2010年2月13日土曜日

反米という常識   上野葉月

私も俳人のはしくれなので常識というものが嫌いだ。

と、短い割に突っ込みどころ満載な一文で始まってしまいましたが、思うに反米という態度が世界の常識になったのはソ連崩壊後、冷戦という枠組みがなくなってからではないだろうか。
もちろん冷戦以前だって金持ちというだけで嫌だったり戦争ばかり仕掛けるので嫌だったりという反応は世界のあちこちであったし、中南米の人たちはどう転んだって今も昔もエルグリンゴ(白んぼ)が嫌いだったりする。

しかし今日の反米感情の世界的な蔓延は金持ちとか唯一の超大国に対する反感というものとは別のところに由来しているような気がする。だいたい合衆国は貧富の差が激しい場所なので本当に金持ちなのはほんの一握りだけで大半は貧乏だったりする。貧乏なほど肥満しているという笑うに笑えない状況もあるけど。

冷戦はキャピタリズムとコミュニズムの対立という仮想的な図式を世界に対して押しつけていたのだが、終わってしまえばそんなものは効力を失ってしまうのは自明だ。そもそもキャピタリズムとコミュニズムも同根なのであって、「生産力の拡大は人類の幸福につながる」というとんでもない楽観論から出発している。
どのくらいとんでもないかというと「アナルセックスは近親相姦にならない」とか言って性行為を妹に強要する兄くらいとんでもないのだが、キャピタリズムもコミュニズムも発達段階の違いであって方向性はまったく同様である。どちらともグローバリズムだと言える。

今日ある反米感情は要するに反グローバリズムなのであってアメリカ合衆国はグローバリズムの象徴にしか過ぎない。
いずれにせよ大量消費連鎖の末、もう売る物にすら困り、地球温暖化という根拠もなにもないものを持ち出しながら二酸化炭素すら売り買いしようという世の中である。しかも国家間で。心ある人たちが反グローバリズムに走るのは無理もない。いくら人間の愚行には限りがないからと云ったって二酸化炭素排出量の売買なんて無茶もいいところである。どれくらい無茶かというと「アナル(中略)くらい無茶なのだが、それにしても私には妹萌えというものが未だによくわからない。

ともあれ世界中に反米感情が蔓延するようになって長いが日本だけはずっと親米国であり続けてきた。
生まれたてだった米海軍のペリー提督が浦賀に元気よくやって来て以来の付き合いなのでアメリカ側の感覚ではけっこう古い付き合いだと言えないこともない。
結局、日本はアメリカ合衆国とはまったく異質なので嫌いになりようもないという部分もあるのかもしれない。合衆国は社会契約の果てに成立するいわば演繹的な国家、人工的な国家の代表格でリンカーンに言わせれば民主主義の実験だったりもするわけだけど、日本は海岸線という自然的風土に依存したいわば帰納的国家の代表格である。物理的にも精神的にも距離があるし、その他諸々違いが大きすぎて結局理解不能なので嫌いようもない。第二次大戦後半ば占領状態が続いているけど、近隣諸国のように「日本列島は我が国固有の領土である」とか決して言い出しそうもないところもプラス要因かも。

