2010年12月31日金曜日

 ― アンドロイドの眼 ― 

 

 『アンドロイド情歌』より。倉阪鬼一郎氏の第四句集。

  根雪その中心にあり赤い靴       倉阪鬼一郎

  さんたまありや草笛の唇の血よ       〃
   
  あれは眼球? 八月の凧を揺らし     〃

  菊師来て少しうごかすわたしの目    

  七日なれば儚きものとすれ違ふ      〃

  左右対称少し狂ひて春の闇        

  名づけることのやさしさすべて夏の星  

  鳥をさがす鳥籠のゆめ鳥籠に        〃

  さみだれのみだれてななめ ななめ あめ 

  手毬つくその塩の手で塩の手で       〃

  籐椅子の軋まぬ人と海を見る         〃

  天使みな死せるまなこやクリスマス      

 同人誌が届くと、いつも真っ先にその頁をさがしてしまう作家のひとり。その独特の世界観に、時間の感覚を忘れて魅了されてしまう。<怪奇小説をせんじつめれば俳句になる、すべての怪奇の道は俳句に通ず、というのがかつてのささやかな主張でした。> と「あとがき」には書かれている。その特有の言葉、リフレインと韻、一字空けの的確な使用。この句集から語彙を拾ってきて、俳句生成装置に入力すれば、果たしてアンドロイドが詠んだ句が出来上がるのだろうか。アンドロイド、女性の形をしたそれは、ICカード(チップカード)を背中から抜き出せば、それまでの全ての記憶を失って、また新たな記憶のカードを埋め込んだ男の意のままに。そんな風に句が詠めれば、と少し羨ましく。
 
 「鳥をさがす」や、「手毬つく」の句からは、共に句座を囲んでいたという攝津幸彦氏が偲ばれて、同時代の、同じ瞬間を共有したものだけが持つ眩しさを感じる。口承性にも、かなりの注意が払われている句が多く、それも攝津氏との接点かと思う

 日常のなりわいとしている散文では、いやおうなく書かざるをえないのですが、俳句はいかに「書かない」かをむねとしているつもりです。               (「あとがき」より)

 書こう描こうとしている俳句、確かに多いのだろう。自分もときにその穴に落ちてしまう。忘れがちなひとつを、新たな年へ向けてここに。

 この一年間、haiku&meにお付き合いくださりありがとうございました。来るべき年が、皆様にかけがえのない日々となりますよう。ゆっくりですが、また更新を続けていきたいと思っています。         青山茂根                           



  

2010年12月20日月曜日

嫌いなものを見つけたい

「笑っていいとも」のテレフォンショッキングのコーナーで、若いアイドルや女優がゲストのとき、タモリはかならず食べ物の話をする、という話は聞いたことがあったけれど、この前、それをはじめて観た。ほんとに食べ物の話をしていたことに、ちょっと感動した。

これといって共通の話題がないとき、食べ物の話は当たり障りがなく、しかも間が持つ。そればかりか、話が深まれば、その人の個性や性格、生き様まで浮き彫りになることもある。嵐山光三郎の『文人悪食』や『文人暴食』は、作家たちの食癖や嗜好を文献や古雑誌などから丹念に拾い上げ、それらをもとに作家の足跡をたどり、作品を読み直す、食癖から読み解く作家論、近現代文学史となっていて、すこぶる面白い本だが、ここまで行かなくとも、味の裏側にある思い出やエピソードなど、誰でも持っているものだろう。食の嗜好、「好き嫌い」とは、そういうところまで拡がっていくのである。ところが、ぼくは食べ物の好き嫌いがない。苦手なものもなければ、大好物というものもない。とうぜん、それにまつわる思い出もない。つまらない男なのである。

だいたい、好き嫌いという判断基準がわからない。旨いか、不味いか、なのではないか。「そばとうどんどっちが好き?」と聞かれても、不味い蕎麦(うどん)は嫌いだが、旨い蕎麦(うどん)は好きだ、ではないのか。もちろん、そこに食べる側の状況が加味されれば別だが。という話をすると、たいがい場はしらける。つまらない男なのである。

これではいけないと思い、真剣に考えてみた。好きな食べ物。ようやく頭に浮かんだのは、島らっきょうである。島らっきょうか。そうだ、大好きだ。いくらでも食べられる。しかし、一生懸命考えて、島らっきょうか。なんだろう、このさみしさは。

あまりにさみしいので、「好きな果物ベスト3」を考えてみる。考えてみた結果、ぼくの場合、1位「白桃」2位「梨」3位「キウイ」である。だからなんなのだろう。真剣に考えて、満足しているだけに、よけいに、だからなんなのだろう。よくわからなくなってきた。

一方、嫌いなものは、いくら考えても出てこない。「好き嫌いがない」というのは美徳のはずだ。そういうふうに教育されてきたはずだ。でも、なんだろう、「嫌いなもの」がないと、人として欠陥があるように感じてしまう。うすっぺらく、軽く感じてしまう。お前にはポリシーがないのか、自分というものはないのか、「嫌いなもの」がないなんて、どういう人生を送ってきたんだ、お前の人生には何もない、と言われているような気になる。困った。

というわけで、来年の目標は、「嫌いな食べ物を探す」にしようと思う。嫌いなものにめぐりあいたい。「俺これ嫌いなんだよなー」と言いたい。

もうすぐクリスマスだ。しかし、クリスマスの思い出も、とくにない。サンタクロースを何歳まで信じていたか、という話題も、苦手だ。

来年も、うすさ、かるさが売りの、榮猿丸をよろしくお願いします。

クリスマスリースに蜂や汝を訪へば  榮 猿丸

2010年12月18日土曜日

 『超新撰21』のお知らせ

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再度、掲載させて頂きます。

haiku&meよりお知らせです。

中村安伸の100句が掲載されていて昨年話題を呼んだ

『新撰21』の第二弾、

『セレクション俳人 プラス 超新撰21』

が発売になりました。

今回の『超新撰21』には、

haiku&meにゲスト参加して頂いた方々をはじめ、

榮猿丸の100句、青山茂根の100句も載っています。

21人の収録作家それぞれの100句への小論もあり、

巻末の座談会も今後の俳句の行方を示唆する、

大変興味深い内容となっています。

機会がありましたらお手にとっていただければと思います。

また、

この出版記念シンポジウムと竟宴も近日開催されますので、

よろしかったらどうぞご参加ください。

以下、『超新撰21』目次より。

どうぞよろしくお願い致します。


『セレクション俳人 プラス 超新撰21』

<降臨! 俳句の大人たち>

公募枠当選懸賞作品           小論
種田スガル  「ザ・ヘイブン」  
            髙山れおな-発狂と発情
小川楓子   「芹の部屋」           
            筑紫磐井 -稀代の歌姫を目指して
編者選考による収録作家         小論
大谷弘至   「極楽」       
            髙柳克弘 -時の彼方に
篠崎央子   「鴨の横顔」    
            中島信也 -央子のライフ感
田島健一   「記録しんじつ」  
            三宅やよい-スリリングな俳句
明隅礼子   「みづのほとり」  
            髙田正子 -健やかな水のしらべ
D.J.リンズィー 「涅槃の浪」     
            岸本尚穀 -多用さと単純さ
牛田修嗣   「千夜一夜」    
            庄田宏文 -主観の煌き
榮 猿丸    「バック・シート」  
           さいばら天気-外部から俳句の「内部」へ
小野裕三   「龍の仕組み」   
            小川楓子 -NEXT STAGE
山田耕司   「風袋抄」      
            四ッ谷龍 -自由と責任のあいだ
男波弘志   「印契集」      
            黒瀬珂瀾 -はじめに俳句ありき
青山茂根   「白きガルーダ」  
            山西雅子 -梟を閉じる
杉山久子   「光」         
            山根真矢 -杉山さんと歩く
佐藤成之   「光棲む国」     
            和合亮一-むき出しの魂を統べる中天の微笑よ
久野雅樹   「バベルの塔」   
            依光陽子 -久野雅樹はハジメちゃんか
小澤麻結   「花蜜柑」      
            藤永貴之 -健やかさへの願い
上田信治   「上と下」      
            佐藤文香 -上の人
小川軽舟   「ラララ」      
            関 悦史 -型に憑く醒めた物狂い
柴田千晶   「モンスター」  
            松本てふこ-誰かの性欲にまみれ続けて
清水かおり  「相似形」     
            堺谷真人 -ジャンルを超えた挑発

合評座談会 ・・・ 小澤實 筑紫磐井 対馬康子 髙山れおな

公募作品選考過程報告

あとがき

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2010年12月17日金曜日

 ― バラバラ ―


  短日の印度孔雀のうらにまはる     青山茂根 



 サンタクロースは、袋をふたつ持っているのだと信じていた。グリコのおまけのように、男の子用と女の子用の。25日を過ぎて、近所の男の子の家に行くと、なぜか増えている鉄道模型の車体や、パーツや、小さな緑の木。それがサンタクロースによるのか父母かおじいちゃんおばあちゃんからなのかは聞かなかったが、姉妹のみの自分の家にはついぞ届いたことのない贈り物だった。

 デパートのおもちゃ売り場へ連れて行ってもらうことがあると、まず、ガラスケースの中に恭しく並べられているジオラマのパーツのところへ向かう。磨かれたガラスに両手と鼻の頭をくっつけて、その微細に、精巧に作られた駅のベンチや、通勤客や、踏み切りの信号を眺めていたものだった。あれが欲しい、と言っても、これは鉄道模型に使うものだから、と諭されて、さあ、行こう、と手を引かれてしまう。小さいのにとても高いものだ、ということは子供心にも感じ取られて、それ以上ねだってぐずることも出来ずにその場を離れるのだった。

 大きくなって、家に子供という存在が増えると、一歳のクリスマスには真っ先に、自分が買いたくてたまらなかった、木のレールと電車のセットを置いた。ついにその日が来た!という感じである。それは女の子だったが。幼いころからの刷り込みは功をなすものか、電車でよく遊ぶので、またどんどん車両やパーツを増やしていく。いや、親が嬉々として遊んでいるから真似をしただけか。ものが増えていくから遊ぶようになるのか、ベビーカーに載せると下を覗き込んでばかりいる子供だったせいかもしれない。いったい何を、そんなに危なっかしいほど頭を出してじっと見ているのか、と思うと、ベビーカーについている車輪だった。車輪の回転が興味を引くものらしく、出かけている間中、飽かずそれを眺める。しかし、わりとその手の子供はよくいるようで、丸い輪と、回転運動、が脳のどこかに訴えかけるのか、などと空に弧を描いている観覧車を見て思う。  

 その次に男の子が家に登場すると、自分の欲しい願望に拍車がかかり、ネットで専門店を検索したりオークションに手を出してさらに次々と車両やらレールや方向転換器や駅や車庫が増えていった。もっともすべて木製のものとNゲージだけで、もう少し大きくなったらゆくゆくは鉄道模型を揃えていくのだ、と一人でわくわくしていた。しかし、男の子というのは、破壊と分解のためにある生き物だったのだ(そうでない子もいて羨ましい)。ある日気づくと、ミニカーの車輪を外してどっかにやってしまっていて、がーん!だった。それからはもう止める間もなく、ちょっと静かにしているなと安心していると、トラックの荷台は外す、はしご車のはしごはばらばら、オルゴールの取れるパーツはすべて消えている、といった具合だ。組み立て直せば、と思うと、すでにうっかり自分が掃除機で車輪を吸ってしまったりしたあとだったりして、目覚まし時計や懐中電灯など、ばらばらにされて困るものは手の届かない高いところにおくしかないのだった。

 さすがに近頃は、黙って分解するということはなくなり(まあそのたびに私が怒ったからだろう)、壊れたり点かなくなったノベルティもののライトやブザー、腕時計などを見つけると、もらっていい?と一応聞くようになった。まあこれならいいか、と許可を与えると、嬉しそうにばらばらにして、また組み直したりしているのだが、元どおりには絶対にならない。元どおりになるのなら、そろそろ鉄道模型も、と思いながら、もう何年も経つ。

2010年12月15日水曜日

来た!見た!勝った(何に?)

ごきげんよう。スカートのプリーツは決して乱さない俳人葉月です。

コンビニエンスストアに入ると年賀葉書が目に付く季節になりましたが皆さん如何お過ごしでしょうか。今年もやり残したことばかり、なんてことを私なんぞはつい考えてしまいます。
おそらく死に際になってもやり残したことばかりとか思ったりするんでしょう、私の場合。でも、せめて集中治療室で死ぬのだけは避けたい。世の中、孤独死を問題視する傾向がもしかしたらあるのかもしれないけど、あんな24時間明るくてやかましい場所でチューブだらけになって死ぬくらいなら、孤独死の方がよっぽどマシじゃないだろうか。
それにしても生まれ変わったところでまた同じように後悔の多い人生を送るかと思うと今からウンザリである。まだ始まってもいないことを思い煩う辺りが私の駄目なところか。
ところで悟りを得ない限り「無限に」輪廻転生を繰り返すとしたら、どんな生命も最終的には「必ず」涅槃に至ると考えることは仏教的に(社会思想的に?)はともかく数学的に意味があるのだろうか。

そんな訳で『マリア様がみてる』実写映画のこと。何故「そんな訳」なのかと言うと『お釈迦様もみてる』からの連想というだけの話なのだが。
正直なところ自分でも見に行くとは思っていなかった。なにしろあれほどSense of
Wonderが散りばめられSFマインド横溢の作品をアニメ化するだけでもぎりぎり崖っぷちな感じなのにまして実写映画化なんて何考えているのだろうってなものである。
実写版『デビルマン』みたいに日本映画史上に残る愚作ぐらいの評判が立てばもちろん見に行くつもりではいた。
撮影期間が実質一週間程度だったという話も聞いていたので、単なるやっつけ仕事的な映画だろうと予想していた。実写版『キャッツアイ』のように中途半端な駄作ぐらいな印象になるのではないかと。

映画が公開されてすぐWEBで頻繁に評判を目にするようになった。ごく普通にWEBにアクセスしているとどんどん『マリア様がみてる』情報が入ってくる(いやそれはごく普通じゃないから。でも元来WEB上には『マリア様がみてる』情報が大量に出回っている。二次創作・パロディの類の量と云ったら歴代のその手のものが多いので有名な人気作『キャプテン翼』や『テニヌの王子様』を遙かに凌駕しているのではないか。単に人気があるというより極端に愛されている作品である。原作を一度でも読むとどうしてもユニラテラルな「衝撃のスール宣言!」という暴挙に出た上にロザリオの授受を行ってしまうらしい(当社比))。たいていの人は恐る恐る見に行ったけどけっこう良かったという感じ。

なかには祐巳役の役者さんが素で下手なのか役作りの結果ああなっているのかさっぱりわからず何度も映画館に足を運んでしまう人も出ているとか。何度も映画館に足を運んでしまっても結局結論が出ないので、もしかしたらあれは「千の仮面を持つ少女!」なのではないかとも。
「千の仮面を持つ少女!」と聞いてもう居ても立ってもいられず勤め帰りに新宿三丁目で見てしまいました、レイトショー1200円。

