2010年1月26日火曜日

DNA解析   上野葉月

先日、ニホンザルの群に関する記事を読んでいたら気になる事例が書いてあった。ある群の生まれた子猿たちのDNAを調査したところ、観察されていた生殖行動とは違って、下位の雄の遺伝子を受け継いだ子猿の方が多いということがわかったそうだ。

ニホンザルはボスザルを筆頭に上位の雄ほど交尾の回数が多いことが長年の観察の結果よく知られているのだけど、実際は下位の雄の方が子供を残しているらしい。ヒトの雌は(一部の例外を除いて)浮気が大好きなことはよく知られているが、どうやらサルの雌の同様だったようだ。

なんか科学技術というのは改めて言うのもなんだけど野暮なものだと思う。

こういう記事を読みながら気になるのはやはりサルではなくヒトのことだ。なにしろニホンザルの雌はDNA鑑定についての知識はないがヒトの雌は実際にどんなことが行われているか説明できなくてもDNA鑑定の結果どのようなことがわかるかについてある程度把握している。

生まれた子供の父親が誰なのか産んだ当人でなければよくわからない(時として当人にもよくわからない)という状況と、地球上の多くの人間の個体は父親の社会的経済的地位によってスタート地点が決まってしまうように見えるという状況、この二つの矛盾するベクトルが長いあいだ人間社会のダイナミズムの原動力のひとつだったはずだ。にもかかわらず今日、生まれた子供に関して父親の候補者を絞れる状態だったらほぼ特定できるし、社会的な父親と遺伝的なつながりがなかった場合ほぼ100%つながりがないことを立証できるようになってしまっている。かなり大がかりなパラダイムシフト。日本などは元来太平洋の島国で性的なおおらかなところがあるからそれほどシフトしないのかもしれないけれど、人間の文明のスタンダードな部分、ユーラシア大陸の大文明地帯などではけっこう深刻な事態のようにも思える。たかが塩基配列を記号化してパターンを調べただけだというのにえらい騒ぎだとも言える。

そもそも人生の大半は思い込みと誤解で成立しているので、ヒトには動かし様のない事実なんてものを歓迎する謂われはない。それはやはり野暮というものではないだろうか。たとえば一昔前までは「日本人の祖先はどこからきたか」なんてお題を出された日には百家争鳴の盛況を呈したものだったが、いまでは盛況のセの字もない。DNA解析の成果でおおよその事柄ははっきりしてしまっているのだ。食材研究家も人相研究家も神話学者も言語学者も民謡収集家も出番なしである。

ヒトは胎児状態で生まれてしまうせいもあって子育てに無闇に時間をかけざるをえない。一匹の雌が生涯育てられる子供の数は限られるので子孫を残すためには数で勝負するわけにはいかず、勢い質での勝負になる。

仮にここに二匹のヒトの雌がいて、片方は同じ父親の子を四匹産んでもう片方は各々違う父親の子を四匹産んだとする。ヒトがインフルエンザ天然痘AIDSなどウィルス性の疾患の攻撃に極端に弱いことを考えれば、どちらの雌が産んだ子供達の方の生存率が高いかは分子生物学の専門家でなくとも火を見るより明らかだ。どの程度生存率が変わるかの計算はとても難しそうだけど。そんなことが数千世代にもわたって繰り返されてきたなら、太古の昔もし一匹の雄に尽くす行動が目立つ一群の雌がいたとしても新石器時代を迎えるのを待たずにそういう雌達の遺伝子が失われたことも火を見るより明らかだ。

いつものように紋切り型の締め方を許してもらえれば、遺伝的な父親が誰であろうが安心して子育てができる社会制度や法律を整備していかなければ今後少子化は歯止めの効かないところまで行くしかないだろうと言っておきたい。もっともヒトは増えすぎたので減らすべきだという声がすぐにでも聞こえてきそうな話ではあるが。

初夢の毛深い平行従姉妹かな  上野葉月

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