2010年7月27日火曜日

何かいいことあったらいいな

(承前)
気の早い話になってしまうのだが『ゲゲゲの女房』以降、何期かのNHK朝ドラを担当する人たちは『ゲゲゲの女房』に比べて視聴率が低いことを問題にされて辛い思いをするのが目に見えているので今からなんとなく気の毒なように思います(それにしてもいつになったら『化物語』になるのやら)。
そもそもNHKが視聴率を気にするのがなんか変だ。
それに視聴率なんてもともとサンプル数が少なすぎて統計的にアテになるか怪しい上に、最近は番組を留守録して見る層が主流になってきているようなのでさらに意味がない数字になっているような気がする。
だいたいTV視聴率を一般の視聴者に知らせる意味なんてあるんだろうか。この数字は広告業界内部でだけで流通すれば充分な数字だと思えるのだが。
そういえばデジタル放送オンリーになったら視聴率どころか視聴端末台数の算出だって可能なはずだけど、まさかその台数を一般に公表したりしないだろうに。まさに自分で自分の首をしめることになりかねない。

閑話休題。ヱヴァ破では気になることが多かったのは言うまでもないのだけど、特に気になったのは母親の不在(全然話が戻っていない)。具体的には赤木ナオコや惣流・キョウコ・ツェッペリンが無かったことになっている点。父親の不在というのは扱われすぎた感の強い材料だが、あのEVAで母親の不在というのはちょっこし気になる……、でもこの話だと長くなりそうだから日を改めて。

まあ今回久しぶりにhaiku&meに投稿しようと思ったのは要するに『化物語』の最終話のWEB配信が始まり、ついにBD/DVD最終巻が発売されそうで目出度いと言いたくなったのがきっかけなわけです。
何しろ、当初の発売予定日→2010年3月24日→2010年6月9日→2010年7月28日にと、実に三回もの大胆な発売延期を見ているのでずっと無事発売されるのかと不安を胸に秘めていたのでした。

日本のTVアニメBD/DVDというのは実質30分x2程度のコンテンツで6キロ円も7キロ円してしまうというとんでもない価格の商品で普通の精神状態の人間なら決して購入する気になれないものだ。
それでも私が『化物語』DVDを買ってしまうのは本編の作画の面白さや主題歌CDが付いてくることも助けになっているとは言えないことないかもしれないが、結局は原作者自身が書き下ろしているDVDの副音声に尽きるように思う。いわば西尾維新の新作未発表のセルフパロディがBD/DVD発売毎いきなりラジオドラマの形式で提供されるわけだ。本編も面白いが、この副音声がひどく面白い。
小説を書くとき普通(少なくとも私の場合だと)例えば100枚程度の小説だったら100枚程度の捨てた台詞とか裏設定とは生じるものなので、小説書きにとってセルフパロディというのは改めて考えるまでもなく材料にはあまり事欠かなかったりする。それでもこの副音声の台本は作者が出来上がった映像を実際に見ながら本当にうれしそうに(時には驚嘆しながら)書き進んでいることがうかがえるものなので、聴いていてなんとも楽しい。

羽川/戦場ヶ原の回なんか、表面的にはふたりともおとなしいのに明らかに水面下での火を噴くような緊張関係が感じられるあたり秀逸。
『化物語』のヒロイン五人(一応ファイヤーシスターズと忍を除く)のラインナップの見事さにはすでに定評があるけど、私は神原駿河が一番気になる。「私はそこそこ可愛いと思うのだ!」という台詞にはしびれました。もし長い生涯一度でもこういうことを言う女の子に出会っていたらさすがの私でもあらゆる手段に訴えてなにがなんでもお付き合い願ったような気がする。そうすれば「彼女いない歴=年齢」なんて誹りを免れることができたのだろうか。
それにしても神原駿河って属性過多。スポーツ少女で露出狂でレズで腐女子で礼儀正しく失礼でマゾでネコで片付けられない女な上に猿って同人誌のネタつぶしなのかネタ提供なのかよくわからん。
でももしかして十代の読者相手には、これぐらい過剰に描かないといけないのかなあ。

