高校の茶道部に入部した理由のひとつは、陶磁器を中心に古美術が好きな父親の影響だろう。
もうひとつの理由は顧問のO先生の存在である。
世界史担当のO先生の授業はユーモアと含蓄に富んだもので、崇拝している生徒が少なくなかった。
一年間の授業時間数に内容が収まりきらないので、夏休みに奈良市内で補修のための「世界史合宿」が行われた。
世界史の授業のみが朝から夕方まで行われる二日間というのは、私にとっては至福であった。
合宿といってもほとんどの生徒は自宅から通ったのだが、私を含めた数人は、家が遠いわけでもないのに先生とともに会場に宿泊することにした。
就寝前には先生が日課としている特殊な体操を教えてもらい、起床後は会場に隣接した平城宮址を散歩したような気がする。
茶道部は外部から先生をお呼びするのではなく、O先生直接のご指導によるものであった。
流派は少しマイナーな石州流である。
わが母校に程近い大和小泉というところは、石州流の祖、片桐石州のかつての所領で、石州が父の菩提寺として建立し、現在も石州流の拠点である慈光院の所在地である。
先生の言によれば、石州流は表千家や裏千家とは異なる武家の茶であり、男子が嗜むにふさわしいということであった。
たしかに裏千家と比較すると、手数もやや多く、やや格式張ったところがある。
週二回の練習は和室のある宿直室で行われた。炉がないため年中風炉点前である。
基本の平点前より先に、小卓というちいさな棚のようなものを用いた点前を覚えた。
菓子は四分の一程度から、ひどいときには十六分の一程度の大きさに切り分けて使用したものだった。
文化祭においては、一般公開の日曜日に野点を行うのが恒例で、大和郡山市内にある老舗の菓子店に、この日のために特注したお菓子を使用した。
道具はO先生私有のものを貸していただいたのだが、法隆寺古材を用いた茶杓、荻原井泉水の「棹さして月のただ中」の短冊などがあったのを記憶している。
半東という茶席の進行役が道具を紹介した。
部員は主人と半東、そして水屋で正客以外の茶を用意する裏方を交代でつとめた。
当時の私は、岡倉天心の『茶の本』を読んだりして、茶道の型だけではなく、自分なりにその精神を理解しようとしていたと思う。
奈良の文化会館ではじめて歌舞伎公演を観て夢中になったのもちょうどその頃で、伝統文化への関心を大きく深めた時期だったのだろう。
ちなみにそのときの公演は、中村扇雀(現坂田藤十郎)、中村富十郎、市川左團次を中心とした一座で、亡くなった坂東吉弥もいた。演目は『土屋主税』と『身替座禅』で口上もあった。
私はさっそく年末の南座顔見世興行を観劇しており、先代(代数としては先々代)片岡仁左衛門の『馬斬り』、先代坂東三津五郎の『喜撰』、扇雀の『二月堂』、富十郎の弁慶、福助(現梅玉)の富樫による『勧進帳』、あと、配役は忘れてしまったが『三人吉三』の大川端が出た。
改築前の、洞窟のように暗くて狭い三階席である。
O先生については他にも忘れられない思い出がある。
私は当時、軽音楽部、茶道部のほかに文芸部にも所属していたのだが、その機関誌に掲載したSF風の短編をお褒めいただいた一方で、一緒に掲載したいくつかの俳句作品について多少厳しく批判されたのだった。
そのご意見を今も折にふれて思い出すことがある。それが、俳句と向き合う姿勢を反省するよすがになっていると思う。
凩を束ねて狭き冠木門 中村安伸
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告知
猿丸さんの記事ですでにご紹介いただいておりますが、再度告知させていただきます。
・筑紫磐井、対馬康子、高山れおな編 『新撰21』 (邑書林)
四十歳以下の俳人二十一人の俳句作品百句を掲載したアンソロジーで、若手俳人を中心にしたこのような企画が世に出るのは約二十年ぶりとのことです。
私も参加させていただいております。
なお、haiku&meの青山茂根、栄猿丸両氏を含む四十五歳以下の二十一人が、各俳人の小論を寄せています。
詳細はこちらをご参照ください。
・第115回現代俳句協会青年部勉強会「俳人とインターネット」
小野裕三氏、上田信治氏、大畑等氏という強力なメンバーをゲストにお迎えしております。
私は僭越ながら司会を努めさせていただきます。
詳細はこちらをご参照ください。
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