2010年6月25日金曜日
― レディ・ガガ?~たちあがる対話 ―
それまで歩いてきた道がすべて色褪せるような、一句に出会うことが、ごくまれにある。一閃の光ともに、一瞬で脳内にインプットされるものだ。その上に時間が降り積もっていくにつれ、普段は忘れているのだが、再びどこかでその句を目にすると、軽いめまいのように、ぐらりとしつつ立ち尽くす感覚が蘇る。
twitter上で『新撰21』の読書会を始めた当初は、「ただのつぶやきに過ぎない」「議論が深化しない」といった感想をみかけたのだが、回を進めていくうちに、読み手と読み手の間合いというか、掛け合いの面白さといったものが現れてきたように思う。開催サイド側の幻想かもしれないが。自分の小さな印象を言葉にして流してみると、それに反応しただれかのつぶやきが入り、さらにそれに触発された別の誰かの書き込みを読んでいると、最初の印象に新たな要素が次々加わって、自分一人では到達し得なかった読みが生まれる。おそらく作者自身も想定していなかった、しかし潜在的にその句の中に含まれていた何かが目覚めるように。それぞれが個々の意見を綴っているだけのときもあるのだが、終了後にそれらを再び読み返してみると、自分の中で空白であった部分に色が塗られていくような、気分になることがある。そうして、読書会を終えた後も、しばらく眠れない時間を過ごす。
送っていただいた『円錐』第45号の中に、<特集・山田耕司句集『大風呂敷』>があった。俳句を始めたばかり、飲みながらの気楽な句会に数回出るようになったころ、人から薦められた『俳句という愉しみ』などを読み終えて、書店で同じ著者の本を探していた中に、この作者が取り上げられていた。一瞬にして覚えたその句と、作者の名前以外は何も知らないまま、十数年が経過したのだった。自分もその間に数年俳句から遠ざかり、再び戻ってきて、送って頂いたその作者の第一句集から、ほぼ自分と同年代であることを初めて知った。もっとずっと年上の、作者だとばかり思っていたのだ。初めて句を目にしたときの衝撃と、眩しさとともに。
(しかし、レディ・ガガの曲を歌い踊る、アフガン駐留?の米軍兵士の映像をYouTubeで見たとき、とっさに山田氏の少年兵の句を思い出したのは私だけだろうか。)
特集の、何人かの執筆者の方の記事から、取り上げられている山田耕司氏の句とともに、twitter風に、少しづつここに引かせて頂く。失礼にならないといいのだが、一つの作品を、数人で読む楽しみが、お伝えできればと願う。
ひとり漕ぐ野は胸高に秋の暮
蝶に聲あると思はば青簾
ドアノブを濡らして帰る霞かな
どの句にも共通しているのは、懐かしくも、ふだんわれわれが見過ごしている世界の手ざわりのようなものが感じられることだ。@澤 好摩氏
体育会系愛撫に海鼠用ゐらる
朝刊にはさまれ来るは母の櫛
今の四十代俳人は俳壇でどのような位置づけをされているのだろう。(中略)やや存在感が薄いのではないか。だから、四十代俳人山田耕司の復活を、同世代として私はとてもうれしく思う。@後藤 貴子氏
永き日の日の水没の水煙
昼顔よ旗の流離はちぎれつつ
格助詞「の」でつなげられた「永き日」「日」「水没」「水煙」のそれぞれは、前の言葉を次の言葉が順次消し去り、最終的には何一つ具体物が残らない仕掛けになっている。(中略)読者はただただ実体のない虚ろな現場に立ち会わされる。@中里 夏彦氏
思えば不思議な私の気持は、あの「少年兵」一句の記憶が十年の不在の間も強烈な印象だったからに違いないのである。
俳人がちまちまと俳句の世界だけに籠もるのは、とても非衛生的である。@味元 昭次氏
蝶二匹越えにし杉を知らざるや
多佳子忌と知らず遠雷録音す
人となりとをもって簡単にわかられてしまうことを拒絶すること。かつ、それでいて自己表現であること。