まあ私は「心に乙女を飼っている俳人」なので「つまり、阿良々木くんみたいなイカサナイ童貞野郎と話してくれる女の子なんてせいぜい私のような行き遅れのメンヘル処女しかいないということよ」という戦場ヶ原の台詞も素敵だと思いますが。
そういえばTV放映の最終回(第12話)は今時どうかと思えるくらいオトメチックだった。BD/DVD第五巻の副音声で羽川が「この後の私のエピソード必要なのかしら」とつい漏らしてしまうくらいのものでした。
そうは言っても第13話のWEB配信開始時、世界中のオタクの同時多発的大騒ぎにも忘れがたいモノが。パジャマでネコ耳だし(……しかも眼鏡)。

ええ、そうですとも、「阿良々木さんはちっとも悪くありません」(c)八九寺。

しかしやはりここでは声を大にして諸君に言っておきたい。でかけりゃいいという訳じゃないだろ。だいたい、「たふんたふん」って何だよ。大きさなんてまったく重要じゃない。別に大きくたって、重くて邪魔になるだけで何の役にも立たないんだぞ、全然。って一体私は誰のために戦っているんだ?

ネット上の反応を見ていると続編のアニメ化の希望は多数あるようだけど、私はあんまり期待していない。『偽物語』あたり忍野メメが登場しないせいが大きいのかもしれないけど、何か水で薄すまっているような印象だし。『傷物語』は見てみたいような気がしない訳ではないけど。
でもアニプレックスの営業担当者が「大変なものが出来てしまいました」と放映前に関係者に見せて回ったと言われている『ひたぎクラブ』初回ほどのインパクトを期待するのはやっぱり贅沢なような気がする。
だいたい最近シャフト仕事もって行き過ぎだし。

すいません、今回も「メメxラギ」の話になりませんでした。ごめんなさい(でも、次回に続くというのはもうありません、たぶん)

おとめ座の少年多情竹の秋
  上野葉月

2010年7月26日月曜日

summer in the city

俳句関係の作業やら締切やらが一段落したとたん、夏風邪を引いた。この感じ、ひさしぶりだ。「暑い」のか「熱い」のか、わからない感じ。この「だるさ」はどっちなんだ。冷房の部屋に入ると寒い。設定温度を29度に上げても、寒さにふるえてようやく風邪だとわかる。土曜は昼間寝ていて夜に起きだし、熱をはかったら38度を超えていた。しかし食欲は減退せず、そうめん二人前にシーフードサラダ、食後にテレビでやっていた『デス・ノート』三部作観ながらポテトチップス一袋食う。しかしだるい。あつい。さむい。

夏の音楽というと、ボサノヴァとかレゲエとかビーチやバカンス音楽だったりするのだけど、街の夏の歌も捨てがたい。映画だとエリック・ロメールの『獅子座』が思い浮かぶ。あのパリの暑さはすごい。生々しく、生き生きと、夏のパリがフィルムに閉じ込められている。いつ観ても新鮮に、暑い。

音楽では、その名のとおり、ラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティ」が先ず挙げられる。歌詞もそのまんまなところがいい。『ダイ・ハード3』のオープニングで効果的に使われていたのが印象的だった。ちなみにテレビ放映時のジョン・マクレーンの吹き替え、どうにかならんか。「ふぇ〜!」「うぇ〜!」と喘ぎまくって、おもしろすぎるぞ。映画で使われたといえば、ヴェンダースの映画『都市の夏』もある。タイトルもそのまんま。しかし、この映画の副題は「キンクスに捧ぐ」となっていて、なぜタイトルがラヴィン・スプーンフルなのか、キンクスの曲名にすればいいのにとも思うが、このひねくれた感じがキンクスに捧げるのにはふさわしい。

そのキンクスでは、ヴェンダースの映画では使われていないけれど、やはり「サニー・アフタヌーン」だろう。相続税をがっつり取られて家屋敷だけ残った英国貴族のぼやきが延々と歌われている。「サマー・イン・ザ・シティ」にしても「サニー・アフタヌーン」にしても、ほんとけだるい。あまりに「都市の夏」すぎて、この猛暑の中で聴きたくない。

というわけかどうかわからんが、「サニー・アフタヌーン」のプロモビデオは、雪の中で、コートにタートルネック、マフラー姿で演奏されている。ただたんにひねくれているだけだが。「夏の晴れた午後をだらだら過ごすのさ」と、悴んだ手をさすり、白い息を吹きかけたりしながら歌うレイ・デイヴィスの鼻声は、永遠に治らない夏風邪のようだ。



畳の目無数寝冷のわがほとり  榮 猿丸


2010年7月20日火曜日

何かいいことでもあったのかい

『ゲゲゲの女房』でナレーションを担当しているヒロインの祖母役の野際陽子が時折ちょっこし画面に映ると「月影先生!!!」と思わず叫んでしまうのは私だけではないはず(断言!)。

梅雨もまだ明けずなんとなく体力の消耗が気になるこの頃ですが、相変わらずipconfig/renewだったりnet use z:
\\honyala\laだったりして、リニアなというか一次元な生活を送っている葉月です。一方ナウっちいヤングアダルトな皆さんはきっとiPadで真希波を描く練習したりする二次元な生活を送っておられるのではないでしょうか?

