むことはなかったが、あのマッチ棒で賭けていく感触、わかる方もいるだろう。

 ブルガリア=ドイツ=ハンガリー=スロベニア=セルビアの合作による映画、邦題『さあ帰ろう、ペダルをこいで』(英原題;The world is big and salvation lurks around the corner)は、バックギャモンと、二人乗り自転車によるロードムーヴィー、そして難民の物語。ソ連時代のブルガリアの人々の苦しみ、政治的亡命者の悲哀が、子どもの成長と、ボードゲームの勝負を通して描かれる。オープニングにふと映った、風力発電の設備にもはっとする、現在の我々としては。ずっと昔から、路上やその辺のカフェで親しまれてきたボードゲームが、ストーリー展開の鍵ともなり、その勝負師としての格言めいた言葉たちも印象に残る。困難な状況を描きながら、涙を誘う描写にあえてしていないのも好感だった。昨年、非常に重いテーマを描きつつ、壮大なエンターテイメント映画として傑作だった『アンダーグラウンド』の俳優が主演している。この俳優が旧ユーゴ出身であるばかりか、監督・脚本のステファン・コマンダレフはブルガリア人でしかも私と同年生まれ、さらに、原作・脚本のイリヤ・トロヤノフは1965年生まれでブルガリアから実際に幼くして両親とともにドイツへ亡命している。この映画の緻密な構成や設定のリアリティは、原作者自身の、ブルガリア~ユーゴスラビア~イタリア~ドイツと逃れた難民体験によるのだろう。同年代の人間が、これほどの過酷な体験をしてきていることに、いまさらながら歴史は生きているものであることを思う。「バルカン半島」という語を、歴史の教科書以外で眼にしたようにも。ほんの少し、織り込まれた恋愛のシーンがありきたりでなく美しく、胸をとらえるみずみずしい映像となっているのは、製作者自身の青春の残光なのかもしれない。

 バックギャモンについては、こちら(日本バックギャモン協会のサイト)。古代エジプト時代からあるゲーム、ツタンカーメン王の墓からも発見されており、日本には奈良時代に渡来し、「盤双六」の名称で大流行したそう(映画公式パンフレットより)。平安文学はおろか、日本書紀にも登場するとは。聖武天皇のご愛用品と伝わるものが正倉院宝物に!遊びたくなってきた(こちらはPC上で遊べるもの。あの、鳥獣戯画の動物たちがお相手を?!)

2012年5月11日金曜日

― 音の陰影 ―                青山茂根



 東京国立博物館で行われている、「ボストン美術館展 日本美術の至宝」展も素晴らしいのだが、敷地内の建築を見て廻るのも楽しい。特別展会場の平成館は外観より内装のほうが見事ながら、その喧騒を少し外れると、あまりひと気のないなかに、静かにそれぞれの建物を鑑賞できる。緑の木陰を散策しつつ。

 明治末に建てられた、旧東京帝室博物館を前身とする表慶館は、鹿鳴館の華やぎを彷彿とさせる青銅色のドーム屋根が美しいが、残念ながら現在休館中(内部はこちらのブログから少しお借りして)。多少の障害物はあるが、たくさんの馬車が乗りつけたであろう、その美麗なファサードを眺めることはできる。

 ニューヨーク近代美術館新館と同じ建築家による、法隆寺宝物館は、その前庭からして、人を静寂な気分にさせる造り。伝統的な枯山水の精神を逆発想にして、水とその表面張力による直線を使って表現したものと感じた。本館の重厚さも好みだが、この現代的な外観、内装や展示方法の細部まで一貫した美意識に貫かれた設計がなんといっても記憶に残る(ある方のブログに詳しくあったので、お借りして張らせて頂きます)。モダンながら和のエッセンス、日本的な細い縦格子のモチーフや随所に配された木の質感に、見えない霧を浴びるような錯覚にひたる。

 冒頭の写真は、本館にある、ステンドグラス。本館は、建築全体の趣きも和洋のテイストを取り込んでいて一見の価値あり、しかも内装が随所に面白く、特にこのステンドグラスの色合い、伝統的な美感によるものといえるだろう。欧州の日照時間の少ない暗い冬には、華やかな彩りのステンドグラスが映える、しかし、日本の晴天の多い冬、年間を通して日照時間の長い土地柄には、くすんだ色のステンドグラスも何か心に沁みるものがある。現在、2階で行われている「日本美術の流れ」展もぜひ見るべき。一日かけないと見尽くせないほど充実した展示。しかも空いている。




