連句の句は、「人情句」(にんじょうく)と「場の句」(ばのく)にわかれる。「人情句」といっても、この場合の「人情」は「人の情け」ではなく、単に「人が詠み込まれている」ということ。「場の句」は、風景句および人が詠まれていない一切の句である。
「人情句」はさらに細かく、「自分」が詠まれている「自の句」、「他人」が詠まれている「他の句」、「自分」と「他人」が詠まれている「自他半の句」の三つにわかれる。鉤括弧付きで「自分」「他人」と書いたのは、特に前者の場合、現実の自分自身である必要はなく、「主観的」(「他人」は「客観的」)と置き換えてもよいからである。
以下、それぞれの例句を挙げてゆく。
自の句
天金の歌集ひもとく月明に 篠見那智
(胡蝶『満ち干の落差』より 平成17年3月27日)
「天金」とは本の上部に金箔が貼られていること。日本語の文章においては主語が省かれた場合、動詞の「動作主」は、前後の文脈による示唆がなければ、基本的にそれをつづった人(=「自分」)ということになる。したがって、ここでは月明に歌集を「ひもとく」のは「自分」であり、決して「他人」が「ひもといている」わけではないのである。
他の句
両国を渡る其角の若かりき 市川千年
(胡蝶『吊し雛』より 平成18年2月26日)
「其角」という明瞭な「他人」が詠まれている。俳句をやる方には説明ご不要であろうが、「其角」とはむろん、芭蕉の門人、宝井其角のことである。
自他半の句
「もう少し歩きたいの」と由比ヶ浜 兎弦
(ソネット『久米仙人』より 平成20年3月23日)
恋の流れで出てきた一句。「もう少し歩きたいの」というのは、もちろん彼女が彼氏に対して言っている(あるいは草食男子のセリフかもしれないが)のであり、言う「自分」と聞く「他人」がいるので、これは「自他半の句」ということになる。
場の句
花万朶タンカー遠く動かざる 川野蓼艸
(胡蝶『吊し雛』より 平成18年2月26日)
海沿いの桜並木。コントラストが見事な風景句である。
先に触れた通り、風景句でない「場の句」もある。
いつのまにやら足りぬジョーカー 葛城真史
(歌仙『海境を来る』より 平成17年7月24日)
これは短句。具体的な風景が詠まれているわけでもなく、かといって人間が詠まれているわけでもないので、「場の句」になる。
「三分の理」
いくつか例を挙げてきたが、実は私自身、あるいは私が参加している草門会自体、そこまで厳格に自他場にこだわっているわけではない。連句協会の常任理事でもある蓼艸さんは、口癖のようにこうおっしゃる。
「自他場は”三分の理”があればよい」
つまり、屁理屈でも何でも、一応説明がつくなら、自他場をどう解釈しようが自由なのである。実際、「三分の理」によって自由に解釈が変わる句もある。例えば先に挙げた「ジョーカー」の短句は、「場の句」であるとしたが、「いや、ジョーカーが足りなくなったことに気づいた『自分』がいるのだ」と言えばたちまち「自の句」にもなるし、「トランプ遊びを皆でしているのだから……」と言えば、「自他半の句」にもなるのである。
ちょっといいかげんだと思われるかもしれないが、要はあまりガチガチに自他場にとらわれるよりは、連句自体の面白さを優先し、もっと柔軟に考えてもよいということである。
さらにいくつか例句を挙げる。
心地よき英語教師の鼻濁音 村田実早
(胡蝶『梅雨の満月』より 平成17年6月26日)
「心地よき」と感じている「自分」と「英語教師」がいるので「自他半の句」ということになるが、「心地よき」は、あくまで「鼻濁音」に対しての形容にすぎない、と解釈すれば、これは「他の句」ということになる。
遠方の客柿提げて来る 川野蓼艸
(胡蝶『満ち干の落差』より 平成17年3月27日)
「客」のことを詠んでいるのだから「他の句」といえるが、いや、「客」を迎える「主人(=「自分」)」がそこにいるのだといえば、「自他半の句」であるともいえる。
草原を東へ駆ける蒙古族 葛城真史
(独吟歌仙『猿の横顔』より 平成15年秋)
「蒙古族」がいるので「他の句」であるが、これは具体的な人物がいない、いわば「歴史の風景」なのだといえば、「場の句」であるという解釈も成り立つ。
このように自他場の解釈は「三分の理」でどうとでもなる場合も多い。なぜそのようなことをするのかというと、自他場は「打越」にかかわってくるからである。
次回は、その「打越」の話をしたい。
ワールドカップに浮かれたりなどしつつ、あっというまに前回から三ヶ月以上、間が空いてしまった。その間、この卑小な稿の存在などまったく忘れ去られていたことと思うが、もし1人でも続きを気になさっている方がいらっしゃったら、本当に申し訳ない。これから気分を新たに再起動ということで、またしばらくおつき合いを願いたい。
なお、本文中、「日本語の文章においては主語が省かれた場合…」という一文があるが、わが国最古の小説である『源氏物語』では、ほとんど主語が省かれ、敬語の使い分けによる人物同士の関係性の示唆のみで人物を表しているということは、承知している。
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