2009年12月18日金曜日

― クリスマス(の本)は子どものためにあるのではない ―



  空母より点り始めし冬至かな        青山茂根


 冬の朝の、喧騒の第一弾が過ぎたあとの、空虚な静けさの中を、早足で歩く。近くの小学校へ、絵本を一冊抱えて。子どもたちへ、本の読み聞かせのボランティアのために。無論、子ども好きというわけではない。何より仕事をずっと続けていこうと思っていたくらい、むしろ苦手だった。人が足りないから、と誘われたのだが、数人で、一年間一つのクラスを担当し、月に数回程度、自分もいろいろな子供の反応が見られて面白い。たいていの月は、事前にボランティアのメンバーが集まって決めておいた本を読むが、12月は違う。クリスマス関連の本なら、クラス担当者ごとに、好きに読む本を選んでよいことになっている。朝の、授業前の20分ほどなので、あまり長い話だと終わらない。やんちゃ坊主が集まっている一年生のクラスだと、展開のはっきりしたものでないと、すぐ落ち着きがなくなるし(かと言って無理矢理聞かせても仕方がない)、生意気ざかりの3,4年生ぐらいになると、知っている話は聞いてくれない(こっちもむっとしなくもない)。多少の新たな知識や、驚きのあるものを選ばないと。ただ担当の本を読むだけではなく、自分なりの解釈や、付随する知識を子どもたちに披露すると、それまで本の内容に茶々を入れまくっていた子どもも、口を噤んで、耳を傾け始める。それはほんの些細な余計なこと、「ハリーアップ!」と言ってたのを名前が呼ばれたと聞き違いしたんだよ(『うみべのハリー』)、などだが。

 それでなくとも、クリスマスの絵本を選ぶのは楽しい。どこの書店も図書館も、クリスマス関連の児童書コーナーを設け、色彩も鮮やかだ。古くから読みつがれている名作や、最近出たばかりのベストセラーものは、目につくところに並んでいるので、それ以外から選ぶようにしている。それでも、あれもこれも、読みたくなって困る。30人ほどの、子供たちの前で読むので、あまり小さな本では絵が判りにくい(見えないと立ち上がったりする子がいて、その子に文句をいう子が出始め、クラス中に余波が広がり、収集がつかなくなる)。なかなかこれ、という本が見つからず、ブックオフにまで足を運んだ。

 子供たちの前で読むのでなければ、定番シリーズのあまり知られていないクリスマスの話、『グロースターの仕たて屋』‐ピーターラビットシリーズ‐や『もみの木‐ムーミン谷のクリスマス』、自分が子供の頃からある岩波の子どもの本シリーズの『山のクリスマス』がいい。ムーミン谷の話は、アニメとは異なる内容で、こちらのほうがシュールで好みだ。シュールといえば、スズキコージ作『クリスマス・プレゼントン』も忘れてはいけない。こんな奇妙な、空恐ろしいような絵を、よく児童書として出したものだと思う。しかし、どこか宗教画の趣きもあり、ルオーの印象にも近いか。そんな、なんだか幸せなだけではないクリスマスの話に惹かれてしまう(まあ天邪鬼ですから)私の一押しは、トルーマン・カポーティ作村上春樹訳の『クリスマスの思い出』。これは3部作になっていて、カポーティの幼少時代の哀しみが、ガラスの破片の輝きのように、胸に突きささる。『あるクリスマス』『おじいさんの思い出』も良いが、やはりこの、貧しく、寂しく、善良な、古き良きアメリカの市井の人々を描いた『クリスマスの思い出』がダントツだろう。しかし、これはもう少し大きくなってから一人で味わう本だ。人生の四分の一を過ぎてからでも遅くはないくらい。

 あちこちはしごしまくった挙句、やはり村上春樹訳の『急行「北極号」』を選ぶ。なにより、この作家の訳には深く掴まれる。カポーティやレイモンド・カーヴァーの、いくつかの翻訳物は何度読み返しても海から上がった後のぞくぞくさながら、言葉が水際立って迫ってくる。選んだ本を、実際、声に出して読んでみると、どの文も一息で読むのにちょうど良い長さながら、言葉がひっかかるようでそこがエッジになって聞き流さない、自然に文末に余韻が生まれる作りになっていた。大人になってしまった子どものための、本でもある。

0 件のコメント:

コメントを投稿