日常生活を通して精神の底の方に溜まってゆく憂鬱なものと、その中から飛び立とうとする何かとの葛藤が、ここにあざやかにすくいとられている。@今泉 康弘氏
最後に、ポール・ボウルズの「読者への言葉」から。
人間が書くのは、自分の隠された姿を知るためだけではなく、自分が書きあげた言葉を他者が読み、肯定なり否定なりをしてくれ、そこに対話が成立するという希望あってのことであって、それは明らかであるような気がする。彼は自分を理解してくれるであろう読者のために書くのだ。(中略)とはいうものの、読者の反応とは予想しがたいものだ。ひとつの作品は、それを読んでいる者に応じて、いくらでも多くの意味をもつかもしれない。
作家は、自分が作品について特定の、決定的な意味を与えたと想いこむものかもしれないが、作品に究極の意味をもたらすのは実は読者たちなのである。
(『現代詩手帖特装版 ポール・ボウルズ』 監修・四方田犬彦 思潮社 1990)
2010年6月23日水曜日
森林浴 広渡敬雄
春蝉や切株は地に還りつつ 広渡敬雄
樹齢500年近い木曾ヒノキが堂々たる風格で立ち並ぶ景は壮観で、20年ごとに伊勢神宮の神木として伐り出された跡も残り、歴史の重みをひしひしと感じた。
日本を代表する自然休養林(※1)として森林浴発祥地(※2)としても名高く、年間10万人のハイカーが訪れるフォレスター(※3)推薦の森林でもある。
1 特に風景が美しく森林を利用した様々なレクレーションに適している森林。自然探勝、登山、ハイキング、キャンプ等全国荷90ヶ所。昭和30年代までは、伐採した材木を運んだ森林鉄道は木曾谷全域で57線、428kmに及んだとも言われるが、現在は、観光用として小さなディーゼル機関車に牽引された客車が1.1kmの渓流沿いのコースを走る。
2 植物の発散する酵素や微妙な香りには殺菌浄化作用が含まれ、森林の四季の色彩(殊に新緑、万緑、紅葉の頃)、爽快な大気も含め人にとってセラピー効果がある。森林は、二酸化炭素を樹々に固定化する(貯める)働きもあり、地球温暖化を抑える効果も大きい。
3 国有林の保護管理の最前線(営林署、森林事務所)で働く森林官
黒部渓谷鉄道もそうだが、トロッコ列車は郷愁と童心を蘇らせ、発車する前から心の躍動がある。
その発着地である赤沢橋には、「森林浴発祥の地」の石碑とともに、熊やカモシカの剥製がある「森林資料館」、名物のアメリカ製蒸気機関車「ボールドウィン号」が展示された「森林鉄道記念館」がある。
また、俳人松本たかしが昭和28年に檜山の大景を詠んだ句碑がある。
眠りゐし檜山は餘木あらしめず
目の前の清流・道川(どうがわ)には吊橋もかかり、何人かの子供達が水遊びに興じていた。
目の前の清流・道川(どうがわ)には吊橋もかかり、何人かの子供達が水遊びに興じていた。
木曾の子の言葉きらきら水眼鏡
江戸時代の支配した尾張藩が木曾の山地を立入り、伐採禁止(留山:とめやま)とし「ヒノキ一本首ひとつ」と厳しく保護育成したため、秋田スギ、青森ヒバ等とともに、日本三大美林の「木曾ヒノキ」となったが、ヒノキの他にサワラ、ネズコ(ひば)、翌檜(あすなろ)、高野槙が木曾五木として大事にされてきた。
まず、トロッコ列車(赤沢森林鉄道)に乗る。
切符は洒落た薄い檜板(8cm四方)で、香りが芳しい。
ゆっくり1.2km強の軌道を走り出す。石楠花の鮮やかな花の群れが現れる。
河鹿の声とともに、ひぐらしのような蝦夷春蝉の声が静かな森林の中に響きわたる。
渓流沿いの軌道なので、檜林の間から道川の瀬や滑(なめ)が見える。
瀬越しの水音が耳に心地良く、畳大の平たい一枚岩を水が滑るように走る滑が美しい。
芭蕉のような葉越しに水芭蕉の花も見え隠れする。もう少し鑑賞したいとも思うが動く列車からの景、直ぐ視界から消える。
時速10キロの速度の嵐気の何とも言えぬ爽快感は、樹林のセラピー効果だろうか。
途中で伊勢神宮に20年に一度の奉納する神木の伐採地が見える。
