2010年12月31日金曜日

 ― アンドロイドの眼 ― 

 

 『アンドロイド情歌』より。倉阪鬼一郎氏の第四句集。

  根雪その中心にあり赤い靴       倉阪鬼一郎

  さんたまありや草笛の唇の血よ       〃
   
  あれは眼球? 八月の凧を揺らし     〃

  菊師来て少しうごかすわたしの目    

  七日なれば儚きものとすれ違ふ      〃

  左右対称少し狂ひて春の闇        

  名づけることのやさしさすべて夏の星  

  鳥をさがす鳥籠のゆめ鳥籠に        〃

  さみだれのみだれてななめ ななめ あめ 

  手毬つくその塩の手で塩の手で       〃

  籐椅子の軋まぬ人と海を見る         〃

  天使みな死せるまなこやクリスマス      

 同人誌が届くと、いつも真っ先にその頁をさがしてしまう作家のひとり。その独特の世界観に、時間の感覚を忘れて魅了されてしまう。<怪奇小説をせんじつめれば俳句になる、すべての怪奇の道は俳句に通ず、というのがかつてのささやかな主張でした。> と「あとがき」には書かれている。その特有の言葉、リフレインと韻、一字空けの的確な使用。この句集から語彙を拾ってきて、俳句生成装置に入力すれば、果たしてアンドロイドが詠んだ句が出来上がるのだろうか。アンドロイド、女性の形をしたそれは、ICカード(チップカード)を背中から抜き出せば、それまでの全ての記憶を失って、また新たな記憶のカードを埋め込んだ男の意のままに。そんな風に句が詠めれば、と少し羨ましく。
 
 「鳥をさがす」や、「手毬つく」の句からは、共に句座を囲んでいたという攝津幸彦氏が偲ばれて、同時代の、同じ瞬間を共有したものだけが持つ眩しさを感じる。口承性にも、かなりの注意が払われている句が多く、それも攝津氏との接点かと思う

 日常のなりわいとしている散文では、いやおうなく書かざるをえないのですが、俳句はいかに「書かない」かをむねとしているつもりです。               (「あとがき」より)

 書こう描こうとしている俳句、確かに多いのだろう。自分もときにその穴に落ちてしまう。忘れがちなひとつを、新たな年へ向けてここに。

 この一年間、haiku&meにお付き合いくださりありがとうございました。来るべき年が、皆様にかけがえのない日々となりますよう。ゆっくりですが、また更新を続けていきたいと思っています。         青山茂根                           



  

2010年12月20日月曜日

嫌いなものを見つけたい

「笑っていいとも」のテレフォンショッキングのコーナーで、若いアイドルや女優がゲストのとき、タモリはかならず食べ物の話をする、という話は聞いたことがあったけれど、この前、それをはじめて観た。ほんとに食べ物の話をしていたことに、ちょっと感動した。

これといって共通の話題がないとき、食べ物の話は当たり障りがなく、しかも間が持つ。そればかりか、話が深まれば、その人の個性や性格、生き様まで浮き彫りになることもある。嵐山光三郎の『文人悪食』や『文人暴食』は、作家たちの食癖や嗜好を文献や古雑誌などから丹念に拾い上げ、それらをもとに作家の足跡をたどり、作品を読み直す、食癖から読み解く作家論、近現代文学史となっていて、すこぶる面白い本だが、ここまで行かなくとも、味の裏側にある思い出やエピソードなど、誰でも持っているものだろう。食の嗜好、「好き嫌い」とは、そういうところまで拡がっていくのである。ところが、ぼくは食べ物の好き嫌いがない。苦手なものもなければ、大好物というものもない。とうぜん、それにまつわる思い出もない。つまらない男なのである。

だいたい、好き嫌いという判断基準がわからない。旨いか、不味いか、なのではないか。「そばとうどんどっちが好き?」と聞かれても、不味い蕎麦(うどん)は嫌いだが、旨い蕎麦(うどん)は好きだ、ではないのか。もちろん、そこに食べる側の状況が加味されれば別だが。という話をすると、たいがい場はしらける。つまらない男なのである。

これではいけないと思い、真剣に考えてみた。好きな食べ物。ようやく頭に浮かんだのは、島らっきょうである。島らっきょうか。そうだ、大好きだ。いくらでも食べられる。しかし、一生懸命考えて、島らっきょうか。なんだろう、このさみしさは。

