2010年1月19日火曜日

デビルイヤーは地獄耳   上野葉月

ごきげんよう、親愛なる読者の皆様。
句会への出席も順調に(?)減少している葉月です。如何お過ごしでしょうか?
ともあれ今年もよろしくお願いいたします。

ところで最近、俳句に関して作風が変わったと複数の俳句仲間から何回か指摘された。
本人としてはまったく自覚がないので、よく聞き質したところ、結局のところ以下のような感じのものを詠まなくなったということを意味しているらしい。

新しいパパが来た希望のパパだ  葉月

言うまでもなく無季である。もともと俳句ですらないことは多くの俳人が同意してくれるはずだ。
実はこういうものを読むと元気が出ると言ってくれる人が何人かあることは知っていた。
しかし、これが俳句なのか出来がいいのかそもそも作品として語る価値があるのかという疑問をすべてすっかり置き去りにして言わしてもらえば、こういった類のものは宇宙の深度にも匹敵するような魂の相克の果てに偶然出現するようなものなので、しょっちゅう作れと要望されても戸惑うばかりだ。

まあ元来そういう傾向だったとは言えるのだが、最近とみに句作に労力を傾けなくなったというか集中力が持続しなくなったのは確かなような気がする。

寒椿父の表札外しをり
狩人の袋に甘き玉いくつ
大寒の風降りてくる秩父かな


先週のSara句会で短冊回しをしたときの句。一分程度で作ったので手癖のままの作句だが、短冊回し袋回しでなくて三十分ぐらい時間が与えられているときでも昨今は一句作るのに数分程度しか時間をかけないように思う。集中力が持続しないし、もとより私には俳句を推敲する習慣がない。
句集をほとんど読んだことがなく同時に句会でしか俳句を作らない者の偏見かもしれないが、私にとって俳句は徹頭徹尾「座の文芸」である。まあその場で面白ければ後のことはどうでもいいというか。いやむしろ文芸というほどのものでもなく、日常の会話でもあるように人前でちょっと気の利いたことを口にしてみたいというか。見かけほど頭が悪くないんだよと虚勢を張りたいという程度のささやかな煩悩に基づく行為と言ってもいい。
少なくとも、言語の新しい可能性を追求したいというようなことを考えていないのは確かだ。
そういうことじゃいけないんでしょうね。いけない? ん、いけてないのか? やっぱり、いけない?

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