神事ゆえ、鋸を使わず、斧のみでの伐採のため、伐り株はすり鉢状であり、伐り株には白い幣としめ縄が施してある。
ついつい伐採した檜の大木をこの深山から伊勢まで運び出す辛苦を思う。
程なく、終点の丸山渡に着く。列車の先頭の牽引車(デーゼル車)が切り離されて、再び最終客車向に接続される。
殆どの乗客はそのまま乗って戻ることはなく、いくつかの散策コースに歩き出す。
一番長く、美林を堪能出来る「冷沢・上赤沢コース(3km)」を取る。
ややアップダウンはあるが好展望の「赤沢台」もあり、人気のコース。
まず、道川本流の本谷橋を渡る。「熊注意」の看板。元々は彼らの生息地。
出て来ても不思議ではない。
黒い魚影が過ぎる。岩魚か山女か、この時期は雪解川で身も締まっていると言う。
檜の根が地表に出ているため、一面にチップ(木屑)を敷き詰めてあり、足に優しい。
勿論檜の根の保護にもなるのだろう。
地面に大きな朴の枯葉があったので見上げると、豊かな朴の葉群れの中に白く神々しい朴の花があった。緑に溢れる森の中では存在感があり、芳香が漂ってくる感もした。
亡き師・能村登四郎先生が愛された花だったことをふと思い出した。
伐採地のためか明るく、六月の木曾の空は殊に広く青く澄んで見える。
何時ごろ、伐採されたかは、定かではないが、古い切株は朽ち果てて、殆ど土となりかけているものもある。土となりまた新たなる檜の新芽を育てるのだろう。
「生死」の輪廻を思う。
まだそう古くない幾つかの切株からは、ひこばえや新芽が伸びていた。これらの新芽が1m位の樹高になるには十年余を要するとも聞くし、その後の間伐等で生き残って大木になるのは、ほんの僅かの檜だろう。
登り詰めると「冷沢峠」となる。
ここは、檜の巨木が林立しており、見上げる空は狭い。首が痛くなる程の樹高だから30mはあろうか。
巨木が空を覆い、地面には殆ど下草がない。植物の生育にとって、太陽の光の恵みを納得させられる。
地表には、ほんの少し羊歯が茂っている。「ミヤマイタチシダ」と名札があった。
そう言えば、片栗も落葉樹が芽吹く前に花を咲かせ、種を残す。
そうしないと樹木が繁茂して太陽が遮られ花を咲かせることが出来ないからだ。
ゆっくりと下ると「椹窪(さわらくぼ)」。
このあたりは木曾五木のひとつである椹の天然林が広がり、その大木がある。
檜と椹はよく似ており、区別は難しいが、ガイドには葉先が尖っているのが「サワラ」、尖っていないのが「ヒノキ」とあった。
ここから少し登ると「ひのき大樹」。
木曾では直径60cm以上を大樹と言い、木曾全域で18,000本が確認されており、この赤沢地域には2,690本があると言われる。
この「ひのき大樹」には、ひときわ大きな檜が集まっており、空は殆ど隠れるほどで、この晴天でも薄暗い。
ベンチに座っておにぎりを食べ、さっきの「本谷橋」で汲んだ清流を飲んだ。
じわっと喉元に広がる甘さ。檜のエキスなのかも知れない。
森林鉄道がカーブをまわる時の警笛がかすかに聞こえる。距離的にはそう遠くはない筈だが、巨木の繁茂する林だと音の伝わりも緩まるのだろうか。
蝦夷春蝉が鳴く中、時々、駒鳥の囀りも聞こえる。
鮮やかな苔が生えている切株があり、その緑が鮮やかだった。
また、「椹窪」に戻り、清流の橋を渡る。橋から流れを見ているとアカヤシオの一花が瀬の中で流れず漂っていた。淀みなのだろう。
ここにも山女らしい魚影が見えたが直ぐに消えた。
ここからはやや急な登りで「ほうのき峠」に向かう。
文字通り、檜、椹の姿が消え、朴、桂、コナラ、ミズナラが増える。
これらの樹々は落葉樹で、丁度新緑の美しい時期。
殆どが、木曾五木等の常緑樹の赤沢自然林では、珍しい林相だと言う。
殊の外大きな朴の葉は、日差しを返しつつも透けて美しく、神々しい純白の花からは、甘い芳香が漂っていた。
峠より「赤沢台」に向かう。東屋のある展望台に着くと、眼前に残雪が輝く木曾御岳の全容が見える。息を飲む美しさだ。まだ六分位雪が残っている。
