2010年4月16日金曜日

 —  Twitterを始めてみると  —


     そよ
  真夜戦ぐものや穀雨の線路際     青山茂根


 だいぶ以前、書評で見つけて関心を持ちながら、題名も著者も忘れてしまったのだが、確かアメリカ人の客が、イギリスの書店から本を取り寄せるそのやりとりの書簡を一冊に纏め上げた本があった。一度も会ったことがなく(いや一度その書店を訪ねる機会があったのだったか)、ただ文字だけの、ときに数ヶ月も間を置いたやりとりに、その間の世界大戦の状況などが否応なく響き、それぞれの人格や本の趣味への理解と交流が読み取れる書簡であったそうだ。本の題名をご存知の方がいたら、教えていただきたい。

 朝、全く知らない人からフォローが入っている。う、まずい。頭を引き戻して自分の発言を現在から逆に振り返って見ると、どうやら昨夜数人の俳優やタレントに言及したためらしい。検索でつぶやきがひっかかったのだろうが、申し訳ない。そんなにそのタレントの目撃情報つぶやけないし、そういう気もないのだ。ま、すぐに気がついてフォローが外れると思うが、何かそういう発言を求められている気がしてどこかに視線があるように落ち着かない。こちらは何の気なしに載せた発言が、知らないうちにBotやら何やらにひっかかってどこかで引用されたりするのは、少し怖い気もする。ちょっと古い洋モノの器について発言したら、すぐどっかのアンティーク屋のフォローがついた。お!フォロワーが増えた、と喜ばせて何が買わせようという魂胆が見え見えである。Twitterにはこういうしょうもないフォローもあってうんざりもする。全く未知の複数の相手に日常を覗かれているようで、広範に開かれているのも少し不安なのだ。

 ここの関連で、『新撰21』の読書会をするためにTwitterを始めたのだが、結局な んだかんだと日々そこを開いてしまう。むしろ、俳句以外の情報、大手でかからない映画や、日常のちょっとした笑い話、海外情報などが一般市民の目線で語られるのが面白い。現在海外に留学している、全く知らない学生の方からフォローがついていたときは驚いたが、その発言を見たら私の興味の範疇だったのでフォローしかえしてみると気になって、日々そのつぶやきとリツイー トを読むためにTwitterを開いているような毎日だ。文体が魅力的 とかではなく、多分、私以外には大して興味をひかないだろうその内容自体が面白い。しかし本当に俳句には全く関係ない人物のようで、どこからどうやって私のところへたどり着いたのか謎だ。その人物に届くだろうか、と私も日本の現在のちょっとした情報や、外国の諸事情や文化的な差異について、気づいたささいなことを載せてみたりしている。

 彼が発するのはだいたい現在留学している地の情報だが、他言語とその文化を理解しようとする姿勢や他国の人々との交流の様子が、ひたむきながらイマドキの若者らしさもあり (その国はカジノが盛んだとかで、彼も日々「カジノ行った」「幾ら勝った」とかつぶやいてたり)、それまでに留学していたアジアの大学の状況なども比較し回想してものを言っているのが興味をひく。「炊飯器欲しい」などまさに単なるつぶやきも多いので 玉石混交だが、日本人は全く見かけない(アジア人は多いらしいが)中で一人異国に 暮らすのは言葉が話せても寂しいときもあるだろう。かなり真剣に語学を勉強してきているらしいこと、新たな知識への 意欲も伺えて、まだこういう人たちもいるのだ、と少しほっとする(現実に会ったら どうかはわからないが)。なぜだか俳句関連のTwitterには、そこに出されている 俳句にも、あまり触手が動かない。意外と、作家の方たちの個人的なつぶやきが興味をひかないのと同じかもしれない。大半の発言が、誰とどこへ行ったとか、今日は何したとか、大体予想される内容で構成されていて、その人なりのものの受け止め方などが出ていないのはつまらない。最も、作家が本業の方たちは、本業のほうでそういったものを日々記述しているので、こちらは息抜きなのだろう。もしくは自作の宣伝ツールといったところか。  

 つまりは井戸端会議か、と漠然と思う。欧州や、アジアもそうだが、田舎町などにゆくと、路地裏や細い通りに面した家の正面に椅子を並べて、日がな一日通りを眺めながら道行く人々と挨拶をしたり、ちょっとしたボードゲームやカードなどに興じているお年寄りを見かけるが、それに近いノリなんだろう。顔の見えない相手で あることで、むしろ儀礼的な慣習を重んじる日本人には、気安くなれる部分があるとも思える。

 Twitterの向こう側にいるのは、(俳句つながりの人たちを除いて)きっとこの先も一生会うことのない人々なのだが、その留学中の人物が帰国してしまうと(どうやら日本での就職活動のために5月には帰ってくるらしい)、異国人の眼を通した、その国の市井の話も読めなくなるのだ、と何か寂しい。つまりはその人物自体に興味があるわけではなく(実際会ってみたらわからないが、それはまた別の話だ)、彼の眼で捉えられた異国とその文化を、追体験したいのだ。と、これは俳句への興味と同じかもしれない。

 

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