今や旧聞に属するので恐縮ではありますが、ヱヴァ破のDVD or BDなんですけど、初日で合計31.9万枚って凄かった。しかも初日と言いながら発売日前日だったりするし。
最初のTVシリーズから壱拾余年、その間、旧劇場版、少年エースの貞本版漫画、育成ゲーム、数多の同人系二次創作、果てはパチスロまで、無数のバージョンの大波小波に洗われた末の新劇場版なんだから、それはそれで面白くなかったらそれこそ詐欺のようなものなのだが、それにしても紛れもなく面白い。校舎の屋上で眼鏡を探す真希波に、いい歳して私だって何かに目覚めそうになってしまうぐらいで。でも初日で31.9万枚ってやっぱり売れすぎ。
昨年、『化物語』BD初動が4万枚で大騒ぎになったのが、まるで一夜の夢のようでした。TVアニメと劇場版を単純に比較するわけにはいかないのはもちろんなのだけど、まったくもって返す返すもヱヴァンゲリヲンの強さを見せつけられたのは否定しようもないです、はい。

TVアニメと云えば『Working!!』無事(?)ワンクールで終了しました。ヤングガンガンで人気連載を長年続けていた印象が強いのだけど、さすがにアニメ化されるとネット上で二次創作が一気に増加。
それで気付いたのだけど、相馬くんってけっこう人気キャラだったりするんだ。佐藤x相馬というカップリングは以前からよく見かけたものだけど、今回はそういうのとは別のタンタティヴというか何というか。女性イラストレータに顕著なような気がするのだけど、山田(仮)に感情移入した上で相馬くんを兄のように慕いたいという傾向が散見されるように思われます。
「ウザ可愛い」という新ジャンル(?)を開発した山田(仮)は私も高く評価したいのですが、それにしても長年原作を読んでいても、そういう山田(仮)経由相馬行きという視点による読みにはまったく気付かなかった。

いわゆる句女子の行動、たとえば二物衝撃(ギャップでドッキリ♪
彼のハートを狙い撃ち!)みたいなものはそれなりにトレース可能なように感じていたのです(はっきり言ってそれも迷妄です)が、F音で始まる女子の皆さんの発想って本当に大胆でとてもついて行けそうもない自分がいます。
ところで『Working!!』長期連載のような気がしていたのですが、まだ単行本は七巻しか出版されていないんですね。
世の中、四コマ漫画が溢れているけど、四コマで食っていける人っているのだろうか。あんなペースでしか単行本が出ないのなら余程の人気タイトルでも印税は限られるから、たいていの人は漫画だけで食えているとは思えない。なんか別の収入でやりくりしているのか。外資系企業のシステム管理者とか。……、まさかな。

しまった。『化物語』の話をするつもりだった(といってもメメxラギの話にしようと思ったわけではない)のに『化物語』の話にならなかった。
うーん、次回に続く(続いてしまった)。

惜しみなく五月十七日の烏賊  上野葉月

2010年7月19日月曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(11)

Twitter読書会『新撰21』 
第十一回「冨田拓也+横井理恵」

「haiku&me」主催のTwitter読書会『新撰21』は次回が第十一回。いよいよ折り返しです。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。

第十一回は冨田拓也さんの作品「八衢」と、横井理恵さんの小論「伏流水の滋味」を取り上げます。

「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)

また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。

■第十一回開催日時:2010/7/24(土)22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

■お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

■参考情報ほか:
・第一回読書会のまとめ
・第二回読書会のまとめ
・第三回読書会のまとめ
・第四回読書会のまとめ
・第五回読書会のまとめ
・第六回読書会のまとめ
・第七回読書会のまとめ
・第八回読書会のまとめ
・第九回読書会のまとめ
・第十回読書会のまとめ

新撰21情報(邑書林)