面白い。1200円分くらいは絶対に楽しめます。特に祥子と祐巳が体育館でダンス(の練習を)する場面はアニメ版なんかより遙かに良い。映画っていいなあ。祐巳役の未来穂香は確かティーンズ誌のモデル出身だったはずなのだがなんとなく他の役者さん達に比べてずんぐりしているところが良い。
それから藤堂志摩子。世界中の多くの人々と同じように私もまた能登声以外の藤堂志摩子というのはまったく想像できなかったというか積極的に拒絶反応が出るとばかり思っていたのだが高田里穂の演じる藤堂志摩子にまったく違和感を覚えなかった。そのうえ、”魔法少女シマコ”ネタもしっかりフォローしている。
だいたい所謂無印って写真部のエース蔦子さんの出番が多いのでわたし的にポイントが高めなんだよなこれが。

実際のところ私は原作を十回以上読んでいるので映画の内容を理解するのに苦労するはずもないし、滑舌が悪くて台詞が聞き取り難いところをスルーしていまう傾向もあったのだが、原作未読の人にとっては登場人物の名前を憶えることすらもしかしたら難しいかもしれない。
そういう点では観客を選ぶ映画である可能性が強い。しかし『仮面ライダーオーズ』ファン、『マリア様がみてる』原作ファンだったら見て損のない映画だと断言できる。

もう少し時間をかけて丁寧に撮ったらよくなるのにという場面は多い(というか満載なのだ)が、「惜しい」という気が全然しない不思議な映画。
結局、映画っていうのは監督次第なのだなという感慨に行き着く。同じ監督の『デメキング』や『口裂け女2』も是非見てみたいと思いました。

生物部顧問ガーターベルト冬  葉月


2010年12月10日金曜日

 ― 冬のドア ―



  苔の木へ枯野を渡りゆくところ     青山茂根


 どちらかというと、自動車より鉄道の旅を選んでしまうのは、そのたびに車酔いした幼い日の苦い、酸っぱい記憶(具体的ですみません)が頭のどこかに残っているからだろうか、成長するにつれて揺れや車中の臭いも平気になっていったのだが、今でも、素晴らしい山紅葉の情報などを検索しながらつい、そこに至る道の険しさを想像してしまう。う、という感じで。

 幼い日によく両親に連れて行かれたのは、蕎麦の生産地である大子町や花貫渓谷の辺りで、鄙びた店を訪ねて蕎麦を食べるのが父母の楽しみであったらしい。小さな滝のそばにある茶店で、客が来るたびに老夫婦が打つ蕎麦とか、今にして思えばなかなか味わえないものだったのだが、急カーブの狭い山道を車に揺られて到着し、ぐるぐるする胃と頭を抱えてやっと車外へ出、そこにあの、北関東特有の器の底がみえないほど濃い蕎麦つゆ、なんとか食べ終えても必ず帰りの車中で具合が悪くなるのだった。蕎麦と蕎麦つゆには非はないのだが。子供にはあの山道はハードだった。あの辺りの紅葉の素晴らしさを時折思うが、今年もまた訪れることが出来ないまま過ぎた。

 鉄道が走っていれば乗ってみたくなる性質で、このくらいの冬の時期に、以前あった東海道線終電大垣行きで関西方面まで旅したこともある。青春18きっぷの利用者にはよく知られたダイヤだ。普通電車なので、小田原辺りまでは酔っ払いの通勤客などが多いのだが、それを過ぎると次第に客が少なくなり、一人旅なので寝ないようにと思いながら、大垣で乗り継ぎついうとうとして目覚めると、米原あたりを電車は走っていて、窓の外は一面の雪だ。大阪で降りる頃には疲労感の一方で無性にハイな気分の、お尻の痛くなるような長旅ながら、不思議な充足感のある行程だった。

 先日、『地球の歩き方』に「ヨーロッパ鉄道の旅マニュアル」という本があるのを見つけ、手すさびにぱらぱらと読んでいる。もともとあまりこの手の本を利用しないし、自分がよく旅行していたころはこれは出ていなかった、そしてとりあえずどこに行く予定もないのだが。その日の気分で開いた頁を眺めて、ああ、これは乗ってないなあ、ここ行ったのに駅でお弁当買わなかったー残念、この寝台車体験したい!などと一人で盛り上がっている。実際に自分が乗ったのは、コペンハーゲンから郊外へ出る普通列車、ロンドンから郊外へ、アイルランド国鉄、フランスの誇るTGVでスペイン側の国境の町イルンへ、ラ・ロシェルへ、パリの地下鉄から伸びる郊外線、パリからスイス国内を経由してミラノへ到着する国際列車、スペイン国鉄のタルゴ、ブリュッセルからルクセンブルグへの国際列車、ICでミラノからフィレンツェ、ボローニャ、さらにベネチアまでの急行列車。しかし本を見ているとまだまだ、乗っていない鉄道があって、今すぐにでも行きたくなってしまう。 とにかく乗れるだけ乗る、というのではなく、沿線で降りて、知らない町を歩くのも楽しみなのだ。

 どの切符も、自分で駅に行って予約を取り、買った。英語が通じないことのほうがほとんどだが、鉄道の基本は各国共通だと思う。時刻表と、駅の大きなパタパタ変わる掲示板(今は電光式になっているものが多いか)と、路線図、そして実際の車両についている行き先表示板。それらを確認し、照らし合わせて、該当列車、乗車クラスと日時、行き先を指定すれば現地の言葉の単語を並べてでもなんとか乗車券を取って乗れるし、途中で間違えたことに気づいたら路線図の分岐点にある駅まで戻ればいい。どこの駅にも、鉄道にも、その土地の風景があるし、鉄道の旅のいいところは、乗り合わせた人たちを観察する面白さだ。そして特有の匂い。

 先月の終わりに、桐生へ紅葉を見に行ったときも、東武鉄道に乗るのが実は初めてで、今は静かな駅の佇まいに、往時の買い付けに来た商人たち、出迎え、見送る桐生の旦那衆たちや華やかな御姐さんたちのさんざめく様子を想像して、一人でわくわくわくわくしていた。もうひとつのJR両毛線のほうの、冬場は手で開けるという列車のドアも体験してみたかった。欧州の鉄道も、そうやって手で開ける電車が走っていた。今も地方へ行けば変わらないはずだ。ドアの前の乗客と、目で合図しあうその車内の一瞬の空気感は、冬場のほんのりとした温かな気持ちをもたらす。

2010年11月19日金曜日

 ― 転ぶときの空 ―

  
  蒲団にも舵といふものありとせば      青山茂根

 
 ほの暗い起き抜けのひとときが過ぎて、家々の屋根の隙間から次第に青空が広がっていく冬の朝は、ふと氷湖を思い起こす。周囲を針葉樹の山々に囲まれた、凍りついた、天然の湖。記憶の底にある、小さな原石の光で。

 街中にある、青天井をもつアイススケート場は、ニューヨークの冬の風物詩として毎年ニュースで伝えられるし、欧州の北のほうへ行けば、市民の冬の楽しみとして一般的なものらしい。ここ数年、いささか整いすぎに修復された横浜の赤レンガ倉庫(以前の、薄暗い、所々欠けたりした不ぞろいな煉瓦の作り出す陰影も良かったのだ)の前でも、真冬のイベントとして、屋外のスケートリンクが作られる。夜空と、ライトアップされた光景はなかなかのもので、数回見に行ったが、いざスケート靴を履いて銀盤に足を乗せてみると、氷の状態があまり良くないのが気になってしまい、それから滑るほうはしなくなってしまった。暗い海を背景にした、白く発光するその一ところは、見るためにだけ訪れても充分価値があるけれど。

 というほど、スケートが上手いわけではなく、偉そうなことは言えないのだが、幼い頃、連れて行ってもらった山の中の天然のスケート場が時折目に浮かぶ。厳寒期に凍った湖を、磨いて作られたその光景は、半透明の氷の輝きが鏡などというより、その奥に氷の宮殿でもあるのではと思えるような、神秘的な輝きを放っていた。長野県の、麻績(おみ)村というところで、特に係累があるわけでもないのに母が気に入って数回訪れた地だった。幼い頃、数日間泊り込んで現地の方にスケートを教えてもらったのだ。街中のスケートリンクと違い、貸し靴がスピードスケート用しかなくて、初心者には立っているのさえ難しかった。スピード用は、刃が薄いので体重を乗せるコツがつかみにくい。フィギュア用の先にぎざぎざがついた靴ならどんなに良いかと思いながら、しかし、氷が傷つくからそこでは禁止されているという話だった。屋内のスケートリンクのように、周囲につかまるところもあるわけではない。冷たくなる指先と、転んでばかりで痛むお尻、寒風でゆるむ鼻先と、あまり良い思い出ではなかったのだが、なぜか、何十年も経った今になって、あの氷湖の風景が蘇る。そのつらかった特訓のせいか、それ以後はあまり街中のスケート場にも足を運ばなかった。なので上達しないまま年月が過ぎた。

 幼いものを連れていくようになって気づいたのは、同年代の母仲間などが結構スケートに親しんだ世代だったらしいことで、自分専用のスケート靴を持っている人までいる。数回連れて行っただけなのに、いまや幼いものたちのほうが上達してしまい、一人で練習を重ねながら、あの湖も、近年の暖冬でスケートが出来るほどには凍らなくなってしまった、という話を思う。いつか、スピード用の靴で、あの氷上を滑走したかったのだが。
 

2010年11月5日金曜日

 -― 人生変えたい? ―

 
 未知なる食べ物との遭遇は、いつも胸躍るもので、といっても流石にゲテモノに挑戦するのは控えている。ベトナムは爬虫類から両生類、昆虫関係までかなり豊富という話だが、私が行った数日前にそういった飲食店もある巨大市場界隈で外国人観光客の強殺事件があったとかで、現地旅行社の人に止められたので行っていない。いえ、正直なところやはり見た目も美味しそうなものが食べたい。意思が軟弱なだけだ。未踏の地の未知なる味に常にふらふらと吸い寄せられてしまうのだが、いまだ蝙蝠のスープさえ体験していないのは少し恥ずかしい。

 旅先でつい、アジア各地の料理店を探してしまうのは、やはりアジアの片隅である日本に育った者の胃袋がそちらを求めるからか。欧州などで、タイやベトナム、中国料理などの高級店に入ってしまうと、ヨーロピアン向けの味にアレンジされていたりして外す場合が多い気がするが(その国の人々が住む移民街にある店は簡素でも味は本場っぽく美味。しかもお財布に優しい)、インド料理は東京以外なら(東京は外す店多し!怒!)、自分が行ったことのあるいくつかの国の大都市においてではあるが、どこもアジア人には満足いく味であったように思う。つまりどこの国に行ってもインド料理屋を見つけると入らずにはいられない習性らしい。そしてどこの大都市にもなぜかインド料理屋の看板は見つかるのだ。(あ、ユダヤのサンドイッチ、ピタに挟んだファラフェルも大好物。先日のワールドカップ中継のとき、オシム氏の解説の様子がツイッター上で流れていたのだが、中継時につまむメニューのラインナップに、スシの翌日ファラフェルサンドが登場したときは、おお!と感動した。たぶん私以外誰も覚えていない?)

 なのに、インドへは一度も行っていない。学生時代から周囲にはインドを旅してきた人ばかりで、学生の貧乏旅行からマハラジャの宮殿ホテルを渡り歩いてきた親世代までいろいろ話だけは聞かされてきた。「インドへ行くと人生変わるよ」という言葉も以前よく聞いた。昔なつかしのチューリップという音楽グループが再結成をしたときに、「この人はインドへ行っちゃって、そのままなんですよ」と財津和夫に紹介されていたギタリストがいたが、確かにそんな、インドへ行って人生変わっちゃいましたといった風貌だった。本当に、「人生変えたいんだー」と言って出かけて行った友人もいたが、その後も会社員は続けていたような。いやあれはどろどろの恋愛関係をなんとかするためだったのかも。ま、そういう状況での場面転換的にも、使われるツールがインドへの旅であった気がする。同様に使われていたものとしては、「ちょっと、ネパール行ってくる」もあったが、どちらも私は訪れていない。

 やはり絶版になっている本ながら、インドといえば!というのが、『星降るインド』(後藤亜紀 著 講談社 1981)。単なる旅行記ではなく、2歳と6歳の子供を連れてインド大使館勤務の夫とともに現地で暮らした記録であり、様々なカーストの人々と、時に友人として、使用人を雇う側として、関わった事実が描かれている。それぞれの階級に、職業に属する人々の考え方、日々の食物や幼いものの成長を通して、見えてきたありのままの姿は、生半可な知識や偏見を吹き飛ばしてしまう。もちろん、その書かれた当時とは時代も違うし、世界的にIT化が進んだ現在には当てはまらない面もあるのかもしれないが、根本的な人々の考え方は、この著者が体験し、見つめてきたままなのだろうと思う。何度も読み返し、そのたびに、「いつか行くぞ!」と思っているだけの臆病な読者ながら。


  菊人形の中にアダムとイヴ探す      青山茂根   

       

2010年11月2日火曜日

「ちっちゃいって言うな!」と小日本は言った   上野葉月

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2010年10月27日水曜日

小学生の錬金術

小学生になったばかりの頃、まだ決まった額のお小遣いを貰ってはいなかった。

それがどういうものだったか、確か黄色っぽい色のちいさな、プラスチック製のものだったと思う。駄菓子屋にあった一個50円のおもちゃだが、私と弟はそれが欲しくてしかたなかった。

値段だけはっきり記憶しているのには理由がある。あちこちで拾ったりもらったりした一円玉や五円玉を壜に貯め、それがちょうど100円になったので、弟と一緒にそれを持って買いにいったのだった。しかし、家で数えたときたしかに100円あると思っていた小銭が、お店で確認すると5円足りなかった。どうしても二つ欲しかったので頼み込んで売ってもらったが、のちほど駄菓子屋から家に連絡があった。

品物を返したのか、親が残りの5円を払ったのか、その顛末は記憶していない。おそらく、手に入れてしまったおもちゃに対しての興味は、すぐに消えてしまったのだろう。

その事件のあとか先か、記憶がはっきりしないが、通学路と県道(現在は国道)の交差点に派出所ができた。警察官という存在は当時の我々にとっては非常に新鮮で、大いに好奇心をそそられたのだった。

その頃いつも、弟と、隣に住む弟の同級生のSちゃんの三人で遊んでいたのだが、あるとき三人のうちひとりが路傍で10円を拾った。もちろん、拾ったお金は警察に届けなければならないと教わっていたので、さっそく三人でそれを派出所へ届けることにした。

落とし主があらわれた場合、1割をお礼として貰えると聞いており(実際には5~20%を請求できるらしい)そうなると10円が1円になってしまうが、仕方がない。なにより、警察官と会話してみたいし、もしかしたら拳銃を見せて貰えるかもしれないなどと思っていた。

