俳句の季語というものを考えるとき、ぼくの心にふと浮かぶのは、太宰治の「富嶽百景」の有名な一文、
「富士には月見草がよく似合う。」
これには有名なエピソードがある。この小説の舞台となった御坂峠辺りでは、じっさいは月見草はおろか、一般に月見草として認知されている待宵草も自生していないというものだ。これこそ、「言葉で世界をつくりあげる」という、見事な例だと思う。しかもたったワンフレーズで。
富士と月見草の対比、というより配合は、コードを逃れるための、俳句的にはある意味ベタな手法ではあるけれど、でも「ここには月見草は咲きませんよね」という事実の前に、俳人はこういう配合は避ける。ただ、月見草が、言葉で世界を再構成し、捏造するためのケミカル・ワードとして働いているわけで、どっちを取るか。この一文が、人口に膾炙した理由は知らないけれど、季語というものを考えるとき、ふと思い出すのだ。ぼく個人は、あまりこういう配合は好きではないけれど。
ひさしぶりに袋廻しをやる。一分で一句。瞬発力の無さを実感。3枚目か4枚目くらいからやっとエンジンかかる。そのとき作った句。
襟首に汚れ二すぢ百日紅 榮 猿丸
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