・『新撰21』のご購入はこちらから

2010年7月16日金曜日

 ― モアイの影 ―

 その朝見上げた飛行船と、足元に転がってきたおもちゃのラグビーボール。W杯での国歌斉唱するチリの選手たちの横顔に、その斜めの光線の影とともにモアイ像を見てしまったこと。会田誠の絵画「ジューサーミキサー」に、大正時代の日本画家甲斐庄楠音の「畜生塚」が、画面のはるか奥深くから現れて近づいてきたり。全く異なる平面上にある二つの事柄が、あるとき不意に交錯し像を結ぶことがある。多くは、一瞬の他愛もない閃きに過ぎないのだが。 (モアイ像を建てたのは、ポリネシア系の原住民らしく、南米チリの住民もネイティブ・アメリカン系とポリネシア系が混ざり合っているという。また、イースター島とヨハネスブルグ、ブルームフォンテーンは南緯が26~29度の間に存在するので、太陽光線による影の出方も似ているかもしれない。会田誠は、別の「犬」シリーズについてであるが、つぎのように語っている。「僕がこの<犬>シリーズで狙ったのは、大正期あたりの日本画の<美人画>が秘めていたような、繊細で柔弱でどこか楽天的な変態趣味を、濃縮して抽出することでした。」『孤独な惑星』より・・・展覧会でのパンフレットより抜粋

 話題になった『1Q84』を、まだ読んでいないのだが(実はこの著者の翻訳物ばかりを手にとってしまって、小説のほうはほとんど読めていない)、そういえば、1984年は、晩年はアルコールと薬物依存を繰り返したトルーマン・カポーティの亡くなった年だった。著者村上春樹氏は、カポーティの美しい文体に影響を受けている、といった内容をどこかで書いていたのだが、それが、翻訳本のあとがきのどれであったか、探し当てられない。もちろん、ウィキペディアには、オーウェルの『1984年』を土台にした小説の構想が執筆の動機とインタビューに答えている旨が記されているので、それが第一義の理由であるのだろう。しかし、思考とは、様々な要因が縒り合わせられて出来ているものだ。或る一年とは、自分が影響を受けた誰かの死とともに、長く記憶される。といっても、もうこれは既に誰かが言っていることかもしれないし、ただの偶然に過ぎないのかもしれない。それでも、少なくとも私にとっては、1984年という数字が、カポーティと、1Q84という暗号とともに、これから思い起こされることとなる。


  今宵すべての冷蔵庫を降らせよ     青山茂根

2010年7月15日木曜日

森林浴(その二)   広渡敬雄

みづならの影の明るき山開き       広渡敬雄

青葉が山々を覆う六月中旬、奥多摩の主峰雲取山に隣接し、石楠花が満開の飛龍山に出かけた。奥多摩から奥秩父にかけての山域は日本有数の石楠花のメッカであり、飛龍山山頂付近の石楠花の群生は殊に圧巻。
但し、山梨県丹波山村の集落から標高差1300m近くを登らなくてはならず、かなりの健脚コースでもある。
伊豆の天城山、奥秩父の西沢渓谷の石楠花はハイカーでも気楽に行けるので、開花期は大変な混雑となるが、この山域は、静かに石楠花の群生に浸れる。
 八王子インターを過ぎ圏央道に入り、日の出ICで下車し、青梅から多摩川に沿って遡上する。
 何年か前、「青梅マラソン」で青梅から川井駅先(東川井)の折返しを走ったコースなので、不思議と風景が鮮明に記憶に残っていて、感慨深い。
懐かしい小澤酒造を過ぎる。
銘酒「澤の井」は、奥多摩の森林が育む清冽で美味しい水から生まれるものと改めて感じられるほど、周辺の山々は溢れんばかりの青葉であった。

