2010年1月18日月曜日

ことごとく

ネタがないときは俳句のことを書く。

「—俳句空間—豈weekly第73号」の記事「新撰21竟宴 パネルディスカッション『今、俳人は何を書こうとしているのか』記録」を読んだ。パネリストは、関悦史、相子智恵、佐藤文香、山口優夢の各氏。司会は高山れおな氏。たいへんなボリューム。以下一部について雑感を。

最初のテーマだった「形式の問題」で、レジュメとして用意された外山一機さんの「消費時代の詩—佐藤文香論」の抜粋部分を問題提起としてディスカッションが進むのだけど、外山さんの論に対し、当の本人である佐藤文香をはじめ、優夢も違和感を表明していた。極めつけは、高山さんが「ひとつ問題があって、それは患者を取り違えているのではないかという気がしました。要するに佐藤文香はこの場合の患者じゃなくてですね、じゃあ患者は誰かというと、それは二十代の頃の高山れおなではないかなと。」と発言されていて、これにはすごく納得してしまった。

外山さんの論は、長谷川櫂、岸本尚毅、田中裕明、夏石番矢、小澤實といった、昭和の末期から平成にかけて台頭してきた「ニュー・ウェーブ」と呼ばれた俳人たちとの差異がわかりにくかったというか、むしろニューウェイブ俳人たちの登場から現在まで状況は何も変わっていないということを示しているのではないかと思った。僕は彼らニューウェイブたちを「ポスト・モダン俳人」と呼んでいるが、彼らは、歴史や価値の相対化、脱中心化が進む時代状況のなかで、周縁的な存在であった俳句を「発見」した。裕明の初期の代表作「悉く全集にあり衣被」のとおり、彼らの前には、もう新しいものはなかった。ことごとく全集に収められていた。全集という、すべてがフラットな配列の中で、彼らは自身の感性の赴くままに、伝統も前衛も俳諧も現代も問わず、引き出していった。『セレクション俳人 小澤實集』に収録されている、筑紫盤井氏の小澤實論「伝統俳句の現代とは何か 再び・小澤實の時代来たる」のなかに「虚無とこそ違え、そこには定型に対するほのかな絶望がある」という指摘があるが、彼らにみられる形式への信頼は、俳句の自明性の喪失という「絶望」と表裏一体であり、この時点ですでに、線的な、目的論的な俳句表現史は終焉を迎えていたのではないか。パラダイムシフトはこの時点ですでに起こっていたのにもかかわらず、俳壇はずっと棚上げしてきた。そのツケが今来ているわけで、僕らが自分たちの俳句について語ろうとしたとき、このパラダイムシフトを語らされることになり、それが混乱を招くのだと思う。

もちろん、この状況は現在も続いており、その意味で外山さんの論考は的確だ。でも、レジメに同じく引用されている椹木野衣の「シミュレーショニズム論」も1991年のもので、しかも副題にハウス・ミュージックとあって、はっきり言って古く感じるのは否めない。やっぱり、時代的にも「ウルトラ」の頃の高山さんがぴったりくる。

僕としては、関さんが言及している「ノイズ」という言葉に一番興奮した。日本語の詩では音韻はノイズ的になる、とか、ノイズに個体の単独性が出てくる、というような発言なんか、ぞくぞくした。僕もそこから発展させて、切字もノイズなのではないか、とか思ったり。すくなくとも澤俳句の切字(とくに、外部から批判というか違和感を感じられやすい、内容的には一物なのにわざわざ中七を「や」で切るパターンの句など)や字余りの多用は、ノイズ的なはたらきをしていると思う。この辺考えてみたい。

悉く全集にあり衣被   田中裕明
ことごとく未踏なりけり冬の星   高柳克弘

ぼくらがいま立っている位置は、「悉く全集にあり」から出発して、いまだにその中にある。でも、椹木野衣のいう「シミュレーショニズム」は、やっぱり『ウルトラ』の頃の高山さんとか、あるいは「ニュー・ウエイブ」あたりにはみることができるけれど、外山さん以外の『新撰21』に載っている(20代の)俳人たちにあてはめるのは無理だと思う。もっと無邪気というのか、俳句形式に対するストラグルもフェティッシュな偏愛も感じられない。勉強机に敷かれた世界地図のデスクマットのうえに白地図を重ねて自分の世界を描いているような感覚がある。ただ、それがいつのまにか未踏の地へと反転したらおもしろい。未踏とは可能性のことだ。

