2010年9月15日水曜日

何かいいことあったらおっぱい

義理なんだから、勘違いしないでよ!!

ヴァレンタインデーまであと五ヶ月となりましたが、皆さんお元気でしょうか?(さすがにこれほどまでに季節感をないがしろにした挨拶だと現○協はともかく○人協会あたりからは苦情が来そう)

それはそれとして、
今のは失敗じゃなくおっぱいだと思え!
所謂bakegirlsの中ではやっぱり神原がお気に入り(フィギアとか買ったことのない私だけどネンドロイド神原は欲しい。誰か誕生日にプレゼントしてくれないかなあ。自分で買えとか言われそうだが)。

柄にもなく先日マーケティング関連の本を読んでいたら、その本の主題とは直接関係ない話題だったのだけど、「第二次大戦での日本の損失を経済的に計算すると当時の貨幣価値で600億円に相当。所謂バブル崩壊後十年間の日本の経済的損失は1800兆円に相当。貨幣価値の違いを考慮して計算し直してもこの十年に大戦の経済損失の2倍以上の損失を被っている」というような記述が目を引いた。
80年代後半以降の日本の金融自由化を「第二の敗戦」と呼ぶ人はけっこういるけど、銃声一発鳴らなかった継続的信用崩壊の損失が、日本中の大都市が焼け野原になったあの大戦の損失を上回るというのはさすがに実感が沸かないものだ。
もっとも日本を代表するワーキンプアとしてこの十年ほども辛苦を舐め続けている葉月としては、経済的流血は一向に治まる気配がないように肌で感じる部分もある。
2002年から2007年の6年ほど、日本企業の収益は伸び続け“いざなぎ景気越え”とマスコミから無理矢理呼ばれたりもしていたのに生活は苦しくなる一方で、おそらく私のような非正規な人間(?)じゃない普通に働いている人たちにも充分流血感を覚えることは可能だったように思う。

日本は1990年代からこっち長期金利2%以下という状況が続いているが、先進国(アクティブな産業国?)が10数年以上に渡ってこういう状態に陥るのは17世紀初頭のイタリア・ジェノバでの金融恐慌以来の実に400年ぶりの異常事態だったりする。失われた10年とか20年とか言っているが要するに近代以降の人類にとっての初めての危機に直面しているということだ。

あのペテン師というレッテルを千回貼り付けたところでおつりが来そうな(前FRB議長)グリーンスパン氏は2008年の経済危機に際して「100年に一度あるかという危機」だと表現したそうだが、実際のところ日本についてはその10年前から「400年に一度の危機」だったのだ。

そもそも銀行(近代金融)というのはイタリア人が始めたもので、それはもうイタリア人が考え出したぐらいだから皆も想像付くとは思うけど「いい加減」と「その場しのぎ」をダ・ヴィンチがデッサンした上にミケランジェロが彩色したようなものすごい出来映えのシステムである。
あんまり不安定なものだから、その後、大航海時代、ルネサンス、産業革命、帝国主義、グローバリズムなど控えめに表現してもかなり傍迷惑だと言える副産物を生み出し続けることとなった。
まあそれくらい銀行というのは人類の近代の本質にかかわるシステムなのだ。大抵の国で大銀行が破綻しそうになると、財政危機で鼻血も出ないと日頃言っている癖に普通の人間にはとても実感できないような巨額の税金を投入して銀行を救済するのも、市民の生活苦よりも国家の存続よりも、銀行というシステムが人類の近代の根幹をなすからである。

現在の産業社会で日本はトップランナーであり、今日の日本で起きていることは明日の世界のいくつかの国の姿なのだと私は(不安と微かな不快感をもって)主張する機会が多いのだけど、やはり日本の今後には期待してしまう向きもある。
日本人の得意技、積極的な引きこもり。鎖国政策と表現してもいい。私はあえてローカリズムと表現したいが。

金融危機とは危機であると同時に金融の軛から逃れるチャンスでもある。

人類の近代は地球上の工業製品を溢れさせ、同時に豊穣な文化の多様性を根こそぎにしてきたが、まだまだ手遅れだとあきらめることはないと思う。

数十年では無理だとは思うが、数世代に渡って慎重かつ丁寧に事を運んでいけば、日本はまた独特な文化を保持する多くの人間の関心を引かない取るに足らない貧乏な島国に成り上がることも可能だと信じる。ほとんど尊皇攘夷と言っていることは変わらないが、さらに言えば地域貨幣のみの流通で経済圏を縮小できればそれにこしたことはないと思う。正直なところ国家なんてものはせいぜいシンガポール程度の大きさでも大きすぎるぐらいの印象がある。それはそれとして、情報についてはともかく人と物と金融の移動をかなり制限できれば、人間はこんなに過剰な生産と消費に追われまくられず、少しはのんびりと雑談に興じたりする暇を持てそうだ。

数世代後には世界中の多くの国や地域が同様の価値観(物を捨て時間を取る)で行動するようになるかもしれない。かつてジャパン・バッシングならぬジャパン・パッシング(PASSING)だと言われた時期があった。今後も努めて身を低くしてスルーされ素通りされ続けるのが良いのではなかろうか。とりあえずこのような方針をガラパゴス・プロジェクト(仮)と名付けておこう。

遮断機のゆるりと降りる星月夜  上野葉月

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