2010年9月9日木曜日

 ― 感傷ではなく ―


  

  濯ぐとき乳房弾みて麥萌えだす    森澄雄   『雪櫟』   

  法華寺の甍の雨の秋の晝        〃     『游方』 

  白桃や満月はやや曇りをり        〃     『雪櫟』

  谷川を手毬流れ來誰が泣きし       〃    『所生』 

  鈴蟲の夜更けのこゑも飼はれたる    〃    『鯉素』

   (『森澄雄の107句』 上野一孝編 舷燈社 2002) 


だいぶ前に頂きながら、なかなかお礼を申し上げられなかった一冊(ありがとうございました)。先頃亡くなられた森澄雄氏の句に、その俳句会に集った方たちが鑑賞を書いている本だ。

・・・毎月の句会には自分の作品を持参するだけでなく、森先生の句集を毎月一冊づつ決め、そこから自分の好きな十句を選んでくること、さらに一句鑑賞を書いてくることをお互いの宿題とするようになった。そして句会では、会員の作品の合評の後に、澄雄句の鑑賞文の読み合わせも行うようにして、今年のはじめには、これを第一句集『雪櫟』から最新の第十二句集『天日』まで終えることになったのである。( 『 同 』 「はじめに」より)

他の誰かの句を、読み込み、鑑賞を書く。出来れば、同時代より前の。同世代の句なら、割とたやすく読み解けるが、違う時代に詠まれた句を理解するには、言葉について、その背景について、調べることも出てくる。この一冊のように、師の句について、という場合もあるが、これを続けていくと、自分自身、読みの幅に、俳句の世界観に、広がりが生まれる気がする。そこからまた、同時代の句を読んでみると、新たな鑑賞も見えてくるのかもしれない。

  斑雪野も末黒野もあり遍路かな    森澄雄   『白小』

・・・斑雪野や末黒野から、読者は、広々とした空間を想像するとともに、早春に残る冬の名残を感じずにはいられない。これらは《時間》の流れを内包した季語なのだ。そしてこの《時間》は、遍路それぞれが歩く旅の時間、そして人生の時間とも重なって来る。(上野一孝氏の鑑賞から)


読書会、ツイッター上を日々流れていく様々な句、あるテーマでの皆の競詠の様などをぼんやり眺めていて、ふと思った。575なら、短ければ、テーマが入っていれば俳句?俳句の遊びの要素も確かに楽しい、現代の情景を切り取ることも魅力だが、全てを語り尽くしていたらそれは俳句ではないのかも?いひおほせて何かある?まだ見えぬその何かを日々追って。と言いつつも、言葉で遊んでいるだけかも?







秋蝶のやうに我が胸にも触れよ              青山茂根

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