 東京は西に山なす新酒かな
この句は、「澤の井」を意識して以前に作った句だ。
東京の水瓶である奥多摩湖で一服する。湖面は流木もなく穏やかで、湖を囲む万緑の山々を映している。
 しばらく走ると、山梨県丹波山村に入る。道沿いの斜面の畑には、ジャガイモの薄紫の花が広がり、葱、蒟蒻、蕨等が植えられている。
 東京都の水利権のある多摩川は、更に延々と奥秩父の笠取山(1953m)の頂上近くの水干(みずひ)源流地まで伸びているが、集落の手前から後山林道に入る。
 少し行くと片倉谷で通行止めとなっており、秘湯で有名な「三条の湯」までのんびりと林道を歩く。「熊注意」の標識がある。そう言えばさっきの山畑の垣も猪より熊対策のようで頑丈だった。
道端に夏薊が繁茂しており、けたたましく出迎えてくれるたのは、ほととぎす。
そう言えば「東京特許許可局」とも聞こえる。古来、和歌、俳句で多く詠まれているため、手練俳句の象徴の様な季題とされているが、緑溢れる森林でしか聞きなれないせいか、筆者にはいつも新鮮に耳に響いて来る。
奥多摩は古来からみづなら、ぶな、桂、栃、タブ等の大木が多く、新緑、万緑、紅葉、冠雪の四季のさまざまな景が楽しめる。
 後山川沿い林道が川床に近い所では、せせらぎの音が急に大きくなり、河鹿の美しい声も打ち消される程だ。河鹿の恋の季節もそろそろ終わりに近づいている。
 大きな黒揚羽がゆっくりと先の方に飛んでいったかと思うと、かすかに弱い硫黄の臭いが漂ってきて、自家発電の音が聞こえて来た。
 三条の湯だった。
源泉の温度が10cの沸かし湯のため、小屋の手前に薪が堆く積まれている。
標高1100m強の地味ながら著名な秘湯。
 既に宿泊客は、雲取山に向かったのか、窓を開け放って掃除する姿が見える。
湯にのんびり浸かりたい誘惑が起きたが、そのまま気が緩んで長居をしてしまうので立ち寄らずに飛龍山に向かう。
雲取山方面とは、逆の南西方面のサオラ(竿裏)峠を目指す。
蕗が繁茂したあたりからからまつの林が続く。からまつ林の道はその落葉が何十年、何百年と降り積もった腐葉土で弾力があり、足裏にやさしい。
枝がほぼ水平に広がる傾向があり、その細やかな束生の葉とあいまって音を奏でる様な趣きがある。殊に新緑、黄葉の折はそう感じる。
雪はもう消えている。今年は、四月まで雪が降ったうえ、寒冷な気候が続いたため、最近まで残雪があったとも聞いた。
みずならの大樹が見え始めるとサオラ峠だった。標高1300m少々。
だだっ広い平らな峠だ。丹波山の集落から直登してくる道もあり、祠がある。
このあたりはみずなら、岳樺、ぶなの大木も多く、森林浴の聖地みたいな感がする。
そのみずみずしい葉が初夏の陽光に透けて、顔に染み込むようだ。
こころの中までじわりじわりと広がって、満ち足りて行く。

みずならは綿虫の来る淋しい木
この句は、この地からそう遠くない多摩川源流の笠取山直下で、すっかり葉を落とした初冬のみずならの大木を見上げてふと口ずさむ様に生まれた句だった。
今、眼前のみずならの大木は、その青々とした葉が燦々と輝く太陽を丸ごと吸い込み、静かな鼓動のように発する酵素やかすかな香りがあたり周辺に漂い、大いなるセラピー効果があるように思う。
森林浴の醍醐味だろうか。(写真①)












その薬事的効果うんぬんより、やはり視覚的、皮膚感覚的なやすらぎが大きいのではなかろうか。
 年輪を重ねた大人たるみずならの生み出す豊かな木陰が広がるにつれ、更にその思いを強くする。
ほとんど、二抱え近い大樹は、悠然と太い幹を縦横に広げ、空も殆ど見えない。
静かだ!と思った途端、夏うぐいすの声が近くで聞こえた。
愛を鳴き交わしているのだ。
峠の南西の方から涼しい谷風が舞い上がって来て、心地よい。
春蝉も鳴いている。
緩やかな登り下りののち熊倉山に着く。三等三角点があり、1624m。
また、ほととぎすが鳴いている。
前飛龍山が見え始める。色鮮やかなミツバツツジが目に飛び込んで来る。(写真②)









丁度、急登が始まった場所でもあり、ほっと息をつく。目の休養をし、喉を潤す。
この急登を経て前飛龍山直下の岩峰に着く。ここは、雲取山、大菩薩峠方面の好展望地だが、ここから石楠花の大群生地が始まる。
まず、白っぽい石楠花。この山域に多い種とも言われている。(写真③)









前飛龍山を過ぎて鞍部に下るあたりは、文字通り全山石楠花一色。
淡紅色の石楠花が谷筋から湧きあがるように山全体を覆い圧巻だ。
その匂いのようなオーラを全身に浴びる。溜め息が出るような美しさ。(写真④)









