ひとつの完成された作品のように記憶されている幼い頃の一日、というのがいくつかある。
一日というよりはもうすこし短い単位かもしれない。
どんな行動をして、周囲にいた友達が誰で、どんな会話をしたか等は、ほとんど忘れてしまっている。
ただ、その日の光と空気の感じは、はっきりと皮膚に残った感覚として思い出すことができる。
畦道で袋いっぱいに採っても尽きないほどの土筆に笑い転げた日とか、長い旱のあと黒雲がうねりながらやって来た夏休みの終わりの日とか、二十人ばかりが二手にわかれて火のような曼珠沙華を投げつけあった日とか。
共通しているのは、そのときの私の気分である。
それを反芻しようとすると、途端にざわざわとした昂揚感が甦ってくる。
なかでも雪の日の記憶がとりわけ多く、また記憶の鮮度も高いような気がする。
私の生まれ育った土地では、年に数回ほど雪の積もることがある程度で、見渡す限りすべてのものが真っ白に覆われるというのは、やはり珍しい光景だった。
ほんとうに小さいときには雪だるまを作って炭の目鼻をつけたりもしたし、学校の授業を中断してクラスで山に登った記憶もある。
凍りついた沼の上を覆っているたいらな雪や、樹木の黒々とした幹とまっしろな雪のつくる不可思議な文様とか、一塊のひかる雪を支える笹の細かな枝ぶりとか。
なにひとつ事件らしいことは起きなかったとしても、さまざまな細部をこそくっきりと記憶させられている。
雪の積もった日というのは、私にとってはそのようなものである。
雪といふ透明な音つもりゆく 中村安伸
いいですね!
返信削除>>上田さま
返信削除ありがとうございます!
若干スタイルを変えてみました。