あまりにさみしいので、「好きな果物ベスト3」を考えてみる。考えてみた結果、ぼくの場合、1位「白桃」2位「梨」3位「キウイ」である。だからなんなのだろう。真剣に考えて、満足しているだけに、よけいに、だからなんなのだろう。よくわからなくなってきた。

一方、嫌いなものは、いくら考えても出てこない。「好き嫌いがない」というのは美徳のはずだ。そういうふうに教育されてきたはずだ。でも、なんだろう、「嫌いなもの」がないと、人として欠陥があるように感じてしまう。うすっぺらく、軽く感じてしまう。お前にはポリシーがないのか、自分というものはないのか、「嫌いなもの」がないなんて、どういう人生を送ってきたんだ、お前の人生には何もない、と言われているような気になる。困った。

というわけで、来年の目標は、「嫌いな食べ物を探す」にしようと思う。嫌いなものにめぐりあいたい。「俺これ嫌いなんだよなー」と言いたい。

もうすぐクリスマスだ。しかし、クリスマスの思い出も、とくにない。サンタクロースを何歳まで信じていたか、という話題も、苦手だ。

来年も、うすさ、かるさが売りの、榮猿丸をよろしくお願いします。

クリスマスリースに蜂や汝を訪へば  榮 猿丸

2010年12月18日土曜日

 『超新撰21』のお知らせ

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再度、掲載させて頂きます。

haiku&meよりお知らせです。

中村安伸の100句が掲載されていて昨年話題を呼んだ

『新撰21』の第二弾、

『セレクション俳人 プラス 超新撰21』

が発売になりました。

今回の『超新撰21』には、

haiku&meにゲスト参加して頂いた方々をはじめ、

榮猿丸の100句、青山茂根の100句も載っています。

21人の収録作家それぞれの100句への小論もあり、

巻末の座談会も今後の俳句の行方を示唆する、

大変興味深い内容となっています。

機会がありましたらお手にとっていただければと思います。

また、

この出版記念シンポジウムと竟宴も近日開催されますので、

よろしかったらどうぞご参加ください。

以下、『超新撰21』目次より。

どうぞよろしくお願い致します。


『セレクション俳人 プラス 超新撰21』

<降臨! 俳句の大人たち>

公募枠当選懸賞作品           小論
種田スガル  「ザ・ヘイブン」  
            髙山れおな-発狂と発情
小川楓子   「芹の部屋」           
            筑紫磐井 -稀代の歌姫を目指して
編者選考による収録作家         小論
大谷弘至   「極楽」       
            髙柳克弘 -時の彼方に
篠崎央子   「鴨の横顔」    
            中島信也 -央子のライフ感
田島健一   「記録しんじつ」  
            三宅やよい-スリリングな俳句
明隅礼子   「みづのほとり」  
            髙田正子 -健やかな水のしらべ
D.J.リンズィー 「涅槃の浪」     
            岸本尚穀 -多用さと単純さ
牛田修嗣   「千夜一夜」    
            庄田宏文 -主観の煌き
榮 猿丸    「バック・シート」  
           さいばら天気-外部から俳句の「内部」へ
小野裕三   「龍の仕組み」   
            小川楓子 -NEXT STAGE
山田耕司   「風袋抄」      
            四ッ谷龍 -自由と責任のあいだ
男波弘志   「印契集」      
            黒瀬珂瀾 -はじめに俳句ありき
青山茂根   「白きガルーダ」  
            山西雅子 -梟を閉じる
杉山久子   「光」         
            山根真矢 -杉山さんと歩く
佐藤成之   「光棲む国」     
            和合亮一-むき出しの魂を統べる中天の微笑よ
久野雅樹   「バベルの塔」   
            依光陽子 -久野雅樹はハジメちゃんか
小澤麻結   「花蜜柑」      
            藤永貴之 -健やかさへの願い
上田信治   「上と下」      
            佐藤文香 -上の人
小川軽舟   「ラララ」      
            関 悦史 -型に憑く醒めた物狂い
柴田千晶   「モンスター」  
            松本てふこ-誰かの性欲にまみれ続けて
清水かおり  「相似形」     
            堺谷真人 -ジャンルを超えた挑発