派出所の警察官は親切に応対してくれた。そればかりか、なんと、正直にお金を届けた褒美として我々三人に10円ずつくれたのである。その30円は警察官が自らのポケットマネーから出したものだったはずだ。

派出所に10円を持ってゆけば30円になる。これはお金を三倍にする錬金術(という言葉は知らなかったが)だ、という妄想が我々の頭を支配した。ならば手持ちのお小遣いを道で拾ったことにして持ってゆけば……とまではさすがに考えなかったが。

数日後だったか数週間後だったか、今度は別の一人が100円を拾った。我々は100円が300円になったら何を買おうかなどと期待しつつ、再び件の派出所へその100円を届けに行った。警察官はにこやかな表情で我々三人に、20円ずつくれたのである。

いつのまにかその派出所はなくなり、今は更地になっている。

鳥渡る空に罅なき日を選び   中村安伸

2010年10月26日火曜日

暮の秋   上野葉月

アッラーの造り賜いし世界は数多くの神秘に彩られているので、三十一歳年下の幼馴染みに「勘違いしないでよ!」と言われてしまう危険性がまったくないとは断言できない(実際その場合ほぼ確実に勘違いである可能性も高い)けど、1US$が100円以上に戻ることなんて、食パントーストを咥えた高校生と街角で鉢合わせくらいありえない出来事のような気がしてきた葉月です。お久しぶりです。そういえば最近久しぶりにウラハイに『恋のハンムラブ法典』という記事も書きました。

私が若い頃は1US$が100円になったら日本沈没なんてことがしきりに言われていたが、今じゃ1US$が80円。本当に安くなったものだ。どういう縁なのか米系企業で働くようになって八年にもなるけど、USって日夜順調に衰弱している印象は拭えない。ドルが紙屑になってしまうのはそんなに遠い将来ではなさそうだ(ま。もともと単なる紙屑なんだけど)。

それにしても世界の主な宗教のほとんどは金銭の貸し借りで利子を得ることを禁止しているのに、今や地球上の主な場所で拝金主義とでも呼べるようなものが蔓延ってしまっているのはどうしたことだろう。資本主義と言えば資本主義なのだけど、だいたい経済成長が永遠に続かない限り存続不可能なシステムなんて早晩機能不全に陥る事なんて誰の目にも明らかだろうに。長期的にはほとんどの人が第一次産業に従事する自給自足的なつつましい社会に戻っていくことは避けようもない。

それにしても最近の円高。もともとが日本の世帯あたりの貯蓄残高は平均でも(平均でも?!)一千万円超だし、そんな預金ばかりでなくそのほかに資産もあるだろうから国民全体としては紛れもなく世界有数の金持ちな訳だけど、この調子じゃ、日本人全員が働かず海外から安いものばかり輸入して貯金取り崩してごろごろ食っちゃ寝していても十年以上はどうにかなりそうだ。さらに円高が続けば、何十年もごろごろできそう。そんなに長い間円高が継続する理由もないけど。

ここのところ、一部若手俳人の間で働かないライフスタイルが定着してきていると言う人が跡をたたないのはそれなりの根拠が確かであるようにも見えるけど、上記のような事情も多少は後押ししているのかもしれない。

我が身を振り返って思うのは、働いたら負けというのは自明なのだが、働かないでいたらもっと負けているような気がするのは何故なんだろうという疑問だ。食うために働いているという錯覚に人間は陥りやすいけど、実際には人から役に立っているように見られたい(誰かに頼られたい)という要求の方が勝っているような気もする。
私も数年後には引退して、どこか暖かくて食料の豊かな物価の安い国に移住する可能性は高い。働いたら負けというより、もう何十年も世界平和のために戦い続けたのでさすがにもう疲れましたという感じではあるわけだが。
私ってけっこう真剣に日本は鎖国すべきだと主張しているのだけど、本人はどこか別の国に移住するつもりであるあたり愛嬌である。この辺の現行不一致が愛されてやまない理由のひとつなのかもしれない。

ひと月ほど前に長年借りていたロードバイクを友人に返して現在MTBで通勤している。あまり予想できていなかったのだけどMTBだと走っていてもあんまり楽しくない。私はそんなに速度を出すタイプではないのだがそれでもMTBだと何かしら緊張感が足りなく感じる。ロードバイクだとタイヤやホイールを痛めるので余程追い詰められないと歩道に乗り上げたりしまいものだが、MTBはタイヤが頑丈なのでちょっと車道が危険だと歩道に移ってしまうせいもあるかも。

どうしたって引越しなければいけない現状なので、住むところを見つけてからロードバイクを買うつもりだった。でも最近ロードバイク禁断症状が出てきていて、いつまで我慢できるか心配だ。考えてみると中学生の頃から自転車でよく高尾山へ行っていたりしたので趣味(スポーツ?)として自転車とかかわるようになってから随分長い年月が流れている。いつのまにかのスポーツ車中毒?

TVドラマ『ゲゲゲの女房』で長女の藍子ちゃんが小学四年生時に行ってもいない高尾山に家族で登った作文を書いたせいでミシュランガイドで高尾山に星がついてしまったりしてけど、ミシュランの日本版はやればやるほど墓穴を掘っている印象があるのは私だけだろうか。オリジナルの赤ミシュランガイドのフランス版イタリア版など住所と電話番号ぐらいしか情報のない質実剛健なうれしいガイドなのに、日本版のふにゃふにゃ感はどうしたことだろう。最近関西版も出たけど、京都ではミシュランに載っている店よりミシュラン調査員なんて入れない一見さんお断りの店の方がずっと格が高く評価されるのは火をみるより明らかではないのか。近いうちに「いきなりぶぶ漬けガイド」と呼ばれないことを祈るばかりだ。

さて東京の一部地域には全ての道は高尾に続くという諺がある。終電でうまいことシートに座れたと思ったら気がついたときには高尾で大量のタクシー代金が消費してしまうなんてことが中央線でも京王線でも頻発するので、まあ諺にもなるだろう。高尾山には天狗も住んでいるし。
調布市民としては天狗と言えばやはり仙川の天狗。江戸時代から昭和初期まで活躍した天狗様で数多くのエピソードを地元に残している。でも昭和48年小学校四年生だったTVドラマ『ゲゲゲの女房』長女の藍子ちゃんは仙川の天狗を知らなかっただろう。それにしてもなにしろ全国津々浦々の善男善女が見るNHKの TVドラマは常に子役選定に命をかけていると言っても過言ではない状態なのだが、今回村井家の長女次女の演じた子役達は本当にもう確実に不退転の決意と言って良いほど力がはいっていた。特に長女四年生次女幼稚園時の配役は神がかりとすら感じました。

結局私が何を書きたいかというと天狗で有名な仙川で10/30(土)に行われる吉祥寺句会番外編のことです。いつも前振りの長い葉月のこととは言え、今回の前振りは本当に長かった。
http://93825277.at.webry.info/201010/article_1.html
サイゼリア仙川店での出句時間は16:15ですが、欠席投句(メール出句)の場合15:15締切です。
出句時間は16:15ですが、欠席投句(メール出句)の場合15:15締切です。
(大事なことなので二回言いました)
ではよろしくお願いいたします。

呼び鈴の乾いた音や父の秋  葉月


2010年10月25日月曜日

デンデロレン

ソニーのウォークマン、カセットテープ式のものが国内出荷終了となったというニュースを観た。語学の練習用とか会議録音用以外の、つまり音楽用のカセット式ポータブルプレーヤーがまだあったのかということにちょっとおどろいた。

なんて言いつつ、私の世代はものすごくカセットテープにお世話になった。カセットテープ世代である。

大学生の頃、はじめてドライブデートをしたときのこと。彼女がドライブ用に編集したカセットを持ってきた。快晴だったその日にふさわしく、キラキラした、オシャレな選曲。ソフトロックや映画のサントラ、古いR&B、当時流行っていたエル・レーベルなどなど。曲順も考え抜かれている。オープニングが「わんぱくフリッパー」のテーマとかで、完璧な出来映えにぼくは感動した。

ところが、B面の最後、曲が終わったあとにちょっと間があいて、いきなり「デンデロデンデロデンデロレン…」とエレキギターの音が鳴った。「ん?」と思ったが、つまりこれは、「重ね録り」していて、前に録音した曲の最後が残っていたのである。この辺がじつにカセットテープらしい。CDやMDではありえない。

その、それまでのキラキラオシャレな楽曲とはあきらかに異質なエレキの音に、車内の空気が一瞬固まった。助手席からも(あっ…)という声にならない気配が感じられた。が、とくにそのことに触れることもなかった。たしかに違和感があったが、たんに重ね録りした、というだけのことだ。

デートから帰宅して、その日の夜。布団の中で「デンデロレン」がふとよみがえってきた。そういえば聴いたことあるな、この音。なんだっけな……と考えるとはなしに反芻していたら、はっと気づいた。まさか……いや、間違いない。

それは、「太陽にほえろ!」のオープニングテーマの、最後のギターの音だった。




土曜日に生放送で行われたNHKBS2「俳句日和」を観る。観ているだけではつまらないのでつい投句してしまった。というか、投句しないと観てられないというほうが正しいか。高柳克弘氏の選に入り、丁寧な評をいただき感謝。もちろん名前を変えて投句した。こういう場合、選ばれると申し訳ない気もする。お題は「曲」。

通勤に聴く曲激し秋の風   榮 猿丸

2010年10月21日木曜日

水晶の鹿

かつて銭湯だった建物を改装したという「SCAI THE BATHHOUSE」は、ちいさなギャラリーがたくさんあつまっている谷中一帯でも、現代美術に力を入れた展示内容で異彩を放つ存在である。
このスペースに、今は名和晃平の作品が展示されている。(10月30日まで)

建物に入ると銭湯の名残の下駄箱があるが、靴を脱ぐ必要はない。
引き扉を明けてなかに入ると、更衣室だったらしい展示室の壁は黒く塗られ、照明も暗めに落とされている。

ここに展示されているのは"Dot-Fragment_Q#2"というドローイング作品である。
部屋を一周するように飾られた白いキャンバス。その全面に、インクをこぼした痕のような点が無数に散りばめられている。
規則的であるようにみえて、その密度や濃淡はさまざまに変化し、全体を見ると波のようなリズムがあるとも感じられる。

黒い壁が長方形に切られたところから隣室の光が押し寄せてくる。その穴を抜けると、浴槽であったと思われる広い展示室がある。壁も天井も白一色に塗られ、強力な照明が展示物を照らしている。

向かって右側の壁を見ると、そこに掛けられているものは、銀色にかがやく鹿の胸像に見えた。それは透明の、大小さまざまな球体をつなげあわせ、鹿の胸部から頭部、そして立派な角を模したものと思われた。かなりの大きさのオブジェである。

近寄って見ると、そのオブジェの内側に実物の鹿の剥製が入っていることがわかった。
ふたたび離れてみると反射光の輝きに鹿の鼻や目の黒色、毛や角の茶色が反映され、モザイク処理された映像を思わせる視覚的効果がある。

この作品のタイトルが“PixCell-Double Deer”であることを後で知った。PixCellとは、デジタルカメラなどのPixell(画素)とCell(細胞・小部屋)を組み合わせた造語ということである。

同様のオブジェが向かって左側の壁にも掛けられている。そして部屋の中央には鹿の全身を同様に加工したオブジェ……そこではたと気づいたのだが、中央に置かれているのは、同じくらいの大きさの鹿を二体重ねあわせたものなのである。そして、両側の壁のオブジェも同様に、二体の鹿を重ねたものであった。

タイトルのDouble Deerというのは、このことを示している。それももちろん後でわかったことだ。

六体の鹿はすべて立派な角を持つ雄鹿である。種類や、生息地などはわからない。
表面を覆っている透明の球体は、ほとんどがビー玉ほどの大きさのアクリルであり、そのなかに混在しているテニスボール程度の大きさのものは水晶であるということだ。


天高し水晶にさかしまの鹿   中村安伸

2010年10月19日火曜日

空気吸うだけ

以前ここでも書いた、鴇田智哉、関悦史、大谷弘至、榮猿丸による〈若手俳人〉座談会が特集だった「俳句」6月号。通常の連載のほかは初心者向け記事も実用的なハウツー記事もなく、そして鉄板ネタのご長寿健康記事もなく、予想通りの大赤字だった、と思いきや、なんと3ヶ月かけて通常号の売れ行きを上回ったらしい。出足勝負の雑誌では普通ありえない売れ方で、じわじわと売り上げを伸ばしたという事にちょっと感動した。そして〈若手〉特集だけで売れるはずがないという大方の予想を裏切る結果に当事者としてホッとする。

『超新撰21』が12月1日発売になるとのこと。関悦史さんのブログで知る。

私は体調さだまらず波あり。空気吸うだけ。というわけでリハビリブログ。




どんぐり十個それ以上には負けられぬ
   榮 猿丸

2010年10月7日木曜日

 ― 街をあるく ―



  陸続と墓標やうねりつつ萩は     青山茂根


 「ステディカム(Steadicam)」というカメラ機材、私が仕事をしていたころに米国から紹介されて、テレビコマーシャルの撮影などで時折使用されるようになってきていた。まだ使用料も高く、技術者も日本にはあまりいなかったために、費用が潤沢にある撮影でしか用いられていなかった。前後、高低差のある移動でもぶれにくい、独特な映像が撮れる。テレビをたまたまつけて、『世界ふれあい街歩き』という番組を初めて見たときに、あ、これだ、と気づいた。今やテレビ番組でも普通に使えるだけの機材になっていたのだ。この番組、世界各地の街、それも観光地の名所ではなく、普通に人々の暮らす路地などへカメラが入っていく。先日のノルウェーのベルゲンや、ヘルシンキ郊外の裏道など、かなりの登り坂でもそのまま撮影していくので、相当な重量を腰で支えるこの機材、現場の重労働がしのばれて、その街の景色を楽しみつつも、「あ、もうそこまででいいから、もうカメラ下ろして!」などとテレビのこちら側でつぶやいてしまう。

 毎回、その番組を楽しみに見ているうちに、この旅する感覚はどこかで見たような、という気がしてきた。もちろん、自分が旅するときもわりといきあたりばったりでいつもこんな感じなのだが(下調べをせずに訪れたりして、そこでぜひ見なくては、という建物や美術館が修復中なこともしばしば、何しに行ったのか、というときもよくある)、出会った街の人々に尋ねながら、次の目的地を決め移動していく、この感じは、そういえば、と『西アジア遊記』(宮崎市定著 中公文庫 1986)を思い出した。

 道に迷わぬように、電車線路に沿うて歩いていると、やがて細長い芝生のある広場に出た。エジプトから持って来た大きなオベリスクが立っていて、その側に旧ドイツ皇帝が寄贈したという泉水殿がある。前面に大きなモスクが立っているから、事によるとこれがかの有名なセント・ソフィア、キリスト教寺院を改造したアヤ・ソフィアかと思って中に入って見たら少し勝手が違う。これは通称「青モスク」で通っているアフメッド寺院であった。
                           (上記『西アジア遊記』より)

