雉子よりほか通ひ路を知らぬはず 青山茂根
・・・それから間もなく、私は学校を半年はやく卒業させられて兵隊に征くことになり、一夜、麹町の藤田邸でお別れのもてなしを受けた。私の女友だちが主の許可を受けてご馳走をつくってくれたのだ。物の不足した時代だったが、藤田家は南方から還ってくる従軍画家たちの土産で、バターやチーズなんかもあったのだろう。今から戦争に征く人に遇いたいというこの家の主の言葉で、私はアトリエへ通された。藤田夫妻はドアをあけたすぐのテーブルに並んで座っていて、私はその前に腰をおろし、主がむいてくれる林檎を緊張して食べた。果物が食べられるだけでも感激だった。
(『四百字のデッサン』「戦争画とその後―藤田嗣治」 野見山暁治 1978河出書房新社)
そういえば、先の大戦時の従軍画家について、卒論らしきものをまとめたのだった。先日のウラハイの記事(前田普羅関連)を読んでいて、ふと遠い昔の記憶が蘇ってきた。押入れか、どこかを探せば手書きのを束ねたそれがあるはずだが、そもそもそんな大した出来ではない。今と違って、ファイルとしてPCのどこかに残っていることもないので、どんなものを書いたのかもほぼ忘れてしまっている。
その頃、芸大の図書館などで、戦時中の美術雑誌や新聞などを当たっていたときに、従軍画家の記事とともに、同時に従軍していた俳句作家たちの名があった。当時の新聞だから、並んでいた大本営発表記事と同様に、軍部の検閲済みであることは間違いない。かなり多くの、今も名の知られた俳句作家たち、といっても当時は私自身は全く俳句に興味がなく、それらの俳人たちの有名な句さえ知らなかった。ただ、論文の資料に付随する内容として、メモを取っていた記憶がある。
冒頭に引いた、第二次世界大戦時の従軍画家に比べると、日清戦争時に従軍した正岡子規たちは随分と待遇に違いがあったようだ。「自分の座というのは自分が足を伸ばして寝るだけの広さで、同業の新聞記者が十一人頭を並べて居る」、「時々上の座敷で茶をこぼす、それが板の隙間から漏りて下に寝て居る人の頭の辺へポチポチと落ちて来る」「この梅干船(この船は賄が悪いのでこの仇名を得ていた)」等の従軍から帰る船中の記述(『正岡子規』「病」筑摩書房2009)にもそれが読み取れるし、また喀血に至る病を得たのもその従軍中の待遇のひどさが原因であったらしい。子規の半年ほど前には、黒田清輝がやはり日清戦争に従軍しており、『黒田清輝日記』(中央公論美術出版1966、黒田記念館資料)に当時の日記が収録されているが、やはり帰る船については「下等ノ下等 即チ馬ト同ジ處ニ乘セラレ皆々大不平」とある。最も、「不平の結果がめし丈上等で食ふ事と爲る」とも書かれているので、子規の「梅干船」よりはましだったか(行軍中も「水畫の繪具凍りて筆自由ならず」ぐらいしか不平が書かれていないので、結構よくお酒も飲んでいるし、子規よりよい待遇にあたったのかも)。「従軍記事」(『子規随筆 新装復刻』 沖積者 2009)で、「待遇の厚薄は各軍師団各兵站部に依りて一々相異なり」「某将校の言ふ所<新聞記者は泥棒と思へ><新聞記者は兵卒同様なり>等の語」と子規も書いているように、日清戦争当時はまだ、従軍記者や画家の社会的地位が高くなかったのかもしれない。「(待遇の相違は)是れ軍隊に規律なき者にして此の如き軍隊は戦争に適せざるなり」との子規の指摘通り、軍部の統率力が絶対で強大になる前であり、なおかつ、翼賛体制記事を書かせるためのもてなしがなかったということかもしれない。
子規が従軍していたからといって、(その後の前田普羅のような)そういった思想だったというわけではないだろう。自身が従軍する一年前には、
従軍の人を送る
生きて帰れ露の命と言ひながら 『寒山落木 巻三(明治27年)』
という、そののちの太平洋戦争時なら非国民扱いされかねない句もあるのだ。
・・・二十八年の春金州に行きし時は不折君を見しより一年の後なれば、少しは美といふ事も分る心地せしにぞ、新に得たる審美眼を以て支那の建築器具などを見しは如何に愉快なりしぞ。
(『子規居士絵画観』日新房 1949)
との子規自身の文もあり、多方面へ旺盛な好奇心を持っていた子規には、従軍記者となれば外地へ旅することもできる、との考えもあったかと思える。
その子規に絵画の楽しみを伝え、共に従軍した中村不折は、のちに「日露役日本海海戦」(明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館で見られる)という戦争画を描いているが、やはり、個人の思想云々より、そうした時代だったのだと見るべきだろう(現在、台東区立書道博物館で不折と子規に関する展示を行っている。その従軍中のスケッチもあり)。
それらを考え合わせれば、前田普羅も、より状況が厳しくなった時代を生きたのであり、そういった思想を持つに至ったのも、その是非は別にして、より時代というものに忠実であったためかもしれない。 と言うことしか、彼ら多くの犠牲者の後の、平和な時代を生きる自分には出来ない。
・・・元来画家というものは真の自由愛好者であって軍国主義者であろうはずは断じて無い。偶々開戦の大召喚発せらるるや一億国民は悉く戦争完遂に協力し画家の多数の者も共に国民的義務を遂行したに過ぎない。 (「朝日新聞 10/25日付」藤田嗣治の投書 1945)
戦後最も厳しく批判された画家、藤田嗣治を語る文を、もうひとつ引く。
・・・戦争がみじめな敗け方で終った日、フジタは邸内の防空壕に入れてあった、軍部から依頼されて描いた戦争画を全部アトリエに運び出させた。そうして画面に書きいれてあった日本紀元号、題名、本人の署名を絵具で丹念に塗りつぶし、新たに横文字でFUJITAと書きいれた。先生、どうして、と私の女友だちは訝しがった。なにしろ戦争画を描いた絵かき達は、どうなることかと生きた心地もない折だ。なに今までは日本人だけにしか見せられなかったが、これからは世界の人に見せなきゃならんからね、と画家は臆面もなく答えたという。
(『四百字のデッサン』「戦争画とその後―藤田嗣治」 野見山暁治 )
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