合評座談会 ・・・ 小澤實 筑紫磐井 対馬康子 髙山れおな

公募作品選考過程報告

あとがき

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2010年12月17日金曜日

 ― バラバラ ―


  短日の印度孔雀のうらにまはる     青山茂根 



 サンタクロースは、袋をふたつ持っているのだと信じていた。グリコのおまけのように、男の子用と女の子用の。25日を過ぎて、近所の男の子の家に行くと、なぜか増えている鉄道模型の車体や、パーツや、小さな緑の木。それがサンタクロースによるのか父母かおじいちゃんおばあちゃんからなのかは聞かなかったが、姉妹のみの自分の家にはついぞ届いたことのない贈り物だった。

 デパートのおもちゃ売り場へ連れて行ってもらうことがあると、まず、ガラスケースの中に恭しく並べられているジオラマのパーツのところへ向かう。磨かれたガラスに両手と鼻の頭をくっつけて、その微細に、精巧に作られた駅のベンチや、通勤客や、踏み切りの信号を眺めていたものだった。あれが欲しい、と言っても、これは鉄道模型に使うものだから、と諭されて、さあ、行こう、と手を引かれてしまう。小さいのにとても高いものだ、ということは子供心にも感じ取られて、それ以上ねだってぐずることも出来ずにその場を離れるのだった。

 大きくなって、家に子供という存在が増えると、一歳のクリスマスには真っ先に、自分が買いたくてたまらなかった、木のレールと電車のセットを置いた。ついにその日が来た!という感じである。それは女の子だったが。幼いころからの刷り込みは功をなすものか、電車でよく遊ぶので、またどんどん車両やパーツを増やしていく。いや、親が嬉々として遊んでいるから真似をしただけか。ものが増えていくから遊ぶようになるのか、ベビーカーに載せると下を覗き込んでばかりいる子供だったせいかもしれない。いったい何を、そんなに危なっかしいほど頭を出してじっと見ているのか、と思うと、ベビーカーについている車輪だった。車輪の回転が興味を引くものらしく、出かけている間中、飽かずそれを眺める。しかし、わりとその手の子供はよくいるようで、丸い輪と、回転運動、が脳のどこかに訴えかけるのか、などと空に弧を描いている観覧車を見て思う。  

 その次に男の子が家に登場すると、自分の欲しい願望に拍車がかかり、ネットで専門店を検索したりオークションに手を出してさらに次々と車両やらレールや方向転換器や駅や車庫が増えていった。もっともすべて木製のものとNゲージだけで、もう少し大きくなったらゆくゆくは鉄道模型を揃えていくのだ、と一人でわくわくしていた。しかし、男の子というのは、破壊と分解のためにある生き物だったのだ(そうでない子もいて羨ましい)。ある日気づくと、ミニカーの車輪を外してどっかにやってしまっていて、がーん!だった。それからはもう止める間もなく、ちょっと静かにしているなと安心していると、トラックの荷台は外す、はしご車のはしごはばらばら、オルゴールの取れるパーツはすべて消えている、といった具合だ。組み立て直せば、と思うと、すでにうっかり自分が掃除機で車輪を吸ってしまったりしたあとだったりして、目覚まし時計や懐中電灯など、ばらばらにされて困るものは手の届かない高いところにおくしかないのだった。

 さすがに近頃は、黙って分解するということはなくなり(まあそのたびに私が怒ったからだろう)、壊れたり点かなくなったノベルティもののライトやブザー、腕時計などを見つけると、もらっていい?と一応聞くようになった。まあこれならいいか、と許可を与えると、嬉しそうにばらばらにして、また組み直したりしているのだが、元どおりには絶対にならない。元どおりになるのなら、そろそろ鉄道模型も、と思いながら、もう何年も経つ。

2010年12月15日水曜日

来た!見た!勝った(何に?)

ごきげんよう。スカートのプリーツは決して乱さない俳人葉月です。

コンビニエンスストアに入ると年賀葉書が目に付く季節になりましたが皆さん如何お過ごしでしょうか。今年もやり残したことばかり、なんてことを私なんぞはつい考えてしまいます。
おそらく死に際になってもやり残したことばかりとか思ったりするんでしょう、私の場合。でも、せめて集中治療室で死ぬのだけは避けたい。世の中、孤独死を問題視する傾向がもしかしたらあるのかもしれないけど、あんな24時間明るくてやかましい場所でチューブだらけになって死ぬくらいなら、孤独死の方がよっぽどマシじゃないだろうか。
それにしても生まれ変わったところでまた同じように後悔の多い人生を送るかと思うと今からウンザリである。まだ始まってもいないことを思い煩う辺りが私の駄目なところか。
ところで悟りを得ない限り「無限に」輪廻転生を繰り返すとしたら、どんな生命も最終的には「必ず」涅槃に至ると考えることは仏教的に(社会思想的に?)はともかく数学的に意味があるのだろうか。

