2010年2月18日木曜日

ordinary man

バカボンのパパは41歳だという。ぼくと同じ年齢だ。ということは、40歳のときは、「マカロニほうれん荘」のきんどーさんと同じ年齢だったことになる。子どものときから親しんでいたキャラクターと自分が同じ年齢になったということに、ああそうかと思う。40を過ぎると、さすがにこういうことに一喜一憂したりするのは恥ずかしい。自然に受け入れる。諦念とも言う。

好きなミュージシャンや俳優などが死んだ年齢を越えたりすると、ちょっと考えたりする。ジョン・レノンは40歳、松田優作は39歳か。正岡子規は……さすがに時代が遠すぎてリアリティはないが、それでもやはり感じ入るものがある。

ドアーズのジム・モリソン、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、そしてニルヴァーナのカート・コバーンが死んだのはみな27歳だった。ロック・ファンにとっては、27歳は意識してしまう年齢だ。しかしこういうことを考え込んでしまうと、精神的によろしくない。ここから派生して、ああ、彼らはこの短い人生であんな偉業を成し遂げたのか、それにひきかえ俺は……という不毛地帯から出られなくなったりするからだ。バカボンのパパと同い年だからといって、べつに悩んだりはしない。あたりまえか。

ロックは若者の音楽なので、若者でなくなると、もやもやしたり、思い詰めたりせずに聴けるようになる。最近はドアーズをよく聴いている。

ドアーズというバンド名は、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』から取られている。幻覚剤メスカリンを自ら服用し、知覚の変容がもたらす意識の拡張体験を考察した本だ。後のサイケデリックやニューエイジ・ムーヴメントに多大な影響を与えた。この本のタイトルは、ウィリアム・ブレイクの詩の一節が元となっている。

 知覚の扉が浄化されるならば
 全ての物はありのままに現れ
 無限に見える

また、ブレイクの詩といえば、「一粒の砂に世界を、一輪の野の花に天国を見、君の掌のうちに無限を、一瞬のうちに永遠を握る」というフレーズも有名だ。こうした一節に、俳句を始めた頃は感じ入ったものだった。これは俳句の世界を言い表した言葉ではないか、と。

しかし、今はちょっと違うように思っている。一部分、一断片が全体を表す、内包するというのはホログラムだが、たしかに俳句はホログラム的性格をもった詩だ。しかし、そこに俳句の価値があるわけではない。そこを拡大解釈するのは危険だ。「小宇宙」とか「宇宙的感覚」とか「広大な時空」とか、やたら大きく大きく言おうとする俳句の批評や鑑賞を僕は素直に受け入れられない。そんなものは嘘っぱちだ、とさえ思う。たんなる文学コンプレックスの裏返しに見えてしまう。そんなものを俳句に持ち込まんでいいのではないか。

断片は断片のまま、すばらしいのだ。俳句を等身大に読んであげたい、と思う。

ドアーズの初期の歌はまさにブレイクの詩のように透き通っている。それがだんだん曇っていく。ドアーズは初期がいいと言う人が多い。ぼくもそう思っていたのだけど、最近は、後期の、ふつうのバンドとなってポップ・ソングやブルースを歌うジム・モリソンが、好きだ。ジョン・レノンがそうだったように、彼もふつうの男に戻りたかったんじゃないだろうか。ロック・スターのまま、伝説の男となって、彼は死んでしまった。

 くちびるに湯豆腐触れぬ吹きをれば   榮 猿丸


2 件のコメント:

  1. 断片は断片のまますばらしい、良い言葉ですね。
    ちなみに私は34歳、土方歳三の享年(満年齢)と同じです。

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  2. 春休さま

    お読みいただきありがとうございます。
    土方歳三というと、「マカロニほうれん荘」の、ひざかた歳三が浮かんでしまう。。。

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