 と、万事このような具合の旅の記録で、読みながら自分もそこに立っているかの気分になってくる。日本への郵便を出そうとして、現地の若い窓口の女性にお釣りをごまかされたり(あとでその地の領事館の人々に話したら、「よっぽど別嬪さんだったと見えますね」とひやかされ)、ブローカーがしきりにふっかけてくるのでためしにものすごく安い値段を提示して遺跡への車をチャーターしたらそれが交渉成立してしまい、「群集の後ろから雲つくような大男のいかめしい顔したのが出てきて、(中略)自分はちょっとおじ気づき、さりとて大男だから嫌だとも言えずに躊躇していると、返事をする間もあらせず、大男は自分を小脇に抱えて自動車の中へ運び込んでしまった。」と言葉も通じないアラブ人運転手の車に乗る羽目になってしまうのがおかしい。「他の運転手はみんな洋服を着て、中には乗馬ズボンなどを穿いている中に、この男だけが純粋の遊牧(パダヴイ)アラブの服装のままで」、「こんな男に自動車の運転が一体出来るかしらと危ぶんだが、走り出したところを見るとなかなかどうして腕はたしかなものだ」、「よく見ているとこの男は恐ろしい顔をしているに似ず、なかなかの愛嬌者である。退屈だと見えてしきりに私に話しかけるのだが、もちろんさっぱり分らない。」と無事に長距離を移動し、死海見物を終えて帰ってくる。

 実はこれが、「昭和十二年八月、私は留学先のパリを立って、ドイツからバルカン半島に入り、ドナウ河を下ってルーマニアの首都ブカレストにおける学会に出席した後、黒海を渡ってトルコの旧都イスタンブルに着いた。」という旅の記録なのだ。今、実際に我々が旅するのと全く変わらないように感じさせる文体の先見の明も思うが、「大会社の社員は至る所に連絡あり、駅頭に迎えられて駅頭に送られ、孤独なるは単に車中にある時のみ、これを以て、吾人が自ら計画を立て、自ら行李を運び、蟻のごとく蝸牛のごとく地面をなめるように旅行するに比して苦楽また同日に語るべきでない。」という視点とポリシーでの行程をつくづく感じる。このとき著者は30代、経験と分別も20代初め頃の旅とはまた違うものがあるだろう(危険な地域を旅するときは、この経験からくる一瞬の判断と分別が非常に重要)。しかし、十分な若さと感受性で、「それから小アジアを横断して、シリア、イラク、再びシリア、さらにパレスチナからエジプトに入り、ここではカイロから南に下ってカルナクに達し、引き返してアレキサンドリアから地中海を横切ってギリシアに着き、アテネからコリント地峡を経て、コルフ島に上陸し、イタリアに渡ってタレンツムから西海岸を北上して、十一月にパリに帰着した。」という各地の遺跡を足で歩いて見た記録は、圧倒的な力で現代の我々をも魅了する。

 まだまだ誰かに話したくてたまらなくなるエピソードはたくさんあるのだが、以下の記述を見つけてニヤリ、としてしまったことだけお伝えしておきたい。俳句に手を染めた人間ならどこかでちらっとは見かけている話に、思いがけず繋がっていたので。今でも、所謂パリ・ダカ、ダカールラリーなどの映像で、よく見られる光景であることも。

 箱根丸の二等船客になって、ヨーロッパへ向う途中、スエズに着いた。同じ在外研究員の仲間、成瀬政雄博士、増本量博士、落合驥一郎学士、松本雅男学士等を誘って、カイロ見物に出かけた。同船の長谷部照伍中将や高浜虚子氏、横光利一氏などは一等の廻遊券だが、われわれは三等の廻遊券を買った。船のボーイが怪訝な顔をしたが、別に国辱でもあるまいと思っていた。われわれだけ特別に一台のボロ自動車に乗せられて一番あとからついて行くと、先頭の車が砂塵をあげて砂漠の中を走る壮観が見られて、結局この方がかえってよかったとも思った。

 

2010年10月1日金曜日

 ― 『57501』 ―

 細長い、白い表紙の中央いっぱいに、縦に記された「57501」の墨の文字。俳誌『575』の創刊号を頂いた(ありがとうございます)。表紙の「01」というのは、創刊号を指すらしい。シンプルながらインパクトある版型。高橋修宏氏の個人誌として発行されたもの、しかし、高橋氏の敬愛する作家たちの作品が載っていて、鮮烈な存在感をもって迫ってくる。

  ドアというどのドアあけてみても犀    宗田安正
 
  鳥曇やさしく立てるテロリスト

  地底にも雲雀の揚がりをるならん

  そこに着くまでに燃えなむ蝸牛

  雪明りめざめてのちも馬である

 宗田安正氏、「冥府」から。<蝸牛>の句からは、地底と地上とを繋ぐ神話のような壮大な物語を想像した。また、万葉集にある狭野弟上娘子の歌、「君がゆく道のながてを繰りたたね焼きほろぼさむ天の火もがも」をふと思い出す。蝸牛が愛を引き出すのか。単純に、背後に燃える火と、進む蝸牛の対比としても、滅亡する世界のような美しさだ。

  野遊びの毛のいろいろを吹き分けて   谷口慎也

  墓石を抜かれて弱る春の山

  麦笛や大和というは紐いろいろ

  花氷死して手脚の開き方

  サーカスの夢のほどけて烏瓜
 
 「流離譚」、谷口慎也氏。<野遊びの>の句、冷たさの残る春風の中で、草木に絡んだ様々な動物達の毛や羽、実景を置きつつも、人々の妖しい遊戯へと連想が働く。<毛のいろいろ>とはユーモラスな表現ながら、刹那的な響きに聞こえるのはなぜだろう。

  膝曲げて脱ぐわかものに百合の意思  江里昭彦

  検温のための整列ひつじらは

  産卵のはじまる海に靴を投げ

  グァテマラに蘂湧きあがる花を見き
        
  望の月艦(ふね)は兵士をいれかえて

 江里昭彦氏、「人生は美しい」より。どの句にもみずみずしい暮らしの片鱗があり、生の息吹を盛り込みつつ、過去と現在を自在に行き来する。ときに享楽的に、あるいは冷徹に。それもまた人生、というように。<膝曲げて>の句、デニムを脱ぐ仕草から、青春期のナルシスティックな自尊心を描くのだろうか、少し異端の匂いも。<産卵のはじまる海>のフレーズの魅力、どんな生き物や魚類の産卵期でもいいのだが、海亀の来る海辺の碧さ、島や最果ての地のどこへもゆけぬ感傷を靴が。<望の月>の句、軍艦であろうが、なぜかトロイアの木馬を思ったり。ギリシャの月と夜空が広がる。

  すめらぎがすめらぎ殺め野火走る    高橋修宏

  黄沙降る柩は王を入れかえて

  液晶の並ぶ白夜の秋津島

  花野かな折檻のあとそのままに

  ひそやかにひめをひらけばひらく蘭

 「電子地母」、高橋修宏氏。ほぼ定型であり、有季の句も多い。だが、この印象の違いは何か。史実の、中央や片隅の出来事が、隣の家で現実に起きているような錯覚を起こす。<すめらぎ>を倒す謀反に放つ火は、野を焼く火に重なり。<黄沙降る>の不条理な世。ナム・ジュン・パイクのモニターを積み上げたインスタレーションの不気味な世界、初めて目にしたのは青山のワタリウムだったか、それが<液晶>の句の白夜へ。

 高嶋裕氏の短歌、「終日の水」より。

  少年期少女期永く曳いてきてふたり真昼の窟(いはや)にしやがむ     高嶋裕

  日常をふたり離れて鮮紅のブーゲンビリア眼に宿しあふ

  鳶あまた旋る(めぐる)港を行くときにあなたは錆をまた嗅ぎ当てる

  助手席で灯る子宮に委ねきる。をとこごころも、こどもごころも

 高嶋氏の評論、「短詩型と歴史への問い―『蜜楼』が提起するもの」から以下を。ここまで掲げてきた句の面白さには、定型が関係するのか否か、矛盾と分裂を孕むためなのか考えつつ。

 ・・・前近代の言語環境・文化環境に育まれた和歌の規範性や歳時記の宇宙を出自として背負ったまま、個の表現としての近代文学であろうとすることは、それ自体が矛盾であり、分裂だからだ。
 

           
  

2010年9月30日木曜日

牛乳キャップの王

小学生の頃、キャップと呼ばれる牛乳瓶の紙蓋を収集することが流行した。
くっきりとした単色、ものによっては二色刷りで、円のなかに多少無理やりに、商品名や原材料などを記した文字が詰め込まれている。中央には日付を示すスタンプ。そのシンプルなデザインは見ていて飽きない。

メンコというものは収集したことも、それで遊んだこともないが、我々がキャップを使っておこなっていた遊戯は、メンコのそれと同じものだったようである。
机上に並べたキャップへ息をふきかけたり、あるいは、地面に並べたキャップめがけて一枚を投げつけたりして、風で裏返ったものを自分のものに出来る、といった遊びである。
このような遊びに使うためには、瓶の裏でこすって平らにするのであるが、平たくなった円の周縁部にできる余白なども面白く感じることがあった。

キャップの価値は入手の難易度で決まった。
最も価値の低いものは学校給食のときに出てくるオレンジ色の明治牛乳のキャップである。他にも雪印や森永などは比較的価値が低かった。
マイナーなもの、他の地域のものなど、入手の難しいキャップは垂涎の的であった。
また、同じ明治や森永のものでも印刷にズレがあるものとか、指でつまむための取手が付いたものなどは価値が高かった。

さて、私は、毎朝家に届けられる雪印ファミリア牛乳と給食の明治牛乳とで、最低でも一日二枚のキャップを入手できたし、家族旅行で行った淡路島で売店のおばちゃんに頼んで手に入れた貴重な物などを含め、量も価値も相当なコレクションを所持していた。

そんなある日、ある友人が持ちかけてきた話というのは、以下のようなことだった。
二人のキャップコレクションを共有ということにする。それをお菓子の空き缶に入れて、お寺の近くの(聖徳太子が掘ったという井戸のすぐ脇の)藪の中に隠しておく。

その友人のコレクションもなかなかに魅力的で、それを共有というかたちであっても自分のものにできるということが、とても素晴らしいことのように思えたのだろう。私はすぐに賛成し、上記のプランは実行に移されたのであった。

それから数日後、友人とともにコレクションを確認したところ、それは空き缶ごと消えてなくなっていた。そのときは誰かにゴミとして捨てられてしまったのであろうという結論になったのだと思う。

私は最近、ふとししたことでこの事件のことを思い出したのだが、今となってみると、空き缶ごとコレクションを盗んだのは、件の友人その人だったのかもしれないと考えついた。当時は少しも疑うことなく、彼も傷心をともにしていると思い込んでいたのだが、一度疑いはじめたら、コレクションの共有を持ちかけてきたこと自体が彼の策略だったのかもしれない、とまで思うようになった。

いまさらそのことを恨む気持ちなど全くないが、真偽を確かめてみたい気はする。しかし、その友人が果たして誰であったのか、それをどうしても思い出せないのだ。

稲妻を白磁に貼りて母を貼らず   中村安伸

2010年9月28日火曜日

何かいいことあったらなんなの   上野葉月

マンガ喫茶で矢吹版『迷い猫オーバーラン』を読んでいたら入浴シーンが12ページも続いたので、ついその足で仙川湯けむりの里へ行ってしまった葉月です、ご機嫌よう。
それにしても私ってどうしてこれほどまでに自分でも呆れるほど素直でわかりやすいのだろう。まあその辺が多くの人に深く愛される由縁なのだろうけど。

「竹下景子さんに200点」という文句が局地的大流行になる元凶となった『ゲゲゲの女房』最終週に至って満を持して(?)一反木綿オープニング登場にはさすがに私も驚きました。そういえば『ゲゲゲの女房』公式HPの写真集と題されたコーナーでタイトルバック・リニューアル撮影風景の写真が公開されているのだけどいくつかの写真が怖ろしく可愛い。
http://www9.nhk.or.jp/gegege/photo/vol06.html

思い起こせば『ゲゲゲの女房』初回を見たとき、オープニング最後のふたりで自転車に乗っている後ろ姿だけで泣きそうになった。ドラマが始まる前から泣かされてどうするんだっ、てなものである。
句会で象、鯨、白熊など大型哺乳類の出てくる句は必ず採ってしまうことはよく知られているのだけど、自転車の句も必ずと言っていいほど採ってしまうような気がする。どうして私はこんなに自転車に弱いのだろうか。謎だ。

最近やや下火になってきた気配もあるけど、世間ではかなり長い間(10年近く?)自転車ブームとでも呼べるものが続いていた印象がある。

職場で私の他に自転車通勤している人がもうひとりいる。彼は今時珍しいタイプ独身貴族なので80万円と150万円のロードバイク2台持っていて、交互に乗って来たりしてます。先日職場近くに停めてあったその同僚の自転車が盗難に遭った。盗まれたのは80万円の方。
そんな出来事がきっかけで自転車保険についてちょっこし調べてみたのだけど、ほぼ完全になくなっている模様。

数年前は10社近い保険会社が参入していた記憶があるのだけど、どうやら昨年ぐらいまでに撤退してしまったようだ。そう言われて見れば商品として成立するとも思えない。
昔っから自転車盗難は窃盗事件の中でも桁違いに多数だったし、自転車の事故も多く、私が子供だったころからずっと交通事故の死者の20%程度は自転車のサドルにまたがっていたはずだ。近年交通事故死者全体の数が減ったので自転車運転中の死者の割合は少し大きくなる傾向があったと思う。

葉月は意図的に出鱈目を書き連ねることも多いのだが、単なる記憶違いや勘違いもそれ以上に多いので、気になる方はご自分で調べてください。筆者が調べるのではなく読者が調べる。これがWEB2.0!!(ちょっこし違う)

近年、日本ではあんまり犯罪が減ったので、90年代ぐらいからそれまで件数が多すぎるため統計に入れてなかった自転車盗難も警視庁の犯罪統計に加えるようになったのではなかったか(これもよく調べないで書いています)。
ともかくこの30年ほどの日本での犯罪の減少は半端無くて、特に凶悪犯罪の類、殺人、強盗、性暴力、子供の虐待死など軒並み十分の一ぐらいに減っている。日本人は本当におとなしくなった。考えてみると成人男性のほとんどが武器の使い方を知らなければ触ったことすらないという状態が三世代にも渡って続くというのは一種の社会実験とすら感じる。

昔だったらマスコミが取り上げなかったような子供の虐待死など最近珍しがってマスコミが詳細に報道するので本当に勘弁して欲しい。ほとんどマスコミに接しないように気をつけている私の耳目にすら入ってくるぐらいだ。ああいう報道はどうにかして欲しい。