この展望台の周辺も、眼下の森も檜の樹林帯。その中に浮かび上がるような御岳。
三名の先行者もしばらく声も立てずに見入っていた。
遠望の御岳を見るたびに、眼前に果てしなく拡がる「檜」の森の広大さを改めて感じた。
前山に遮られて、乗鞍岳は頂上あたりが僅かに見えただけだったのが心残りだった。
名残を惜しみつつ「赤沢台」を降り、のんびり下って赤沢橋に戻った。
途中、大きな「翌檜」の樹があった。明日は檜みたいな立派な樹木になろうと志を立てたのでその名が ついたと言われるが、なかなかどうして檜も圧倒する巨木だった。
囀りや翌檜は空押し上げて
吊橋を渡って「中央アルプス」の木曾駒ヶ岳、宝剣岳展望の「見晴台」に寄り、「大山蓮華」繁茂地にも足を伸ばしたが、まだまだ蕾だった。
途中、大きな「根上がり檜」に出会った。かって伐採した切株の上に種子が落ち、発芽し成長した後に元の伐採木の切株が朽ちて消えたために生じたもの。
この大きな「檜」と巨木として伐採された「檜」、その二本の「檜」を思うとその長い年月に感慨深いものがあった。
・参考文献:「林野庁フォレスターが選んだ森と樹木のフィールドガイド」(山の渓谷社)
「赤沢森林鉄道」(上松町観光協会)
「赤沢自然休養林散策マップ」(木曾森林管理署)
・写真(クリックで拡大表示)
赤沢自然休養林は、「森林浴の森100選」「21世紀に残したい日本の自然100選」
「かおりの風景100選」にも選定されている。
「かおりの風景100選」にも選定されている。
2010年6月13日日曜日
haiku&me特別企画のお知らせ(9)
※日時変更しました。
Twitter読書会『新撰21』
第九回「髙柳克弘+五島高資」
「haiku&me」主催のTwitter読書会『新撰21』第九回のお知らせです。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。
この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。
第九回は髙柳克弘さんの作品「ヘウレーカ」と、五島高資さんの小論「未来への遊弋」を取り上げます。
「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)
「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)
また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。
■第八回開催日時:
■参加者:
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。
■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。
なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)
(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。
■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。
(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。
(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。
2010年6月11日金曜日
― セミ愛 ―