そんな日本でも最近ネット上などでは反米的な発言がやたら増えてきたように感じる。昨今では民主党の複数議員へのごり押し的な捜査のせいか東京地検特捜部(この言葉を見るといつも安永航一朗のマンガに出てきた性感痴漢側頭部(星間地検特捜部)を思い出してしまう)は合衆国の手先だという非難が盛んだ。そりゃ東京地検特捜部はGHQの肝いりで発足した組織かもしれないけど今更そんなこと持ち出さなくたって敗戦後60年以上も属国として付き従っているのだから日本政府なんて全体的に合衆国の手先以外の何者でもない。当節ネットで濫用される言い回しを使えば売国奴である。ごく短期間だけど私は日本政府から給料の出ている時期があったので自信を持って言えるのだが、日本政府には合衆国内の州政府程度の独立性もない。水道局がなくなれば水道が出なくて困るだろうし消防署がなくなれば火事のとき消防車が来なくて困るかもしれないけど、仮に霞ヶ関のキャリア・ノンキャリア全ての職員をリストラしたところで地球上で誰一人困らないことだろう(当人たちとその家族を除いて)。国家機能が脆弱になっているのは世界中どこの地域でも共通しているとは思うけど日本の場合は格別な感じがする。
そう言えば去年の総選挙で有権者の多くが民主党に流れたのは民主党に期待してということでなく自民党に投票したくないということだったのだと思う。いわば合衆国の経済に関して将来的な期待を寄せられなくなったので、狡猾とも言える庶民的な勘に基づいてCIAの後押しで誕生したような政党から逃げたのだ。なんというか「金の切れ目が縁の切れ目」みたいな話であるがまあまあしぶとい選択ではある。

そういえば今年は中国のGDPが日本を抜いて世界第二位になる見込みであることをマスコミはよく取り上げる。
18世紀までは二千年以上、中国GDPが世界のトップであり続けたのだから今更騒ぐようなことではないはずだ。阿片戦争での中国の敗北が当時の東アジアの知識層にもたらした衝撃は大きく、その後の日本の西洋崇拝の遠因ともなっているのだがその話になると長くなりそうなので今日のところは華麗にスルーしておきます。

日本に住んでいると少なくない日本人が自分たちのことを頭が良いというイメージを持って見ているのに驚くことがある。そりゃまあドイツ人は自分たちにちょっとユーモアが足りないんじゃないかと滅多に思ったりしないし、フランス人にとってフランスは理性と科学の国だったりするので、どんな民族でもセルフイメージは予想しがたい方向にずれてしまうのは仕方ないことではあるけれども、言語能力が極端に低い挨拶もろくにできない精薄児みたいなイメージの強い日本人が頭が良いというのはかなり大胆な発想だとは思う。それでも日本人の頭の出来に関してとりあえず保留しておくとして、日本では他の国では決して起こらないような出来事が起こるのは否定できない事実である。

たとえば織田信長の時代、日本は地球上の鉄砲の約半数を生産するような軍事大国だったのだけど秀吉の刀狩りを経て徳川政権の時代には鎖国と大幅な軍縮が進んだ。17世紀の日本では人と物の流れが極端に固定される中で軍縮が進み人口爆発があり経済が大きく発展するというとんでもないの事態が進行したのである。どれくらいとんでもないかというと、…、とんでもなさは置いておいてもこういう不思議な出来事はまあ日本でぐらいしか起こらない。

第二次大戦の結果、合衆国に世界の富の半分が集中するという出来事があったため戦争は儲かるものだとする偏見が未だにアメリカ人の一部にはあるのかもしれないけど、戦争は長い目で見れば割に合わないものである。しかしながら割に合わない行動、無駄な行動を人間から取り去っていったら何が残るんだという問題もあるのだけど。

今までの日本歴史の中で何か教訓にすることができるものがあるとすればそれは鎖国政策であって明治維新のようなものではないと思う。また同時に鎖国のような引き籠もり的な心性こそが日本人の精神を形成する根源的な要素のひとつであるように感じる。
現在日本の農業は壊滅的な状況にあるが、なにしろ日本人というのは何を始めるか予想がつかないのだから、唐突に食料自給率を上げてあっというまに鎖国なんて行動にでないとも限らない。
遠くない将来ローカリズムは世界の大きな潮流になっていくだろうけど、もし日本が世界に貢献できるとしたらこの引き籠もり的な精神性が軸になるのではないか。

もっとも士農工商であると同時に相互監視的な社会が到来するとわかっていたら私なんて真っ先にそこから逃げ出すだろうけど。

妾宅へ向かう電車や春の雨  上野葉月

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