さて自転車に話を戻すと、東京の街というのは自転車通勤者にとってかなり辛い場所だ。
元来、自転車というのはかなり危険な乗り物で、人や自動車にぶつかりそうになることはほとんどないのに自転車に頻繁にぶつかりそうになる。そもそも見通しの悪い交差点で一時停止するという、交通法規とかマナーとか以前に正常な神経の動物だったら自然に喚起されそうな行動をあえて起こさない人がけっこういる。

自転車は車両なので車道の左側を通行しなければいけないのにそれを守っていない人が多い。
歩道を走る人も多い。これには理由があって原則車道なのに車道自体があまりにも整備されていないので歩道が自転車通行可になっている場所が多すぎたりするのだが。
だいたい所謂ママチャリだって、長い下りの坂道だったら時速100kmぐらい平気で出るのに、無免許で乗れる上にヘルメットが義務化されているわけでもない。そういう乗り物に小学校低学年の子供とか副腎皮質ホルモンの横溢している妙齢のご婦人などがいくらでも乗っているのだ。

様々な困難を挙げ連ねるときりがないが、総じて東京は自転車通勤者にとって優しくない環境であるのは疑いない。それでも自転車通勤者があまり減る気配を見せないのは、自転車がそれほど魅力的だと言うよりは一度自転車通勤を経験すると満員電車に乗る通勤に戻れないからのような気もする。私自身、雨の日にしか電車通勤をしないので単に雨で憂鬱になるのと満員電車の憂鬱を混同している可能性もあるのかもしれないけど。

自転車は危険だらけなので、自転車で無事出社したり帰宅したりすると、それだけで小さな達成感がある。こういう日常のささやかな達成感は心の健康を保つのに有効だという部分もあるかもしれない。
そんな統計があるとは思えないが、電車通勤者と自転車通勤者の自殺率を比較したら統計的に明かに有意な差異が観測されると思う。

ここまで書いてきてふと思い出したけど、古今東西、どんな社会でも独身男性の死亡率と配偶者のいる男性の死亡率は統計的に有意どころか、歴然と差が出ることはよく知られている。奥さんがいるだけで事故死したり病死したりする割合が減じるのである。ほんに奥さんとはありがたいものである。
親愛なる読者諸氏の中には独身の男性俳人もおられることと思うが、とりあえず作句などは自動機械に任せておいて婚活に励むのもよいのではないだろうか。
小さくてころっころっしているの希望、とか、田舎っぽい感じが好き、とか、看護師さんじゃなきゃやだ、とか、若くて眼鏡かけてればなんでもいい、とか、人にはそれぞれ事情があるかもしれないけど、とりあえず結婚しなさい。
死亡率がさがるぞ。

次々と蚤味わうや猿の秋  上野葉月






<句会告知>
来る10月30日(土)、久しぶりに吉祥寺句会番外編を決行します。
今回は”東京で最もおしゃれな街”仙川です。
いつものように挨拶はご機嫌よう、とび入り可、欠席投句可、飲み会のみ参加可。

場所:サイゼリア仙川店
題 :惹、具、リング、仙、川、及び当期雑詠、(ひとり10句まで投句可)
集合:16:00
出句:16:15

清記ののち、16:45からはせんがわ劇場にて某飛び地先生のジャグリング見物。
http://ppqp.web.fc2.com/

18:30
ジャグリングとまったく無関係につつじヶ丘某所で『肉じゃがじゃない会』
サブタイトル:今回は本当に最終回、家具でも食器でもCDでもDVDでも持ってけ泥棒!!

参加表明及び質問は葉月メールかmixiへ。
よろしくお願いいたします。

2010年9月17日金曜日

 ― Moussaka ―



  錨より雫馬鈴薯引く、拾ふ      青山茂根


 横浜の、黄金町あたりから根岸線をくぐっていく、N川沿いの夕暮れの道の物悲しさと、新山下から本牧へかけての、沖縄を始め様々な、しかし小さな料理屋ばかりの灯りが点在する道の深夜の風景を、ときどき見たくなる。なんてことない町の、しかし少し脇道を入ると危なっかしい店も息づいていながら、川べりの灯りの柔らかな光が、不思議な釣り合いを保っていて。それでも、ああ、港町なんだなあ、と感じ入ったのは、ギリシャ料理店の多さだった。現在は閉店してしまった老舗もあるのだが、私が学生の頃は、そのN川沿いや、山下町の裏道あたりにも、ギリシャ人オーナーが開いていた店がいくつもあった。古くから、港に入港する船にギリシャ人船員が多く、彼らが上陸したときに羽を休め、祖国の味を懐かしむ場所として、ギリシャの酒を専門に置いているバーや、レストランが繁盛していたのだという。今は、日本の海運業にギリシャの船が関わらなくなってきたのか、次第に店が減って、もともとのギリシャ人オーナーから、日本人経営の店に変わってしまったところもあるらしい。ゼミの教授を囲んだ会も、確かそうしたギリシャ料理店のひとつで行われ、それもその教授のお気に入りの店とかで、堅い、という印象しかなかった師の、意外な一面を見た気がした。


 「Moussaka(ムサカ)」という料理も、確かそのときテーブルに登場したはずだ。初めて食べたのは、もう少し前、N川沿いのどこかの店だったように記憶するが、その名前の音の響きは、ある小説を、専攻ではない英文学の授業で読んだときに知った。


 数年前に別れた男女が、当時よく食事をした店で偶然再会するという英国の女流作家の書いたストーリーで、普段の自分たちからするとまず入らないタイプの店の、少し庶民的なレストランの描写、それに重ねて女性のほうの心理が、屈折を引き戻すように提示される。


 誰にも見つかりそうにない、どちらかの知り合いが行くようなことはないにきまっている店だったからで、それでいて不便で話にならないというほどではなく、ホーボーンからあまり遠くはない所で、ホーボーンなら二人ともときどき行っても不自然ではなかったのだ。(中略)

 そこに座ると、赤い縞が入った合成樹脂のテーブルの表面と、ごちゃごちゃ置いてある塩、こしょう、マスタード、ソースなどの容器と灰皿を見た。塩の容器が、太いギザギザの線が入ったアクリル製で、口の周りが帆立貝の形になっている安っぽさは忘れようもなかった。

(「再会」 マーガレット・ドラブル著 小野寺健編訳『20世紀イギリス短編選(下)』より 岩波文庫 1987)


 心のどこかで期待している、自分の行動を自己否定しつつ、眠らせてあった本当の感情に次第に肯定的になっていく女性の葛藤が、見事に読者の前にあきらかにされていく筆致は、英国の女流作家の小説に特徴的なものだろう、読んでいる自分も、極小のカメラで胸の内から頭の中まで画面に映し出されている気分になってくる。日本のこの手のテレビドラマの安易な設定とは大違いだ。そして、いつも男性が頼んでいたムサカ!女性のほうは、常にチーズオムレツ。手早く食べられる一品料理であり、どこで食べてもあまり外れが無いから、と書かれているのは、つまり、その男女が、外でゆっくり、特別な食事を楽しむにははばかられる関係であることを指す。そして食事の内容よりも、そのあとの行為のほうに重点がおかれていた、という二人の結びつきの濃さを表して。偶然再会したその店で、<「で、お子さんたちは元気?」>などという会話を交わしながら、後から運ばれてきた彼のムサカから、話は急展開する「・・・まるでプルーストの記憶の世界じゃないか。・・・ムサカの味はきみだ。」>という方向に。


 残念ながらムサカにまつわるそんな思い出のない私は、その、茄子とジャガイモと挽肉、ペシャメルソースの層に、焦げ目のついたチーズの織り成す味を、どこか懐かしく、たまらなく食べたいものとして思い起こすだけだ。<忘れてしまう人間は忘れる>、そんなものかもしれないと思いつつ。(原題:The Reunion) 

2010年9月15日水曜日

何かいいことあったらおっぱい

義理なんだから、勘違いしないでよ!!

ヴァレンタインデーまであと五ヶ月となりましたが、皆さんお元気でしょうか?(さすがにこれほどまでに季節感をないがしろにした挨拶だと現○協はともかく○人協会あたりからは苦情が来そう)

それはそれとして、
今のは失敗じゃなくおっぱいだと思え!
所謂bakegirlsの中ではやっぱり神原がお気に入り(フィギアとか買ったことのない私だけどネンドロイド神原は欲しい。誰か誕生日にプレゼントしてくれないかなあ。自分で買えとか言われそうだが)。

柄にもなく先日マーケティング関連の本を読んでいたら、その本の主題とは直接関係ない話題だったのだけど、「第二次大戦での日本の損失を経済的に計算すると当時の貨幣価値で600億円に相当。所謂バブル崩壊後十年間の日本の経済的損失は1800兆円に相当。貨幣価値の違いを考慮して計算し直してもこの十年に大戦の経済損失の2倍以上の損失を被っている」というような記述が目を引いた。
80年代後半以降の日本の金融自由化を「第二の敗戦」と呼ぶ人はけっこういるけど、銃声一発鳴らなかった継続的信用崩壊の損失が、日本中の大都市が焼け野原になったあの大戦の損失を上回るというのはさすがに実感が沸かないものだ。
もっとも日本を代表するワーキンプアとしてこの十年ほども辛苦を舐め続けている葉月としては、経済的流血は一向に治まる気配がないように肌で感じる部分もある。
2002年から2007年の6年ほど、日本企業の収益は伸び続け“いざなぎ景気越え”とマスコミから無理矢理呼ばれたりもしていたのに生活は苦しくなる一方で、おそらく私のような非正規な人間(?)じゃない普通に働いている人たちにも充分流血感を覚えることは可能だったように思う。

日本は1990年代からこっち長期金利2%以下という状況が続いているが、先進国(アクティブな産業国?)が10数年以上に渡ってこういう状態に陥るのは17世紀初頭のイタリア・ジェノバでの金融恐慌以来の実に400年ぶりの異常事態だったりする。失われた10年とか20年とか言っているが要するに近代以降の人類にとっての初めての危機に直面しているということだ。

あのペテン師というレッテルを千回貼り付けたところでおつりが来そうな(前FRB議長)グリーンスパン氏は2008年の経済危機に際して「100年に一度あるかという危機」だと表現したそうだが、実際のところ日本についてはその10年前から「400年に一度の危機」だったのだ。

そもそも銀行(近代金融)というのはイタリア人が始めたもので、それはもうイタリア人が考え出したぐらいだから皆も想像付くとは思うけど「いい加減」と「その場しのぎ」をダ・ヴィンチがデッサンした上にミケランジェロが彩色したようなものすごい出来映えのシステムである。
あんまり不安定なものだから、その後、大航海時代、ルネサンス、産業革命、帝国主義、グローバリズムなど控えめに表現してもかなり傍迷惑だと言える副産物を生み出し続けることとなった。
まあそれくらい銀行というのは人類の近代の本質にかかわるシステムなのだ。大抵の国で大銀行が破綻しそうになると、財政危機で鼻血も出ないと日頃言っている癖に普通の人間にはとても実感できないような巨額の税金を投入して銀行を救済するのも、市民の生活苦よりも国家の存続よりも、銀行というシステムが人類の近代の根幹をなすからである。

現在の産業社会で日本はトップランナーであり、今日の日本で起きていることは明日の世界のいくつかの国の姿なのだと私は(不安と微かな不快感をもって)主張する機会が多いのだけど、やはり日本の今後には期待してしまう向きもある。
日本人の得意技、積極的な引きこもり。鎖国政策と表現してもいい。私はあえてローカリズムと表現したいが。

金融危機とは危機であると同時に金融の軛から逃れるチャンスでもある。

人類の近代は地球上の工業製品を溢れさせ、同時に豊穣な文化の多様性を根こそぎにしてきたが、まだまだ手遅れだとあきらめることはないと思う。

数十年では無理だとは思うが、数世代に渡って慎重かつ丁寧に事を運んでいけば、日本はまた独特な文化を保持する多くの人間の関心を引かない取るに足らない貧乏な島国に成り上がることも可能だと信じる。ほとんど尊皇攘夷と言っていることは変わらないが、さらに言えば地域貨幣のみの流通で経済圏を縮小できればそれにこしたことはないと思う。正直なところ国家なんてものはせいぜいシンガポール程度の大きさでも大きすぎるぐらいの印象がある。それはそれとして、情報についてはともかく人と物と金融の移動をかなり制限できれば、人間はこんなに過剰な生産と消費に追われまくられず、少しはのんびりと雑談に興じたりする暇を持てそうだ。

数世代後には世界中の多くの国や地域が同様の価値観(物を捨て時間を取る)で行動するようになるかもしれない。かつてジャパン・バッシングならぬジャパン・パッシング(PASSING)だと言われた時期があった。今後も努めて身を低くしてスルーされ素通りされ続けるのが良いのではなかろうか。とりあえずこのような方針をガラパゴス・プロジェクト(仮)と名付けておこう。

遮断機のゆるりと降りる星月夜  上野葉月

2010年9月11日土曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(14)

Twitter読書会『新撰21』 

第十四回「相子智恵+甲斐由起子」



Twitter読書会『新撰21』第十四回の開催をお知らせいたします。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。

第十四回は相子智恵さんの作品「一滴の我」と、甲斐由起子さんの小論「美しき諧謔」を取り上げます。


「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)

また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。

■第十四回開催日時:2010/9/18(土)22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。



■お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

■参考情報ほか:
・第一回読書会のまとめ
・第二回読書会のまとめ
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・第六回読書会のまとめ
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・第十一回読書会のまとめ
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新撰21情報(邑書林)

・『新撰21』のご購入はこちらから

2010年9月9日木曜日

 ― 感傷ではなく ―


  

  濯ぐとき乳房弾みて麥萌えだす    森澄雄   『雪櫟』   

  法華寺の甍の雨の秋の晝        〃     『游方』 

  白桃や満月はやや曇りをり        〃     『雪櫟』

  谷川を手毬流れ來誰が泣きし       〃    『所生』 

  鈴蟲の夜更けのこゑも飼はれたる    〃    『鯉素』

   (『森澄雄の107句』 上野一孝編 舷燈社 2002) 


だいぶ前に頂きながら、なかなかお礼を申し上げられなかった一冊(ありがとうございました)。先頃亡くなられた森澄雄氏の句に、その俳句会に集った方たちが鑑賞を書いている本だ。

・・・毎月の句会には自分の作品を持参するだけでなく、森先生の句集を毎月一冊づつ決め、そこから自分の好きな十句を選んでくること、さらに一句鑑賞を書いてくることをお互いの宿題とするようになった。そして句会では、会員の作品の合評の後に、澄雄句の鑑賞文の読み合わせも行うようにして、今年のはじめには、これを第一句集『雪櫟』から最新の第十二句集『天日』まで終えることになったのである。( 『 同 』 「はじめに」より)

他の誰かの句を、読み込み、鑑賞を書く。出来れば、同時代より前の。同世代の句なら、割とたやすく読み解けるが、違う時代に詠まれた句を理解するには、言葉について、その背景について、調べることも出てくる。この一冊のように、師の句について、という場合もあるが、これを続けていくと、自分自身、読みの幅に、俳句の世界観に、広がりが生まれる気がする。そこからまた、同時代の句を読んでみると、新たな鑑賞も見えてくるのかもしれない。

  斑雪野も末黒野もあり遍路かな    森澄雄   『白小』

・・・斑雪野や末黒野から、読者は、広々とした空間を想像するとともに、早春に残る冬の名残を感じずにはいられない。これらは《時間》の流れを内包した季語なのだ。そしてこの《時間》は、遍路それぞれが歩く旅の時間、そして人生の時間とも重なって来る。(上野一孝氏の鑑賞から)


読書会、ツイッター上を日々流れていく様々な句、あるテーマでの皆の競詠の様などをぼんやり眺めていて、ふと思った。575なら、短ければ、テーマが入っていれば俳句?俳句の遊びの要素も確かに楽しい、現代の情景を切り取ることも魅力だが、全てを語り尽くしていたらそれは俳句ではないのかも?いひおほせて何かある?まだ見えぬその何かを日々追って。と言いつつも、言葉で遊んでいるだけかも?







