星飛びし空に影富士ありにけり 広渡敬雄
「頭を雲の上に出し四方の山を見下ろしてかみなりさまを下に聞く富士は日本一の山」と明治43年以来文部省唱歌として歌われ(平成19年には「日本の歌百選」)、一富士二鷹三茄子と縁起の良い初夢の筆頭にあげられて、昔から多くの日本人に吉相の富士山。
日本人なら、一度は登るべき山とされ、年間25万人の登山客の大半が7月1日から8月31日の2ヶ月に集中、頂上や各合目の山小屋の泊りは1畳に2名の超混雑となる。
真夏のシーズンは、昼間の直射日光を避けて(5合目以上は樹木もなく砂礫のため)、
夜間に頂上を目指す登山者のヘットライトが、延々と続いているのが山中湖等から見える。
頂上は、旧測候所の上にあり「日本最高峰富士山剣が峰 三七七六米」の石標がある。ご来迎時には、その反対側の西側の雲海(雲海がない時は、広大な大地や山々)に、端正な富士山のシルエットが出来る。
いわゆる「影富士」である。ご来迎に感激していると見損なってしまうが、ご来迎直後、約2キロのお鉢巡りをすると何とか見られる。
また、夕暮れ時にはご来迎方面(東)に見られる。
他では、鳥海山で日本海に映る「影鳥海」が知られている。
昨年の12月、元レーサーで登山家の片山右京氏が所属会社の社員2名と南極最高峰ビンソンマシフ(4897m)登山鍛錬のために登攀中、同行の2名が遭難し、凍死するという悲惨な結果となった。
雪化粧して優美な冬の富士山は、気温が氷点下20度を越す寒さに加え、20m近い強風で体感温度は同40度以下とも言われ、雪面はコンクリート以上の硬さでアイゼン、ピッケルも撥ね返す程。
加えて風向きも不規則な強風で蟻のように吹き飛ばされ、雪面(「死の滑り台」と言われる)を滑落して死亡する事故が多く、ヒマラヤよりも難易度が高い限られた「エキスパート」のみの領域と言われている。
今回も天候の急変は予想されたため、片山氏の道義的責任を問う声もある。
日本を代表する富士山は戦前の時期を除いて(*①)、日本の最高峰であり、万葉集の時代から「田子の浦ゆうちいでてみればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」等の詩歌にも詠まれている。
(*①) 台湾の新高山(現・玉山、3925m)、次高山(現・雪山、3886m)、
新高山は太平洋戦争開戦時の暗号電文「ニイタカヤマニノボレ 一二〇八」で有名。
五月の富士山は五合目近く迄残雪があり、立夏の眩い陽光のもと快適な雪山を楽しめたが、新高山は、南回帰線上にあり、同時期に登った時は雪も無かった。日本では細く逞しい這松が、その数倍の太幹だったのが印象的だった。
富士山に登りたいという願いは庶民の間に強く、殊に江戸時代には「お伊勢まいり」と同様に「富士講」が盛んで、富士吉田等の登山口には、百軒近い御師(おし)の集落があり、夏季は、富士山に登る参拝者に宿坊を提供し、山頂まで案内、他の季節は関東一円で布教活動を行った。戦後は登山もレジャー化し減少したが、まだ十五講が活動している。
年齢、体力面で登山出来ない人のために造営された山(塚)が「富士塚」で、東京を中心に六十近くが残っており、富士山の山開きの日には、富士講の人達が富士塚に登り、富士山を望んだ。概ね3~10米の高さ。
つまり、かっては都内の大半が富士の展望に恵まれていたことになる。
現在、江古田、豊島長崎、下谷坂本、川口木曽呂の四基が重要有形民俗文化財に指定されている。
一度、六十近くある富士塚のどれかに登り、江戸の庶民の気持ちを実感するのも面白い。