そんな訳で『マリア様がみてる』実写映画のこと。何故「そんな訳」なのかと言うと『お釈迦様もみてる』からの連想というだけの話なのだが。
正直なところ自分でも見に行くとは思っていなかった。なにしろあれほどSense of
Wonderが散りばめられSFマインド横溢の作品をアニメ化するだけでもぎりぎり崖っぷちな感じなのにまして実写映画化なんて何考えているのだろうってなものである。
実写版『デビルマン』みたいに日本映画史上に残る愚作ぐらいの評判が立てばもちろん見に行くつもりではいた。
撮影期間が実質一週間程度だったという話も聞いていたので、単なるやっつけ仕事的な映画だろうと予想していた。実写版『キャッツアイ』のように中途半端な駄作ぐらいな印象になるのではないかと。

映画が公開されてすぐWEBで頻繁に評判を目にするようになった。ごく普通にWEBにアクセスしているとどんどん『マリア様がみてる』情報が入ってくる(いやそれはごく普通じゃないから。でも元来WEB上には『マリア様がみてる』情報が大量に出回っている。二次創作・パロディの類の量と云ったら歴代のその手のものが多いので有名な人気作『キャプテン翼』や『テニヌの王子様』を遙かに凌駕しているのではないか。単に人気があるというより極端に愛されている作品である。原作を一度でも読むとどうしてもユニラテラルな「衝撃のスール宣言!」という暴挙に出た上にロザリオの授受を行ってしまうらしい(当社比))。たいていの人は恐る恐る見に行ったけどけっこう良かったという感じ。

なかには祐巳役の役者さんが素で下手なのか役作りの結果ああなっているのかさっぱりわからず何度も映画館に足を運んでしまう人も出ているとか。何度も映画館に足を運んでしまっても結局結論が出ないので、もしかしたらあれは「千の仮面を持つ少女!」なのではないかとも。
「千の仮面を持つ少女!」と聞いてもう居ても立ってもいられず勤め帰りに新宿三丁目で見てしまいました、レイトショー1200円。

面白い。1200円分くらいは絶対に楽しめます。特に祥子と祐巳が体育館でダンス(の練習を)する場面はアニメ版なんかより遙かに良い。映画っていいなあ。祐巳役の未来穂香は確かティーンズ誌のモデル出身だったはずなのだがなんとなく他の役者さん達に比べてずんぐりしているところが良い。
それから藤堂志摩子。世界中の多くの人々と同じように私もまた能登声以外の藤堂志摩子というのはまったく想像できなかったというか積極的に拒絶反応が出るとばかり思っていたのだが高田里穂の演じる藤堂志摩子にまったく違和感を覚えなかった。そのうえ、”魔法少女シマコ”ネタもしっかりフォローしている。
だいたい所謂無印って写真部のエース蔦子さんの出番が多いのでわたし的にポイントが高めなんだよなこれが。

実際のところ私は原作を十回以上読んでいるので映画の内容を理解するのに苦労するはずもないし、滑舌が悪くて台詞が聞き取り難いところをスルーしていまう傾向もあったのだが、原作未読の人にとっては登場人物の名前を憶えることすらもしかしたら難しいかもしれない。
そういう点では観客を選ぶ映画である可能性が強い。しかし『仮面ライダーオーズ』ファン、『マリア様がみてる』原作ファンだったら見て損のない映画だと断言できる。

もう少し時間をかけて丁寧に撮ったらよくなるのにという場面は多い(というか満載なのだ)が、「惜しい」という気が全然しない不思議な映画。
結局、映画っていうのは監督次第なのだなという感慨に行き着く。同じ監督の『デメキング』や『口裂け女2』も是非見てみたいと思いました。

生物部顧問ガーターベルト冬  葉月


2010年12月10日金曜日

 ― 冬のドア ―



  苔の木へ枯野を渡りゆくところ     青山茂根


 どちらかというと、自動車より鉄道の旅を選んでしまうのは、そのたびに車酔いした幼い日の苦い、酸っぱい記憶(具体的ですみません)が頭のどこかに残っているからだろうか、成長するにつれて揺れや車中の臭いも平気になっていったのだが、今でも、素晴らしい山紅葉の情報などを検索しながらつい、そこに至る道の険しさを想像してしまう。う、という感じで。