秋蝶のやうに我が胸にも触れよ              青山茂根

2010年9月8日水曜日

何かいいことあったらいいです

残暑お見舞い申し上げます。今年に限っては酷暑お見舞いという言葉を使いたいぐらいですが。

あんまり暑いせいからなのかもしれないけど、とことん自分が大抵のことに忌み疲れているようにふと感じました。
生活は安定せず、相変わらず住所不定だし。三界に家なしとは私のような者のための言葉であるかの如く。
友人の中には私がこんな状況を楽しんでいるのではと勘違いしている向きもないわけではないのですが、正直に言わせてもらえば飽き飽きです。
本当に疲れるばかり。しかも回復力が低下しているし。我ながら本当に愚痴っぽくなったなあ。
若い頃は憂鬱が嵩じて自殺するぐらいなら、気晴らしに人でも殺して刑務所に入るぐらいの方がましだと考えられるような人間だったけれど、もうわざわざ人を殺すような元気もない。

考えてみると、これまで惜しみない賞賛に彩られた清廉潔白な人生を歩んできたのは、悪行を重ねて後ろ指をさされるような生活を送ったら両親が悲しむだろうということだけが倫理的な抑止力になっていたためのような気がする。ところが実際に親が死んでしまうような年齢になると、よくしたもので、悪行を重ねるだけの体力もない。
こういう場合、子供の存在というのはあまり抑止力を持たないように思う。私が逮捕されたりしたら子供達は迷惑には感じるだろうけど、あんまり悲しむような印象がない。いずれにしても犯罪に走る元気もないのでこうやって気晴らしに投稿したりしているわけだけど。
家族というのは本当に不可解なものだ。以前どこかに「人類を極端に自己家畜化の進んだ動物であるとする定義はけっこう有効」みたいなことを書いた憶えがあるけどやっぱり「人間は結婚する動物」だよなあ。
昨年『親族の基本構造』を読み返したばかりだけど、また読みたくなってきた。

ご存じのように私の俳号は葉月だが、だからと言って別に八月が好きなわけではないし、今年の八月は何しろ暑苦しくて何もやる気になれなかった。
それでも気になって八月中ずっと追いかけていたニュースがあった。
イラン初のブシェール原子力発電所。
燃料はIAEAの監視下に置かれる方針も通り、8/21には核燃料の装着作業開始ということで、21日までにイスラエルによる爆撃を危惧する声が各方面から上がっていたのだけど、とりあえず爆撃がなかったのは僥倖と言える。
何しろイスラエル空軍にはすでに完成間近のイランの原発を戦闘機で空襲・破壊した前科がある。あれは米国ではレーガン大統領の二期目だったからもう30年くらい前だ。

今回はイスラエル外務省が非難声明を出しただけにとどまっている。このまま進めば無事稼働に漕ぎ着けそうな気配。

イスラエル-英国-米国という連合の相対的な政治力の低下がまた顕わになった印象も強い。
そういえば6月にトルコ船舶をイスラエル軍が攻撃したとき、欧州各国のマスメディアが強い論調で非難したのも記憶に新しい。
本来、欧米のメディアでイスラエル批判を目にすることは少ないのは、ユダヤ系の影響力が強大なせいもあるのだけど、それ以上にどんなにニュートラルな報道に努めても、極右(反ユダヤ主義)または極左(親パレスチナ?大アラブ主義?イスラム原理主義?)どちらかに大きく振れた記事だと見なされてしまう雰囲気が色濃かったせいもあったと思う。どう転んでも極(エクストレーム)っぽく取られてしまう。それが6月にガザ支援トルコ船舶への軍事行動が正々堂々(?)と大きく非難されたのは私には時代の変化を如実に感じさせる出来事だった。
「ユダヤ人が二人集まると政党が三つ出来る」という諺もあるくらいで、ユダヤ人は一枚岩ではもちろんないし反シオニストも少なくないというややこしい状況もあり物事単純に考えるわけにはいかないのかもしれないけど猛暑で考える体力がない。

いわゆるリーマンショックの数年前ぐらい、00年代前半から、アメリカ外しとでも呼ぶべきものが国際的に拡がっている印象は相変わらず強い。というかすでに「アメリカ以後」の時代に入ってしまっているのかもしれない。
日本に住んでいるとどうしてもインドや中国の経済的な影響力の拡大にばかり目が行ってしまう傾向があるけど、この数年のイランやロシアの政治的影響力の強さはとても気になる。

どろ沼を求めて涼し河馬の秋  上野葉月

2010年8月29日日曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(13)

Twitter読書会『新撰21』 
第十三回「豊里友行+高山れおな」

Twitter読書会『新撰21』第十三回の開催をお知らせいたします。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。

第十三回は豊里友行さんの作品「月と太陽(ティダ)」と、高山れおなさんの小論「沖縄のビート」を取り上げます。

「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)

また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。

■第十三回開催日時:2010/9/4(土)22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

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・第二回読書会のまとめ
・第三回読書会のまとめ
・第四回読書会のまとめ
・第五回読書会のまとめ
・第六回読書会のまとめ
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・第十一回読書会のまとめ
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新撰21情報(邑書林)

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2010年8月27日金曜日

 ― 使者と秋果 ―

  獣らを呼ばむ秋果の水辺へと      青山茂根




キャンプから帰る。いつもの清流沿いのキャンプ場ではなく、検索で探した、北関東の山間の沢沿い。木立のなかに、点々とテントサイト、傍らを流れが、という地が好み。着いてみたら、源流ともいえる、湧き水の水量が多いため沢となっているところだった。その先に川はない。都内より涼しい、といっても例年より3,4度気温が高い夏、とのことだが、標高が高いため梅雨もなく、集中豪雨を降らせる雨雲も、雷雲ももっと下なためその地には雷も落ちないのだとか。緑の風景の中に、遠近に白樺あり。

湧き水の流れが、冷たすぎて、川遊びが5分ともたない。生き物も、あまりに水がきれいなためいない。脇の、くぼみに溜まって少しよどんだところに、オタマジャクシと蛙が少し。岩の合間の流れがゆるいあたりに、沢蟹が少し。沢をせき止めて、池をいくつか作り、そこに岩魚や虹鱒を泳がせて釣堀状にしているが、底の水草の繁茂が美しすぎて、見とれる。様々な蝶が、飛来する。地に近く、捕まえられそうで、危ういところで逃げられてしまうのが、秋の気配。まだ小さな髪切虫が、あまりに見事な模様をしていて、驚く。

湧き水の味は、ひとたび味わうと忘れられない。沢水で食べ物や飲み物を冷やすのもすこぶる美味だが、味わっていたら、熊が寄ってくるから止めて欲しい、との注意を受ける。普通に、熊が出るらしい。コンビニを訪れることもあるという。重く稲穂の垂れた緑の田が眩しい。道路脇には猿を見かけた。夜間は多数の鹿の親子が両脇に草を食みにくると。夜のテントの中で、大きく激しく聞こえるが実はたいしたことのない雨音、沢の流れ、何かの動物の叫ぶ声に耳を傾ける。鹿らしき声は、まだしないようだ。清流過ぎるのか、河鹿も聞こえない(あるいは時期か。東京の端でも、7月には聞ける)。ホタルには少し遅い。満月の下の灯火へ、甲虫や鍬形も寄り来る。灯取虫とは飛び方が違うのが、哀れを誘う。電灯の明かりを月と間違えているか。帰れない使者のようで。

2010年8月20日金曜日

 ― 『点る』 記憶 ―

「箪笥の底の・・・」というよく知られた句がある。皆、ある程度の年齢を超えると、そんな共通する何かを、どこかに隠してあるものだろう。自分が、というわけではないのだが、母の桐箪笥の引き出しには、多少着物類が仕舞ってあり、すでに着ている姿はほとんど見かけなかったが、時折虫干しに広げるたびに、そっと触れさせてもらうのが幼い頃の楽しみだった。といっても、既婚者の箪笥の中はさっぱりとした柄が多くて、そもそもふわふわした色の訪問着などは私の好みでなく、小さい頃から花柄といったものも好かないのだが、ひとつだけ、どうしても欲しくて仕方のない着物があった。それは、黒の絽の着物で、ところどころ、赤や白や青の水玉状の色を散らしてある薄絹だった。大きくなったらこれ着る、絶対頂戴、と一人で言い張っていたのだが、母には相手にしてもらえなかった。思春期を迎えた頃か、もうそろそろそれが着られるくらいの背格好になったか、という頃に、思い出して母に進言してみると、あれは、祖父がもらったものだから、と言う。もうとうに亡くなっていたが、祖父が戦後都内に店を出していた頃に、どこかの芸者さんか誰かから譲られたらしい着物だ、というのだ。粋筋の人の好みのものだし、絽は時期が難しい、それに何十年も仕舞いっぱなしで、手当てをしないと。母はそういって、そこらの学生風情の着られたものではないと話を打ち切ってしまった。


小林苑を氏の句集『点る』より(ありがとうございました)。どこかに昭和の記憶を留めた句が、あえかな叙情とともに読み手に迫る。しかし、甘さではなく、この世の不可思議さといったものに、常に焦点が合っているような。


  群青の水着から伸び脚二本


  遠泳の母の二の腕には負ける


  すかんぽやこの家は傾いてゐる


  父の日のグラビアに横たはるべからず


  姉さんを剥けばつひには梨の芯


  目をつむる遊びに桜蘂降れり


「群青」の句、十代のスクール水着姿を題材にしながら、思春期特有のナルシシズムとはおよそ対極にある詠みぶりだ。むしろ、実際の心理は、こんな風に、自らが変貌している途中の肢体への違和感であったのではないか。手塚治虫の『ふしぎなメルモ』で、子供から一気に19歳の身体に変わったときの脚、『不思議の国のアリス』の中でいきなり天井に頭がぶつかってしまったアリスがはるか彼方の我が足を見下ろしているような、そんな疑問を形にした句とも思える。

「目をつむる遊び」、少々シニカルとも言える視線の句の中で、そこにエロスの萌芽といったものが付加されている句も多く見受けられる。「桜蘂」は、長くたっぷりとした睫毛をも想起させて、目をつむり待つ行為とは?と、胸のどこかに皆が持つ記憶を呼び覚ます。


  自転車に乗つて巣箱がやつて来る


  東京タワー崩るるほどの熱帯夜


  あれは夜汽車とひまはりの囁きぬ




  ふらここの縛られてあり常夜灯

(小林苑を 句集 『点る』 ふらんす堂 2010)


 「自転車に」の句、そういえば、昭和期のドラマや映画の中では、様々なものが自転車の荷台にくくりつけられて運ばれていた。大きな出前持ちなどは今でも見られるだろうが、ビールケース、書店の配達、ちょっとした距離の物の運搬なら、一般家庭においても、何でも自転車に乗せて行ったのだ。その頃の、隣人同士の繋がりといったものも描き出して、懐かしさの中に、現代の人間関係の希薄さを炙り出す。


「東京タワー」、常に、現代の都市生活を詠みながら、そこに現れる季節の移ろいをありのままに、飄々と、恬淡と、詠む。技巧を感じさせないようでいて、この句も、「崩るる」の形容が、熱帯夜の、湿度の高い大気の中で見上げる東京タワーの灯のゆらぎを描き出して、鉄が溶解するほどの夜の妖しさの幻影とともに、印象に残る。


己の経てきたたくさんの時間と記憶を、チューブから搾り出すかに少しづつ俳句に乗せていく楽しみが溢れていて、羨ましくなる句集だった。自分の中にはまだ少ししかない濃密な時代を、どうやって補っていくか、だろうか、遅れてきた我々に出来ることといえば。











  





  





  

2010年8月17日火曜日

何かいいことあったらごめんね   上野葉月

(今回は前回の続きではありません)
日本人が生の魚を食べることはよく知られているけど生卵を食べることはあまり知られていないような気がする。「卵が先か鶏が先か」ということより「攻めが先か受けが先か」というようなことが気にかかる夏も過ぎ去ろうとしておりますが皆様お変わりありませんか(たまには俳人らしく季節の話題)。

このあいだ『わたしたちは皆おっぱい』第一巻の登場人物紹介を見ていて気付いたのだけど、いつの間に「委員長といえば巨乳!」ということになってしまったのだろう。本当に私を置き去りにして全ては通り過ぎていく。
それにしても巨乳という言葉が登場したのは確か1980年前後だったと記憶している。が、まさかこんな下世話な日本語は定着しないだろうと思っていたのだけど、すっかり定着してしまいましたね。全ては私を置き去りにして……。

ところで久方振りに『電脳なをさん』の単行本が出ました。『電脳なをさんVer.1.0』。『新・電脳なをさん①』以来実に六年。
やっと出たと喜んだのもつかの間、その内容たるや単行本未収録の約300話中、最近の127話のみの収録という事態。いくらなんでもあまりといえばあまりにも不憫な。唐澤なをきの単行本ってそんなに売れないのだろうか?
いくらなんでも可哀想マックス(ご先祖さまありがとう)。お兄さんは刺されるし(刺されたのはお兄さんではなく相方です、念のため)。

連載で読んでいて『電脳なをさん』がどこからも訴えられないのが不思議だったのだが、要するに誰も読んでいないってことなのか?
「こんなときウォズニアックがいてくれたら」と遠い目をするスティーブ・ジョブスがあまりにもキュートなものだからきっと全世界のマック信者が買い揃えておかずにしているものだとばかり信じていたのに(念のため断っていきますがいくら私でもそこまでは考えません)。手塚オナ虫先生や麻宮再起動、黒井リサなども印象的だけど『電脳なをさん』のジョブス素敵過ぎる。最高です。何か人類の新しい夜明けを感じさせる。
『電脳なをさん』は連載で読んでいる分には、開いた口が塞がらないと思うこともしばしばありますが、こうやって単行本で読むと作者の恐るべき漫画的蓄積に圧倒されます。あの競争心旺盛で嫉妬深かった手塚治虫が大友克洋に対して「あなたの画の真似ならできるけど諸星大二郎の真似はできない」と言ったとか言わなかったとかいうやや喧伝されすぎているエピソードなどもつい思い出してしまう。
二ページとは云えこんな超弩級の週刊連載が十年にも渡って続いてしかも現在も継続中とは。まあ第111話の「だがこれはけっして手抜きではないのだ。週刊連載とはそれほど奥が深いものなのだ…」というアオリを見て以来私の中では連載中であるにもかかわらず完全に伝説の連載マンガではあるわけですが。身の置き所がないような襟を正さなければならないような気分になります。「マンガの神様」という称号は唐澤なをきのために用意されたものではないのだろうか?