幹も枝も縦横無尽の繁茂ぶりだ。
鞍部から登り直して、飛龍権現で縦走コースと遭遇するがそのまましばらく登ると
飛龍山山頂。のんびりと湯を沸かしコーヒーを飲む。
その芳しい香りが16cの爽快な頂上に広がる。
奥多摩の主峰雲取山に標高で優るものの展望もそれほどなく地味な山だ。
2077mの山頂標識と「山梨100名山」の標識がある。
日本100名山の東京都最高峰「雲取山」の喧騒と比べ物にならないくらいの静寂な山である。
復路も石楠花、ミツバツツジの群生を満喫しながら下る。(写真⑤)









標高1500mあたりから春蝉が聞こえ出す。生態上の標高があるのだろう。
サオラ峠近くの、みずなら、ぶなのプロムナードのような樹林帯は、まるで森林浴のメッカのような地点。心置きなくゆっくりと下った。
足裏にやさしい弾力のある落葉道で心地良かった。(写真⑥)












参考文献:日本の樹木―山渓カラー名鑑―(山と渓谷社)

写真(クリックで拡大表示):
  ①サオラ峠のみずならの大樹
  ②ミツバツツジ
  ③石楠花(白色)
  ④石楠花 (淡紅色)
  ⑤前飛龍山手前の岩峰から熊倉山、サオラ峠方面
  ⑥サオラ峠手前のみずなら、ぶな樹林

2010年7月9日金曜日

 ― フィクションの狭間 ―


 
 二つの映画を観た。ひとつはドキュメンタリー、もうひとつはフィクション。手法は違うが、それぞれに打ちのめされる、としか言えない。何かを伝える、ということについて、どちらも、考えさせられる映画だ。

 『ビルマVJ 消された革命』(2008 原題:BURMA VJ:REPORTER  I ET LUKKET LAND)は、長編ドキュメンタリー映画だが、ところどころ再現映像が挿入されている。この作品の公式サイトには以下のようにある。

 本作は、その映像の多くが現地に潜入したVJ(Video Journalistの略)たちによって実際に撮影された素材によって構成されている。また、いくつかの再現映像も使用されている。なぜなら、実名や地名、実際に起きた出来事の詳細を公表することは、関係者たちの身に危険を及ぼすことになりかねないからである。それらの再現映像は、実際の現場を直接体験した当事者たちとの緊密な協力関係によって撮影されたものである。

 つまり、この悲劇はまだ続いている。今も、ここに映っている犠牲となったジャーナリストのように、危険を顧みず、同じように映像を撮り続けている人々が、そこに存在するということを、この解説は語っている。その事実の前に、一部がフィクションであること、それがどの部分か、といった詮索は、平和な立ち位置から観る側の、傲慢さでしかない。そして、実際にこの映画の監督が語っていたのは、ある部分にフィクションを採用することで、より鮮明に伝わる事実がある、といった言葉だった。

 もうひとつの映画『闇の列車、光の旅』(2009 原題:SIN NOMBRE/WITHOUT NAME)は、日系移民3世の米国人監督による、フィクションである。監督自身が、実際の不法移民たちと貨車の吹きさらしの荷台に乗って旅をし、想を得て脚本を書いている。物語と知りながら、描き出される南米の現実に、観ている私は押しつぶされる。公式プログラムからの転載を禁じる、とあるので残念ながら引用することが出来ないのだが、「ドキュメンタリー風のリアリズム」を追求せず、「フィクションの叙情的時空を介在」することで、逆に真摯に伝わるものがあるということに、今更ながら、衝撃を受ける。実際に、本物のギャングメンバーを使って撮影しているシーンがあり、そこは自由に彼らに動いてもらった、と観終えた後に知っても、そういえばカメラが多少そのシーンはルーズだった、としか思い浮かばない。

 先日読んだ、以下の文章が、これらの映画とフラッシュバックしながら、頭の中を駆けめぐる。何かを描き出すということ、読みとること、文章であれ、映像であれ、その行為に関わる側の意識を、常に考えながら

 危ういことでもある。素朴な経験主義から生まれた歌に強く感銘を受けることは。少なくとも、ことばを表現の糧に選んだ者には、危うい。想像世界に意識を解き放ち、修辞の海から数多のことばを回収して鮮やかに構築する作業が、詩作の根本だろう。その作業を経ず、素朴なリアリズムのみに貫かれた作物は、別の次元で評価しなくてはならない。
 (『現代詩手帖』6月号 歌の周圏⑥ーゼロ年代短歌展望「わたしは人を殺しましたか」 田中綾氏の文章から )