 そして、展示室から展示室へ渡る途中に、ふと目にとまったもの。片隅には、昭和の頃に使われていたダイヤル式の黒電話が。しかも現役で。その上の壁に目をやると、打ち付けられた板に、「構内電話 外部にはつながりません」の墨字とともに、錆びた螺子と掛けるための穴。きっと、ここには黒電話より以前に、壁掛け型の電話が取り付けられていたのではないか、などと想像を膨らます。赤瀬川原平氏が観察を始めた、「超芸術トマソン」が建物のあちこちにまだひっそりと息づいているかも。と、黒電話の鳴る音が、石造りの建物に静かに響いた。柔らかな響き。リリリリーン。





(写真は全て館内職員に確認の上、撮影可能箇所のみで写しています。)

2012年4月27日金曜日

― 北の透明度 ―                青山茂根



 鈴木牛後氏の句集『根雪と記す』(有限会社マルコボ.コム 2012)より。(ありがとうございます。)

  歯車の濡れて動かぬ雪解かな 鈴木牛後 


  風鈴に隣る電撃殺虫器

  畜生と言はれて牛の眼の涼し

  みづうみに林檎の沈む透明度

  数へ日の束ねるものと解くもの

  長靴に雪の入りたる御慶かな

  猫の吐瀉物跨ぎストーブの点火

  鎖鳴る音ばかりなり深雪晴

 風土性を帯びながら、透明感のある句が並ぶ。なぜか土のにおいのしない、しかし生活の確かな手触りによる描写。
  「歯車」の句、雪深い地の長い冬のあと、雪解は即農作業の始まりを示す、その朝の動かない工機。「濡れて」の語は、春の日ざしの輝きをも映し出す。その喜びと、仕事に入れない焦り。
 「みづうみに」、静かな北の地のひっそりとした秋の景色が、どこにも描写されていないのに、鮮やかに目に浮かぶ。「林檎」という語の配置と、その透明度の高い湖に沈んでいくさまの色彩の対比、スロウモーション。硬質な言葉を使いつつ、詩的な表現として過不足がない。
 牛を飼う農場の生活が、「畜生と」の哀感に、「数へ日の」の年を越す準備の慌しさに、雪深い地の「御慶」に、「深雪晴」の朝に道をゆくもののない静けさゆえに自分の農場の鎖の音が響くさまに、ありありと現出する。語間というべきか、一句の言葉と言葉のつながりにより、その言葉の向こう側にある描かれていない景色を呼び出して、奥行きを感じさせる句が多い。

  制服はオイルの匂ひ薄暑光

  麦秋や臍のあたりに手の記憶

  抱くやうに廻すハンドル濃紫陽花

  梨剥きしナイフ梨より甘からむ


 「制服は」の句、単車などに関心を持ち出した頃の記憶。「オイルの匂ひ」で青春性を甘くならずに表現し、そのむせるような匂いからひたむきさ、純粋さが立ち上ってくる。
 「麦秋や」の句にほのかにしのばせた性の感触、「抱くやうに廻す」という、大型車や農機具を運転するときのハンドルの大きさ重さ、身体の動きを表しつつ、下五に「濃紫陽花」を置くことによって、異性の存在をも読み手に想起させる。
 「梨」の句にある、「ナイフ」と言いながらその剥いた手を見つめる視点。眼前にある物の、外側に広がる世界を描き出す力量を感じて。小さな句集ながら、どこまでも開いたページが広がっていくような、内包するものの大きさに驚く。
   

2012年4月13日金曜日

― 壁とバナナ ―                青山茂根

『震災鎮魂句集 釜石①』2012,3/8版を照井翠氏より、高木佳子氏の個人誌『壜 #04』2012,4 Spring を氏より頂く。ありがとうございます。


 その簡素なつくり。個人的事情の説明文は全くなく、ただ句を記すのみの照井氏の句集より。


  若布浸す桶に身体を沈めけり  照井翠


  春昼の冷蔵庫より黒き汁


  在るはずの町眼裏に雪が降る


  ありしことみな陽炎のうへのこと


  春は壁乗り越えなくていいですか


  迎火や潮の匂ひの新仏


  白鳥の祈りの胸をひらきけり


  三月や遺影は眼逸らさざる
            (『震災鎮魂句集 釜石①』 2012,3/8)



 高木氏の短歌誌『壜 #04』、<論考 「当事者」と「非当事者」のゆくえ 震災と表現について再び考える>には、谷村はるか氏の「ドームの骨の隙間の空に」という作品とその評があげられていて、興味深く読んだ。俳句における震災詠にもリンクする内容と思う。高木氏の<「被爆地」というステレオタイプな切り口に対する是非>、という言葉にもはっとする。部分的な肯定も否定も私には難しいとしか言えないのだが、印象に残った言葉のみここに。高木氏の意図とは違う取り上げ方になってしまうことをお詫びする。「非常にマスコミ的にもてはやされていること」。「マスとしての原爆詠はだめだ、力が全然無い」。「自身の目で見、自身の内部で様々に葛藤しているそれらの問題が、静かに並ぶ。」