なんでもあとがきに拠るとこの『電脳なをさんVer.1.0』がそれなりに売れたら追って『電脳なをさんVer.0.9』、『電脳なをさんVer.0.8』も出るとか。今までhaiku&meでマンガやアニメを話題にするとき特に買って欲しいとか読んで欲しいとか思って取り上げたわけではなく単に話題にしたかっただけなのですが、『電脳なをさんVer.1.0』ばかりは読んで笑っているだけにはいかない。Sara句会の参加費と同等の1K程度の円でこの傑作が手に入るのです!
これは買ってください。よろしくお願いします。

冷麦に女座りのふたりかな  上野葉月



2010年8月16日月曜日

結社誌と同人誌

ミュージシャンのエピソードで好きなものの一つに、ムーンライダーズもはちみつぱいも結成前の鈴木慶一が「5人目のはっぴいえんど」になるかもしれなかったという話がある。ぼくが記憶していたのは、目黒のトンカツ屋で、大滝詠一と細野晴臣から「好きなバンドを3つあげよ」と言われ、鈴木慶一がその中に「CCR」を入れたため、加入はならなかったというものだったが、いまネットで調べてみたら、事実は違っていたようだ。

れんたろうさんが運営する「名曲納戸BBS」の、2008年6月3日の投稿に、鈴木慶一のラジオ番組に大滝詠一がゲスト出演したときの模様を文字起こししたものが掲載されており、そこでこの件について語られている。引用させていただく。

光岡ディオン: 二人の最初の出会いは?
鈴木慶一: 細野さんの家だったと思う。ギターでG→Emに行く中で、オレ、F♯を入れた。で、コレいいんじゃない、ということになった。
大滝詠一: (G→Emに行く流れで)経過音を入れるのは、センス。教えられるもんじゃない。細野さんが、奴はF♯を入れた!って、言ってた。
鈴: で、メンバーに入れようということになって、(はっぴいえんどのメンバーと)日比谷の野音に出た。
大: すると、正式メンバーにしようかどうしようか、となるわけ。目黒駅の近くのトンカツ屋で、「入団テスト」をした。
鈴: 質問が来るの。大滝さんから。ツェッペリンとザ・バンドとクリムゾンとでどれが一番好きだ?って。
大: それ、細野さんが聞いたと思う。
鈴: ザ・バンドって答えると、じゃあ、ザ・バンドと○○と○○○とではどれが好きかって。バッファロースプリングフィールドが候補にずっと残ってて、(3択候補の中に)CCRが入ってきて。で答えるのに2秒くらい間が開いた。そしたら大滝さんから「ほんとはCCRが好きなんじゃないの」と言われて。つまった。
大: 人生のターニングポイントだったんだよ。
鈴: 3年で終わるバンド(はっぴいえんど)と30年続いてるバンド(ムーンライダーズ)で…。
大: それで良かったんじゃない。
鈴: あの時、分岐点にいた、ということが分かったよ今。
大: 帰りに細野さんと「CCRじゃなー」って言った記憶がある。

このエピソードから、ふと俳句の同人誌を思った。
俳句の発表の場として、商業誌の他に、結社誌と同人誌がある。個人誌というのも、広義で同人誌に入るだろう(結社誌というのも、主宰の個人誌という側面があるけれども)。主宰、つまり師匠のもとに集い、指導を受けるのが結社誌で、同人誌は各同人が対等であるというのが、大きな違いということになるか。ただ、結社にも「会員」と「同人」がいて、同人は主宰の選を受けないということもあるらしいし、同人誌でも代表者が添削したり選をする場合もあるらしい。つまり、はっきりとした境界があるようで、ない。趣味趣向や主義主張、志を同じくする者が集うという意味でも、結社誌も同人誌も同じだろう。

ぼくが考える結社誌と同人誌の違いは、結社誌は誰でも入会できる、初心者歓迎だけれども、同人誌は、誰でも良いというわけではない、ということではないかと思っているのだけれど、どうなのだろうか。創刊同人以外は、冒頭の「入団テスト」のようなものが行われているのではないかと、想像しているのだが。「金子兜太と波多野爽波と高柳重信では誰が一番好きか」という三択が続いていく、というような。

かく言うわが「haiku&me」も、同人誌である。もちろん、「入団テスト」があった。中村安伸さんとぼくは、青山茂根さんから、「好きな俳人を3人あげよ」と言われたのだ。

一人ずつ行われたので、安伸さんが誰をあげたのかは知らないが、難なく同人になったようである。しかしぼくは、つい、自分の師匠である小澤實の名をあげてしまった。自分の師匠の名をあげるなど言語道断、それこそ「CCR」以下である。茂根さんは、しばし黙考したのち、なぜ小澤實をあげたのか理由を尋ねた。ぼくは自分の失敗を察し、弁明に必死になった。「逆に」を連発したのを覚えている。その姿に苦笑しつつ、寛容なる茂根さんは、仲間に入れてくれたのである。





というのは、冗談です。真っ赤なウソです。入団テストなんてありません。すみません。でも同人誌って、バンドみたいであってほしいなと思う。だいたい同人誌って、寿命短いし。そこからソロに転向するとか、別のバンドを組むとか。ローリング・ストーンズやムーンライダーズのような長寿バンドもあるけれど。その場合、バンドがプラットフォームになるわけで、むしろ結社誌に近いか。

旧作より。

 秋立つやペンギン群れて腥き  榮 猿丸

2010年8月15日日曜日

haiku&me特別企画のお知らせ(12)

Twitter読書会『新撰21』 
第十二回「北大路翼+松本てふこ」

しばらく夏休みをいただいたTwitter読書会『新撰21』ですが、第十二回の開催をお知らせいたします。
※Twitterについての詳細はこちらをご覧下さい。

この企画は『セレクション俳人 プラス 新撰21』より、各回一人ずつの作家と小論をとりあげ、鑑賞、批評を行うものです。全21回を予定しており、原則として隔週開催いたします。

第十二回は北大路翼さんの作品「貧困と男根」と、松本てふこさんの小論「カリカチュアの怪人」を取り上げます。

「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)

また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。

■第十二回開催日時:2010/8/21(土)22時より24時頃まで

■参加者: 
haiku&meレギュラー執筆者
+
どなたでもご参加いただけます。

■ご参加方法:
(1)ご発言される場合
Twitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
ご発言時は、文頭に以下の文字列をご入力ください。(これはハッシュタグと呼ばれるもので、発言を検索するためのキーワードとなります。)
#shinsen21
※ハッシュタグはすべて半角でご入力ください。また、ハッシュタグと本文との間に半角のスペースを入力してください。

なお、Twitterアカウントをお持ちでない方はこちらからTwitterにご登録ください。(無料、紹介等も不要です。)

(2)傍聴のみの場合
こちらをご覧下さい。

■事前のご発言のお願い
(1)読書会開催中にご参加いただけない方は、事前にTwitter上で評などをご発言いただければと思います。

(2)ご参加可能な方も、できるだけ事前に評などを書き込んでいただき、開催中は議論を中心に出来ればと思います。

(3)いずれの場合もタグは#shinsen21をご使用ください。終了後の感想なども、こちらのタグを使用してご発言ください。

■お問い合わせ:
中村(yasnakam@gmail.com)まで、お願いいたします。

■参考情報ほか:
・第一回読書会のまとめ
・第二回読書会のまとめ
・第三回読書会のまとめ
・第四回読書会のまとめ
・第五回読書会のまとめ
・第六回読書会のまとめ
・第七回読書会のまとめ
・第八回読書会のまとめ
・第九回読書会のまとめ
・第十回読書会のまとめ
・第十一回読書会のまとめ

新撰21情報(邑書林)

・『新撰21』のご購入はこちらから

2010年8月13日金曜日

 ― 着物の『アングル』 ―

 角を曲がると、いつも三味線の音がしていた。勤め始めた頃、会社があった辺りはまだ色街の面影を残していて、大物政治家が車で毎夜乗りつけるという超高級料亭の黒塀もあったが、表通りに面していた会社の建物の脇を入ると、三味線のお師匠さんの家があり、いつもお稽古の音が聞こえた。草履を商う店、足袋や帯紐などの和装小物の店や、季節ごとの着物や帯や反物で表を飾る店も何軒かあったし、洗い張りや染物の暖簾もまだ見かけた。祭りのときには山車に乗った芸者衆のお姐さんたちを、休日出勤の会社の窓から見下ろしていたものだった。いつの間にか、そうした店が一軒、二軒と消えていき、よくある繁華街と大して変わらない街になってしまい、そうして自分も勤めを辞めた。

 向いの席に久保田万太郎さんがいらっしゃって、
「あれ、幸田さんもう帰るの、もう少しいいでしょう」
と声をかけて下さったのにお辞儀をして、出口の方へ行こうと、ぐるっと体を廻して立ち上った、と大向うから声がかけられたように、
「ああいい取り合せだ、如何にも江戸の女だね。振りの赤がきれいじゃないか」人の目が”振り”に集まった。
     (『幸田文の箪笥の引き出し』 青木玉 著 新潮社 平成7年)

 劇作家であり、長く演劇界に君臨した俳人久保田万太郎にまつわる、幸田文の思い出話。その俳句からも滲み出る、粋、というものが伺えて、心楽しくなるエピソードだ。そのときの幸田文の着ていたものは、<何時もの間違い無しの紺の縞のこまかいものを着て、その季節に合った染め帯の極くあっさりした取り合わせ>だったが、<この着物を作った時、あんまり地味になるのもつまらない、袖の振りのところだけもみを付けて、年をとっても赤い色のかわいらしさを楽しんだのを見付けられてしまった>のだ。対照的な、明確な色の別布を袖の裏側にだけ付ける、着物の遊び心だろうか。

 先日届けられた、小久保佳世子氏の句集『アングル』から引かせて頂く(ありがとうございました)。色彩の対比への視線、諧謔味がとても印象的な句集なのだが、着る物を素材にした句が多くあり、しかもその取り合わせ・着眼点が滅法面白い。

  一万歩来てぼろぼろのチューリップ

  蝶止まる広場のやうな背中かな

  アロハシャツ着ると十歳年を取る

  衣更へて高所作業の男なる

  舟遊び殺すなとTシャツにあり

  外套を放るやシャドーボクシング

  毛皮着て東京タワーより寂し

  鶴帰る頃かマフラー仕上がらず

  纏はずに湯舟を洗ふ豊の秋

  来賓のコート次々壁の中

  窮屈な夏帽の中考へる

  白シャツからアフリカの腕伸びてをり

  秋祭かくも羨ましき汚れ

     (小久保佳世子 句集 『アングル』 金雀枝舎 2010)

 生涯和服で通し、晩年の幸田露伴の着物の支度ばかりでなく、自身も様々に和服を着こなして小説や随筆を残した幸田文の視点を少し彷彿とさせる。どこかに芯の通った、伝統的な日本のセンスの心地よさ。一歩引いたお洒落心を感じるのだ。俳句、こんなに楽しいものでもあったのかと。


  
 
  
  

2010年8月11日水曜日

初心者連句入門 第3回 自他場について   葛城真史

自他場

 連句の句は、「人情句」(にんじょうく)と「場の句」(ばのく)にわかれる。「人情句」といっても、この場合の「人情」は「人の情け」ではなく、単に「人が詠み込まれている」ということ。「場の句」は、風景句および人が詠まれていない一切の句である。
 「人情句」はさらに細かく、「自分」が詠まれている「自の句」、「他人」が詠まれている「他の句」、「自分」と「他人」が詠まれている「自他半の句」の三つにわかれる。鉤括弧付きで「自分」「他人」と書いたのは、特に前者の場合、現実の自分自身である必要はなく、「主観的」(「他人」は「客観的」)と置き換えてもよいからである。
 以下、それぞれの例句を挙げてゆく。

自の句

  天金の歌集ひもとく月明に   篠見那智

(胡蝶『満ち干の落差』より  平成17年3月27日)

 「天金」とは本の上部に金箔が貼られていること。日本語の文章においては主語が省かれた場合、動詞の「動作主」は、前後の文脈による示唆がなければ、基本的にそれをつづった人(=「自分」)ということになる。したがって、ここでは月明に歌集を「ひもとく」のは「自分」であり、決して「他人」が「ひもといている」わけではないのである。

他の句

  両国を渡る其角の若かりき   市川千年

(胡蝶『吊し雛』より  平成18年2月26日)

 「其角」という明瞭な「他人」が詠まれている。俳句をやる方には説明ご不要であろうが、「其角」とはむろん、芭蕉の門人、宝井其角のことである。

自他半の句

  「もう少し歩きたいの」と由比ヶ浜   兎弦

(ソネット『久米仙人』より  平成20年3月23日)

 恋の流れで出てきた一句。「もう少し歩きたいの」というのは、もちろん彼女が彼氏に対して言っている(あるいは草食男子のセリフかもしれないが)のであり、言う「自分」と聞く「他人」がいるので、これは「自他半の句」ということになる。

場の句

  花万朶タンカー遠く動かざる   川野蓼艸

(胡蝶『吊し雛』より  平成18年2月26日)

 海沿いの桜並木。コントラストが見事な風景句である。
 先に触れた通り、風景句でない「場の句」もある。

  いつのまにやら足りぬジョーカー   葛城真史

(歌仙『海境を来る』より  平成17年7月24日)

 これは短句。具体的な風景が詠まれているわけでもなく、かといって人間が詠まれているわけでもないので、「場の句」になる。

「三分の理」

 いくつか例を挙げてきたが、実は私自身、あるいは私が参加している草門会自体、そこまで厳格に自他場にこだわっているわけではない。連句協会の常任理事でもある蓼艸さんは、口癖のようにこうおっしゃる。