高層建築物が無かった江戸、明治時代は、都内至る所から、富士山が望めたので、10近くの富士見町(富士見台)、22の富士見坂の地名が残っている。
放水を富士に向けたる出初式
最近もそうだが、来日した外国人は、必ず秀麗な富士山に登りたいと熱望する。
幕末に来日した初代の英国公使オールコックが、幕府の強硬な反対を押し切って、万延元年7月(1860年)、外人として初登頂し、標高、緯度、経度等の測量結果も含め詳細な行程記録他江戸郊外からの富士山の画を残している。
富士山を描いた絵画は、近年では梅原龍三郎、横山大観が有名だが、江戸時代の巨匠 葛飾北斎、歌川広重の富士の画も傑出している。
北斎の「富嶽三十六景」では、遠近感のある「神奈川沖浪裏」、画面一杯に赤富士を描いた「凱風快晴」が殊に名高い。(*②)
広重の「東海道五十三次」の中では、由井(薩多嶺)、原(朝の富士)、吉原(左富士)にそれぞれの地からの富士の姿が描かれているが、「左富士」は知らない人が多い。(*③)
東海道を江戸から京都に西下する際、富士山は常に右側に見え、左側は太平洋であるが、吉原宿近くの松並木の間から唯一行く手の左手に見える名勝地。
津波で吉原宿が内陸に移転し、道筋が北上したために左手に見えるようになったと言う。
現在、一里塚は残っていないが、一本の老松と広重が描いた左富士の浮世絵を刻んだ石碑がある。(*④)
東海道新幹線からも「左富士」が見える。筆者も関西に行く折は注意して見る様に心がけているが、静岡駅を越えて安部川のあたりまでの僅かな時間である。
一度A席かA席側のデッキで挑戦して見たら車窓展望の楽しみも増すだろう。
また、浜名湖を過ぎて豊橋の手前、旧二川宿付近の右手後方が富士が最後に見える地点でもある。(135km)
東北新幹線からは、宇都宮を過ぎて那須塩原手前あたりが最後の地点となる。
最後に、遥か遠方から富士山を見つけ出す感激を追い求めている人がいる。
超遠望の富士は、200~300km離れた処から見られる。
コンピューター上からは眺望可能と目される地点から、富士山を実見しカメラに収めるべく、空気の澄んだ厳寒期の日の出直前に、シャッターチャンスを待つマニアも少なくない。
南東は、八丈島の東山(271km)、西は奈良県、三重県の県境で日本百名山の大台ヶ原・日出ヶ岳(273km)、圧巻は南西方向の「那智の滝」近くの妙法山(323km、カメラにも写っている最遠地点と言われる)。
北方向では苗場山に隣接した神楽ヶ峰(165km)、勿論日光中禅寺湖付近の男体山も。北アルプスでは白馬岳、立山からも眺望出来る。実際筆者も実見したが、思いの外鮮明だった。ほぼ日本列島の最大横幅に相当する距離。(180km)
北東では福島市近郊の花塚山(308km)と言われるが写真には残っていない。
遠富士や寒朝焼の芯となす
富士の展望は、このように色々な楽しみ方がある。
勿論飛行機からの眺望も素晴らしい。第二次大戦で、日本本土の空襲のために北上する米国爆撃機は富士山を目印にしたとも聞く。山頂測候所も三度ほど空襲を受けている。
その米軍機が撮影した富士山は孤高だが、屹然と聳えているのが印象深い。
■参考文献/サイト等
①「富士山展望百科」 田代博監修「山と地図のフォーラム」編(実業之日本社)
②「週刊俳句」09.2.15号「俳枕 山中湖・赤富士と富安風生」
「北斎と地図でめぐる富嶽三十六景」(浮世絵のアダチ版画 楽天市場店)
③「広重と地図でたどる東海道五拾三次」(浮世絵のアダチ版画 楽天市場店)
④「左富士」(新橋町)
「名勝「左富士」物語」(富士山NET)
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