 幼い日によく両親に連れて行かれたのは、蕎麦の生産地である大子町や花貫渓谷の辺りで、鄙びた店を訪ねて蕎麦を食べるのが父母の楽しみであったらしい。小さな滝のそばにある茶店で、客が来るたびに老夫婦が打つ蕎麦とか、今にして思えばなかなか味わえないものだったのだが、急カーブの狭い山道を車に揺られて到着し、ぐるぐるする胃と頭を抱えてやっと車外へ出、そこにあの、北関東特有の器の底がみえないほど濃い蕎麦つゆ、なんとか食べ終えても必ず帰りの車中で具合が悪くなるのだった。蕎麦と蕎麦つゆには非はないのだが。子供にはあの山道はハードだった。あの辺りの紅葉の素晴らしさを時折思うが、今年もまた訪れることが出来ないまま過ぎた。

 鉄道が走っていれば乗ってみたくなる性質で、このくらいの冬の時期に、以前あった東海道線終電大垣行きで関西方面まで旅したこともある。青春18きっぷの利用者にはよく知られたダイヤだ。普通電車なので、小田原辺りまでは酔っ払いの通勤客などが多いのだが、それを過ぎると次第に客が少なくなり、一人旅なので寝ないようにと思いながら、大垣で乗り継ぎついうとうとして目覚めると、米原あたりを電車は走っていて、窓の外は一面の雪だ。大阪で降りる頃には疲労感の一方で無性にハイな気分の、お尻の痛くなるような長旅ながら、不思議な充足感のある行程だった。

 先日、『地球の歩き方』に「ヨーロッパ鉄道の旅マニュアル」という本があるのを見つけ、手すさびにぱらぱらと読んでいる。もともとあまりこの手の本を利用しないし、自分がよく旅行していたころはこれは出ていなかった、そしてとりあえずどこに行く予定もないのだが。その日の気分で開いた頁を眺めて、ああ、これは乗ってないなあ、ここ行ったのに駅でお弁当買わなかったー残念、この寝台車体験したい!などと一人で盛り上がっている。実際に自分が乗ったのは、コペンハーゲンから郊外へ出る普通列車、ロンドンから郊外へ、アイルランド国鉄、フランスの誇るTGVでスペイン側の国境の町イルンへ、ラ・ロシェルへ、パリの地下鉄から伸びる郊外線、パリからスイス国内を経由してミラノへ到着する国際列車、スペイン国鉄のタルゴ、ブリュッセルからルクセンブルグへの国際列車、ICでミラノからフィレンツェ、ボローニャ、さらにベネチアまでの急行列車。しかし本を見ているとまだまだ、乗っていない鉄道があって、今すぐにでも行きたくなってしまう。 とにかく乗れるだけ乗る、というのではなく、沿線で降りて、知らない町を歩くのも楽しみなのだ。

 どの切符も、自分で駅に行って予約を取り、買った。英語が通じないことのほうがほとんどだが、鉄道の基本は各国共通だと思う。時刻表と、駅の大きなパタパタ変わる掲示板(今は電光式になっているものが多いか)と、路線図、そして実際の車両についている行き先表示板。それらを確認し、照らし合わせて、該当列車、乗車クラスと日時、行き先を指定すれば現地の言葉の単語を並べてでもなんとか乗車券を取って乗れるし、途中で間違えたことに気づいたら路線図の分岐点にある駅まで戻ればいい。どこの駅にも、鉄道にも、その土地の風景があるし、鉄道の旅のいいところは、乗り合わせた人たちを観察する面白さだ。そして特有の匂い。

 先月の終わりに、桐生へ紅葉を見に行ったときも、東武鉄道に乗るのが実は初めてで、今は静かな駅の佇まいに、往時の買い付けに来た商人たち、出迎え、見送る桐生の旦那衆たちや華やかな御姐さんたちのさんざめく様子を想像して、一人でわくわくわくわくしていた。もうひとつのJR両毛線のほうの、冬場は手で開けるという列車のドアも体験してみたかった。欧州の鉄道も、そうやって手で開ける電車が走っていた。今も地方へ行けば変わらないはずだ。ドアの前の乗客と、目で合図しあうその車内の一瞬の空気感は、冬場のほんのりとした温かな気持ちをもたらす。