 「自他場は”三分の理”があればよい」

 つまり、屁理屈でも何でも、一応説明がつくなら、自他場をどう解釈しようが自由なのである。実際、「三分の理」によって自由に解釈が変わる句もある。例えば先に挙げた「ジョーカー」の短句は、「場の句」であるとしたが、「いや、ジョーカーが足りなくなったことに気づいた『自分』がいるのだ」と言えばたちまち「自の句」にもなるし、「トランプ遊びを皆でしているのだから……」と言えば、「自他半の句」にもなるのである。
 ちょっといいかげんだと思われるかもしれないが、要はあまりガチガチに自他場にとらわれるよりは、連句自体の面白さを優先し、もっと柔軟に考えてもよいということである。
 さらにいくつか例句を挙げる。

  心地よき英語教師の鼻濁音   村田実早

(胡蝶『梅雨の満月』より  平成17年6月26日)

 「心地よき」と感じている「自分」と「英語教師」がいるので「自他半の句」ということになるが、「心地よき」は、あくまで「鼻濁音」に対しての形容にすぎない、と解釈すれば、これは「他の句」ということになる。

  遠方の客柿提げて来る   川野蓼艸

(胡蝶『満ち干の落差』より  平成17年3月27日)

 「客」のことを詠んでいるのだから「他の句」といえるが、いや、「客」を迎える「主人(=「自分」)」がそこにいるのだといえば、「自他半の句」であるともいえる。

  草原を東へ駆ける蒙古族   葛城真史

(独吟歌仙『猿の横顔』より  平成15年秋)

 「蒙古族」がいるので「他の句」であるが、これは具体的な人物がいない、いわば「歴史の風景」なのだといえば、「場の句」であるという解釈も成り立つ。

 このように自他場の解釈は「三分の理」でどうとでもなる場合も多い。なぜそのようなことをするのかというと、自他場は「打越」にかかわってくるからである。
 次回は、その「打越」の話をしたい。


 ワールドカップに浮かれたりなどしつつ、あっというまに前回から三ヶ月以上、間が空いてしまった。その間、この卑小な稿の存在などまったく忘れ去られていたことと思うが、もし1人でも続きを気になさっている方がいらっしゃったら、本当に申し訳ない。これから気分を新たに再起動ということで、またしばらくおつき合いを願いたい。
 なお、本文中、「日本語の文章においては主語が省かれた場合…」という一文があるが、わが国最古の小説である『源氏物語』では、ほとんど主語が省かれ、敬語の使い分けによる人物同士の関係性の示唆のみで人物を表しているということは、承知している。

2010年8月6日金曜日

山の花々   広渡敬雄

芹洗ふ伏流水や砂弾く       広渡敬雄

梅雨明けの7月下旬、霧が峰、美ヶ原に行く。
ともに、深田久弥の「日本100名山」ではあるが、「山には登る山と遊ぶ山があり、後者は歌でも歌いながら気ままに歩く。勿論、山だから、登りはあるが一つの目的に固執しない。気持ちの良い場所があれば、寝転んで雲を眺め、わざと脇に迷い行ったりする(いわゆる高原逍遥)、当然豊かな地の起伏と広闊な展望を持った高原状の山でなければならぬ」と「霧ケ峰」と「美ヶ原」の二つを特に記して称えている。
ともに、日本の中央山岳のほぼ中央に位置し、広大な展望には定評がある。
北アルプス、南アルプス、中央アルプスの全て、富士山、奥秩父、八ヶ岳、赤城山、浅間山、奥志賀、妙高山、乗鞍岳、木曾御岳等々と国内屈指の大展望。
ちなみに霧ケ峰(車山)は、日本100名山の36峰が見られる。
まず、霧ヶ峰に向かう。早朝、諏訪方面から急斜面を登ると、車の運転が慎重にならざる得ない位の名にし負う濃霧が立ち込めていた。
但し、風が出て来てあっと言う間に霧は消えた。
霧走る迅さを頬がとらへけり

強清水に日大グライダー部「鵜飼輝彦君記念碑」並びに「藤原咲平記念碑」がある。
昭和8年から、この地の上昇気流を利用して練習場が出来たグライダーのメッカ。
そういえば、この後、のんびり高原を歩いていると、梅雨明けの青空に高く舞い上がる何台かのグライダーを目にした。
今日は、八島ヶ原湿原から御射山を経て最高峰・車山、さらに南の肩、北の肩、大笹峰、ゼブラ山を経て湿原に戻り、北の鷲ヶ峰から改めて八島ヶ原湿原を俯瞰する総なめコース。
3000haと言う広大な霧ヶ峰を満喫する。
八島湿原PAに着くと早朝にも拘らず、ほぼ満杯。大型バスも数台。
湿原の展望所(1630m)の掲示板には、現在咲いている花々の写真が貼ってあり、あざみの歌の碑がある。横井弘作詞の「山には山のうれいあり、、」で著名な歌である。
この地の年間平均気温は5.8c。北海道と同じ気温でもある。
草花の写真を撮る人、一周80分の湿原を巡る人、展望だけの人と溢れている。
眼前に見渡る限りの湿原は、日本最南端の高層湿原と言う。手前の八島ヶ池とともに湿原のかなたに水面が輝き(鎌ヶ池)、ほとりに奥霧小屋が見える。
泥炭層のミズゴケ類の遺体が、12,000年にわたり未分解のまま積み重なったもので、最深8mの厚さ。また地塘は深さ1m以内で、梅雨明けの青空を映している。
水面は、あめんぼうだろうか、やや揺れている。
主峰・車山(といってもなだらかな隆起)からゼブラ山の稜線が青々とした草原を広げ、その上に端正な蓼科山が見える。(写真①)









勿論、尾瀬ヶ原には及ばないが、奥鬼怒湿原、田代山湿原、北海道の雨竜湿原、サロベツ原野(日本最北湿原)に匹敵する。
田中澄子「花の百名山」では、この霧ケ峰の「ヤナギラン(アカバナ科)」が紹介されている。盛りが晩夏から初秋であるためか、あまり期待してなかったが、いの一番に一輪だけ、湿原近くの木道脇に見つけた。今日のテーマの花をまずゲット!の感。(写真①-2)









八月後半には、赤い花穂を風に揺らして大群生となろう。
湿原に降りるあたりに、大きな「シシウド」が咲いている。
高さが2m近くあり、白い花が広がり存在感がある。(写真②)









木道の日当たりの良い山側には、「ハクサンフウロ」。
その鮮やかな紅色の花は、目をなごませてくれる艶っぽい花だ。(写真③)












以前、白馬大雪渓の上部のお花畑でこの花の大群生を見たが、稜線近くまで広がり、まるで青空まで咲き登るようで壮観だった。ここでは、季節が早いためかまだちらほら。
木道は靴にはやや違和感があるが、足音は爽快。
奥霧小屋あたりから、郭公の声がする。
広い湿原越しに聞こえて来る訳だが、いかにも高原だなあと実感する。
みずならの木がいくつか現れる。いつも心を落ち着かせてくれる大好きな木。
次に小梨。既に花は終ってはいるが、桷の花とも言い、清楚な小ぶりな白い花弁がいとしい花だ。このふたつは、この山域では多く見られた。生育上好適地なのだろう。
「シシウド」が何本か咲いているが、沢山の虫が群がっている。蜜を吸っているのだろう。
時々、擦れ違う人が「こんにちは」と声をかけてくる。
紫外線が強いので、改めて「日焼け止めクリーム」を塗る。
木道には、ところどころに木のベンチがあり、のんびり湿原を眺めている人も多い。
「こんにちは」との言葉が自然に出てくる。そして皆表情が明るく穏やかだ。
山の効用だろう。
所々の木道が濡れていて、近くに清水があった。
万緑や水場に鎖付きコップ

紫の鮮やかなヒオウギアヤメが顔を出している。(写真④)









但し、季節的には、ほぼ終りである。
紫は空に淋しき花あやめ

しばらく行くと、諏訪神社(旧御射山神社)がある。(写真⑤)









この辺りは平安・鎌倉時代から江戸時代(元禄)まで諏訪大社下社の神事のあと、武士が騎射を競った「御射山」で、この東側の山の斜面(階段状の地形)は桟敷席(観覧席)とのこと。(写真⑤-2) 









ここの清流を木橋で渡る。ふとこの水は、太平洋か日本海のどちらに流れるかが気になった。いわゆる「中央分水嶺」の問題である。
帰宅後調べてみると悩んだだけあって、今日辿るなだらかな後半のコース(山彦尾根)が文字通り、「中央分水嶺=日本の背骨」だった。
したがって、この清流や八島ヶ原湿原の水は、諏訪湖を経て天竜川となり、太平洋に流れ込む。
これから、沢渡を経由して、やや泥っぽい急坂をしばらく歩く。
ヤマアザミが時々目に映る。(写真⑥)












展望が開けてきて、北には八島ヶ湿原とその奥に美ヶ原が、南には主峰・車山、蓼科山、そして八ヶ岳が見え始める。
ニッコウキスゲがちらほら咲いている。(写真⑥-2)









最盛期には、この辺りは大群生と聞くがまだまだの感がする。日光霧降高原、那須の大峠の大群生を見た印象からすると、今一つ。
二人の自然保護指導員と会ったので、コース等を教えてもらう。
植物保護のため、二人一組でこの山域を巡回しているとのこと。
蜻蛉がかなり飛んでいる。避暑に来ているのだろう。
以前、7月下旬に谷川岳、越後駒ヶ岳に登った時に、空を覆うくらいの蜻蛉の大群にびっくりしたが、山小屋のおやじは「やつらは、避暑に来ていて、八月下旬にはまったくいなくなる」とこともなく説明してくれた。
キンバイソウの黄色の花が増えてきた。(写真⑦)。









代表的な高山植物である「ミヤマキンバイ」に似た花である。
車山の肩に着く。ここは、ビーナスラインと接するため、大型バス、自家用車で満車状態。かなりの人が歩いて40分の車山山頂を目指す
このコースは直登せず、ぐるっと一周する。
のんびり草花と大展望を楽しみながら登るのだ。
始めは北アルプス、乗鞍岳、木曾御岳。そして中央アルプス、南アルプスと楽しめる。
さらに富士山、八ヶ岳。
突然、雲雀らしい声と、真っ青な空に鳥影が見える。
涼風のなか、恋の囀りはアルプスにも届きそうだ。
間違いなく雲雀だった。意外な遭遇だった。
山頂手前でかのヨーロッパアルプスを代表するエーデルワイスそっくりのウスユキソウが見られた。(写真⑧)









しかし、カトウハコベの一種かも知れない(自信持てず)
程なく、霧ケ峰の最高峰の車山山頂(1925m)。
二等三角点があり、気象レーダーがある。
どこからも見える直径4mのパラボラアンテナの周りは、車山の肩からのハイカー以上に白樺湖側からロープウェイで上がって来た人で大混雑。
蓼科山は雲に隠れたが、白樺湖とリゾートが俯瞰される。
頂上からやや離れたところで、食事とコーヒーを取る。
梅雨明けのため、太陽光線は強く、再度日焼け止めクリームを塗る。
2000m近い高度では通常であれば、100mで0.6cの温度が低下するので、12c近く下界より涼しい筈だが、30c近くあり、下界並である。
但しそこは高原、涼風が来ると爽快だ。
先が長いので、一気に100m強下り、車山乗越へ向かう。途中、人工降雪機があった。
ふと思い出すことがあった。この車山スキー場は南面のため、日中は雪が融け、夜氷結するため、朝はカチカチの氷雪なり、ロープウェー(山頂駅)を降りての急坂で足がすくんだことがあった。怖かったが、もう20年近く前になったかと感慨深かった。
平坦な道はここちよいアップダウンがあり、涼風も吹いてきて、至福のトレキングとなった。振り返ると、気象レーダーの車山がなだらかな傾斜の中に見える。(写真⑨)









信じられないことだが、このゆったりとしたコース(山彦尾根)が、日本の背骨に当たる「中央分水嶺」である。
途中で愛嬌のある名のイブキトラノオを見つけた。(写真⑩)












虎の尾とは、、、しかし、可愛いくて好きな花である。
草原に一本のななかまどがあった。まだ、緑溢れる葉叢だったが、中秋には染まるような真っ赤な紅葉となり、ハイカーを楽しませるだろう。東南方向にかなり傾いているのは、草原でもあり、冬だけでなく通常でも北西の強い強風が吹くのだろう。
高原の中の突起のような、南の耳(1838m)、北の耳(1829m)を経て、
ゼブラ山(1776m)に至る。(写真⑩-2)









ほぼ、霧ケ峰の山域をほぼ一周したことになるが、奥霧小屋と八島ヶ原湿原が一望される。丁度、雲が移動しつつあり、湿原にゆっくりとその影を移していた。(写真⑪)









のんびり山を下ると、現在休業中の奥霧小屋。キャンプ場でもある。
ここには、駐車場からの木道が続いており、ハイカーが多い。
鎌ヶ池は、駐車場側の八島ヶ池とともに、湿原に良いコントラストを与えている。
木道の周りは色んな植物が見られる。鮮やかな黄色のコウリンカ。黒い総苞に囲まれた橙紅色が印象的で何となく愛嬌のある花と思う。(写真⑫)









駐車場近くの展望台の人達が見え始める頃、紫が鮮やかなウツボグサを見つけた。(写真⑬)









別の人も写真に撮っている。
駐車場への道をカットして、鷲ヶ岳に登る。途中で、本日の全てコースが俯瞰される場所があり、印象的だった。
はるか彼方に車山が見え、まさに絶景と言うべきだろうか。(写真⑭)









車山からの後半のコース(山彦尾根)はなだらかなコースにも拘わらず、日本の背骨!
左足(西)の雨水は天竜川を経て太平洋に、右足(東)の雨水は、千曲川、信濃川を経て
日本海へと流れ入るかと思うと感慨深いものがあった。
翌日は美ヶ原高原全域を逍遥したが、霧ケ峰を更に上回る山岳展望(殊に北アルプスが指呼の距離)で、頂上(王ヶ頭)から日本100名山42峰の大展望を楽しんだ。

参考文献:
  深田久弥「日本100名山」(朝日新聞社)
  白山書房編「百名山パノラマ案内」(白山書房)
  田中澄江「花の百名山」(文春文庫)
  青山富士夫「高山の花」(小学館)


写真(クリックで拡大表示):
 ①八島ヶ原湿原と蓼科山
   ①-2ヤナギラン
   ②八島ヶ湿原とシシウド
③ハクサンフウロ
   ④ヒオウギアヤメ
   ⑤諏訪神社(旧御射山神社)
   ⑤-2御射山桟敷席
   ⑥ヤマアザミ
   ⑥-2ニッコウキスゲ
   ⑦キンバイソウ
   ⑧ウスユキソウ or カトウハコベ
   ⑨南の耳手前から車山(気象ドーム)
   ⑩イブキトラノオ
   ⑩-2 山彦尾根(中央分水嶺)からの南の耳(左)と北の耳(右)
   ⑪ゼブラ山から雲移りゆく八島ヶ原湿原
   ⑫コウリンカ
   ⑬ウツボグサ
   ⑭鷲ヶ岳頂上手前から八島ヶ原湿原と車山(気象ドーム)
  
地図:霧ケ峰全域