最も積極的にそれを行っているのが中村勘三郎のグループで、これまでで一番の成功例が野田秀樹と組んだ『野田版 研辰の討たれ』(2001)だったと思う。
小劇場と呼ばれた現代演劇のスタイルを歌舞伎座で、歌舞伎役者を使ってやってみたら、思いのほかうまく行ったというのが、この『野田版研辰』を観たときの印象であった。もちろん女形も登場する舞台が現代演劇「そのまま」な筈はなく、歌舞伎に蓄積された様式的演出を現代演劇に融合させるためにさまざまな工夫がされているに違いない。野田と勘三郎それぞれのセンスと相互理解、そして初の試みに立ち向かうことの緊張感などがうまく作用したのだろう。もちろん観客の側も初の試みに対する新鮮さがあった。
勘三郎と現代の演出家とのコラボレーションという点では、コクーン歌舞伎や平成中村座における串田和美の存在が先行している。もともと演出家が存在しない歌舞伎を、現代の演出家が、その審美眼をもって再構成するという試みは成功だった。たとえばコクーン歌舞伎「三人吉三」(2001)の終幕における蒙々たる雪煙の凄絶さは、現代演劇の美意識によるものだった。
そのようにして蓄積されたノウハウが、野田とのコラボレーションにおいても有効に働いたのだろう。
今月の歌舞伎座夜の部には、野田秀樹をフィーチャーした二作目『野田版鼠小僧』が上演されているのだが、私はこれを初演のときに観て『研辰』ほどには感心しなかったと記憶している。観客にとって新鮮さが幾分減じたということもあるかもしれない。
そして、昼の部には宮藤官九郎を作、演出に迎えた新作『大江戸りびんぐでっど』が上演されている。
私は21日(月)に一幕見席でこれを観た。
平日にもかかわらず一幕見席は朝から満席だった。約1時間ほど並んで二幕目(実際には三幕目だが、一幕、二幕目がセットで販売されていた。)の『身替座禅』から観ることにした。
『身替座禅』は三津五郎の奥方玉ノ井に愛嬌があって抜群に良かった。勘三郎の山陰右京はもちろんハマり役であり、これまで何度も観た芝居ではあるが、非常に新鮮に感じられた。
さて、目当ての『大江戸りびんぐでっど』であるが、死体が蘇ってゾンビとなり、人を食べる、そして食べられた人もまたゾンビとなるというのがこの芝居の趣向であり、宮藤の所属する劇団、大人計画の『生きてるし死んでるし』(1997)に類似している面がある。
特殊メイクのグロテスクさや頻出する下ネタに辟易したのだろうか、途中で席を立ってしまう客も散見されたが、前述の大人計画の芝居を観たことのある私は、グロテスクさ自体を特に強烈とは感じなかった。
当時の大人計画はシナリオ、演出は松尾スズキが一手に行っており、宮藤官九郎は、阿部サダヲに並ぶ看板役者の一人であった。その彼がテレビドラマ等の脚本を書いて評判となり、松尾以上に有名になってしまったのであるが、実際のところ彼のテレビドラマ、映画、演劇等はあまりきちんと観たことがない。
前述の大人計画の芝居では、よみがえった死体を「IS(生きてるし死んでるし)」と名付け、生とは死とは何かという疑問を投げかけると同時に、差別などの社会的問題を躊躇なく描くものだった。差別を扱う作品は他にもあって、観るものに痛みを感じさせるものだった。
描写がグロテスクかつ強烈であればあるほどテーマが明確になる。しかし、そこまでお付き合いいただくためには、客を惹きつけて離さない笑いの力が重要となる。大人計画においては、テンポの速い会話のなかにズレを生じさせることによって起きる笑いが最も有効なものであった。
今回の作品も、そうした笑いを取り入れようとしていることは明らかだった。しかしそれは歌舞伎とは非常に相性が悪いものかもしれない。
大きな劇場の隅々までナマの声を届けなければいけない歌舞伎では、ゆっくりと節をつけるような台詞まわしが基本となる。実際に一幕見席からでは、特に主役の染五郎のセリフ等に聞き取れないところが多くあった。
