2010年4月21日水曜日

観劇録(4)国立文楽劇場『妹背山女庭訓』(前)

近松半二他作の時代物狂言『妹背山女庭訓』は、天智天皇、蘇我入鹿、藤原淡海(不比等)といった大化改新をめぐる人物を中心に、大和国のさまざまな民間伝承を盛り込んだ大作である。
「山の段」あるいは「吉野川」と通称される「妹山背山の段」そして、お三輪という町娘を主役にした「杉酒屋」から「金殿」までの一連が有名で、歌舞伎、文楽ともに頻繁に上演されている。
しかし、いわゆる三大名作と比べて全段通しの上演が少ないのは、全体に陰惨で嗜虐的な印象が強いからかもしれない。
実際、通し上演を観たのは、今回の国立文楽劇場がはじめてである。

昼の部は、雛鳥と久我之助の出会い、鎌足の娘采女の失踪、皇位簒奪を狙う蘇我入鹿のクーデターなどが描かれる。
そして前半のクライマックスとなるのが「山の段」である。

この段は、舞台装置が非常に特徴的である。
幕が落とされると舞台全面に桜の花が咲き乱れ、その中央に青い吉野川が流れている。

向かって左の下手側は妹山、上手は背山である。
妹山には太宰の後室定高の屋敷、背山には大判事清澄の屋敷があり、両家は領地争のために対立しているという設定である。

妹山方定高の屋敷には娘雛鳥が侍女とともに雛を飾り鬱々と日を送っている。
背山の大判事屋敷には息子の久我之助がただ一人文机に向かっている。

しばらくして定高と大判事がそれぞれ蘇我入鹿のもとから難題を抱えて帰って来る。
歌舞伎での上演の際は、座頭、立女形クラスの役者が両花道より登場し、大喝采を浴びるところである。

文楽では床とよばれる大夫と三味線の座る場所が上手に設置されているが、この段では下手側にもこれが置かれる。
つまり、吉野川を中心にして舞台の機能すべてが左右に分断されているのである。

下手の床には定高役、雛鳥役の大夫と三味線一挺、上手には大判事役、久我之助役の大夫と三味線一挺がそれぞれ座る。

雛鳥と久我之助は恋仲だが、両家が対立しているために結ばれない。
この悲劇的な設定が、和製「ロミオとジュリエット」とも呼ばれる所以である。
しかし、通し上演で見るとよくわかるのだが、二人を死へと追いやるのは蘇我入鹿という強大な権力者の圧力である。
それぞれの親は、入鹿の無理難題を切り抜けるため、子息を犠牲にする判断を強いられる。
ここで興味深いのは、対立しているにもかかわらず、両家それぞれが相手方の子を助けるため、自らの子を殺そうとするところである。

いとうせいこう氏がツイッターで、文楽の女性や子供をモノのように扱う演目を批判していたが、このくだりなどはまさにその代表例といえるだろう。
また、争って自分の子を犠牲にしようとするところなど、一見すると美しい自己犠牲のようでもあるが、意地悪く見れば相手方に借りをつくりたくないのだともとれる。
現代の感覚からすると、違和感をぬぐいきれないところではあるが、それでもこの段のもたらすカタルシスの強烈さは比類のないものだ。

定高は雛鳥の首を落とす、その一方で大判事は久我之助に腹を切らせる。
雛鳥は自分の死によって久我之助が助かるものと思い、そのことに喜び、感謝しながら絶命する。
しかし、久我之助はすでに腹に刃を突き立てていた。

ここに及んでようやく両家は和解し、瀕死の久我乃助のもとへ、雛人形の道具を嫁入り道具に見立て、雛鳥の首が川を渡って嫁入りする。
これが、いわゆる「首の祝言」である。

陰惨きわまりないこの場面が、この上なく美しく感じられるのは、奇跡のような人形の動き、すなわち人形遣いの芸の力である。

雛人形の乗物に、姫の首を載せる台を白い布で結びつける作業を侍女たちが黙々と行う。
こうした無駄とも思える動作を、ゆっくり時間をかけて見せるところにこそ、文楽の芸の見せどころがあるのだと思う。
一見したところなんでもない、しかし実に研ぎ澄まされた所作から、なんとも言えぬ愛惜の情が、自然と染み渡ってくるのである。

歌舞伎でもこの段は何度か観たが、文楽のほうに軍配を上げたいという思いがする。
それは、役者は本物の死体になることができないという一点による。

人形はもともと命のないものだから、舞台の上でほんとうに死ぬことができる。
もちろん人形遣いが、その奇跡的な芸によって人形に命を与えるからこそ、死の表現にも説得力が生まれるのである。

大判事清澄が血を吐くような台詞で嘆く後ろで、雛鳥の首をひしと抱きかかえている瀕死の久我乃助の姿の哀切さ。
首となった雛鳥はすでに人形遣い吉田簑助の手を離れているが、やはり吉田簑助の芸のうちにあるのだ。


手鏡に映りし桃も脳のうち   中村安伸

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