おたまじゃくしがいた。といっても、タイでの話だ。まさか海外で、まさに当季の季語を見つけるとは思わなかった。
五日間ほどの旅で、あまりせわしく観光などに出かけるのが好きでない私は、いわゆるリゾートホテルとビーチの往復しかしなかった。宿の、現地の伝統様式のサラタイプの部屋の玄関の前には、小さな池が作られていて、ドアの脇に三つ並んだスイッチの一つは、その池に据えられた細長い壷から、小さな噴水が吹き上がるという仕掛けだった。そこに、おたまじゃくしがいたのだ。見つけたのは子供だが。
夜に、明かりを落とし、子供達が眠りに落ちると、何かの音がいっせいに、音楽のように流れだした。なんだろう、こんな夜中に?と訝しく思って、あ、と気づいた。蛙の声だったのだ。丘の斜面に、海を臨むように立てられたサラの下は、また細長い池になっていて、水辺の植物が植えられていた。音はそこからしていたのだった。
闇の中、ずっと、時折止んではまたいっせいに始まるその合唱を聞きながら、アジア的なもの、ということを眠れない頭で考えていた。そういえば、飛行機が着陸に向けて下降をしているときに、まず見えてきたのも田んぼだった。おそらく何期作かの、そこには風に揺れる緑の葉はなかったが、四角く区切られた、泥色の水をたたえた景色は、強烈な熱帯の太陽の光に包まれながら、何か懐かしい。
以前、五月くらいに、アジアの他の島へ行ったときも、まだ生暖かい夜の宿の柱で、守宮が出迎えてくれた。そして、狂おしいほどの螢の群れだった。日本の螢のような、柔らかな光ではない、まさに真闇の中の、乱舞の激しさで。
どこに行っても、思いもかけない何かが、原点として立ち現れる。邂逅というべきか。
泥色の瞳も髪も目借どき 青山茂根
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