2010年8月2日月曜日

表層に宿るもの

俳句スランプ脱出のため、矢継ぎ早に美術館へ行く。

7月某日、「SWINGING LONDON 50'S-60'S」@埼玉県立近代美術館へ。
50年代から60年代の英国インダストリアル・デザインと「スウィンギン・ロンドン」と称されたユース・カルチャーの展覧会。入ってすぐ、テレキャスター、ストラトキャスター、レス・ポールのエレキギター御三家、三体仏が鎮座。ありがたく拝む。振り返るとヴェスパがあり、モッズ・コート(朝鮮戦争休戦後、大量に放出され英国に流れてきた米軍のパーカー)が掛かっている。最近気付いたのだけど、「踊る大捜査線」の青島刑事のコートってモッズなんだね。ダサかなしい。私は。

60年代英国カルチャーに多大なる影響を受けた私としては、何時間居ても飽きない空間だった。最も印象に残ったのは、ジミー・ペイジ翁の私物ギターやベルベット・スーツではなく、マリー・クワントのミニ・スカートとチェルシー・ブーツであった。魔法使いサリーちゃんなどの60〜70年代の少女漫画のコスチュームの原型。ツイッギーが登場してロング・ヘアーのグラマラスな女性からショート・カットのスレンダーな少女に。ガーリーの原型。マリー・クワントは一世を風靡しただけに、じつは70年代は「あの人は今」状態だったらしい。というのは、キンクスが74年に作った「Where Are They Now?」という曲があって、タイトルのとおり、表舞台やトレンドから消えた人達を羅列していく歌なのだけど、そのなかにマリー・クワントも出てくるのだ。今じゃ考えられないけれど、そういう時代もあったんだな。

ビニールとプラスティック。猿丸俳句の原点。というより、現代の都市生活のすべてがすでに用意されている。マーシャル・マクルーハンの予見したプロセス通りにわたしたちは動いている。

7月某日、「ウィリアム・エグルストン:パリ-京都」@原美術館へ。
エグルストンの日本初個展。待ってたぞ。
ありふれた日常の風景、何の変哲もないモノや無名のヒトを写した一見無造作なスナップ・ショット・スタイルのカラー写真。ひじょうにアメリカ的な(今ではクリシェとなった)イメージの断片。寂れたバーの看板や空き瓶や使い捨て容器のゴミ、自動車やガレージ、郊外の家、モーテル、だだっ広い(しかしなにもない)風景。芸術写真といえばモノクロが主流だった76年に、ニューヨークのMOMAで個展が開かれるも、批評家からは「陳腐なスナップ・ショットに過ぎない」と酷評される。ストレート・フォト全盛の今の感覚では考えられないが。酷評されてなんぼである。

しかし、そんなありふれた日常を写しても、エグルストンの写真には個性がくっきりと顕れている。豊かな質感と鮮やかな色彩の深み、無造作なようでいて独特な構図。匿名性は、属性や記号から解放されるためにある。被写体との関わりの稀薄さ、説明を排除した視線は、あくまで表層にとどまろうとする。ホテルの部屋の奥に写りこんだ半開きのドアは、異界への通路の象徴ではない。何も暗示しようとしない。それだからこそ、日常にひそむ謎、無常、そしてパーソナルで普遍的な物語が生成される。

そんなエグルストンが、パリと、そして京都!を撮った。日本をエグルストンがどう撮ったか。バルトの表徴の帝国っぽい?いやいや、エグルストンはエグルストンである。ペットボトルの美しさ(しかもお〜いお茶!)。しかし、被写体が私に近すぎて(あたりまえだよ日本人)、ちょっと不思議な感じもある。

残念ながら、私が行ったときにはまだ個展のカタログが出版されていなかった。しかし写真集2冊ゲット。うれしい。でも痛い出費。大枚2枚飛ぶ。写真集は高い。

リアガラスの曇り縞なす夜の秋  榮 猿丸

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