2010年2月5日金曜日
― 俳人ロボット ―
流氷に封筒を載せ返しけり 青山茂根
しばらく、haiku&me俳句強化月間のため、俳句の話題が続きます。
昭和十八年(一九四三) 三二歳
「馬酔木」に殆ど休まずに投句したが、常に一、二句入選の境をさまよっていた。(後略)
昭和二十年(一九四五) 三四歳
(前略)惨鼻(原文ママ)を極めた兵隊生活を送る。原爆投下も終戦詔勅も知らず終戦を迎えた。横須賀に戻り、残務整理して九月遅く除隊。原職に復帰したが、ひどい栄養失調。
昭和二一年(一九四六) 三五歳
(前略)学友、教え子多く戦死。「馬酔木」復刊を機に、もう一度俳句を一から始める気持で投句するも相変らず一、二句入選。(後略)
・・・
昭和二三年(一九四八) 三七歳
三月、「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」の句一連で「馬酔木」巻頭となる。秋櫻子の激賞で有頂天になったが、当時清瀬に療養中の石田波郷から、趣味に溺れた新人らしくない句だと厳しい批判を受け、少なからずショックを受けた。 (*)
世は平和に戻ったものの、戦後の混乱と物資欠乏の時代で、俳句に燃える一方で生活に難渋した。秋櫻子は事情をよく知っていられて『新編歳時記』(大泉書店)の編集に加えてくれた。(後略)
(『能村登四郎読本』 能村登四郎年譜より抜粋 平成二年 富士見書房)
ご子息の筆による年譜なので、多少の主観が入っているかもしれないが、上記のような話を、よく登四郎自身が語っていたと、沖に所属していた複数の方から聞いたことがある。初期の馬酔木投句時代から何十年の歳月が流れたあとでも、「ずっと秋櫻子先生には1,2句欄でしか採ってもらえなくてね・・・。」と折に触れ口にしていたという。
加藤楸邨か、楸邨夫人が書いていたものか、どこで読んだものか覚えていないのだが、戦後すぐの頃、当時、教職にあったものは、生徒たちの模範にならねばとの使命感から、闇物資に手を伸ばすことをよしとしなかったそうだ。配給の食糧だけでは足りなくて、皆、箪笥に残っていた着物や帯をもって遠くまで満員の電車に揺られて僅かながらの米や食料を物々交換で手に入れに行った時代の話だ。それは違法行為で、見つかると苦労して手に入れたものを没収された。遠くまで行けない者は闇市で売られている食品を求め、そうしなければ飢えるしかなかった。実際、そうした教師たちの何人かは、栄養失調で亡くなっていったという。
では、そのころ教職にあった登四郎の句はといえば、ここでは例に挙げない。作者情報をかかげた過剰な読みだと、戦争も飢餓も身近には存在しないから関係ないと言い切ってしまえる人々には、伝わらないのだ。一度記憶された情報を消すには、洗脳するしかないだろうし。
私はといえば、心惹かれる句に出会うと、もっと作者や、その句が詠まれた当時のことを知りたいという欲求が芽生える。句の読み方はそれぞれが選択すればいい、とも。
作者名も、作者の存在にまつわる情報も、作者を取り巻く時代の状況も、一切読みに必要ないなら、極論を言えば、俳句自動生成ロボットや、自動短歌生成装置で充分ではないか。作者名だけ必要なら、なぜかそういったものには名前がつけられているし、それらプログラムのほうが、やすやすと、見事な一句、一首をものにするのだから。
* 当時の秋櫻子の選後評。「今の世で童たちがたやすく買える菓子といったらまず第一に飴であろう。いやこれは現代だけの話ではない。むかしも飴ならば手に入れやすく、童好きの良寛上人は袂の中にこれを忍ばせて、童たちに与えるのを楽しみにされたことと想像される。良寛忌にあたって黒飴を見た作者の頭の中では、自然にこの句の着想がうかんだにちがいない。その上良寛上人は飴屋の看板を書いている。これが越後のどこかに残っている筈だーそんな因縁がからんでくると、この句の味わいは相当に深くなる。そうして全体に高雅な燻しをかけるため、作者は「ぬばたま」という枕詞を用意したのである。こんなわけで、この句は仲々念が入っており、古典的な風格をもつとともに現代生活とも関連している。」
一方石田波郷は当時まだ「馬酔木」へ復帰していなかったが、「・・・あの黒飴の句は俳句に必要な具象性をもたない、あまりに趣味に溺れた句である。殊に枕詞を使用するなどは、若い生活派といわれる作者のすべきことではない」と難じたという。
登四郎自身の自句自解から引く。「・・・二三年頃の物資欠乏の折の黒飴は、ただ黒砂糖をかためただけの粗末な菓子であったが、結構子供達には喜ばれたものである。」
(『能村登四郎読本』 平成二年 富士見書房)
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