幼い頃、偏愛していたものに、蝉のブローチがあった。プラスチック製の、大人が使うようなものでは到底ないちゃちな作りだったが、正確に、色調も蝉の翅や体を模していて、どこで買ってもらったのかも覚えていないのだが、とても大事にしていた。特に装飾品好きだったわけではなく、そもそもそういう系好きの女子だったらゴールドやシルバーの模造品とか、きらきら輝くクリスタルまがいや、カラフルな色彩のついたものを集めるだろう。私が持っていたのは、他に古い蛇腹型カメラを模したくすんだ銅色の小さなペンダントくらいで、なぜそんなことを未だに覚えているのか自分でも不思議なくらいだ。
むしろリアルすぎる、といってもいいそのブローチを、外出するときは帽子やワンピースなどにつけて行くのがうれしくて、得意だったが、多分周囲の人々には奇異に見えていたのだろう。ただ、どこに行っても、必ず誰かが、「あら、セミ?」と触れて声をかけてくれた。一瞬本物そっくりに見えて、そんなところに留まっているのをいぶかしむといった調子だったが。「木」、でありたかったのかもしれない。そこにいると、いつも誰かがやってきて、留まって歌ってくれる、木。向こうからやってきて、ずっと自分のために鳴いてくれる蝉を、どこかで欲していたのかと。
「私はよく蝉の木彫をつくる。」ではじまる高村光太郎のエッセイを、幸田露伴の「秘色青磁」と室生犀星の「日本の庭」が載っている本のなかに見つけたのだが、かなりインターネット上でも読めるものであることを、あとから知った。私自身は、幼い頃あまり蝉捕りをした記憶がなく、そのためには殺さねばならぬ標本作りも手を出さなかった。高村光太郎が書いている「クモの巣の糸を集めて捉えるという方法」など、初めて知るものながら、「セミの彫刻的契機はその全体のまとまりのいい事にある。」と滔々と語られる造型的な蝉の美を染み入るように読んだ。それはほとんど蝉への愛といってもいいほどで、その木彫は今でも見ることができるし、かつて大岡信が「蝉の指紋-高村光太郎」という講演をしたこともあるという。どちらも私自身まだ未見ながら、そろそろ蝉の声が、という今頃の季節になると、思い出す。
・・・木彫ではこの薄い翅の彫り方によって彫刻上の面白さに差を生ずる。(中略)すべて薄いものを実物のように薄く作ってしまうのは浅はかである。丁度逆なくらいに作ってよいのである。木彫に限らず、此の事は彫刻全般、芸術全般の問題としても真である。むやみに感激を表面に出した詩歌が必ずしも感激を伝えず、がさつで、ダルである事があり、却って逆な表現に強い感激のあらわれる事のあるようなものである。
・・・微細に亙った知識を持たなければ安心してその造型性を探求することが出来ない。いい加減な感じや、あてずっぽうでは却って構成上の自由が得られないのである。自由であって、しかも根蒂のあるものでなければ真の美は生じない。
(『世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集』 「蝉の美と造型 高村光太郎」 編・川端康成 平凡社 1962)
むしろリアルすぎる、といってもいいそのブローチを、外出するときは帽子やワンピースなどにつけて行くのがうれしくて、得意だったが、多分周囲の人々には奇異に見えていたのだろう。ただ、どこに行っても、必ず誰かが、「あら、セミ?」と触れて声をかけてくれた。一瞬本物そっくりに見えて、そんなところに留まっているのをいぶかしむといった調子だったが。「木」、でありたかったのかもしれない。そこにいると、いつも誰かがやってきて、留まって歌ってくれる、木。向こうからやってきて、ずっと自分のために鳴いてくれる蝉を、どこかで欲していたのかと。