 <短歌 このままでいい>から。


  何が高いのかと問へば内部のですよと答えぬ鱶のごとくに
                     高木佳子
  ないぶとは馴れし響きよすぎゆきにわれの内部のなどと詠ひき


  熱傷も瘢痕もなくまつしろな曝されがあり白蓼の垂る

  測らずとも分かつてゐたらう、雨降るごとくことばは傾ぐ


  排出にバナナのよきとて朝なさな黄の耀けるバナナ食うぶよ


  ママいいよぼくこのままでいいと吾子は言ふなり本当にいいか


  ゆるやかに汚れてをりしわが身体熱きシャワーを幾度浴びても
            (『壜 #04』 2012,4)


  

2012年2月24日金曜日

― くちすさびうた ―









  野を焼くや肉球の無きさびしさに      青山茂根


  たまゆらを嘯きたまふ雛かな


  飢ゑてゐるものの響きに雪しろは


  馬頭琴とふ摘草に忘れしや


  龍天に登る鳴門の雲連れて















  

2012年1月27日金曜日

― 随句誌『草原』 より ―          青山茂根

Twitterは往来に似ている。どこで話がどう転ぶか予測がつかないし、誰に聞かれて(読まれて)いるのかもフォロー関係でなければわかりはしない。ひょんなところから、昔の知り合いにつながったり、新しい出会いから珍しいものを頂戴したりもする。そんなこんなで、自由律俳句(というより昨今は随句と呼ぶようだ)の同人誌を送っていただいた。山本健吉などがまとめているいくつかのアンソロジーなどで、過去の自由律の句には少し触れたことがあるが、こうして時間的に近い現在、作られた句を読むのは初めて。私などが選んでみても何もわかってはいないけれど、いくつか挙げさせていただく。

 月刊 随句誌 『草原』平成23年12月号より。

  秋雨が骨を打つ           春風亭 馬堤曲

  明け方月が夜からはみ出てる

  じゃがいも静かに芽をだしている    福 露

  墓に参る背中に雨ふる         薄井 啓司

  売家の値段下がって草丈        岩村 操子

  降りればビニール傘又一本のキヨスク 

  繁忙期終わると冬が来ていた     矢野 風狂子

  鍋をさらいぬるい酒飲む

  墓石の上は青い空の遠い        岸田 渓子  

  紅葉の川底に影射す           

  ぐあい悪そうな色の半月          土方 瞭

  カップ麺にお湯を入れて来客     馬場 古戸暢

  蛇口に映る歪んだ世界だ

  目が合わない横向きのまま       米田 明人

  人思えば山河深い            藤津 滋人

  街の空に座る富士山が黒い       秋山 白兎

  胸の谷の上にケータイかざしている   そねだ ゆ

  食べられそうもない茸も秋

 他に上位作品の自解や、通信句会の互選結果と選評、会員による随筆や評論が載っている。定型での句会との選評の違いなど興味深い。どちらかというと、内容や言葉の斡旋、句意について述べている評が多いようだ。定型の場合、意味はとれなくとも良いものは良いとか、内容よりも形に重点を置いて評されることがしばしばある。このあたりから、自由律の境涯性へ繋がっていくのかも。定型で書かれた句は、どこか幽体離脱した自分を半歩後ろから描いているような趣きがあるのだが、自由律の句はそうではないように思われる。また、一人の作者の並べられた句を読んでいくとき、「揺れ」のような感覚を覚える。前の句から次の句へ、揺れ幅を含みながら繋がっていくような。句の意味も、言葉のリズムも。この「揺れ」るような振れ幅が含まれるか否かが、自由律と、定型の中での破調の句との違いであるようにも感じた。

 藤津滋人氏のエッセイ「キナバル山登山とボルネオの旅」は、熱帯での登山というあまり知られていない世界、そのロッジや食事など簡潔に記されていて、熱帯雨林独特のあのむせるような花を思い出す。そねだゆ氏の「山田句塔 戦争を詠んだ俳人」も、未知の作家、それも従軍中の句を残した俳人を紹介する試みで、これからの展開が期待される。矢野風狂子氏の文章には、何か大きな、底知れないものが見え隠れするようで、胸を打たれた。非常に重い話なのだが、力のある随筆だと思う。境涯というべきか、まさしく断崖にいるような。