2009年12月22日火曜日

空港マジック   浜いぶき

 空港という場所が、小さい頃からずっと好きだ。空港で誰かに何かを頼まれたら、その通りにしてしまう自信(?)がある。例えば、この仕事をして欲しい、と言われたら頷いてしまうだろうし、告白めいたことをされたら、くらっときてしまう気がする。お金を貸してくださいと言われたら、もしかしたら貸してしまうかも知れない(普段そういう状況に身をおいてはいるわけではないが)。だからこそ、空港では自分の言動によく気を付けよう、とは思うのだけれど、それでも空港に着くとそんなことも忘れてはしゃいでしまうほど、空港が好きだ。先日北海道へ行った時も、出発前に“テンションが上がり”、スターバックスでマンゴー味のフラペチーノの余計に大きなサイズを頼んで、飲みきれなくて困ったりした。待ち合わせの時も、空港だと、とても早く行く。他では考えられないことなので、こういうのを、空港マジックというのかも知れないと思う。

 ごくたまにではあるけれど、用もないのに、空港へ行く。
 たいていの場合、それは羽田空港の第2ターミナルだ。5年前に新設されたきれいなターミナル。トルネードのような形のエレベーターが往き来する巨大な吹き抜けが気持ちよく、屋外の展望デッキからは離着陸の様子がよく見えるし、ベンチも沢山あって、アップルタイザーも売っている。館内のつるつると光るロビーの床は、早朝や夜がとくにそれらしいと思う。一度、そこをスケートボードで気持ちよさそうに走っていく男性を見かけたことがある。そのひとはTシャツにサングラスといういでたちだったので、ファッションでやっていたのだとは思うけれど、ああ、あの人はきっとこの床を見て、滑りたくて仕方なくなったのだろうな、と分かった。そういう滑り方だった。きっと空港のことも好きなのだろう、と勘ぐる。

 旅行の経験は多くないが、印象深い空港が幾つかある。
 先にも書いたが、夏に出かけた北海道の旭川空港。(行きは新千歳空港で降りたが、空港から支笏湖へ向かう道路が、緑濃く、ゆたかな起伏のあるとても北海道らしい道だったことをのぞけば、空港自体にそれほど印象はなかった。)旭川空港は、旅程を終えて帰路に使った。その日は富良野から旭山動物園を訪ねて、ラーメンを食して温泉につかり、満喫したところでレンタカーを返すと、辺りは夜になっていた。ターミナルビルは新しく、コンパクトで感じが良かった。搭乗まで少し時間があったので、送迎デッキに行くことにする。入場料が必要で、それがとてもささやかな、微妙といっていい金額(大人50円くらい)だったのが可笑しかった。金網のないオープンデッキは、真正面が発着場になっていて、停まっている飛行機の迫力が凄かった。周囲を静かな丘陵地帯がとりまく夜の滑走路に、点々と青やグリーンの誘導灯が続いている。子供の頃に遊んだレゴにあった、一番小さな色とりどりのキラキラした部品、あれは飛行場の誘導灯だったことに、兄と話していて気が付く。漠然とライトだとは思っていたけれど、そういえばレゴの基礎板の中に滑走路があったことを思い出した。夜の誘導灯は、どこかなつかしくて、見飽きない。

 あるいは、大学二年の時に行った、パリのシャルル・ド・ゴール空港。2Fターミナルの出発ロビーは、日本では考えられないほど広々としていて目をみはった。一面ガラス張りの三角屋根がまっすぐにどこまでも広がり、淡い銀の鉄筋の梁がむき出しになったデザインがその開放感を引き締めている。国内便に乗り換えてニースに着いたのが夜だったから、シャルル・ド・ゴール空港にいた時間はちょうど日が翳り出す頃だったと思う。青空からロビーへと降り注ぐ日差しがそれはきれいだったことを覚えている。
 確かそのとき、一緒に出かけた美大の友達だったか、私だったかに熱が出ていたのだった。初めての海外二人旅であるうえに出発日だったので、少し不安な気持ちのまま、とりあえず乗り継ぎ待ちの時間をラウンジで何か飲みながら過ごした。熱を出したのがどちらだったか覚えていないというのも妙な話なのだけれど(ただ、自分には珍しくないことで、記憶のなかで他人と自分の区別がつかなくなってしまう)、それでもその不安さも気付くと拡散しているほどに、ロビーには光が溢れていて、不思議に神々しかった(事実、友達と私は健康にその後の道中を過ごせたのだった)。そのときも、本当はふたりとも、これから出かけるヴァンスのロザリオ礼拝堂のことで、胸をいっぱいにしていた気がする。

 そこに「時間」が生まれること、それが空港の魅力ではないかと思う。旅立つ前の時間や、旅から戻った後の時間。最近は搭乗の手間もかからなくなってきてはいるけれど、それでもチェックインをしたり、荷物検査をしたり、国際線であれば審査をしたり——そういうことのすきまの時間が、空港では、やっぱり一定以上要る。搭乗時間を待つのにも。その、ある限定された時間、けれどどうしても生まれる時間に、旅をする人のひとりひとりが、辺りを見回して、何かを思っている(例えば来し方や行く末)こと。それが、空港に流れているどことなく熱っぽく、けれど冷静な空気の理由のような気がする。

 清潔で、機能的で、最も現代的であるけれど、空港には少しの“余分”が存在する。例えば、ホテルに置き換えていうと、その“余分”とは“サービス”や“贅沢”なのだろう。でも、空港でのそれは“浪漫”といってもいいと思う(何しろ、飛び立つので)。だから、私のように用もなく空港に遊びに行っても、せわしなさに居たたまれなくなることなく、居心地よく空港を愉しむことができる。それは、そこに流れている、“旅”を思う余分な時間と空間のためなのかな、と思う。


  冬暁の引き締めて滑走路なる   浜いぶき

0 件のコメント:

コメントを投稿