 
  或る朝のプールに映りたる機影       青山茂根

2010年7月6日火曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(10)

Twitter読書会『新撰21』 
第十回「村上鞆彦+津川絵理子」

「haiku&me」主催のTwitter読書会『新撰21』第十回のお知らせです。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。

第十回は村上鞆彦さんの作品「水に消え」と、津川絵理子さんの小論「静かなる挑戦者」を取り上げます。

「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)

また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。

■第十回開催日時:2010/7/10(土)22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

■お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

■参考情報ほか:
・第一回読書会のまとめ
・第二回読書会のまとめ
・第三回読書会のまとめ
・第四回読書会のまとめ
・第五回読書会のまとめ
・第六回読書会のまとめ
・第七回読書会のまとめ
・第八回読書会のまとめ
・第九回読書会のまとめ

新撰21情報(邑書林)

・『新撰21』のご購入はこちらから

2010年7月5日月曜日

おほうなぎ

7月3日は「澤」創刊十周年俳句大会・祝賀会であった。第一部が句会と記念講演。二部が祝賀会。
記念講演は、
宗田安正氏「現代俳句史における『澤』」
正木ゆう子氏「恋とビニールの間」
筑紫磐井氏「〈伝統〉と二十一世紀俳句」
押野裕氏「澤十年の感想」
押野さんは「澤」の前編集長。澤のプリンス。
講演の採録含め、大会の特集は澤10月号で行う予定。

祝賀会は私が司会。会場が芸能人の結婚式みたいで、ビビる。盛りだくさんな内容で、「ご歓談タイム」が取れなく申し訳なし。だが、時間内に収まってほっとする。
しかし、大失態をやってしまった。新同人の紹介で、上田明成さんの句「観るものはみな生者なり大文字」の「大文字」を最初「おおもんじ」と読んでしまった。「あれ、だいもんじ?失礼しました!」という…。あの、言い訳ですけれど、「だいもんじ」わかってますよ、もちろん。でも、一瞬、わからなくなってしまった。これは二次会でいじられまくった。もうひとつ、松園子さんの「波留久佐乃皮斯米之刀斯【はるくさのはじめのとし】や難波恋ふ」の「難波」を「なんば」と読んでしまった。「なにわ」であった。句を事前に読み込んでませんでした。すみません。

で、祝賀会のなかで澤各賞の表彰もあったんですけれど、高橋睦郎、小林恭二、小澤實各氏が選考委員の第6回澤特別作品賞というのを今回受賞したんです、ぼく。とても光栄なんですが、司会が受賞者の自分を紹介するのって、おかしいでしょう。しかも表彰式とか受賞の挨拶もあるのに。と、シュサイに申し上げたら、「いや、ウケると思って」とおっしゃられる。ウケるか!「笑いを取ってくれ」くらいなことを言われる。できるか!
壇上で小澤主宰から表彰状と小屏風をいただく。林雅樹さんに花束をいただき、ハグ。林さんのお祝いの言葉、笑い取ってましたね。よかった。いや、そうじゃなくて、林さんらしい挨拶がうれしかったです。私はいただいた小屏風を披露し、そこに書いていただいた主宰の句を紹介する。「おほうなぎ元気雌雄も年齢も不詳」これもウケた。よかった。いや、笑い取るためじゃなくて、ほんとうに書いてほしかった句だったので。書いていただく句は受賞者がお願いできるんです。あとで間村俊一さんから、「おほうなぎ」の句にも感動したが、この句を選んだ猿丸も偉いと言われる。ありがたし。

大会で久し振りにお会いした方、はじめてお会いした方とお話しできるのが何よりうれしいのだけれど、司会だったもんで、時間がなくて残念。二次会はちょっと放心状態。三次会からエンジンかかる。で、五次会まで行ってしまった。五次会はさすがに三人だったが、私以外の二人は、「澤」の人ではない。これがうれしかった。「澤」の人でもないのに、楽しい、もっと飲もうと言ってくれる。いい会だと酒を酌み交わしてくれる。ほんとうにありがたし。空がすっかり明るくなった雨上がりの道をゆらゆら歩いて、帰宅。
特別作品賞の中から一句。

ダンススクール西日の窓に一字づつ  榮 猿丸