2010年2月9日火曜日

世界の終わりとその前後   外山一機

 たとえば鈴木六林男、阿部完市、田中裕明。俳人の死のたびに自分の位置を測定する行為は、僕のなかで常習化してしまったようだ。かつて大学の図書館で『俳句研究』のバックナンバーを漁りながら、僕の生まれた年に高柳重信が死に、寺山修司が死んでいたのを知ったときの、あの甘ったるい孤独感が、いけなかったのかもしれない。

 今の僕にとって「未来」は、目の前にあっけらかんと広がるそれではなくなってしまった。白紙のページに「未来」を期待するのではなく、むしろ、すでに書き込まれているページを逆さまに繰りつつ、そこにかつて存在していたはずの何がしかを嗅ぎとっていく行為のなかにこそ、かろうじて僕は「未来」らしきものを感じることができるのである。

 二〇〇〇年、高校二年生だった僕はひそかに俳句を書いていた。当時の僕は「世紀末」という言葉に、あまりに多くを期待していた。その頃は酒鬼薔薇聖斗や少年によるバスジャック事件などの凶悪な少年犯罪が世間を賑わしていて、オウム真理教のテロや阪神・淡路大震災もまだ記憶に新しかった。一方で、僕の住む田舎町にも急速に増えだしたコンビニには「昭和」を売り物にしたレトログッズが並びはじめていた。時代がいよいよ終わりに近づきつつあるような気分を僕は漠然と感じていたのだった。

 けれども、「世紀末」はいともあっさりと僕を「世紀末」後へと置き去りにしていった。むろん、本当のことを言えば、僕が「世紀末」を生き残ってしまうことは初めからわかっていたことだった。二〇世紀末の後の物語を描いたマンガ「二十世紀少年」や、同じく世紀末的惨事の後の世界を描いた「新世紀エヴァンゲリオン」が「世紀末」後の世界を暗示していることを知りつつも、僕はその終末的な気分に夢中になったのだった。

 気が付くと僕は「世紀末」の後を生きなければならなくなっていた。僕の本棚の傍らにはコミケのたびに兄が段ボールで山のように買ってくる同人誌が並んでいた。そこでは書き手と読み手の欲望のために奇妙に胸の膨らんだ綾波レイが男や女に犯されるお決まりのパターンが繰り返されていた。碇シンジの巨大にデフォルメされたペニスにも僕は飽き飽きしていた。僕はそれらを呪いながら、だが嬉々として読んだのを覚えている。

 いわば、何もかも終わってしまった後で、それでも唯一手放さなかったものが、俳句だったのだ。当時の僕にとって、俳句とはついに読み解くことのできないテクストであり、それゆえに、僕をある種のエクスタシーへと誘う呪術的な言葉の連なりとしてあった。僕が俳句を書いていたのは、言葉に意味をのせられないことへの不安と、意思疎通を諦めることの快楽とに衝き動かされていたからにほかならない。

 言葉と戯れつつ世界との繋がりから身を引くことによって「僕」であろうとした僕にとって、何よりも眩しかったのが阿部完市や攝津幸彦や加藤郁乎だった。彼らは、誰よりも、いかにも享楽的に言葉と対峙しているように見えたのだった。

  静かなうしろ紙の木紙の木の林        阿部完市
  幾千代も散るは美し明日は三越        攝津幸彦
  とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン  加藤郁乎

 けれども、僕が彼らを知ったころ、すでに攝津幸彦は亡くなっており、阿部完市は魅力を減ずることはあれ決して今まで以上ではない地点で「アベカン」然としていたし、加藤郁乎もまた『球体感覚』や『形而情学』とは異なる地点へ出てきていた。けれどもそれらもまた彼らの眩しさの反転であってみれば、僕のように後からやってきた者が軽々に非難できるものではないだろう。

 二〇〇二年、大学生になってからの僕のテクストは、高柳重信が編集長を務めていた頃の『俳句研究』と、すでに休刊した『俳句空間』だった。「五〇句競作」がどんなに眩しかったか。『俳句空間』の投句欄がどんなに眩しかったか。そこには俳句表現の現在を引き受けることで自らの「未来」に大きく期待し絶望する、いわば「青年」たちがいたのだった。

 わびも、さびも、僕は知らない。切字も、季語も、僕は知らない。しかし、そんなものがどうして僕に必要だろう。
 俳句が美しいのは、その限られた音数のもつ緊張感と、生誕時より定められてもちつづけている切り捨てられた部分の不安感のせいであろう。だから僕は、ただそれだけに賭けた。(郡山淳一「自由の砦」)

 たとえば五〇句競作第一回入選者として祝福を受けた郡山淳一のこの言葉ほど、僕を嫉妬させたものはない。こんなにも堂々と「青年」らしく主張できる郡山が羨ましかった。けれどそれは皆、終わってしまった「物語」だった。郡山淳一も長岡裕一郎も、あるいは宮崎大地もいなくなってしまった。

 こんな感慨に耽るのはもうやめよう。けれど、もしかしたらこんな感慨に耽ることで「僕」であるのかもしれない。「僕」はいったいどこにいるのだろう。その答えは、たとえば「過去」と「未来」と「現在」が互いを映しあう合わせ鏡の中にあるのかもしれない。

  深追いの鏡の中の麦秋よ  外山一機


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