 ゑがほなり風邪の子ゑがく風邪の神   榮 猿丸


5 件のコメント:

  1. すみません。
    細かいことなのですが、 -レジメに同じく引用されている椹木野衣の「シミュレーショニズム論」- については、外山さん自身が御自分の論考に対して直接出してきたものではなく、『—俳句空間—豈weekly』第73号に、 -今回、関さんからのオファーで美術評論家の椹木野衣さんの「シミュレーショニズム論」というのをレジメの方に載せてます。- とありますように、 -外山さんの考え方の土台にあるのはこういう考え方だと思う- として関さんが提示したものですね。

    ですから、外山さんご自身が、椹木野衣さんのシミュレーショニズム論を、 -外山さん以外の『新撰21』に載っている(20代の)俳人たちにあてはめ- ているわけではないです。外山さんの論はそのように読めるのではないか、ということではないでしょうか。

    あの場で、むしろ外山さんご本人と関さんとで、その辺りを語りあって頂いたほうが、もう少し発展したのではないかと思います。
    高山さんの「患者取り違い説」で全てをまとめてしまうのは、惜しい気がしますね。

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  2. 茂根さま
    いや、細かくありません。大事なところです。そのとおりです。ご指摘多謝。シンポジウムでの議論をごったにして書いてしまいました。そう、

    >外山さんの論はそのように読めるのではないか

    ということです。すみません。

    それにしても、関さんの「個体の単独性としてのノイズ」というのは鋭いです。見事に強力な補助線を引いた。
    あと、「ノイズ」に関しては、関さんの文脈とはかなりずれたことを書いています。僕なりに「ノイズ」という言葉にインスピレーションをいただいたということで、ご容赦を。

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  3. あ、OKです。差し出がましいことですみませんでした。
    ネット上での曖昧な記述は、その論への批判と受け取られて一人歩きしかねないので、一応訂正ということで。

    「ノイズ」のところは、そこから派生して、とよくわかります。 -澤俳句の切字(とくに、外部から批判というか違和感を感じられやすい、内容的には一物なのにわざわざ中七を「や」で切るパターンの句など)-って、和歌における全体の音の調子を整えるために添えられる「や」と似た用法かも、と私は受け取っていましたが、それが俳句では逆にノイズになる、というのは面白い展開だと思います。今後のお話に期待大です。

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  4. お久しぶりです

    差し出がましさ だけで 生きている
    匿名くんです
    (記名してますけどね)

    「ノイズ」という用語はすでにジャーゴン化しているのでは
    ないかとも思われますが…
    せっかくの(?)俳句批評なので
    個人的にはもう少し手垢のついていないコトバ希望です

    この場合
    「個体の単独性としてのノイズ」と言わなくても
    「作者性」という より一般的な表現で充分なのではないかと…
    むしろ そう言ってしまったほうが
    「五七五」「でしかない」「瞬間」的「韻文」に
    記名する俳句作者の存在に近づけるような気がします

    あ カタカナが苦手なのは某結社主宰の影響かも(笑)

    新年会にお邪魔させて頂きますので
    その折りにでも御意見拝聴いたしたく存じます

    とゆうか
    お邪魔させて頂きますが 何卒よろしくです
    のご挨拶のためのコメントでございました

    ひとこと多くてごめんね〜
    だってさるまる個体にバイメールしても
    最近 返事けえへえんしな(笑)

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  5. 匿名くんさま

    この「ノイズ」という言葉は、例えば広告用語で言いますと、
    「フック」あるいは「エッジ」になりますね。

    澤俳句の切字や字余りの多用については、こちらの語を使うほうがより的確な気もします。

    完璧に作り上げたものの中に、あえて荒削りな部分を残す(エッジ)とか、美しく掃き清められた庭にあえて数枚の落ち葉を残す(フック)といったところでしょうか。

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