2011年10月21日金曜日

  ― 南と北、西と東 ―

 



  プロペラを磨き続けし夜業かな      青山茂根

  道つけてゆく月光の凪のなか

  台風が魔物のひとつだとしても 

  銀漢のごとくに壁のありしこと

  空に浮標地に秋草の生ふ穴よ


2011年10月14日金曜日

 ― 『壜』の明滅 ―

 

 高木佳子氏の個人歌誌『壜』第三号から。


  南へ向かふ列車を想つてほしい、青い列車は叫びごゑで満員だ   高木佳子


  ぢやあこれで決めやうといひボケットゆ取り出さるる一つの銀貨


  逃げないんですかどうして?下唇を噛む(ふりをする)世界中が炎昼


  やはらかく熟れてゆきたる鳳梨<あななす>よ汚れてゐるのはにんげんなのだ


 「kyrie eleison」と題された高木佳子氏の14首。その次に置かれた論考「震災と表現」を読み、また14首の歌へ戻ると、現実の生活からの言葉のなかに、(Jヴィレッジ)(『フラガール』)など、作者の居住するいわき市のモチーフの断片が埋め込まれ、31文字の中で明滅する光を放っているのがわかる。(一つの銀貨)はサッカーの試合前の儀式であり、今は、もうその地では見られない光景。(鳳梨)は、『フラガール』の舞台、いわき湯本温泉郷を想起させ、そこが現在は、通常と異なった盛況を見せていることを。一連の歌のなかで、非常ボタンの赤いランプの点滅のように。


 …もちろん、テロと今回の震災とは異なるが、十年経っても良識や善意が表現を抑制するような図式は何も変わってはいないのだと思う。(中略)
 題材に真向かって歌を詠おうとすることは、言い換えればそれは鏡のなかの自分を見つめる行為でもあり、そのときの一瞬における裸の自分なのだ。更に言えば、詠うことは思想・信条や善悪を取り去った部分の、人間の本性をあからさまに暴くことなのだと思う。
   (論考 「震災と表現」 高木佳子 『壜』第三号 2011、10)

 前北かおる氏の句集『ラフマニノフ』は、作者の身近な人々の序文、挿絵が収められ、あとがきも作者の個人的な身辺の報告から始まる。句の初読のさいに、作者の個人情報が与えられるべきかどうか、疑問といえば疑問だが、そもそも前書きが全ての句につけられているのだから、これはそうした作りとして読むべきなのだろう。最も、前書きがすべてフィクションとして挿入される場合もあるのだが、この句集の場合はそうではないようだ。シンプルながら、作者の趣味性を前面に出した装丁は、好ましく映った。

  蚊柱も昔のままの母校かな     前北かおる

  子供等の吉野ことばのあたたかく

  かはるがはるキッチンに立ち長き夜を

  フェレットが腕よりこぼれたんぽぽ黄

  菜の花の雪のさ中の黄なりけり
      (『ラフマニノフ』 前北かおる ふらんす堂 2011)

 日常の喜びと幸福感に占められた、これらの句に触れながら(しかしこの時代は大体の人々にとって人生の一番幸福な時期でもあるのだろう)、そのはるか向こうにいる、たくさんの人々を思っていた。地震や津波や、その後の事故によって、家族や周囲の人々を、家を職を失い、故郷を追われるかに離れ、窮屈ななかに暮らす沢山の人々。その何万人もの人々が持っていた、この句集に描かれているような幸福な日々の数々を。