カンテッラとはかげろふの歓びに 青山茂根
鈴虫を連れ隊商(キャラバン)の最後の一人
ゆったりとしたリズムが心地よい。俳句は時間性の抹殺と言った大批評家がいるみたいですが、上の3句には溢れだすような時間の流れを感じます。「八月十五日」の句、太平洋戦争そのものではなくて、1980年ぐらいまではぎりぎり続いていた「戦後」の感覚がノスタルジアの対象になっていると(勝手に)共感して読ませていただきました。
零戦に尾鰭背鰭のありにけり 上野葉月
の句も、無機物を生物化しつつグロテスクにならない、ポスト「戦後」の造形ですね。最近、現代川柳にハマっているワタシとしては、「ありにけり」のところにもうひとひねりの〈悪意〉が欲しくなってしまいますが……。
すいかバー西瓜無果汁種はチョコ 榮 猿丸
穴開きしれんげや冷し担々麺
みごとなクロースアップ感覚で、すいかバー、冷し坦々麺のことしか言っていない(笑)。グルメブログに載った、ケータイ・カメラで撮った写真みたいでチープ(すんません、笑×2)。しかし、じつに旨そうです。すいかバーの種のプチプチはたまらんですねー。メタボ対策もばっちりです。
助手席の少女越しなる花野かな 浜いぶき
こちらはデジカメ的。少女と花野のどちらにピントがあっているのかが気になりますが、まあ花野だろうなあ。(少女に焦点が合ってるとしたら、運転してるのは野郎になりそうですね。だとすると「ちゃんと前向いて走れ」って突っこんでおきたい。)
赤姫に臓腑の無くて日傘かな 中村安伸
秋空の一点に吊る転害門
「赤姫」は歌舞伎に登場するお姫様役(赤い衣裳を着るから)、「転害門」は奈良・東大寺にある国宝の門、だそうですが、調べんと句だけでは分かりませんよ(調べれば分かる、と言われればその通り……)。もっとも鑑賞には、趣味性が高い言葉をねじこんで季語の支配を中和し、句をコトバとして読ませるというタクラミを見てとれれば、さほど問題なかろうと思います。「赤」い「姫」、「害」を「転」ずる「門」、まことに魅力的なコトバ。ここまでくると、句の中心は「臓腑の無くて」「一点に吊る」というツナギの部分にあり。俳句とはフィクションである!(というと言い過ぎ?)
haiku&me、各人の趣味性が全開で、じつに味わい深いです。これからの俳句のゆく道はここにあるような気も、しなくもないとはいえなくもないかと思われなくもないです。
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