ミュージックマガジン増刊『THE GROOVY 90'S』を立ち読みした。と、PCのキーを打っていると恥ずかしくなるようなタイトルだが、内容は「90年代日本のロック/ポップ名盤ガイド」である。
思わず手に取ってしまう悲しい性。オザケン復活というタイミングは偶然らしいが、それがまた微妙に感慨を誘う。
結局、買ってしまった。懐かしさと恥かしさがせめぎ合うなか、最終的にレジにぼくを向かわせたのは、巻頭の、小西康陽、スチャダラパー+TOKYO NO.1 SOUL SET、曽我部恵一のインタビューである。90年代を代表するミュージシャンたちが、今だからこそ語れる、肩に力の入っていない話しぶりが興味深かった。共感したわけだ。
とくに小西康陽の話がよかった。
「お馴染みすぎて誰もなんとも思わないものが突然、違う意味を持つっていうのは、やっぱりカッコイイと思ったんですよね」
「ダサいものの価値がある日逆転するというのがダイナミックでいいよなって、いつも思っていたんです」
ぼくにとっての俳句もこういうようなもので、感性としてはまったく地続きの状態で俳句をつくったり読んだりしている。だから、たとえば「写生」と言うと、「なにそんな古くさいこと言ってんの」みたいな顔をされることがあるけれど、そういうとき、俳句史的な文脈で捉えられているんだなと、思う。俳句史的にみれば古くさいんだろうけど、そういう目で見てないのだ。90年代に、古いラテン音楽やジャズが、新しい聴き方をされたように、「写生」がある。自分のいま生きている気分、時代の空気を反映できるものとして、新たに「写生」が立ち上がってきたと言ってもいい。だから、「写生の時代は終わった」とか大げさに今更言われても、困る。もともとそこに立っていないから、もともとすでに終わったところから始めているのだから。べつにぼくは写生至上主義ではないし、写生という「モノ」のリアリティより、そこから立ち上がる「コト」のアクチュアリティの方に興味があるのだけど、この本を読みながら、ふと自分を省みて思った。いまの気分は、なんか削ぎ落としたい気分。「詩」もうざい。いらない。ほんとうに小さな、稀薄な、粒子のような気分が残ればいい。現実という具体のみが持つ、未だ言語化されない意味や、そこから生じる気分が。
水足して電気ポットや春の宵 榮 猿丸
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