一方で、落語ネタのパロディの挟み方などはとてもうまく、そうしたコラージュ的な作劇にこそ宮藤の真骨頂があるのではという気もするが、肝心の脚本そのものに練り足りない部分が見受けられたのは残念なところである。
たとえば物語において最も重要な存在であるゾンビたちは、「らくだ衆」と呼ばれ、一方で「ぞんび(存鼻)」とも呼ばれている。やがて彼らに人がやらないような仕事をさせるというビジネスが発足するに及び「はけん衆」と名付けられるのである。
このゾンビ達は、要所要所でZAZEN BOYSの向井秀徳の唄にあわせ、クドカンの妻である八反田リコの振付で軽妙に踊るのだが、その歌詞中で彼らは「りびんぐでっど」あるいは「生きる屍」と呼ばれている。
これらの呼び名の使い分けが、物語に絡めてきっちりと描かれていたかというと疑問が残る。
少なくとも私にはその意図がはっきりしない部分があった。
落語を原典とし、歌舞伎の演目としても定着している「らくだ」を劇中に登場させ、「かんかんのう」を踊らせたりもしているのだから「らくだ衆」という呼称を強調しても良かったのではないか。
また「はけん」という呼称を使ったのは、この芝居が派遣労働という問題を扱っているということを、わかりやすく示そうとしたのだろう。
しかしそこまでしなくても十分に意図は伝わったはずだし、「はけん」という言葉を使ったことの弊害もある。
たとえば「はけん」に対立させて「人間様」という言葉を使った箇所があったが、これでは派遣労働者を人間以下の存在だと言っていると受け取られかねない。また、それが皮肉であるということが伝わるとは限らない。
たとえば大人計画の芝居は、身体障害者などへの差別をあからさまに描き、差別というものの痛み(差別されることの痛み、のみではなく、差別をし、差別されもする人間そのものの痛みというような)を、観客に突きつけるようなものであった。そうしたギリギリの表現が可能なのも、劇団のやり方をある程度知っている観客が相手だからでもある。
歌舞伎座へ非日常の祝祭空間を楽しみに来た観客とは、受け手のスタンスが全く違うのである。もちろんクドカンのファンでこの『大江戸りびんぐでっど』を楽しみにして来る方も少なくはなかった筈だが。
一方、この芝居を楽しめた点を挙げれば、それは歌舞伎役者の力量そのものということになる。
演技力だけではなく、歌舞伎座という劇場空間を支配する力。それは、親戚家族がみな役者であり、幼い頃より舞台に立つことが日常であるというような生活がもたらすものである。
そして、野田版にせよクドカン版せよ、役者へのあて書き、つまり役者のキャラクターにあわせて登場人物の造形がなされているのであるが、そのキャラクターのつかみ方が非常にハマっている。それは演出家の才能によるところだろうが、それ以上に、勘三郎を中心とした役者同士の、家族のような付き合いから生じる、深い相互理解に根ざしたものという気がする。
クセのあるキャラクターを演じた中村扇雀、坂東三津五郎といった人々のハジケぶりはとても痛快であった。
また、悲劇的な人物を演じた勘三郎の、沼底でのたうちまわる獣のような怪演ぶりには、異様な凄みがあった。平成中村座で演じた『法界坊』(2000)もそうだったが、このような悲惨でグロテスクな役柄こそ、勘三郎の真骨頂なのかもしれない。
役者が楽しんでいる、またクドカンも楽しんだという感じは伝わってきたが、残念ながら楽しめない部分を残す芝居となってしまった。今回は練りこむ時間が足りなかったのかもしれない。私としてはぜひ、クドカン歌舞伎の次回作に期待したいと思う。
聖誕祭空よりもらふ酸素かな 中村安伸
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