2009年11月23日月曜日

セルロイド・ヒーローズ

前回のつづき。
大学を卒業したあとも友達とバンドもどきをやっていたのだけど、あるとき、その友達から電話があった。かなり暗い声だが、いやに興奮している。

そいつの後輩のバンドが、デビューしたことは聞いていた。その後輩から送られてきたCDを聴いたら、「フリッパーズ・ギターもどき」でたいしたことないということだった。

で、そのバンドの二枚目のアルバムが届いたという。前作とまったく違うらしい。とりあえず聴いてくれというので、電話口から聴かせてもらった(当時は、電話口で聴かせあうというのは、ぼくの周囲ではよくやっていた)。

すばらしかった。そして友達が落ち込んでいるのもよくわかった。ぼくらがやろうとしていたような音楽だったからだ。といっても、あたりまえだが、ぼくらとは比べようもない。まったくもってぜんぜんかなわない。けっきょく、二人でため息をつきながら全曲聴いてしまった。

それが、サニーデイ・サービスの「若者たち」であった。それ以来、自発的なバンド活動はやめてしまった。つまり、自主制作でもいいからCDの一枚も出したいと思っていたのだけど、あきらめたのだ。

夢をあきらめるな、とはよく言われる言葉である。ただそれは、夢を叶えた人が言うことが多い。つまり、あくまで「結果」なのである。
いや、その「過程」こそが本当は大事なのだ、と言う人もいる。さらには「夢」を持つことが大事だ、という人もいる。
才能がなければ、早々にやめたほうがいい。別の夢に向かえばいい。夢がなければ、好きなことをやればいい。ああ、キンクスの「セルロイド・ヒーローズ」が聴きたくなった。

マイケル・ジャクソンのライブのリハーサルを撮影した「THIS IS IT」を観て、自分がもし同業者だったら、落ち込むなと思った。こんなもの見せられたら、やめてしまうんじゃないかと思った。
北杜夫が自身の読書遍歴についてのエッセイで、ドストエフスキーの作品を、いま読めと言われても読めない、というようなことを書いていたのを覚えている。落ち込んで、作家を辞めたくなってしまうかもしれないから、ということだったと思う。これと同じである。

まあとにかく、観ていないひとは早く観ろ、ってことです。
ジャンルに関係なく、「本物」は見られるときに見ておいたほうがいいです。わたしは一曲目から卒倒しました。マイケルに憧れ、同じステージに立つという夢が叶ったバック・ダンサーたちのコメントに泣きました。とくに最後に登場するダンサーの発言がすばらしい。マイケル・ジャクソンという存在がわれわれにとってどういうものであったかということを端的に語っていると思った。

  斜交ひに置きある葱やシンクの縁   榮 猿丸



5 件のコメント:

  1. こんにちは。

    私は音楽を志したことがないので、こうゆう感じの「悔しい」はよく分かりませんが、同世代でこれはもう「ワタシマケマシタワ」と痛快に思ったのはスーパーカーと中村一義。これをやらなきゃいけなかったんだ、やれる人がいたんだ、と感動しました。
    「悔しい」は、結構男性的な感情なのかもしれない。自分のなかを探ってみると、喜怒哀楽は一応ある。悔はあんまりないっぽい。そうだな、某君からフラれたら悔しいかな。絹のハンカチを噛みちぎる練習をしておかなければ。…いや、やはり悔しいより悲しくて淋しい。覚悟はあっても泣くと思う。

    猿丸さんの俳句もなんか淋しいです。読者のための導線が行きつ戻りつしている印象を受けます。狙っての効果だとしたら、ちょっとしんどい。

    マイケル・ジャクソンが亡くなったときは、何故か安堵に近い気持ちがしました。あのような状態で、とゆうのも生き辛い人が世界の殆どだとは思いますが、まさに唯一無二の「情況」で生き続けている人がいることが、バッソ・オスティナートの如く我が精神をも苛めり。

    薔薇とバンドでバラバラバラライカなコメント欄が不思議。一読者の無責任さで繋げてしまうと、私、モッコウバラが大好きです。近所に垣根に白い八重咲きの品種を咲かせるお宅があり、毎年写真を撮りに行きます。テディベアの「大島さくら」を伴います。「童は見たり 野中の薔薇」の薔薇はとても背の高い品種のものであった筈、といつか聞きました。なんでしたっけ、ロサ・キネンシスが薔薇の原種?原種はそんなに大きくないのかな。丈高い薔薇はまるで女性ですね。この「野中の薔薇」はジャン・コクトーの「少年水夫」と近いところに位置するような気がしてきます。

    何はともあれ、石の薔薇 THE STONE ROSES もゆめお忘れなく。THIS IS IT と THIS IS THE ONE はなんの関係もなさそうですけれど。

    返信削除
  2. 度々失礼いたします。書き損ねました。
    THIS IS IT 観てないです。早く観ます。
    あと、この欄の初コメント踏んでしまってすみません。
    「前回のつづき」とゆうことでご容赦願えれば幸いなり。
    毎週特攻!の予定はございませんのでご安心ください(笑)。

    返信削除
  3. 珠央さま
    コメントありがとう。悔しいというのともまた違うんだけどな。THIS IS IT観てね。今週で終わっちゃうんじゃないかな。薔薇の話、少年水夫が出てくるところが珠央らしいね。でも薔薇はわたしはわからん。バラライカよりテルミンだな、わたしは。
    俳句、文章とくっつけるとずいぶん印象変わるというか、在る部分が増幅されるというか。なんかダークサイドに行ってしまった。

    返信削除
  4. なるほど。「悔」なんて一字も出てないのに、そう読んでしまいました。ダークサイドに行ったのは読者である私でした。スター・ウォーズです。いつも暗黒面と戦いながら生きているんだ。しかしながら、付かず離れずのエッセイ付俳句は、開拓したら面白いジャンルかも。発句が独立して、今度は散文とくっついたら…。
    Chemical between us はsuedeでしたが、そもそもChemical between usな部分の大きい俳句に関連して、あくまで自句自解ではない前書格調版みたいな感じ。すぐに絶滅しそうではあります。
    イヴリン・ウォーなど英文学を読んでいると会話のなかに It's chemical 等と出てきて、地の文でこれは1920年代に流行り始めた言い方で云々、と少しバカにした評言があったりしますが、こちらは口語としてすっかり定着しました。普通に使うよね?
    だって、ポップ・ミュージックの歌詞にあるくらいですから。って、コメント欄なので三段論法で片付けてしまいました。そうそう、「名前を付けてやる」はスピッツでした。これは一部の人たちのあいだでしか通用しないようです。意味もなく好きなフレーズでした。
    それでは、また何かの折りに。排水口から芽吹いた葱はそのままに、新鮮な葱を摂取して感冒対策となさいますよう。

    返信削除
  5. 「名前を付けてやる」は未聴。スエードも聴いてないぞ。ボーカルとギターはなにやってるんだろう。
    俳句は名前のついた「もの」を中心に詠みますが、それはその「もの」を表現したいからじゃなく、未だ名前のつけられない、付け得ない「こと」を表現するためだと思っています。「もののみえたる光」ってやつか。で、それってやっぱり具体のなかにしかないと思うんだな。頭のなかにあるのは観念という「もの」しかないし。簡単に名前つけちゃう。感情とか感覚という「こと」は境界にある。「もの」の表面にある。「もの」の深部になにかあるわけじゃない。
    「名前を付けてやる」というのは、未だ名付けられない「こと」に名前をつけるということだろうから、そんなこと言われたら、そりゃ落ちるよね。惚れちゃう。さすがスピッツ。

    返信削除