「私はよく蝉の木彫をつくる。」ではじまる高村光太郎のエッセイを、幸田露伴の「秘色青磁」と室生犀星の「日本の庭」が載っている本のなかに見つけたのだが、かなりインターネット上でも読めるものであることを、あとから知った。私自身は、幼い頃あまり蝉捕りをした記憶がなく、そのためには殺さねばならぬ標本作りも手を出さなかった。高村光太郎が書いている「クモの巣の糸を集めて捉えるという方法」など、初めて知るものながら、「セミの彫刻的契機はその全体のまとまりのいい事にある。」と滔々と語られる造型的な蝉の美を染み入るように読んだ。それはほとんど蝉への愛といってもいいほどで、その木彫は今でも見ることができるし、かつて大岡信が「蝉の指紋-高村光太郎」という講演をしたこともあるという。どちらも私自身まだ未見ながら、そろそろ蝉の声が、という今頃の季節になると、思い出す。
・・・木彫ではこの薄い翅の彫り方によって彫刻上の面白さに差を生ずる。(中略)すべて薄いものを実物のように薄く作ってしまうのは浅はかである。丁度逆なくらいに作ってよいのである。木彫に限らず、此の事は彫刻全般、芸術全般の問題としても真である。むやみに感激を表面に出した詩歌が必ずしも感激を伝えず、がさつで、ダルである事があり、却って逆な表現に強い感激のあらわれる事のあるようなものである。
・・・微細に亙った知識を持たなければ安心してその造型性を探求することが出来ない。いい加減な感じや、あてずっぽうでは却って構成上の自由が得られないのである。自由であって、しかも根蒂のあるものでなければ真の美は生じない。
(『世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集』 「蝉の美と造型 高村光太郎」 編・川端康成 平凡社 1962)
翡翠や昼の彗星を知らず 青山茂根
2010年6月4日金曜日
― 隊商は進む ―
遠ざかる生家や蕗に屈むたび 青山茂根
誰かが、自分の見た映画の話を始める。そんなときの、語り手の、その眼の奥の光、早い口調の、熱を帯びたトーン。そのひとが過ごした、幸福な2時間ほどを、聞いている私も、その言葉から、瞳から、追体験している気分になる。未知の映画への憧れが、日向に置いた水さながらに、輝きを増して、次第に温度を上げてゆく。映画でもそうだが、お気に入りの作家などの、まだ読んでいなかった著作を偶然見つけると、何か思わぬ拾い物をしたようで、そのあとの一日が満ち足りて過ぎる。
ある本棚に、ポール・ボウルズの本が数冊並んでいたのに刺激されて、しばらく自分も読んでみたのだが、長篇となると、その波に乗り切れず、いくつかを途中で挫折してしまった(ボウルズの短篇はどれも、また読み返したくなるほど面白かったのだが)。自分の不甲斐なさを呪いつつ、図書館でボウルズ付近の棚を探っていたら、思いがけず、まだ未読だった、トルーマン・カポーティの本が目に入った。しかも、旅先の地での出来事にインスパイアされたエッセイ集で、様々な土地が、舞台となり、一冊のなかでそれらを巡るような、読み終えるのが惜しくなる一冊なのだ。
・・・その人はモンゴル系の顔に黒いビロードのボルサリーノをかぶり、アーモンドの花の香りに満ちた 季節であるにもかかわらず厚い黒いケープをはおっていた。(中略)
・・・(手紙に同封されていた)その批評について、また批評精神一般の不健全性について、私が文句を言うのを聞き終わると、フランスの大文豪は背を丸め、肩を落とし、まるで賢明な老いたる・・・・・・禿鷹のように、と言っていいだろうか?・・・・・・そんな顔つきで言った、「ま、いいじゃないか。アラブにこういう諺がある、覚えておくんだな。《犬は吠える、がキャラヴァンは進む》」
(『ローカル・カラー/観察記録』 トルーマン・カポーティ 小田島雄志 訳 早川書房 s63)
序文から。二月末、シチリアの春の描写。カポーティの静かな観察者としての視点。賢明な老いたる禿鷹とは以下に。アーモンドの花の香りを、いつか知りたい。シチリアの海の色も。
その老人はアンドレ・ジッドであった、二人は護岸に腰をおろし、揺れ動く青い炎のような古代の海を見おろしていた。
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