2009年11月12日木曜日

サハリン島へ        興梠 隆

 先月10月に4日間という短い日程ではあったが、サハリン島へ行ってきた。 そもそもは、6月1~4日の日程で行く予定だったのだが、ゴールデンウイーク前後の豚インフルエンザ騒ぎで勤め先が公私共に海外渡航の自粛を要請したため、見送りになってしまった。

 結局、その期間のスケジュールが空いてしまったので、当初は参加しない予定だった北九州でのイベントの手伝いに行くことになった。 

 イベント開催の前夜、20時20分羽田発の飛行機に搭乗。先週発売された村上春樹の『1Q84~BOOK1』を読み始める。真向かいの座席のキャビン・アテンダントさんに「もう手に入れたんですか、うらやましいです」と話しかけられる。当初の新潮社の告知では5月30日土曜日の発売となっていたのだが、実際には27日の水曜日頃には店頭に並んでおり、僕はその日に購入したが、週末には既に二巻本の上巻の方は売り切れ状態になっていた。

 22時過ぎ、北九州空港着。最終便だというのに空港内に結構な人の数。

 タクシーに乗り、宿泊先のホテルに向かう。この時間でも空港が賑やかですね、と運転手さんに聞いてみる。運転手さんの話では、今日の夕方くらいに山口県秋吉台のホテルで集団の一酸化炭素中毒事件が発生したらしい。夜の遅い時間帯に飛行機が着陸できる最寄りの空港は海上のここだけなので、報道関係者が集まってきているのではないか、ということだった。事件なのか事故なのか、ふと昔のサリン事件のことが頭をよぎる。 

 22時40分、門司港のホテル入り。イベント開催地である小倉に泊まれば翌日の行動も楽なのだが、アルド・ロッシが設計した門司港ホテルが昔から好きで、スケジュールに無理がない限り北九州に来る機会には努めて門司港に泊まることにしている。

 翌朝6時起床。仕事の集合時間までは、時間の余裕があるので、しばらく散歩することにする。門司港周辺は、「門司港レトロ」と称してたくさんの洋館建築を観光の目玉にしているが、洋館の類は、横浜でも神戸でもどこでも港町に行けば大抵似たようなものである、さほど興味がない。ただ旧三井物産門司支店ビルだけは別。同型の窓が上下左右均等に並ぶとても単純なパターン構成を持つビルで、正面に立って見上げると、昔のDCコミックの登場人物になったような気がする。 

 ホテルのフロントに置いてあった観光マップを眺めると、地図の一番右上の隅に和布刈神社というのがあるのに気づく。確か歳時記に和布刈神事という項目があったのを思い出す。これでも俳人の端くれ、こういう場所は押さえるべしということで、行ってみることにした。 

 平日の早朝、曇り空。観光港のあたりを過ぎて関門海峡沿いの遊歩道なりに15分ほど歩く。すれ違う人はいない。このあたりは、関門海峡の中でももっとも狭く流れが速いところで早鞆の瀬戸(はやとものせと)というらしい。関門橋を越えたところに和布刈神社があった。 

 門構えは立派だが、社殿は思いの外小さい。社務所もまだ誰もいない。社殿の左側に関門海峡の海へ下る階段がある。大晦日の夜、三人の神官が松明、手桶、鎌を持って海に入り、海岸でワカメを刈り採って供えるのが「和布刈神事」云々との説明書きがある。

 海へ下りる階段の手前のところに虚子の小さな句碑を発見。

  夏潮の今退く平家亡ぶ時も      虚子

 1185年、壇ノ浦の合戦。潮の流れが急変したことで形勢が逆転し、平家一門は滅亡。虚子がこの場所を訪れたのは1941年6月。7世紀を経てもおそらく変わることのない夏潮を介して一句の中に詠み込まれた、いまという時間のこの場所と7世紀以上前の平家滅びの瞬間の同じ場所。いい句だと思う。 

 まだ門司港駅発電車まではしばらく間がある。時間つぶしに海岸沿いのベンチで『1Q84』の続きを読む。BOOK1の終わりまではあと少し。 

 2枚ほどページをめくると、突然登場人物の一人が『平家物語』の壇ノ浦の合戦、安徳天皇入水の部分を暗唱し始めた。「・・・浪の下にも都のさぶらふぞ・・・」舞台となった関門海峡がいま目の前にある。 さらにページをめくると、今度は主人公がチェーホフの『サハリン島』の一節を朗読し始めた。

 1984年の世界と1Q84年という別のもうひとつの世界。1Q84年の世界で語られる1185年の壇ノ浦と1890年のサハリン島の本当にあった話。インフルエンザが突然変異することもなく、もしパンデミックが起こらなければ、自分がいまいたであろうサハリン島と、1Q84年の物語を読んでいるいまのこの場所。 

 急に雨が降り始めた。本を閉じて関門橋の下に走り込む。雨宿りをするのに橋の長さと横幅は十分だと思った。が、その橋桁はあまりにも高すぎた。雨は避けられそうにもない。 

  さみだれをしのぐに高し関門橋      隆














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