映画には全くと言って良いほど詳しくないのだけれど、いわゆるロードムービーが好きらしい。自分のことなのに、「好きらしい」というのも変なのだが、気が付くと、観たものの多くをロードムービーが占めている。家が転勤族だったことも関係しているのかも知れないが、つい、そういう映画を選んでしまう。よく、夢はマイホームを持つこと、という言葉を聞くけれど、どうも共感できなくて困惑する。気に入った土地に長く住みたい気持ちはよく分かるのだが、その永続性、というのか、ずっとそこにいなければならないというプレッシャー(?)に耐えられそうにないのだ。いつでも、その住処を手放せる可能性がある、ということが重要で、そんな地に足のつかない私に、ロードムービーのもっている精神はとてもしっくりくる。
精神、などといってしまったが、いわゆる「旅行」と、ロードムービーにおける「旅」とはやはり異なると思う。旅行は、旅先の観光地なり、目当ての場所を訪ねること自体が一応の目的であるのに対して、ロードムービーでは、主人公は殆どの場合、何らかの「他の目的」を担わされている。分母が少なくて申し訳ないけれど、自分の観た映画のなかでいえば、失踪した妻を捜すとか(『パリ・テキサス』)、19歳になるあなたの子供がいる、という手紙の差出人を捜すとか(『ブロークン・フラワーズ』)、借金をチャラにしてもらう代わりに借金取りと東京を散歩するとか(『転々』)、100万円貯まるたびに住処を変えるとか(『百万円と苦虫女』)。
勿論、その目的にも大小さまざまがあって、どちらかというと、主人公が偉大な使命を預かって旅立つ物語より(『ロード・オブ・ザ・リング』的な)、渋々、旅に出るタイプが好みだ。昨年観て印象的だった『都会のアリス』(1973年)では、アメリカに旅行記の執筆で滞在していたドイツ人の青年ジャーナリストが、ひょんなことから(このフレーズはロードムービーのあらすじでよく見かける)9歳の少女を預かる。しかし、待ち合わせたアムステルダムに母親は現れず、仕方なく二人は、少女の祖母の家を探して旅に出る。国も毛色もまるで違うけれど、『図鑑に載ってない虫』(2007年)では、主人公の雑誌記者が、死後の世界を見ることができるというモノの調査を編集長に命じられ、ともかくも出かけていくところから始まった。
自ら強く望んだわけではなくして、旅に出ることになってしまった人たち、そこにある、切り開いていくような、巻き込まれていくようなバランス。そもそも、生活というものはそういうものだけれど、その均衡や不均衡をより印象的にみせてくれるのが、ロードムービーという装置だと思う。その中で、でも無理に元気を出したり、やっぱり倦んでみたり、思いがけず、同行者への情が深まったり——。『都会のアリス』で、長い旅路をともにしてきた主人公と少女が、気晴らしに海で泳ぐシーンがある。モノクロの画面のなかで、二人が泳ぎながら喧嘩になって(すでに祖母を探し回って疲弊している)、主人公が少女に水をかけながら彼女をののしる。その言葉といったら、「おたまじゃくし!」。いい年をした男が、9歳の少女と対等になってしまう瞬間。その場面が、ののしる、という表現も適切でなく思えるほど、ほほえましいというのか、とてもいい。台詞がではなく、シーンそのものが、真実をついていて。
そして、そうやって個人的な目的をもち、特殊な状況におかれた主人公の目を通して旅の風景が描写されていくのだから、旅の景色もやはり、かならずしも新鮮だったり、雄大だったり、美しかったりするわけではない。そこがNHKの“地球紀行”のような番組とちがうところで、でも、たまにその旅路に、ぱっ、と光がさすときがある。『都会のアリス』でいうと、例えば、主人公と少女が証明写真を撮るシーンなどがそうだと思う。もともと気が短く、愛想のない主人公と、くたびれて何となく「ぶう垂れて」いるアリスが、田舎町の小さな自動写真機の前に座る。自分たちの顔をのぞきこんでいるうちに、アリスが急に可笑しいほどの笑顔をみせる。にっこり、というより、にやり、といった風情で。そういう瞬間、二人がかがやくのは勿論だけれど、ぱっ、と、その「土地」がかがやく。観ている者も、突然、二人の居る場所、その土地の景色や街並を思い出す、という感じ。例えばそのかがやきを一緒に目撃できるのも、ロードムービーの醍醐味だと思う。
助手席の少女越しなる花野かな 浜いぶき
親との転勤暮らしも落ち着き、今では旅に出なくてはならない事情に巡りあわなくなった。ロードムービーのような体験は、日常ではあまりできない。ただ、一週間ほど前、郵便振替の青い用紙を午後までに300枚用意しなくてはならなくなったのは、ちょっとだけ「そんなふう」だった。住んでいる聖蹟桜ヶ丘駅から近い郵便局を4カ所、自転車や、バスや、歩きを使って2時間ほどで回る。帽子を被っていても暑くて、Tシャツで良かったと思った。どの局にも50〜100枚ほどしかおいておらず、そんなことになったのだが、取り置いてもらうために炎天下電話をかけると、直前に電話した局と同じ名前の人が出る。男の人だし、声も似ている。同じ局にかけてしまったのかと思い、私さっきお電話したでしょうか、と確かめると、していないという。「ああ、○○ね、あの局にもいるんですよ」どうやら同じ名前の局員がいるらしい。そんなことも承知し合っているのが、この辺りの郵便局らしかった。
ちょっとした山の上の郵便局から、旧道へ降りるルートを、優しそうなご婦人に尋ねながら歩く。その道には、大きな花芙蓉や、数珠玉、あざやかな赤紫色がめずらしい百日紅など、色々な植物がある。俳句の沢山できそうな裏道だな、と思いつつ、ふもとの郵便局へ急いだ。
〈ゲスト寄稿:浜いぶき〉
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